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【第3話】幻影の記憶

 楓はいつものように学校に向かった。

 教室に足を踏み入れると、次第に生徒たちが集まり、ざわめきが増してきた。他の生徒たちは、楓に視線を向け、首をかしげながらも、自分の席に戻っていく。


 ───そう、咲良が欠席している。

 普段、楓とほぼ同じ時間に登校する咲良がいないのだから、欠席だと考えても不自然ではない。けれど、欠席を断定するのは早計かもしれないとも思う。


 欠席は、体調不良など、何らかの理由があって起こるものだ。風邪や軽い不調であれば、しばらくすれば回復するだろうし、過度に心配することはないはず───それでも、楓の胸には小さな不安が広がっていた。


 そのとき、背後から声がかかった。

「よっ!楓、やっぱりお前は学校来るの早いな」

「高橋か。おはよう」

 声の主は、高橋だった。

「んっ?どうしたんだ、楓?なんか元気ないぞ」

「えっ?そんなふうに見えるか?」

「うん、ちょっとな。あれ?それより今日、水瀬は?」

「……。そうなんだよね、風邪とかかな?」

「どうだろうな。文化祭で疲れたのかもな」

「水瀬さんがそんなことで休むとは思えないけど…」

 文化祭でのステージ発表は、大成功だったと言ってもいいだろう。けれど、その成功の嬉しさの裏に、咲良の意味深な表情と、少し息切れしていた様子がずっと引っかかっていた。


「今日、咲良ちゃんいないんだよね?」

「うん、いないね。どうしたんだろう?」

「ねぇ、あんた咲良ちゃんのことで何か知ってる?」

「え〜、知らないよ。だってあんまり話したことないし、連絡先も交換してないし」

 教室のどこかで、誰かがずっとその話をしているのが聞こえ、楓は咲良に何かがあったのではないかと心配になる一方、その考えが頭から離れなかった。


 今日の授業は通常通りだった。

 だが、集中できたかと言うと、いいえと答えるのが適切だろう。咲良が話しかけてくること自体が、いつの間にか楓の日常の一部になっていた。だからこそ、彼女が欠席となると、その当たり前がぽっかりと抜け落ちたような感覚に襲われる。


 実際、咲良がいないと休み時間の空気もどこか味気ない。彼女と交わしていた何気ない会話や、笑顔を見た瞬間に感じる安心感──それらが、楓の生活の中でどれだけ大きな存在だったのかを、改めて実感させられる。教室の喧騒の中で感じるこの静寂に、楓の心の中に眠っていた「咲良への思い」が、少しずつ形を帯びて浮かび上がっていくようだった。


 文化祭の練習中から、その兆しは確かにあった。

 何事にも全力で、やると決めたら妥協しない姿勢。そして失敗しても決して他人を責めず、むしろ励ますように優しく接する彼女の人柄──その一つ一つに、楓は目を奪われていた。それは単なる「尊敬」や「感謝」の域を超えて、彼自身も気づかないうちに心の奥に根を下ろしていたのかもしれない。

 実際、彼女の存在は、単なるクラスメイト以上の意味を持っていた。咲良が欠席したことで、楓はその事実を否応なく突きつけられていた。

 

 昼休みになって、教室内は一気に騒がしくなる。今まで、咲良に誘われ、クラスの喧騒が少ない静かな場所で2人で弁当を食べる、なんてこともあった。基本的には教室で昼食は取っていたが、咲良はいつも、周りの女子について行くことはなく、ずっと楓のそばにいた。

 そんな楓に出来た、当たり前の認識が、不安や寂しさのようなものを引き起こす。


「おーい楓!一緒に昼飯食べよーぜ!」

「高橋か…。うん、いいよ。どこで食べる?」

「いつもの場所で!校庭のベンチまで行こうぜ」

「分かった、教科書片付けてすぐ行くよ」

「はいよ〜」

 高橋の元気な声に少しばかり救われる。高橋はあの朝の会話以降、咲良のことについては風邪で欠席したと思い込んでいるはずだ。

 結局のところ、咲良の欠席のことについて担任の向井先生が触れることは無かった。確かに40人弱のクラスの中の一人の欠席、と言われれば、あまり気にするものでも無いのかもしれない。職員室の前の出席簿にも、咲良の欠席の原因についての言及はなかった。


 高橋と二人、校庭のベンチに座る。

 ここは、樹齢百年を超える大木の下。夏の虫の音が響き、日差しを遮る木漏れ日が暑さを和らげてくれる。

 高橋はやっぱり、楓の表情を気にしているようだった。そして、話しかけてくる。


「なぁ楓、やっぱり元気なさすぎん?」

「いや、本当に大丈夫だって。過度に心配しすぎだよ」

「いやいや!だいたいこういうのって決まりがある!『大丈夫』って言ってる奴は、だいたい大丈夫じゃないってな!」

「その理屈が通るなら、誰も信じられなくなるようなもんだろ」

「いや、その『大丈夫』の言い方が絶対無理してるってわかるから聞いてんだ」

───唐突に真面目に返してくる高橋に少し驚く。


「なぁ、別に教えてくれてもいいだろ?何があったんだ?」

「……」

 高橋の質問は、楓の心情を見透かしているようで、不気味なほど察しが良かった。とはいえ、相談に乗れる唯一の相手は高橋なのかもしれないと感じる。しかし、つぎの質問は予想にもしていなかった。


「───水瀬のこと、好きなのか?」

───その言葉に、楓は明らかに動揺してしまう。


「好き……っていうアレではないけどさ──」

「ほーん?いやまぁ、別に好きって思うことくらい悪いことじゃないんだし、言っちゃえばどうだ?」

「はぁ、それでバカにしてくる未来しか見えないから心配ではあるんだよ」

「うっ……それは悪いな……俺の普段の態度がこういうところで出るとは。でもな、皆お前のこと気にしてるんだぜ?俺にだけでも教えてくれよ」


 しつこいように見えて、高橋の声色は明らかに心配している。それが伝わってくるからこそ、楓はつい息を吐いた。


「僕は───あんまり好きっていう感情がよく分からないんだよ」

 当然──素直な気持ちを吐露することはできなかった。それでも、ほんの少しだけ本音に近いことを言った気がした。高橋は責めずに続ける。


「あー、じゃあ質問変えるな。水瀬のこと、気にはなるんじゃないか?珍しく欠席してて、それに対して心配してるとか?」

 心の中で(本心を当てやがった)と驚くが、もう嘘をつく気力はなかった。楓は軽く頷く。


「ほらな、やっぱそうじゃん。まぁ、それは普通だと思うけどな。特別な相手が欠席なんてしてて原因も不明だと、心配になるのも無理はないよ」

「特別かどうかは分からないけど……気にはなる、かな」

「それでいいんだよ。別に恋とかそういう話にしなくてもな、気になるのは気になる。それだけで十分だろ」


 高橋の言葉に、楓は少しだけ気が楽になった気がした。

「……ありがとう。高橋、意外とそういうとこ気が利くよな」

「ん?いや意外ってなんだ意外って!俺は普段から気が利く男だよな!」

「……あー。普段から、ね」

「おい!その微妙に納得してない感じやめろ!」

 二人でくだらないやり取りをしながら、楓の緊張は少しだけ解けていった。けれど、心のどこかではまだ、咲良への不安が消えていない自分を感じていた。


 数分して弁当を食べ終わる。その間、咲良と今までどんなことがあったのかと聞かれたので、答えられる範囲内ではあったが答えた。今までの経緯を照らし合わせると、やはり理由もなく欠席するのは違和感が残る。

「確かに、そう言われてみたら不思議だよな。文化祭の時、楓と一緒にいる時めっちゃ元気そうだったよな?」

「そう、だから余計にさ。文化祭のステージ発表とかが何かのきっかけになって休んだ可能性もなくはないし……」

「それか、家の事情とか?」

「水瀬さんは一人暮らしだったから、あんまり家の事情ってだけで学校に来れなくなる訳では無いと思う」

「うーん。分からんな」

 高橋も話に乗ってくれ、咲良の欠席の原因について話していた。


 結局、今まで見てきた不思議な夢の内容であったり、咲良が見せた意味深な発言や行動は、高橋に言えなかった。しかし、最近は余計、これらの現象が、咲良と厳重に絡まっていると強く感じさせられる。彼女に対する違和感の姿は───もしかすると、これらの現象を繋ぎ合わせてパズルを完成させないと、答えを探し出せないのかもしれない。

 楓は咲良に隠された、何かを見つけられそうで見つけられないという事実に、違和感は付きまとうばかりだった。


 高橋と会話しているうちに、気づけば昼休みの終わりを告げる予鈴のチャイムが鳴った。結局何か結論が見つけられた訳では無い。しかし、心に残る不安が少しでも取り除かれた気がした。

 2人で夏の暑さを感じながら教室へ向かう。その途中、高橋は思わぬ提案をしてきた。


「楓、もし心配なら、水瀬の家に直接行ってみればどうだ?」

「えっ?それはさすがに良くないような気がするけど」

「いやいや、チャトリで連絡しても返事がないんだろ?」

「まぁ、既読はつくんだけどね」

「それだったら、尚更様子見に行ってあげた方がいいんじゃないか?」

 この年頃で、同級生の女子の家を訪ねるというのは、少なからず躊躇いを伴うものだ。ましてや、用件が「様子を見に行く」という曖昧なものであればなおさらだろう。だが、高橋はそんな迷いなど微塵も見せず、「行ってこい」と当然のように勧めてきた。

 これがいわゆる陽キャの行動力というやつなのか。自分には到底真似できない、と楓は小さくため息をつく。


「水瀬さん、お願いさえすれば許可してくれると思うぞ?」

「なんで言い切れるんだよ」

「いや、圧倒的にお前が一番水瀬から信頼されてるからだろ?」

「……」


 高橋の言葉には、どこか根拠のない自信が感じられる。だが、その言葉が嘘ではない気もして、楓は無言のまま視線を逸らした。もし自分が本当に水瀬咲良にとって信頼できる相手だとしたら、彼女の欠席は自分と関係があるのではないかという思いが、頭の片隅で膨らんでいく。


 教室へ戻る途中、楓はポケットからスマホを取り出した。直接咲良の家を訪ねるのは突飛だと思ったが、まずは連絡を取るのが先だ。返事が返ってくる可能性は低いかもしれない。それでも、言葉を慎重に選べば、彼女が無視できないような問いにはなるだろうと考えた。


 少し迷ってから、画面に打ち込む。


『水瀬さん、今日の夕方、家に行ってもいいかな?』


 送信ボタンを押す指先が微かに震えた。

 このメッセージにどう反応するかは、咲良次第だ。もし咲良に何か隠していることがあるのなら、それを避けるために理由を尋ねてくるかもしれない。だが、楓はその場合でも、できるだけ彼女の警戒心を刺激しないようにしなければならないと思っていた。


 咲良がこれまで何かを隠しているように感じることが、これまでのやり取りの中で何度かあった。そしてその隠し事が、彼女にとって触れてほしくない領域にあることも。

 「家に行きたい」という目的だけを伝えるのは無理がある。だが、それ以外に彼女が返事をくれる方法を思いつかなかった。楓は小さく息をついて、スマホの画面を閉じた。

 ───咲良の返事が来なければ、今日もまた彼女の欠席の理由を知らないまま、ただ時間だけが過ぎていく。それだけは避けたかった。


 それから先、午後の授業はほぼ聞いていない。

 異常なまでに感じる、咲良への欠席の内容に対する不安が、ずっと引っかかり続けた。高橋の言った通り、誰かを好きになること自体、何も悪くは無い。確かに、咲良に対して何か特別な感情を抱いてるのは事実だと思っている。でなければ、たかがひとりの同級生の欠席だけでここまで不安になるのも違和感があるだろう。

 ずっと頭の中で反芻する疑問点が、授業への集中力を削がれるだけだった。


「霧島、話があるから、ショートホームルーム終わったら来てくれる?大したことじゃないけど」

 その声の主はクラス担任の向井先生だ。柔らかい口調とはいえ、突然の指名に楓は少し身構えた。


「えっと、何の件でですか?」

「まぁ、今言わなくてもいいでしょ?安心して、説教する訳じゃないから」

 向井先生の言葉に少しだけ緊張が和らぐ。

「それならいいんですが……」

 向井先生はそれ以上は何も言わず、教卓へと戻っていった。


 楓はほっと息をつくものの、心は別のところにあった。さっき咲良に送ったメッセージの返事をまだ確認できていない。授業中でスマホを取り出す訳にもいかず、今すぐ見たい衝動を抑えるのに苦労していた。


 ショートホームルームが終わると、教室のざわめきが増す中、楓は席を立って向井先生のところへ向かった。先生は他の生徒たちが退出するのを待つように、静かに立っていた。


「先生、呼ばれた件って……」

 楓が声をかけると、向井先生は小さく頷き、手で廊下を示す。


「少し廊下で話せる?ここだと落ち着かないでしょ」

 そのまま二人で廊下に出ると、先生は一呼吸置いてから切り出した。


「霧島、今日、水瀬さんが欠席しているのは知ってるわよね?」

 その言葉に、楓の胸が一瞬きゅっと縮む。


「ええ、知っています……でも、理由までは」

「先生も、詳しい事情は聞いていないの。ただ、何か気になることがあったら教えてほしいなと思って」

 楓は少し戸惑った。自分が知っている情報は少ない。それでも、担任に水瀬の欠席を気にされるほどの理由があるのだろうか。


「昨日までは、特にいつもと変わった様子はなかったと思います。ただ……」

「ただ?」

 向井先生の問いに、楓は言葉を選びながら答える。


「文化祭が終わった後、少し疲れているように見えました。表情が曇っているというか……でも、それ以外は特に」

 向井先生は顎に手を当て、小さく頷く。


「そう……先生も何か力になれたらと思ったけど。朝のショートホームで、水瀬さんのことについて話そうかと思ったけど、原因も知らない欠席ってなると話は別になっちゃうからね」

 向井先生はそう言うと、わずかに微笑み、話を切り上げた。


「もし何か分かったら、いつでも先生に相談してね。水瀬さんには何か特別な事情があるようには見えないけど、今の時期はちょっとしたことで気持ちが揺れる時期だから」

 楓は先生に軽く頷きながらも、自分の中に芽生えた不安を拭いきれなかった。向井先生こそ、欠席の理由を知っていたかもしれないのに、予想外だった。


 向井先生は、もしかすると咲良へ電話して安否を確認しようとしたのかもしれない。だが、それに応じなかったというのなら───一体、何が彼女を抑え込んでいるのだろうか。


 考え込んでいると、スマホが鳴った。

 ロックされた画面に表示された通知には、「Sakuraから新着メッセージが届いています」とある。咲良が返事をしてくれたという事実に、楓はひとまず安堵した。


 画面を開き、トーク画面を確認する。先ほど送ったメッセージに対して、こんな返信が届いていた。


『うん、いいよ。霧島くんに話したいことは沢山あるからね』


 意外なほどすんなりと許可されたことに驚きつつも、後半の「話したいことが沢山あるから」という一文が気にかかる。欠席の理由を明かさなかった彼女が、今になって「話したいことがある」と言う。その裏には、きっと何か深い事情が隠されているのだろう。


 高橋の言葉が頭をよぎる───「お前が1番水瀬から信頼されてる人物だ」。

 普段の咲良の様子や言葉を思い返してみても、確証があるわけではない。それでも、彼女が楓を頼りにしてくれているのなら、今こそ力になるべきだと強く思った。


**


 咲良から部屋番号と住んでいるアパートの場所を教えてもらい、楓はすぐに向かうことにした。

 まだ梅雨は明けておらず、重い湿気と蒸し暑さが体力を奪ってくる。それでも、彼女のもとへ向かう足を止める理由にはならなかった。


 少し古びた外観のアパートが目の前に現れる。白い外壁はところどころ汚れが目立ち、手入れが行き届いているとは言い難い。それでも咲良の住む場所だと思うと、不思議と親近感が湧いた。

 アパートの階段を上がり、咲良の部屋番号を確認する。彼女の住む部屋は2階の一角にあるらしい。

 ノックをする手が一瞬だけ躊躇った。それでも意を決して、軽くドアを叩く。


「……霧島くん?」

 中から、少し弱々しい咲良の声が聞こえた。その声にほっとしつつも、どこか不安の色を感じる。


「水瀬さん、僕だけど。入ってもいい?」

「うん……鍵は開いてるよ」

 楓はドアを開けて中に足を踏み入れた。アパートの一室は意外と整理整頓されており、生活感が漂う。だが、咲良の姿はベッドに腰掛けたままで、どこか体調が優れないように見えた。


「大丈夫……?具合悪いの…?」

 心配そうに尋ねる楓に、咲良は小さく笑みを浮かべる。

「霧島くんが来てくれるなんて思わなかったから……少しだけ安心しただけ。心配かけてごめんね」

 その言葉に含まれる微妙なニュアンスが、楓の胸に引っかかる。

 彼女の抱える「話したいこと」が何なのか───それを聞くために、ここに来たのだ。


「あっ、そういえば聞いてなかったね。霧島くんは、どうして私の家に来てくれたの?」

 咲良がふと問いかける。その声音にはどこか探るような響きがあった。


「それは……連絡がなくて、不安だったから……かな」

 本当の理由を探りきれず、曖昧な答えになってしまう。


「……そう…。ごめんね、返事しようとはしてたんだけどね……」

 咲良の声がかすかに沈む。

 何を話すつもりでここに来たのか───自分の中で明確な答えを持っていないことに、楓は少し焦りを感じた。高橋に背中を押され、半ば強引に来たはいいが、核心を突く言葉が見つからない。


 二人の間に、どこか居心地の悪い沈黙が流れる。この少しの沈黙ですら、不思議とその場を重くさせた。


「水瀬さん、結局……今日の欠席の理由はなんだったの?」

意を決して楓が問いかけると、咲良の肩がわずかに揺れた。


「……今日の欠席は……その……単なる体調不良だよ」

 言葉自体は淡々としているが、その目はどこか遠くを見つめているようで、不自然だった。


「───そんな簡単に済ませられる話じゃないように見えるけど」

 つい、楓の言葉が鋭くなる。彼女が何かを隠している――その確信が、言葉を突き動かした。


「……」

 咲良は押し黙ったまま、視線を落とす。動揺は隠し切れていない。その表情に、何かを伝えたがっているような───それでいて、伝えることをためらっているような微妙な空気を感じ取る。


───話せない事情があるのかもしれない。

 だが、だからといってこのまま引き下がるわけにはいかない。彼女が抱えているものを知る必要がある───それが、今ここに来た理由でもあるから。


「水瀬さん、いくつか質問してもいい?」

 楓はできる限り柔らかい声で尋ねる。

「霧島くんが……? うん、いいよ」

 咲良は一瞬迷ったようだったが、次の瞬間、小さく微笑んで頷いた。その笑みは、どこか覚悟を決めたようにも見えた。


「ありがとう」

 楓は息を整え、質問する言葉を慎重に選んだ。


「───水瀬さんは、昔もこの辺に住んでいたの?」

 第一の質問はこれだ。咲良の言動の謎の謎のひとつだ。初めて一緒に下校した日、咲良が道案内をお願いしたにも関わらず、迷いなく歩いていたこと。そこについて聞きたかった。


「えっと…。私はこの場所は初めてだよ。最近引っ越してきただけ」

「本当に?」

「う、うん」

 表情から察するに、これは恐らく表面上の答えだろうと思っている。しかし、威圧的になってるかもしれないと気づき、すぐにか「大丈夫、疑ってるわけじゃない」と付け足した。

「でも───懐かしさは感じる、かな」

「……」

 その言葉に、楓は息が詰まるような感覚がした。


**


「───じゃあさ、文化祭のステージ発表のとき、僕のことを見て……何か思った?」

 次の質問は、咲良の態度が急に変わったあの瞬間についてだ。あのとき、咲良の視線は真っ直ぐこちらに向けられていた。そして、あまりにもリアルで、切ないような───そんな演技だったことを今も覚えている。


「え……? なんで、そんなこと聞くの?」

 咲良は少し驚いたように言葉を詰まらせる。

「気になったんだ。ただの演技のはずなのに、水瀬さんがすごく……何かを思い出しているみたいに見えたから」

「……」

 咲良は俯き加減になり、小さく息を吐いた。何かを答えようとしているのか、それとも答えを探しているのか───そんな風にも見える。

「……懐かしかったんだと思う。あの瞬間、霧島くんが立ってるのを見て、なんだか昔を思い出したような気がしたの」

「昔?」

「うん……でも、変だよね。私、霧島くんとは最近知り合ったばかりなのに」

 そう言って、咲良は自嘲気味に笑った。そこに嘘があるのか、それとも真実が混じっているのかは分からない。ただ、彼女の言葉には確かな”何か”が隠されている気がしてならなかった。


「……僕には、そんな風には思えなかったけどな」

「え?」

「そのときの水瀬さん、まるで何か大事なことを忘れてる……そんな風に見えた」

「……」

 咲良は再び口を閉ざす。それ以上は答えない──そう決めたような表情だった。


**


「……水瀬さん、最近僕のことで何か悩んでる?」

 さらに踏み込んでみることにした。何かを隠しているのは明らかだ。そして、それが”僕”と関係しているのなら、知りたいと思った。


「霧島くんのことで?」

「ああ。なんかさ……気を遣わせてる気がするんだ」

「そんなこと……ないよ」

 咲良はすぐに否定したが、どこかぎこちない。こういうとき、彼女はいつもそうだ。口調は穏やかでも、どこか”避けている”ような。

「水瀬さん、もし僕が何かしてたなら……教えてくれないかな。直すから」

「霧島くんは、何も悪くないよ」

 咲良の声がかすかに震えた。──まるで、罪悪感を抱えているかのように。

「……」

「……」

 再び沈黙が降りた。何かを言いたいのに言えない───咲良の表情には、そんな葛藤が滲んでいる。

「霧島くんには……関係のないことだから」

「でも……。それでも、関係あるように思えるんだ」

「……ごめんね」

 そう言った咲良の表情は、どこか寂しげで、苦しそうだった。


**


「……水瀬さんって、誰かに似てるって言われたこと、ない?」

 次に投げた質問は、ずっと抱えていた違和感についてだ。咲良と初めて会った日から、ずっと引っかかっていた朧気な既視感。彼女の笑顔や仕草───それが、どうしようもなく懐かしい気がしてならない。


「誰かに?」

「ああ。……水瀬さんが前、『どこかで会ったことがあるかな』って聞いてきたよね」

「……うん、言ったね」

「それがずっと気になってるんだ。……水瀬さん。誰なのかは分からないけど───僕の中の記憶にいる人で、誰かに似てる気がする。」

 咲良は少し困ったような顔をして、俯いた。

「そんなこと……言われたことないかな」

「本当に?」

「……うん」

 咲良の声はどこか掠れていた。だが、その答えは”嘘”だと感じた。彼女自身も、それを自覚しているのだろう。それでも、これ以上の追及は避けた方がいい───そう直感的に思った。


**


「……水瀬さん、夢って見る方?」

 最後の質問は、何気ない風を装ったものだが、妙に引っかかっていた。何か大事なことに繋がる───そんな気がしてならない。


「夢……?」

「うん。例えば、何か同じ夢を見るとかさ」

 咲良は少し驚いたような顔をして、目を伏せた。

「……夢は、あまり見ないかな」

「見ない?」

「うん。私、いつからか夢ってものを見れなくなったの。……変だよね」

「……」

 答えとしては何の変哲もないものだが、何かが引っかかる。彼女が夢を見ないということに、何か意味があるような気がしてならなかった。人間誰しもが、寝ている間に夢を見ることは可能なはず。確かに、寝ている間に夢を見ないことが多い人はいるかもしれないが───見れなくなったという答え方をするのは間違いだと思った。


 咲良の表情には、わずかな迷いが浮かんでいるように見える。それは、何かを伝えたくても伝えられない───そんな葛藤に見えた。

「……夢がないって、ちょっと寂しいな」

「……そうだね」

 咲良は微笑んだが、その笑顔はどこか儚く、今にも消えてしまいそうだった。


 

 質問を終えたとき、楓は確信していた。

 咲良は何かを隠している───そして、それは恐らく”自分”に深く関わることだ。


 だが、今はまだ核心には届かない。まるで、あと一歩のところで扉が閉ざされるような ───そんな感覚だけが残っていた。


 数分した頃には、外は夕焼けに染まり、街の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。帰り際、咲良に「明日、学校に来る?」と尋ねたが、返ってきたのは「分からない」という曖昧な答えだった。


 転校初日のあの明るい笑顔と活発な様子は影を潜め、今の咲良はどこか儚く、心ここにあらずといった印象を受ける。目の前にいるのに遠い存在───そんな違和感が胸の中でじわりと広がっていく。


 咲良の答えのひとつひとつが、何かを示唆している。

「きっと何かあるはずだ」

 そう考えながら、涼しさが戻り始めた夕方の住宅街を一人歩く。彼女が欠席した本当の理由は分からないままだが、単なる体調不良とは到底思えない。何か別の、もっと深い事情があるのではないだろうか───


**


 家に着くと、玄関のドアを開け、靴を脱ぎ捨てる。疲れた足を引きずるようにして自室に戻ると、制服を脱いで部屋着に着替えた。

 散らかった部屋を何となく片付けながら、考えは咲良のことばかりに脳を使う。


「もう、たかが一人の生徒のために───なんて、自分に言い訳してる場合じゃないよな……」

 楓はそう呟くと、机に向かい、引き出しからメモ帳を取り出した。シャーペンを手に、今までの出来事を思い返しながら、ひとつひとつ書き出していく。


[MEMO]

・既視感

 初めて会ったはずなのに、水瀬さんに強烈な既視感を覚えた。

 →考察:どこかで会ったことがあったから?でもそんな覚えはない。

・夢の少女

 定期的に見る夢の中に出てくる少女が、水瀬さんに酷似している。

 →特徴:笑顔は同じ。だけど、未だに夢の中で少女の名前が、相手の少年から発せられたことは無い。

 →考察:あれは本当に夢なのか? それとも……記憶の断片?

・夢の違和感

 夢は過去の経験から作られる。

 → 疑問:でも僕には、あの夢に見覚えがない。

 → 可能性:無意識に封じ込めている過去の記憶なのか?

・水瀬さんの涙(文化祭)

 文化祭のステージで、彼女が涙を堪えていた瞬間があった。

 → 疑問:あの時、僕を見て何を思った?

 → 考察:水瀬さんにとって、僕は何か特別な意味があるのか?

・“夢を見ない”発言

 「夢は見れない」と水瀬さんは言った。

 → 疑問:普通、人は毎日何かしらの夢を見るはずだ。それが”見れない”とは?

 → 考察:“見れない”理由があるのか?

・道案内の時の違和感

 初めて一緒に帰った日、彼女は道案内を頼んだのに迷いなく歩いていた。

 → 疑問:道を知っていた? それとも、知っている”ふり”をしていた?

 → 考察:この場所に、彼女が以前住んでいた可能性はないか?


 メモを書き終えると、楓はしばらくその内容を見つめた。ひとつひとつが断片的で、まるでバラバラのパズルのようだ。それでも、それらは確実に何かを示している気がした。

 咲良の存在──その”正体”が、すぐそこまで来ているのではないか。そんな予感が、頭の片隅にわだかまって離れない。


「……やっぱり、何か隠してるよな」

 窓の外を見れば、空はもう紺色に染まっていた。

 咲良の曖昧な笑顔、迷いがちな視線、そして夢の中の”少女”───それらすべてが、ひとつに繋がる瞬間を待っている。


 楓はペンを置き、椅子の背にもたれかかると、静かな部屋の中で深く息を吐いた。

「もっと……知りたい」

 自分でも気づかないまま、その言葉が零れ落ちた。


 風呂から上がり、少し涼しい空気の中で髪を拭き、ベッドに横になる。

 今日一日で、心も体も妙に疲れた気がする。咲良と話している間、胸の奥を締めつけるような焦燥感がずっと続いていた。得体の知れない違和感、問いただしてもはぐらかされる答え。そのたびに、掴めそうで掴めない何かが、遠ざかっていく。


 咲良に深く踏み込もうとした。けれど、それで分かったことといえば、彼女の存在そのものが、どこか現実から浮いているような印象を受けるということだけだ。言葉にできない違和感の正体は、結局今日もわからなかった。


 ──いや、もう考えるだけ無駄なのかもしれない。


 そんな考えが頭をよぎる。どれだけ理由を探しても、現実には根拠らしいものが見つからない。ただの転校生に、どうしてここまで振り回されるのか。自分が異常なのか、それとも咲良が特別なのか。


 そういえば、最近は夢をほとんど見ていない気がする。

 たまに見ることがあっても、大半は現実に何の関係もない断片的な映像ばかりだ。あの少女──咲良と似ているようで、でも別人のような少女。そして、あの少年──どこか過去の自分に似た少年。彼らが登場する夢は、もう随分長い間、訪れていない。


 だからこそ、感じてしまう。

 あの夢に何か大事な意味があるのではないかと。そして、その意味を忘れてしまった自分への漠然とした不安と苛立ちが、頭の片隅に残り続けている。


 目を閉じると、部屋の静けさが全身を包み込んだ。暗闇の向こうに何かが待っているような感覚を抱えながら、楓はそのまま意識を手放した。


 眠りについてから少し経った頃、楓はふと目を開けた。その瞬間、ここが夢の世界だと直感でわかった。目の前には、咲良の姿によく似た少女が立っている。

 靄のかかった部分もあるが、それを差し引いても、目の色、髪型、服装──すべてが驚くほど鮮明だ。

 これまで見た夢の中とは違う、新しい情景であることにも気づく。今までにない進展があったのだと思うと、楓の胸に小さな安堵が広がった。


 舞台は学校の教室だった。前に見た夢も学校の教室が舞台だったことを思い出す。しかし、今回は違う。席の数や黒板に書かれた文字、そして目の前の少女が身に着けているセーラー服──ここは、どうやら中学校らしい。

 外はまだ明るい。教室にはぼんやりした光が差し込み、窓の外の景色は少しぼやけている。それでも、昼休みのざわめきが伝わってくる。周囲には多くの生徒が集まり、それぞれが思い思いに過ごしていた。


 楓の視点は、やはり「少年」のものだ。靄のかかった視界越しに見る少女の姿だけは、まるで光をまとっているかのように際立っていた。

 窓辺に立つ少女は、クラスの喧騒を静かに見守るようにしている。その佇まいと、胸の奥に浮かぶ感情が重なり、楓は思った──少年は、彼女に恋をしているのだ、と。


「───くん!ちょっとこっち来て!」

 耳に響いた少女の声。名前を呼ばれたような気がしたが、その部分だけがかすれていて、はっきりと聞き取れない。相変わらず、肝心なところがぼやけている。


 少年の視点を通して、楓はその様子を見守るしかなかった。自分の意思ではこの夢の中で動くことができない。視界がふと揺れ、少年の足が自然と少女の方へ向かっていく。その動作には一切の迷いがなく、むしろ親しげな空気すら漂っている。


 少年と少女のやり取りは、まさに「青春」を切り取った一幕のようだった。教室の窓から差し込む午後の柔らかな日差し。クラスメイトたちの楽しげな声と笑顔。窓辺で無邪気に笑う少女──。

 その全てが鮮やかで、温かく、楓にはどこか切なく感じられた。


 もしこれが自分の過去だとしたら……こんな日々を過ごしていたなんて、信じられない。

 そして、もしこの少女が咲良の過去の姿だとしたら──そう考えると尚更だ。


「どうしたの?───さん」

「───くんに見せたいものがあってさ。ほら、早くこっち!」

 無邪気な笑顔で振り返る少女。その様子に、楓は胸の奥から込み上げてくる懐かしさを感じた。理由は分からない。だが、どこかでこの少女を知っているような気がしてならなかった。やっぱり、この少女は咲良なのか……?と、考えずにはいられなかった。


 夢の中で、少年が少女の名前を呼ぶ場面はこれまでにも何度かあった。しかし、その度に肝心な部分だけが曖昧で、はっきりとした名前を聞き取ることはできなかった。

 苗字で呼んでいるなら「み」、名前なら「さ」。このどちらかの音だけでも聞こえれば、この少女=咲良だと核心へ近づけるはずなのに───。


 しかし、その一方で、楓の胸には別の疑問も浮かび上がる。それは───もし、この夢の中の少女が咲良じゃなかったとしたら……?というものだ。


 これまで夢の全てを咲良に結びつけて考えてきた。それが間違いだとしたら、一体この夢は何を示そうとしているのか。自分は誰の記憶を辿らされているのか。そして、なぜそれを見せられているのか──。


 仮に、この夢が全く別の人物の記憶だとしたら……自分は今、大きな思い違いをしているだけなんじゃないのかと、そんな考えが頭をよぎり、楓の心をさらにかき乱した。


 それでも楓は、この夢の中の少女と咲良を重ねることをやめられない。どこかで繋がっているはずだ、という直感だけが彼を突き動かしていた。

 夢の中の時間は、あっという間に流れていくようだった。昼休みの喧騒が薄れ、気づけば放課後の光景が広がっていた。窓の外から差し込むオレンジ色の夕陽が教室を照らし、カーテンがゆらりと揺れている。周囲の生徒たちはいつの間にか消え、教室には少年と少女の二人だけが残されていた。


「こっちだよ!着いてきて!」

 少女がそう言いながら、窓辺でカバンを抱えて笑う。その声にはどこか期待が込められているようで、楓は、夢の中の少年がその期待を察したかのように頷くのを感じた。

 視界が揺れ、次に映ったのは学校の広いグラウンドだった。夕焼けが一面を覆い、校舎の影が長く伸びている。辺りは静かで、放課後の名残を感じさせる空気が漂っていた。


 二人はグラウンドの隅で立ち止まり、柔らかな風に吹かれながら並んで座った。少女はスカートの裾を整え、少しだけ顔を伏せて黙っている。その仕草に、少年はどう声をかければいいのか分からない様子で、空を見上げるばかりだった。


「ねえ、覚えてる? 前に一緒にここで、流れ星を見たこと。」

 少女がぽつりと切り出した。


「……ああ。あの時、願い事、ちゃんとした?」

 少年の声が初めて夢の中で聞こえた気がした。相変わらず輪郭は曖昧だったが、優しい響きが耳に残った。


「もちろん。けどね……まだ叶ってないんだ。」

「そっか。でも、きっとそのうち叶うよ。」

「そうかな……」

 少女の声が小さくなる。ふと、彼女は少し前のめりになり、手を握るような仕草をして言葉を続けた。


「───あのね、私、願い事の一つがね……『ずっと一緒にいたい』だったの。」

 その言葉に、少年は一瞬だけ目を見開いた。しかし、それ以上の反応はなく、無言のまま夕陽に照らされた地面を見つめていた。それはある種の「告白」で───流石に楓でもその言葉の意図は分かった。なんで気づかないんだよと少し心でツッコミを入れる。

 しかし、少年は何も言わない。少女もそれ以上何かを言うことはなく、ただ静かに笑っていた。そこには、どこか諦めの色が混ざっているようで、楓は思わず胸が締め付けられるような感覚を覚えた。


 やがて、日が沈み始め、辺りが淡い薄紫色に染まっていく。帰ろう、と言い出したのは少年だった。少女は黙って頷き、二人で校門へ向かって歩き出す。

 途中、少女がふと立ち止まり、少年の袖を軽く引いた。


「ねえ、───くん。」

「ん?」

「……あのね、今日は一緒にいてくれてありがとう。私のお願いがいつか叶うまで───私は待ち続けるつもりだよ」

 彼女が何かを言い足そうとするように唇を動かした瞬間だった。少年が、何気なく彼女の名前を呼んだ。


「ねぇ、はる───」

 その名前を口にした瞬間、楓は視界が揺れるのを感じた。景色がぼやけ始め、目の前の少女が徐々に薄れていく。彼女の姿が消えていくのを見て、少年は何かを言おうとしたが、声にならなかった。

 楓もまた、何が起きているのか分からないまま、その光景を見つめていた。


 目が覚めた時、胸に渦巻くのは不安や恐怖よりも疑問だった。その疑問の中で最も引っかかったのは、夢の中で少年が「はる───」と言いかけた声だ。水瀬咲良とは全く違う響きのその呼びかけは、楓の中に大きな違和感を残していた。


「『はる』……。名前の一部なのか、呼びかけなのかは分からないけど、水瀬咲良とは関係なさそうだよな……。じゃあ、あの少女はいったい誰なんだ?」


 楓はこれまで、夢に現れる少女を現実の水瀬咲良の過去の姿だと思い込んでいた。根拠は薄いものの、少女の姿が咲良の雰囲気と酷似していたことが、その考えを強めていたからだ。だが、少年の発した「はる───」という言葉が、その仮説を一気に崩壊させた。


「もし『さくら』とか『みなせ』って言いかけていたなら、全部繋がったはずなのに……」


 楓はため息をつきながら、あの夢を思い返した。夢の中の出来事が自分の過去の記憶だとは、どうしても思えなかった。けれど、そこに漂う何か得体の知れない懐かしさが、彼を突き動かしている。


「あの少女は、本当に咲良と関係がないのか……。それとも、僕がまだ何かを見落としているのか……?」

 謎が深まるばかりの状況に、楓はただ頭を抱えるしかなかった。

 昨夜書き留めたメモを見返すことにした。今回の夢で得た手がかりが、これまでの考察に関連している可能性があるからだ。


───この夢に関係があるのは、このメモだ。


[MEMO]

・夢の少女

 定期的に見る夢の中に出てくる少女が、水瀬さんに酷似している。

 →特徴:笑顔は同じ。だけど、未だに夢の中で少女の名前が、相手の少年から発せられたことは無い。

 →考察:あれは本当に夢なのか? それとも……記憶の断片?

・夢の違和感

 夢は過去の経験から作られる。

 → 疑問:でも僕には、あの夢に見覚えがない。

 → 可能性:無意識に封じ込めている過去の記憶なのか?


 楓はペンを手に取り、メモに新しい事実を書き足す。まず一つ目は夢の少女の特徴についてだ。今回、夢の中の少年が少女の名前を呼ぶ際、「はる」と言いかけていたことを追加した。

 二つ目は「夢の違和感」の項目だ。あの夢が過去の記憶である可能性は少し薄れたように思える。咲良とは呼ばれなかった事実から、その仮説には疑問が生じている。この点についても追記した。

 ペンを置き、楓は深いため息をついた。

 

「とはいえ───これだけじゃまだ、真相には程遠いな……」

 まるでゴールがない迷路に閉じ込められたかのようだ。終わりのない、ましてや正解のない答えを探している気分───テストで答えを考えて解き方を模索しても、思い出せそうで思い出せない感覚がまさに今だった。


 時刻はまだ夜中の3時頃だった。夏の夜は蒸し暑さがまとわりつき、楓は扇風機のスイッチを入れる。夢のせいで早起きになってしまったものの、二度寝する気にはなれなかった。

 夢の真相、交わした約束、少女の名前、そして誰かの記憶───これらが指し示すものは何なのか。楓は答えの見えない思考を巡らせながら、夜明けまでひたすら考え続けていた。


**


 翌朝、楓はいつもと同じように早めに学校へ向かった。通い慣れた通学路を歩きながら、昨日見た夢の断片が頭をよぎる。もやもやとした違和感を抱えたまま教室のドアを開けると、予想外の光景が目に飛び込んできた。


 教室には既に先客がいたのだ。一人の少女───水瀬咲良が、自分の席に座って窓の外を見つめている。彼女はこちらに気づくと、ふと微笑んで手を振り、「おはよう」と優しく挨拶をした。


「水瀬さん……今日は早いね」

「そうかな。夏って朝から暑いでしょ?早く出ないと、すぐ汗かいちゃうからね」

 咲良はカバンからノートを取り出しながら、自然体で言葉を続けた。

「それに、誰もいない教室って落ち着くんだよね。こうしてまだ涼しい間にゆっくり過ごすのも好きなんだ」


 楓は彼女の何気ない仕草を目で追いながら、無意識のうちにじっと見つめていた。その視線に気づいたのか、咲良が首をかしげる。

「ん?霧島くん、どうしたの?私の顔になにか付いてる?」

「あ、いや……なんでもない。ただ、ちょっとぼーっとしてただけ」


 楓は慌てて視線を外し、苦笑いを浮かべた。けれど、その心の内では一つの疑問が膨らんでいた。咲良の声や笑顔、さりげない仕草のすべてが、夢の中の少女と重なって見える───いや、彼女自身があの夢の中から飛び出してきた存在ではないかとさえ思えてしまうほどに。

 それでも、楓はその違和感に触れようとはしなかった。まだ確証もない考えを彼女に伝えることが、どこか怖かったのだ。


「霧島くん」

 楓が席に着くと、咲良が話しかけてきた。

「んっ?」

「あのさ……今日の放課後、一緒に帰らない?」

 そのお願いはこれまでにも何度かあった。しかし、今日の咲良の声には微妙な違和感があった。ほんの少し───普段よりも抑えたトーン。


「いいよ。でも……水瀬さん、なんか元気ないね。何かあったの?」

「えっ?」

 咲良は一瞬目を見開き、慌てたように笑顔を作った。


「いや、別に何もないよ。たまたま、ちょっと眠いだけかも」

「そ、そうならいいけど……」

 楓は頷きながらも、咲良の返事に引っかかりを覚えた。彼女が笑顔を作るまでの間に、ほんの一瞬だけだが、言葉にはできない寂しさのようなものが見えた気がした。

 

「霧島くん、そういえば───」

「ん?何?」

「……昨日は、私の家にお見舞いに来てくれてありがとう」

 咲良は少し押し殺した声で、周囲に聞こえないようにそう言った。その静かな声色は、昨日咲良の家に行ったことへの感謝を込めたものだった。

 楓は一瞬言葉を失った。唐突に連絡して押しかけた挙句、立ち入った質問ばかりしてしまったことを思い返し、何とも気まずい気持ちになる。普通なら嫌がられても仕方のない行為だ。だが咲良は、そんな彼に感謝を述べている。


「えっ?いや、その……どういたしまして、というか……」

「うん、ありがとう」

 咲良は静かに笑ったあと、少しだけ目を伏せながら続けた。


「私って、一人ぼっちだから……心配してくれる誰かがいるだけでも、すごく安心できるんだ」

 楓の胸にざわりとした違和感が生じる。学校ではたくさんの友達を持ち、誰からも好かれている咲良。女子たちの間では人気者で、文化祭の時も楽しそうに友達と話していたのを楓は見ている。なのに彼女は「一人ぼっち」だと言うのだ。

 その言葉の裏に、何か決定的な孤独を抱えているように思えた。


「……水瀬さんは、一人ぼっちじゃないと思うよ」

 楓はそう言ってみた。これは慰めでもあるが、周囲の人々に囲まれている咲良の姿を思い返せば、それは正しいはずだった。だが───。


「……霧島くん、それは違うよ」

 咲良の声はかすかに震えていた。彼女は視線を伏せたまま、小さく首を振る。


「私はずっとひとり」

 その言葉の響きには、楓が想像もできないような深い孤独が滲んでいた。


「……」

 言葉を失った楓を見つめ、咲良は一瞬迷うような素振りを見せた。そして、何かを言いかけた。


「だって私には───」

 咲良の瞳が、どこか遠い場所を見ているように揺れた。しかしその続きを言う前に、彼女は言葉を飲み込む。そして、いつものように微笑んだ。


「ううん、なんでもないよ。ごめんね、変なこと言っちゃって」

 その笑顔が、ほんの少しだけ壊れそうに見えたのは、楓の気のせいだったのだろうか───。もう、楓の目が、彼女の偽りの笑顔を誤魔化せるはずなどない。はっきりと分かった。彼女は明らかに、「無理して」笑顔を作っていると。


 そうしていると、楓と咲良の井戸端会議を遮るように高橋が話しかけてきた。咲良はその様子を見ると、空気を読んで小説を読み始めた。その気遣いの様子に少し安堵する。


「なぁ楓、ちょっとこっち来てくれんか?」

「えっ?いいけど、何の話?」

「まぁまぁ、とにかくここじゃ人が多いから」

「うん、分かったよ」

 珍しく早めに学校に来た高橋が、楓を連れてやってきたのは、特に何の変哲もない空き教室だった。窓から差し込む薄い朝の光が、静かな教室内に広がっている。


「なぁ楓、結局、水瀬の欠席理由ってなんだったんだ?向井先生からも聞かれたんだろ?」

「うーん、それが……いまいちよく分からなかったんだよね」

「ん?なんでだ?お見舞いに行ったんなら、体調不良とかだったらすぐ分かるだろ?具体的な病名とかはどうでもいいんだけどさ、要するに体調不良だったのか?」

「……そう……なのかも。でも……」

 「楓」は言葉を濁した。確かに彼女は昨日「体調不良」で欠席したと言っていた。けれど、それはあくまで表向きの理由で、本当は別の何かがあったのではないか――そんな気がしてならなかった。


「でも?」

「元気そうには見えたんだけど、なんか無理してるっていうか……表情とか、雰囲気とか、いつもと違った気がしたんだよ」

「……そうか。やっぱり欠席理由ははっきり言わなかったんだな」

 高橋は窓の外を見ながら小さく息を吐いた。


「……楓もそう思ってるなら、俺の感じた違和感も間違いじゃなかったんだな」

「えっ?」

 高橋の言葉に、楓は驚いて彼の顔を見た。


「いや、俺もさ、なんとなく気になるところがあってさ。水瀬って、なんか変だろ?例えば、お前に対してやたら距離が近いというか……執着してるって感じがしないか?」

「執着?」

「ああ。好きなのか、それとも別の理由があるのかは知らないけど、なんかこう、楓にだけ何かを伝えたがってるように見えるんだよな」

 何かを伝えたがっている───

 その言葉に、楓は心臓を軽く押さえつけられるような感覚を覚えた。咲良の家を訪れたときに感じたあの違和感が、まさに高橋の言葉によって形を得たようだった。


「楓も、なんとなくそんな感じの違和感を感じたんだろ?だとしたら……やっぱり水瀬って、何か隠してる気がするよな」

 高橋の勘は鋭かった。いや、むしろ的確すぎると言っていいほどだ。

 確かに、咲良にはどこか違和感がつきまとっていた。今に限らずこれまでずっと。それは彼女と初めて会った日の既視感にも似た感覚から始まり、夢に現れる彼女と似た少女の姿や、文化祭のステージで悲劇のヒロイン役を演じきった彼女の姿にも繋がる。

 そう思えば思うほど、楓の中で言葉にできない「何か」が膨らんでいった。


「お前さ、咲良のこと、どう思ってるんだ?」

 不意に高橋が問いかけてきた。その軽い口調の裏には、友人としての本気の気遣いが滲んでいた。


「……どうって……僕も分かんないよ。ただ、気になるんだ。何を隠してるのかとか、何を伝えようとしてるのか……」

「なんかさ、お前がそう感じてるなら、それを無視しないほうがいい気がするんだよなぁ。まぁ根拠はないんだけど。何故かわからんけど、楓が水瀬に関連するキーパーソンな気がしてならないんよ」

 高橋はそう言って楓の肩を軽く叩いた。


「ま、もしなんか困ったことがあれば、いつでも相談しろよ。俺はお前の味方だからな。それに、この件については俺も少しばかり興味があるし」

 その言葉に、楓は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


「……ありがとう、高橋」

「気にすんなって。まぁ、あくまでも俺は相談相手程度に思っておいてくれよな。……水瀬については、多分お前が深掘りしていくべきな気がする」

「そうかもな」

「手がかりが足りなくなったときとかに、たまーに声かけてくれるだけでもいいからな。もしかしたら、俺が楓の核心に迫るとんでもない証言者になる可能性もあるし!」

「それはそうそう無いと思うけど」

「いいや、それは分からんぞ?探偵系のアニメとかでも、意外なやつが決定的な証拠を持ってたりするんだからな!」

 高橋の自信たっぷりな顔に、楓は思わず小さく笑った。普段ふざけているように見えて、実際にはどこか頼りになるところがある。───そう言ってやろうかと思った矢先、彼の得意げな表情を見て、その気はすっかり失せてしまった。

 

───変哲のない平日は、ただ問答無用に過ぎ去っていく。

 授業に集中しようとしても、頭の中には咲良のことが居座り続けていた。

 期末テストが近いというのに、勉強への意欲など湧くはずもない。


 付きまとうのは、彼女にまつわる奇妙な違和感だけ。

 家を訪れたときの微妙な表情、文化祭で見た圧巻の演技、そして───夢に現れる、自分と咲良によく似た少年少女の姿。

 どれもが繋がっているようで、そうではないようで、その曖昧さが楓を苛立たせた。


 夢の中の少年は、自分自身なのだろうか。

 隣にいる少女は、本当に咲良なのだろうか。

 ただの夢として片付けるには、あまりにも生々しくて、現実味がある。それでいて、その情景を思い出そうとすればするほど、どこか靄がかかったように曖昧なのだ。


 あの夢は、記憶なのか。

 それともただの幻なのか───。

 胸の奥がざわつく。忘れてしまった何かがあるのだろうかと、自然と思いが巡る。

 だが、それが実際に起きたことだという確信はない。ならばただの想像なのかもしれない。


 けれど、そう考えるほどに、自分の中の何かが否定するような感覚があった。

 あの夢には、現実と地続きのような温度がある。それに、咲良が現実に見せる仕草や表情が、夢の中の少女と微妙に重なることがあるのだ。

 彼女の存在が、なぜここまで自分の心を揺らすのか。


 考えれば考えるほど、答えは遠のくような気がした。

 もしかすると、自分自身に原因があるのかもしれない。

 無意識に何かを忘れてしまったのか、それとも見てはいけないものを見てしまったのか。

 そんな疑問が、授業中の机に向かう楓をそっと締めつけた。

 

 昼休み、楓は一人、図書室へ向かった。

 教室の喧騒の中で考察を続けるのはどうにも捗らなかった。それに───咲良がいることで、自分の考察が停滞している気がしてならなかった。


 図書室の重い扉を開けると、ひんやりとした空気が全身を包んだ。

 教室の騒がしさから切り離されたこの空間には、静寂と本の香りが漂っている。それが楓の心を少しだけ落ち着かせた。


 楓は「夢」に関連した文献を探し始めた。

 理由は至極単純だ。「同じ夢を何度も繰り返し見る」「しかも、それが現実の一部のように生々しい」という経験は、どう考えても普通ではないからだ。


 しかし───自分が抱える違和感の核心に触れるような記述は、どの本にも見当たらなかった。

 明晰夢について書かれたページを読んでみても、それが自分の見ている夢と一致するとは思えない。

 改めて調べてみると、明晰夢とは、「夢を見ていることを自覚し、夢の中で意思を持って行動できる状態」を指すらしい。

 以前、自分も興味本位で調べたことがあったが、今となってはその可能性も薄いと感じている。


 明晰夢は「自分の経験をもとに脳が作り出した世界」であり、夢の中で感じることすべては、過去の記憶や感情に基づいていると言われている。本質的には、普通の夢とさほど差は無いものだ。

 それならば、自分の見ている夢───あの、身に覚えのない風景や会話、そしてあの少女との思い出は、どう説明すればいいのだろうか。

 夢の中で見たものに、自分の記憶が反映されているのならば、どこかでそれを経験したはずだ。

 けれど、どう思い返してもその記憶は存在しない。


 この矛盾は何だろう?

 単なる幻想か、それとも自分が忘れてしまっただけなのか───。


「明晰夢じゃないし……なのに、身体が妙に焦ってるのは何でなんだ……」

 ぽつりと独り言を漏らし、楓は手に取った書物を棚に戻した。


「気にしすぎなのかな。……いや、もしかして、こういうのって都市伝説とかだったりするのか?」

 自嘲気味に笑いながら、ふとそんな可能性を口にした。


 けれどその瞬間、胸の奥に冷たい波が立った。

 都市伝説───あり得ない話のはずなのに、その言葉にどこか心当たりがあるような感覚が湧き上がったのだ。

 自分でも説明できないこの感覚は、まるで薄い霧の中から何かが手を伸ばしてくるような、そんな不安定さを伴っている。


「嘘だろ……この図書室、全然都市伝説とかの書籍ないじゃん……」

 結局、自分の求める答えは見つからなかった。

 詳しいものは知らないが、この街にも都市伝説はいくつかあるらしい。考えに考えても先へ進めない時には、誰か都市伝説に詳しい人に聞いてみるのもありかもしれないと思った。


**


「今日もお疲れ様でした。テストも近いし、必要なところからテスト勉強を進めておきましょう。それじゃあ、終わります」

 担任の向井先生の声が響き、いつの間にか帰りのショートホームルームが始まっていた。気づけば授業はとうに終わり、夕陽が窓際を赤く染めている。楓は、ふとした脱力感に肩を落としながら顔を上げた。

 毎度恒例の、全員がバラバラに唱えるような気の抜けた帰りの挨拶が終わると、生徒たちは荷物をまとめて帰宅を急ぎ始めた。


 ───あれからも、ずっと咲良のことが頭を離れない。

 違和感、既視感、そして隠しきれない秘密。彼女のすべてが、もやのように絡みつき、楓をじわじわと蝕んでいく。


 「考えるだけ」では、もう核心に近づけない。

 堂々巡りのこの状態を打破するには───直接、本人に尋ねるしかないのではないか。そう思えてならなかった。


 隣の席に目を向けると、咲良は女子たちに囲まれて談笑していた。華やかな笑顔を浮かべながら、会話を転がしている。

 だが楓には分かる。そこには「本心」がないことを。

 その笑顔はどこか薄く、まるで仮面をつけているように見えた。楽しげな雰囲気とは裏腹に、目の奥には何か切なさを漂わせている。


───もう迷っている時間はない。

 楓は決心した。

 どんな形であれ、咲良の「真実」を知る。彼女の背負うものを、この手で暴くことを。

 

 数分後、女子たちの談笑を終えて身支度を済ませた咲良は楓に声をかける。

「お待たせ、霧島くん。そろそろ行こっか」

「うん、分かった」


 短く、質素な会話を交わすと、教室を共に出た。そして、長い廊下と階段をゆっくり歩き、校門を通り抜ける。

 歩道を二人で隣り合いながら歩くが、会話はなかなか生まれない。咲良が転校してきた頃の、元気で楽しげな様子はあまり感じられなかった。少し俯き気味に、まるで何かを考え込むようにゆっくりと歩いている。


「水瀬さん…」

「えっ?なに?」

 楓が話しかけると、少し驚いたように顔を上げ、咲良は笑顔を見せる。しかし、その笑顔はどこかぎこちない。視線が合った一瞬、楓にはその目元がかすかに潤んでいるようにも見えた。


「その…本当に、大丈夫?ずっと元気がないみたいだけど…」

「……大丈夫、そんなことないよ」

 咲良は微笑みながら言うが、その返答にどこか力がない。楓は言葉を失った。


 しばらく沈黙が続く中、ふいに咲良が顔を上げて言った。

「ねぇ、霧島くん。今日の帰り道、少し遠回りしたいんだけど、一緒に歩かない?」

「えっ?いいけど、どこに行くの?」

「……ううん、そんなに遠くには行かないよ。ただ…行きたい場所があるだけ」


 なぜ咲良が楓をその場所へ誘うのか、理由はわからなかった。しかし、断るつもりはなかった。咲良の一挙手一投足のすべてが、真実へ繋がる重要なヒントに思えたからだ。


 数分間、言葉を交わさずに歩いた後、咲良が少し抑えたような声で尋ねてきた。

「霧島くん、この街で毎年行われてる、花火大会って知ってる?夏祭りの一番盛り上がるイベントなんだけど」

「花火大会……それなら知ってるよ。人気だもんね」

「その……もし良かったら、でいいんだけどね。その花火大会……一緒に行かない?」


 その言葉は、少し唐突だった。

「……えっ?」

「その、私個人のお願いだし、霧島くんの都合が大事だからアレなんだけどね。けどその……私は花火大会初めてだし、知ってる人が一緒にいた方がいいかなって」

 咲良の声は、少し上ずっていた。いつもとは違う緊張感が漂うその様子に、楓は少し驚きながらも返事を考える。

 その間、咲良はふと夕焼けの空を見上げた。まだ明るい空には、星の気配すらない。それでも、彼女の瞳は夜の花火を想像しているかのようだった。


「……なんだかね、花火大会ってすごく特別なものって感じがするの」

 咲良が静かに続ける。

「みんなが空を見上げて、同じものを見て、同じ時間を共有するなんて……ちょっと素敵だよね」

 言葉だけを聞けば、どこにでもある感想だった。しかし、その一瞬の間に見せた表情の奥に、楓は彼女だけが抱える何か特別な感情を感じ取った。それが期待なのか、あるいは恐れなのか──まだわからなかったが。


「……いいよ、行こう」

 楓がそう答えると、咲良は少しほっとしたような、それでいてどこか緊張した笑顔を浮かべた。

 

 それ以降の会話は、しばらくの間弾むことはなかった。

 咲良が「少し遠回りをしたい」と言ったため、楓は彼女の後ろを歩きながらその足取りに合わせて進む。咲良の歩調はどこか気まぐれなリズムを刻んでおり、ただついていくだけの楓には、その意図を推し量ることができなかった。


 やがて、二人は少し開けた街中に出ていた。車通りが多く、道路沿いには飲食店やスーパーマーケット、家電量販店などが並んでいる。この辺りは、楓も何度か訪れたことがある場所だったが、いつ来てもこの街の賑わいには驚かされる。


「この辺り…結構お店とか沢山あるよね」

 なんとなく声をかけてみると、咲良は振り返りもせずに答えた。

「そうだね。でも……私はこういう場所にはあまり来ないから、少し新鮮かも」


 どこか曖昧な口ぶりに、楓は少し違和感を覚えた。

「確か、この辺って花火大会の会場近くだったよね。あの大きな河川敷、ここから少し歩いたところだったはずだけど」

 楓の頭の中には夏の記憶が浮かんでいた。毎年この場所で行われる花火大会は、全国的にも有名な大きいイベントで、実際に楓も過去に訪れたこともある。とはいえ、誰と行ったかとか、どんな景色だったか、というのは、もうすっかり忘れてしまったのだが。

 

「……うん、そうだよ。その花火大会の会場の下見に来たくて、ここまで来たんだ」

 咲良が微笑みながらそう答える。その笑顔はどこか遠くを見つめているようで、楓は一瞬言葉を失った。


 咲良が何を考えているのか、楓にはわからない。身元不明の転校生──そんな印象が咲良に対して強く、彼女の一挙一動を無意識に「注視」してしまう自分がいる。しかし、そうしてしまう理由を自分で説明することはできないまま。


「私ね……この場所で、思い出を作りたいんだ」

 不意に咲良がそう呟いた。


「思い出?」

 楓はその言葉の意味を問い返すが、咲良はそれ以上何も言わなかった。ただ、彼女の目がどこか遠い場所を見つめているように感じられた。しかし、楓の問いかけに返事を返したのは「咲良」ではなかった。


───あの時の君と一緒に、ね。

 突然、耳元に別の声が響いた。それは咲良の声ではなかったが、どこか彼女の言葉と重なっているように思える奇妙な感覚だった。


 その瞬間、楓の視界が大きく歪んだ。音が消え、目の前の風景が変わり始める。

 ぼんやりとした情景が浮かんでは消える。それは、まるでガラス越しに覗き見ているかのような、そんな気がする。しかし、その断片的な映像の中に、何か重大なものが含まれているような気がしてならなかった。


 次の瞬間、楓は誰かに肩を押されるような感覚に陥った。楓は思わず肩に手をやるが、そこには何もない。しかし、焼けるような痛みが消押し寄せると、急に息が詰まった。


「……っ!?」

 交差点に立ち尽くす影。急ブレーキの音。そして、衝撃──。

 目の前で車の接触事故を起こすシーンが、唐突に現れ…それを見届ける第三者の視点が楓の脳内から現れた。


「うっ……! なんだ…今のは…!」

 楓は額を押さえ、膝をついた。周囲の景色がぼやけていき、体の力が抜ける。

 車の音、人々の話し声──それらがすべて遠ざかり、耳鳴りだけが強まる中で、楓は言い知れない恐怖に襲われていた。それは、自分の中に潜む「何か」を無理やりこじ開けられたような感覚だった。


「霧島くん!?大丈夫!?しっかりして!」

 咲良が慌てて駆け寄り、楓の肩に手を置いた。その声は、楓を呼び戻そうとするかのように必死だった。しかし、咲良の手がわずかに震えているのを感じた楓は、その理由が自分の体調を心配してのことだけではないような気がしてならなかった。


**


「水瀬さん、ごめん……」

「いや、大丈夫だよ……。心配したんだからね……」

 傷の痛みは次第に薄れていったが、楓の中に残った恐怖は、しばらく消えることはなかった。彼が見た情景──それが一体何を意味するのか、楓には分からない。ただ一つ確かなのは、それが「恐ろしいもの」であるという直感だけだった。


「なんか……幻覚が見えて、幻聴も聞こえて……。変だなって思ったら、一気に視界が揺らいでさ」

 楓は額に手を当てながら、先ほどの出来事を言葉にする。声にはまだ不安と戸惑いが残っていた。


「……。それは大変だったね……」

 咲良の返事は優しかったが、どこか言葉を選んでいるような間があった。その微妙な躊躇いを楓は聞き逃さなかった。しかし、そこを深く追及することはしなかった。


「……霧島くん、そろそろ帰ろうか?」

 咲良が控えめな声で提案する。


「……えっ?でも、水瀬さんが行きたい場所って、もう少し先じゃないの?」

 楓は首を傾げながら尋ねた。咲良がこの辺りに来た理由を「花火大会の下見」と言っていたことを思い出す。目的地はまだ先にあるはずだ。


「……その、霧島くんの体調を考えたら、ここに長くいるのはよくないかなって思ったの。だから……今日はもう帰った方がいいんじゃないかな」

 咲良の声には心配の色が濃く滲んでいたが、どこか強引に話を切り上げようとしているようにも感じられた。


 楓はしばらく黙ったまま、咲良の言葉を反芻する。「ここに長くいるのはよくない」という言葉に引っかかりを覚えた。この場にいることがどうして問題なのか──楓にはその理由がわからない。ただの歩道であり、先ほどの幻聴幻覚、肩の痛みによる身体の不調があるとはいえ、特別危険な場所というわけではない。

 それとも、咲良は別の理由を隠しているのだろうか。


「……確かに、少し疲れたかもな」

 楓は咲良の提案に頷いた。彼女をこれ以上困らせるわけにはいかないと思ったからだ。


「うん。それじゃあ、いつもの駅まで行こう」

 咲良は微笑みながら歩き出す。しかし、その背中にはどこか緊張感が漂っているように見えた。

 楓はその表情の奥に隠された真意を探るように、歩きながら咲良の横顔を盗み見た。


 電車で移動し、家の近くの駅を降りると、二人は無言のまま住宅街へと向かって歩いていた。


「……今日は本当にありがとね、水瀬さん」

 楓がぽつりと呟いた。視界の端にいる咲良の横顔は、どこか遠くを見ているようだった。


「ううん、私は何もしてないよ。ただ、霧島くんが無事でよかった。それだけ」

 咲良は微笑みながら答えたが、その表情はどこか影を帯びていた。

 住宅街の車通りの少ない分かれ道まで来ると、咲良が立ち止まる。


「私こっちだから、ここでお別れだね。霧島くん、気をつけて帰ってね」

「……うん。水瀬さんも、遅い時間だし気をつけて」

 言葉を交わして別れを告げる。楓が家のドアを開けるため振り返ったとき、咲良の背中はすでに闇に溶け込むように見えなくなっていた。


 部屋に戻ると、楓はカバンを部屋に投げ出し、そのままベッドに倒れ込んだ。しばらく天井を眺めながら、今日一日の出来事を反芻する。


「……水瀬さん、やっぱり何か隠してるよな」

 頭の中で考えを整理しようと試みる。咲良の言葉や表情、そして今日の出来事の中で引っかかる点を一つ一つ紐解いていく。


「夢で見たあの少女……名前の一部が『はる──』だった。『はる──』……水瀬さんの本名に関係あるのか?」

 夢の中の情景が蘇る。幼い頃の記憶、秘密基地で遊んだあの日々。あの少女の名前が最後まで聞き取れない理由は何なのか。そして、咲良がなぜ転校生として現れたのか。


「あの交差点……あんな幻覚が見えるなんて、もしかして過去にあそこで何か僕に…不幸が起こったのか?けど、記憶は完全に繋がらない。咲良がそのことを知っているような反応をしていたのは偶然じゃないはず……。それに、『思い出を作りたい』って……どういう意味だ?まるで何かをやり直すためにここに来たみたいな言い方だった。でも……なぜ俺なんだ?」


 メモや、一日の間に起こった出来事───幻覚幻聴と共に現れたフラッシュバックのような現象や、咲良の躊躇うような仕草と、肩を支えてくれた時に微かに揺れた手……。照らし合わせると、楓の中でひとつの仮説ができた。

 

「もしかして……水瀬さんは、過去に俺と関係があった人間……?」

 この仮説を頭に浮かべた瞬間、全身に鳥肌が立つのを感じた。それが正しいとすれば、咲良がこの街に来た理由も、今日の態度も説明がつくのだが、だとすれば、言動があまりにも不気味だ。

 それに、この仮説にはひとつ、重要な誤りがあった。


「いや……名前が違うか。『水瀬』なんて名前、俺の記憶には無い。それに、夢の中の少女の名前の『はる──』と繋がらない」

 思考は堂々巡りになる。真実に手が届きそうなのに、肝心な部分が欠けている。


「……夢に出てくる少女は、本当に水瀬さんなのか?水瀬でも…咲良でもないなら…」

 楓の胸に再び不安が芽生える。夢と現実が繋がりそうで繋がらない感覚が、焦燥感を煽るばかりだった。


 時計を見ると、すでに夜遅く。考えることに疲れた楓は、風呂を済ませて髪を乾かしたら、体をベッドに預けるように横たわる。


「……水瀬さん……一体何者なんだ……」

 そう思いながら自室のベットに寝転がった。扇風機のタイマーをかけ眠りにつこうとすると、心の中で何となく、 「夢を見るかもしれない」と思い込んだ。

 あの少女と少年が登場する夢については、なにかの規則に反って時系列が進んで現れるようになっている。その景色はまるで、誰かの過去───身に覚えのない過去の記憶らしきものだろう。

 どんなルールで、どんな時にその夢が現れるのかは分からないが…何となくの感覚で、夢を見るかもしれないと思い込むようになった。


───そして、予想通り夢を見ることになった。


**


 夢の視点に切り替わった瞬間、目の前には一人の少女が立っていた。薄闇の中でも鮮明に映るその姿は、どこからどう見ても咲良そのものだった。高く結い上げた髪、華やかな柄の浴衣、そして揺れる提灯の灯りに照らされた微笑みが、記憶の奥底から引き出されたように鮮烈で、儚い。


 周囲を見渡すと、提灯の明かりが辺りを彩り、多くの人々が行き交う賑やかな夏祭りの会場が広がっていた。祭囃子が遠くから聞こえ、どこか懐かしい雰囲気が漂う。まるで映画のワンシーンにでも迷い込んだかのような非現実感がありつつも、肌に感じる夜風や鼻をくすぐる屋台の香りは、確かな現実味を伴っている。


 ふと視界が動く───少女と向き合っている少年の視点だと気付いた。視点は以前の夢のものよりも高く、肩越しに映る影も成長した彼自身を物語っている。


「───くん、遅いよ!時間ギリギリじゃん!」

 目の前の少女が、少し拗ねたように頬を膨らませながらも、どこか嬉しそうに声を上げる。

「結構急いだんだよ……ごめん、待たせちゃって」

「ふふ、後でりんご飴買ってくれるなら許してあげようかな〜」

「えっ?それで許してくれるなら、全然買うよ」

「それは素直すぎるってば!冗談だって〜!」

 彼女は少し肩を揺らしながら笑い、軽く彼の袖を引っ張った。

「さぁ、一緒に行こ!」


 二人は祭りの喧騒に紛れ、仲良さげに歩き出す。その光景を見つめる楓の胸には、懐かしさとも羨望ともつかない感情が渦巻いていた。目の前の二人が誰なのか、なぜこの場面を夢で見ているのか、それが分からないまま、視界だけが勝手に進んでいく。


 歩きながら二人はあちこちの屋台を覗き込む。りんご飴やたこ焼き、綿菓子の屋台が連なる中、少年が何かを提案するたびに少女は驚いたり笑ったりと、表情豊かに応えていた。そのやり取りは自然で、まるで長い時間を共に過ごしてきたかのような親密さがあった。


「───くん、見て見て!金魚すくいだよ!」

「金魚すくいか……うまく取れる気がしないな」

「大丈夫、私がコツを教えてあげる!」

 少女はそう言うと、自ら挑戦を始めた。真剣な表情で金魚を狙う彼女の姿が微笑ましく、少年は思わず声を出して笑ってしまう。

「笑わないでよ、真剣なんだから!」

「ごめんごめん。でも、そんなに真剣な───」

 その言葉が終わる前に、彼女のポイが破れた。

 しょんぼりとする少女に少年が声をかけて慰めてあげていた。そんなシーンを見て、楓は自然と「微笑ましいな」と思えた。


 次に二人が立ち寄ったのは射的の屋台だった。少年は銃を構え、真剣な顔で狙いを定めている。少女は横で応援するように声を上げた。

「当たるかな?頑張って!」

「うん、ちょっと待って……」

 少年の指が引き金を引き、銃口から弾が飛び出す。その瞬間、景品が大きく揺れ、ついには棚から落ちた。

「やった!」

「すごい!───くん、射的うまいね!」

「いや、たまたまだよ。でも、この景品は───にあげるよ」

「えっ?いいの!?ありがとう!」

 少女は手渡された景品を大事そうに抱きしめる。その表情は驚きと喜びで満ちており、楓の胸に温かさが広がるようだった。


「すごいね───」

「うん!本当に綺麗!」

 花火に照らされる少女の横顔が、どこか儚く見えた。夜空に広がる光の下、二人はただ立ち尽くし、その美しさを共有していた。


「僕たちが小さい頃に約束した夢の花って───こんな感じの見た目だったりするのかな」

「それだとしたら、約束は叶ったんじゃない?」

「それは違うと思う。だって夢の花を咲かすっていう約束の本当の意味は───」

 少年がそう言うと、少女も言いたいことを理解した挙句か「そうだね」と微笑んだ。未だにその意味を理解できていない楓だけ取り残された気分になり、少しもどかしい感覚におちいった。


 やがて、花火が終わり、会場も静けさを取り戻し始める。二人は並んで歩きながら、楽しそうに今日の思い出を語り合っている。どこかほっとするような穏やかな空気が流れていた。


 二人が横断歩道を渡る中、不意に遠くから轟くようなエンジン音が響いた。それは、通常の車の走行音とは違い、制御を失った猛獣の咆哮のようだった。楓の心に不穏な予感が押し寄せるが、視点は冷徹な第三者のものに固定されたまま、彼自身の体を動かすことができない。


(……嫌な感じがする……何かが……起こる……!)


 胸の奥で響く警鐘に呼応するように、光の束が視界に飛び込んできた。それはヘッドライトの光───速度を緩めることなく横断歩道へ突進する車のものだった。


「待って、車来てる!危ない!」

「うわっ!?───って待って!はる───っ!」

 少女の叫びが響いた瞬間、少年の体が突き飛ばされる。少女が少年を押したのだろう。視界がぐらりと揺れ、バランスを崩した彼は歩道の端に倒れ込んだ。だが、その直後───視線の先に映る光景が、楓の呼吸を止めた。

 少女は…車の前に立ちはだかっていたのだ。


 彼女の姿は儚く、助けようと飛び出たその隙を許さないように車は迫り来る。少年を守ろうとした───だが、その願いは無情にも叶うことはない。

 轟音が辺りを震わせ、車は少女を跳ね飛ばす。浴衣の鮮やかな柄が宙に舞い、彼女の体がゆっくりと弧を描いたかのように見えた。

 同時に、車は少年の体にも衝突する。だが、少女ほど直接的ではなく、彼の左肩をかすめるように車が突進していった。強烈な衝撃が肩から全身に広がり、少年は無防備に倒れ込んだ。

 頭が地面にぶつかり、視界が歪む。体が言うことを聞かず、痛みと混乱の中で、彼はただ少女の姿を見つめることしかできなかったようだった。


「楓……い……いき……て……」

 視界に映るその場面は、次第にスローモーションのように感じられた。

 少年は必死に声を出そうとするが、喉は詰まり、うめき声すら響かない。彼の視界に映る少女は微動だにせず、車道の上に倒れている───まるで、儚い人形のように。

 残酷すぎる少女と少年の最期を無様にも見せつけられたかのような楓は、心がどんどん痛くなっていた。


(近づきたい……彼女のところに……!)

 楓は夢の中の自分の意識で、体を動かそうともがく。だが、現実のように動けるわけではなく、まるで透明な壁に阻まれているようだった。それでも手を伸ばし、足を踏み出そうとするたびに、視界が次第に朧気になっていく。

 周囲の光景が揺らぎ、色彩が薄れていく。街灯の冷たい光も、車道の血のような赤も、少女の浴衣の鮮やかさも───すべてがぼやけていく。


(だめだ……消えるな……!お願いだ……!)

 必死に叫ぶ楓の声は、何か柔らかい布に吸い込まれるようにかき消される。そして、最後に映ったのは───。

 次の瞬間、視界は完全に真っ暗になり、夢から現実へと引き戻されることとなった。


 目を開けると、楓は自分の部屋の天井を見上げていた。全身から汗が噴き出し、心臓は狂ったように脈打っている。

 息を整えようとするが、先ほどの夢の感触が鮮明に残り、どうしても頭から離れない。震える手で顔を覆い、楓は呟く。

 

「どういうこと……。あの少女が……車に跳ねられて死んだ……って……」


 しばらく、心を落ち着かせようとしたが、時間が過ぎても不安は消えなかった。あまりにも強烈な夢の影響で、無意識に目が覚めてしまい、スマホを手に取ると、時刻は朝の4時を過ぎていた。咲良の安否を確認したい気持ちは強かったが、時刻が時刻だけに、今はあまりにも早すぎて、確認することもできない。


 そのまま、ぼんやりとした時間が過ぎ、一時間ほど呆然としていた。やっと息を整えることができたが、胸に残る恐怖は消え去ることはなかった。


 何が起きたのかを考えるたび、頭の中に浮かんでは消える疑念。それにしても───一つの最悪の予感が、次第に現実味を帯びてきた。


───咲良が誘ってくれた夏祭りは……あと一ヶ月後だ。


 夢の中で見たあの景色、あの光景は、間違いなく咲良が言っていた夏祭りと同じだった。そして、あの壮大な花火も、あの街の伝統的な花火大会のものだと、心の中で確信してしまった。

 これ以上、信じたくないことが重なり、楓の胸に不安が押し寄せる。信じられない現実と向き合わせられたような気がして、気持ちがどんどん沈んでいく。


(もし、あの夢が現実と繋がっているのだとしたら……)

 心の中で自問自答が続く。もし、あの夢の通りに現実が進む形になったら、咲良が本当に事故にあってしまうのだろうか。自分が生きている世界と夢の世界が交錯して、どうしてもその境界を見分けることができなかった。

 そして───もし、本当にあの時のように事故が起きるとしたら、今の自分にはどうすることもできないのだろうか。心の中で恐怖と焦燥が渦巻き、次第に何もかもが不安に感じられるようになった。


 その時、ふと目を向けた窓の外。朝焼けが薄く広がっていた。外の世界が静かに目を覚まし始める中で、楓の中に湧き上がる不安は一層深まっていった。


「どうしよう……。この先が、すごく怖い……」

 その言葉が、自分でも信じられないほど、はっきりと口から漏れた。声が明らかに震え、しばらくは動けなかった。あの夢が、ただの夢にすぎないことを願う気持ちと、それが現実に繋がっているのではないかという恐怖。どちらの感情も抑えきれず、ただ心の中で反響していた。

 やがて、無理やり起き上がり、学校に向かうための準備を始めたが、思考は依然としてあの夢の中で揺れ動いていた。


───学校に行って、何かしらの答えを得なければならない。少なくとも、今のままでは心の中の疑念を晴らすことはできそうにない。


 背筋を伸ばして深呼吸を一つ。重い足取りで、楓は部屋を出た。

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