【第2話】記憶の扉
水瀬さんが転校してきてから、2か月が経った。
6月に入り、春の柔らかな日差しは完全に影を潜め、梅雨特有の蒸し暑さがじわじわと登校する意欲を削ぎ取る時期となった。ジメジメとした空気のせいか、朝の支度すら億劫に感じる日々が続く。
しかし、そんな気分も、咲良の存在と親友の高橋の明るさのおかげで、なんとかやり過ごせている。
ここ2か月、あの夢は相変わらず断片的に訪れていた。少女が少年と喧嘩をし、その後仲直りをする───夢の内容に、最近は特に変化がない。
どうやら「何かの条件」がなければ、夢の内容が変わることはなさそうだ。また、夢を見るのも毎晩というわけではない。そんな曖昧さが、楓の焦りをじわじわと募らせていた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。傘はちゃんと持ったの?」
「うん、大丈夫。さすがに梅雨だからね」
母親の問いかけに軽く応じると、楓は玄関を出た。
予報では曇りと言っていたが、外は意外にも青空が広がっている。
朝日が照りつける中、早くも汗ばむような空気に包まれ、少し早めに訪れた夏の気配を感じる。
通い慣れた道を歩きながら、楓はぼんやりと考えていた。
最近、咲良との距離が少しずつ縮まってきたように思う。当時は放課後の空き時間に話しかけられること以外は無かったが、最近は授業の休み時間なども、フレンドリーに接してくれる。それでも、彼女の素性については、いまだに分からないことばかりだ。夢の中で見たあの少女との関係も、未だ霧の中だ。
ふと、聞き慣れた声がした。
「おはよう、楓くん」
振り返ると、そこには咲良が立っていた。
制服のリボンを整えながら、相変わらずの明るい笑顔を浮かべている。どうやら楓より少し後ろから着いてきていたらしい。
「あ、おはよう、水瀬さん」
「おはよう。梅雨の晴れ間って気持ちいいよね。今日は雨降らないのかな?」
咲良は楓の隣に歩み寄り、話しかけてきた。楓は少し間を置いてから頷く。
「天気予報では曇りって言ってたけど、どうだろうね。急に降るかもしれないし、一応傘は持ってるけど」
「ふーん、ちゃんとしてるんだね。…私傘持ってきてないから、雨降ったら貸してくれる?」
咲良が冗談めかして言うと、楓は少し肩をすくめた。
「そういうつもりで言ったわけじゃないけど……。まあ、困ったら言ってよ」
「冗談だって。ふふ、頼もしいな。じゃあ、その時は遠慮なくお願いしちゃおうかな」
咲良の屈託のない笑顔に、楓はわずかに頬を緩めた。
いつものような何気ない会話。それでも、こんなやり取りが自然とできるようになった自分に少し驚いていた。
咲良と出会ってから、何かが少しずつ変わっている気がする。それが何なのか、まだ分からないけれど。
2人の会話が途切れることはなく、そのまま学校までの道を共に歩いた。朝の蒸し暑さも、どこか和らいで感じられた。
数分して学校に着くと、まだ楓たちより先に来ている生徒の気配はなかった。
教室棟まで歩き、自分たちの教室に着くと、2人とも同じタイミングでリュックを机に置いた。楓はいつものように教室で読書を始め、咲良は席に座ったまま、ぼんやりと外を眺めていた。時々、楓に話しかけてくるが、その会話のペースも、どこか心地よく、特別なものではなくとも、自然と学校に行くモチベーションとなっていた。
「ねぇ、霧島くん」
「んっ?どうしたの、水瀬さん」
少しして、いつものように咲良が話しかけてきた。
「いつも霧島くんと一緒にいる、仲良しな男の子って、名前なんて言うの?」
どうやら、楓の友人である高橋のことを聞いているのだろう。
「あぁ、高橋のこと?」
「高橋くんっていうの?」
「そうそう。高橋凌介。僕が小学生の時に知り合った幼なじみだよ」
「へ〜。幼なじみなんだ。通りで仲良しなわけだね」
幼なじみとはいえ、高橋は少し面倒な奴だと思っている。でも、不快感を感じることはなく、特に気にすることはない。だが、彼の積極的な性格や、楓に恋愛を強要する意図が、いまだにどうしても読めなかった。
「仲良しって言うか…まぁ、あいつは色々と面倒なやつだとは思ってる」
「ふふ、だと思った。覚えてる?私が転校してきたばっかりの頃、購買で高橋くんに絡まれてたよね」
「あぁ、それ?やっぱり聞こえてた?」
「うん、詳しくは聞こえなかったけどね。でも、普段教室で大人しく読書してる霧島くんが、購買に来てると思わなくてびっくりしたの」
「そうだったんだね…。高橋は、やけに恋愛を僕に強要するんだよね」
「恋愛……。そ、そうなの?」
一瞬、咲良の表情が曇った。
その微かな変化に、楓は何も言えずに見守っていた。しかし、気づいた時には、咲良はすぐに元の屈託のない笑顔を浮かべていた。
(どうして、今、あの表情を見せたんだろう?)
楓の頭の中に疑問が浮かぶ。咲良は何か戸惑っているように見えた。その表情が一瞬、楓の心に引っかかる。だが、咲良はすぐにそれを隠し、何事もなかったかのように振る舞った。楓はその理由を知る術もなく、ただ黙って彼女の顔を見つめていた。
今日の授業もほとんど終わり、7限のロングホームルームが始まった。
5月中旬の中間テストを越えると、6月半ばには文化祭が控えている。今日のホームルームでは、クラスの出し物を決め、担当を振り分けるらしい。正直、6月初めから準備を始めるのは遅すぎる気がして、楓は内心でため息をついていた。
黒板にはいくつか案が書き出されている。
教室展示の部門では、クレープやたこ焼きなどの食べ物系、お化け屋敷のような娯楽系などが挙がっている。一方、ステージ発表は提案が少なく、演劇やダンスなど、楓が苦手そうなものばかりが並んでいた。
そんな中、咲良が楓に話しかけてくる。
「ねぇ霧島くん、もし食べ物系の出し物になったら、当日その場で料理するってこと?」
「そうだね。材料を揃えて作って販売するけど、原価以上の値段をつけられないんだ。だから値段の計算も面倒なんだよね」
「やっぱりそうなんだ。原価でしか売れないんだね」
学校の規則では、文化祭の出し物で利益を出すことは禁止されている。それを知っていても、楓は「儲けたほうが学校のためになるのに」と心の中で思わずぼやいてしまう。
教室は活気に満ちていた。
「お化け屋敷がいいって!絶対ウケる!」
「いや、ダーツとかのほうが楽しいだろ!」
「えークレープとかやりたい〜!」
「焼きそばとかも絶対楽しいよ!」
男子たちは騒ぎ立て、女子は食べ物系を推したい様子で、意見が真っ向から対立している。
そんな中、高橋が手を挙げた。
「お前ら喧嘩すんなって!多数決で決めちまおうぜ!」
どうやら、彼は中立の立場を取るつもりらしい。
咲良と楓は、クラスの喧騒をただ静かに見守っていた。下手に場違いな提案をすれば、あっという間に輪から外されそうな空気がある。それは咲良も同じようで、どこか遠巻きに見守る親のような雰囲気を漂わせている。
そんな咲良が、また話しかけてきた。
「食べ物系、楽しそうだね。私、接客とか得意だよ」
「水瀬さんは接客か…。確かに、作るのが苦手な人でも接客ができれば問題ないよね。ちなみにさ、水瀬さんは料理好き?」
「えっ?私?」
咲良は少し間を置いてから口を開いた。
「料理は……そこそこ、かな。できないわけじゃないけど」
「そうなんだ」
「な、何よ?女子だから料理が得意で当然って思うのはよくないよ、霧島くん!」
楓は、咲良をバカにするつもりは一切なかったが、焦って反論してくる咲良の姿に思わず笑みが漏れた。
咲良はじっと楓を見つめると、突然声を弾ませた。
「逆に聞くけど、霧島くんは料理できるの?───あ、待って!予想していい?」
「えっ?」
「たぶん……できるよね!」
「……いや、なんでわかったの?」
「やっぱり!」
咲良は得意げに笑う。
「ふふ、これが女の子の勘ってやつだよ」
できるかできないと言うあくまで半分の確率とはいえ、当てられると妙に感心してしまう。咲良の無邪気な様子を見ながら、楓はどこか胸の奥に違和感を覚えた。顔を見ただけで料理ができるかどうかを判断されるなんて───そんな勘があるなら、やはり女の勘というのは侮れないものだ、と苦笑しつつも、楓の内心には小さな引っかかりが残った。
話し合いは、最終的に男女の意見の対立も無くなるように進み、ステージ発表は「演劇」、クラス展示は「食べ物系」に決まった。男子たちの案の内容は、どうやら同じ学年のほとんどのクラスがやる内容だったらしく、被っていたため却下されたらしい。
「お化け屋敷もいいけど、準備が大変だし、演劇のほうが全員参加できるよな」
「食べ物系なら、私たちも楽しくできそうだしね!」
「料理できる人とか、やりたい人いたらまた後で教えてー!」
評議委員たちの活躍で議題は無事まとまり、クラスは次に演劇の内容を決めることになった。
食べ物系の出し物は、「まだ詳細を決めるのは早い」という向井先生の判断もあり、準備に時間がかかる演劇から進めることになったのだ。黒板には次々と提案が書き込まれていく。
このクラスは発言力の強い人達ばかりいるから、こういう時に話がスムーズに進むのはこのクラス唯一の長所だと思っている。
「シンデレラとか白雪姫みたいな童話系がいいんじゃない?」
「いやいや、それならもっとオリジナルの話にしようよ!」
「恋愛ものとか青春ものもアリだよな」
「それいい〜!私、好きな小説あるの!その話をオマージュして演劇にしたい!」
「え〜!台本書くの大変そうじゃん!」
クラスの女子たちが中心になって議論は盛り上がり、男子たちも数人が適当に合いの手を入れる。次第に女子たちの勢いに押される形で───最終的に「現代を舞台にしたオリジナルの恋愛ストーリー」に決まった。
「おし!そいじゃあ、次は配役を決めよう!」
高橋が勢いよく声を上げると、教室の空気が再び活気づく。高橋もなんだかんだクラスを引っ張る程の活気があり、それはいつまでも尊敬に値する程だった。
「主人公は男子だよね?で、ヒロインは……」
「うーん…主人公は霧島くんがいいんじゃない?」
突然、数人の女子がそう言い始めた。楓は思わず顔を上げる。
「───えっ、僕?」
唐突に名指しされ、間の抜けた返事になってしまう。反論しようとした瞬間、矢継ぎ早に声が飛ぶ。
「だって、普段物静かで落ち着いてるし、雰囲気合いそうだもん!」
「ほら、なんか読書してる感じが主人公っぽいよね!」
「いやいや!主人公はもっと僕なんかよりしっかりした元気なやつの方が───」
偏見が過ぎると思い急いで否定しようとする楓だったが、その言葉を遮ったのは親友の高橋だった。
「いやいや、恋愛ストーリーってのは、大人しいやつがヒロインに恋するのが映えるんだよ!楓、お前は適任だ!」
心の中で(高橋後で覚えてろよ)と毒づきつつも、教室全体の盛り上がりに楓は押し切られてしまう。結局、主人公役を引き受けることになってしまった。
「それじゃあ、ヒロイン役はどうする?女子で立候補いる?」
沈黙が数秒続く。このままでは気まずい空気が流れると思っていたその時、誰かが手を挙げた。
「じゃあ……私、やりたいな」
教室中が一瞬静まり返る。振り返ると、そこには笑顔で手を挙げる咲良の姿があった。
「霧島くんと一緒なら、頑張れる気がする。───ヒロイン役は私がやるよ!」
その言葉に教室は一気にざわめき、再び熱気に包まれる。純粋に盛り上がる生徒と、何故か嫉妬している男子生徒が半々だった。
「おお!水瀬さんがヒロイン役とか最高じゃん!」
「霧島と水瀬で主演ペアとか、これは注目だな!」
「おいおい楓!やっぱり主人公俺に変われよ!」
「そうだよ!水瀬さんがヒロインやるって分かってたならやりたかったのに!」
楓は固まったまま、教室の騒ぎを眺めるしかなかった。視線を感じて顔を向けると、咲良がこちらを見て柔らかく微笑んでいる。その笑顔に、妙な安心感と同時に胸の奥でざわめく感情を抱く。
「いいじゃん楓!演技なしでも楽しめるだろう?」
高橋がからかうように言い放つ。楓は軽く睨み返しつつも、反論する気力はもう残っていなかった。
「はい!私台本書きたい!」
「私も!台本作るの得意だよ!」
その後、台本担当として女子3人が選ばれる。こうして配役が決まり、文化祭準備の第一歩が踏み出された。
台本を書く担当になった生徒もおそらく相当な「陽キャ」なのだろう。来週には台本を完成させると言っていたので気合いの入り方はすごいが、明らかに演じずらいような台本にしないでくれと、心から楓は願っていた。
授業が終わり、いつものようにショートホームルームを済ませた。すると、生徒たちが帰りの準備をしている中で咲良が話しかける。
「霧島くん、文化祭の時はよろしくね?」
「う、うん」
咲良の頼み方が思いのほか可愛らしく、楓はリアクションに困ってしまった。単なる演劇ならまだしも、恋愛を題材にした劇となると、主人公やヒロイン役にはそれなりに過激な演技が求められるイメージしかない。今まで恋愛小説をよく読んでいただけに、少し──いや、かなり不安だった。
───やがて、生徒たちが帰り、再び教室には静寂が訪れる。ようやく一息つけると思うと、どこか安心感が広がった。
「また明日ね!」
「うん!台本、頑張ろうね!何かあったら教えて!」
「はーい!お疲れ様!」
教室に残っていた女子たちも、最後の雑談を終えてようやく帰るようだ。その会話からして、どうやら彼女たちが台本執筆に立候補したメンバーのようだった。
「霧島くん、文化祭、任せたよ!」
「シナリオができたら早めに渡すから、水瀬さんにも伝えておいてね〜!」
帰る直前、台本担当の女子グループに声をかけられ、楓は思わず驚く。
「───へ?あ、あぁ、頑張るよ」
唐突に話しかけてくるという思いがけない不意打ちに、つい気の抜けた返事をしてしまう。心の中で「頼むから勘弁してくれ」と観念するしかなかった。
女子たちは楓の反応を見て満足げに親指を立て、グッドマークだけ残すとそそくさと教室を後にする。
「……勘弁してくれよ。演劇なんて苦手だってば」
楓は小さく呟くと、机に置いてあった本に視線を戻した。それにしても困った状況になってしまった。文化祭では、なるべく目立たない役回り──例えば、照明担当や舞台セットの準備などの雑用を引き受ける程度で十分だと思っていたのに、まさか主人公役にされるとは。
それも、水瀬さんがヒロイン役──。この状況は、網にかかった魚のように、逃げ場を作ることを許さないということなのだろう。楓は一息つきながら頭を抱えた。
数分後、咲良が戻ってきた。
「……霧島くん?どうしたの?元気なさそうだけど。」
「水瀬さん……」
楓はここ数分、本を読んで無心になろうとしていた。しかし、不安は消えない。恋愛を題材にした劇──恋愛の話自体は小説で読む分には楽しめるが、現実で演じるとなると話は別だ。特に、台本を書く女子たちが多少ふざけたりすれば、身体的な接触を伴う演出が加わる可能性もある。
そんな考えが堂々巡りし、不安は膨れ上がるばかりだった。どうやら、それが顔に出ていたらしい。
「大丈夫?少し顔色が悪いみたいだけど……。」
「いや、大丈夫。大したことじゃないよ」
「……。もしかして、文化祭のこと?」
「……」
「やっぱり。ごめん、カマかけちゃった。」
「えっ?いや、水瀬さんが申し訳なく思う必要はないよ」
楓は即座に否定した。咲良に罪悪感を抱かせる必要など微塵もない。だが、それにしても──いとも簡単に核心を突かれたことに、楓は軽い違和感を覚える。
咲良は、何事もないかのような穏やかな表情を浮かべている。ヒロイン役に積極的に立候補した彼女は、緊張も不安も感じていないようだ。それが不思議で、楓は尋ねてみた。
「水瀬さんは、緊張とか、不安とか感じないの?」
「私?私は……楽しめればそれでいいかなって思ってるから。」
「楽しめれば……?」
「そう。だって、こんな機会、滅多にないでしょ?それに──楓……こほん、霧島くんと一緒に演劇できるなんて、貴重なことだと思うし。」
楓の名前を呼びかけた彼女は、一瞬咳払いした後に言い直してから笑った。だが、その軽やかな笑顔の裏に、どこか言葉にならない感情が潜んでいるような気がする。
「それにね──」
咲良はふと、視線を窓の外に向けた。その瞳は、遠くを見つめるようであり、何か思い出しているようでもあった。
「もしかしたら……こんな演劇ができる機会は、これが最後なのかもしれないし」
その一言に、楓の胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚が走った。
「最後って……どういうこと?」
「……。まぁ、一期一会ってことだよ。今を大切に生きたいから」
楓の問いかけに対して、咲良はそれ以上は何も言わなかった。
窓から差し込む夕陽が、咲良の横顔を赤く染めている。その表情は穏やかで、けれどどこか儚げだった。楓はその様子に、何かを掴みかけたような、しかし指の隙間からするりと逃げてしまうような感覚に囚われた。
───その後、放課後の教室の中では、二人とも一言も口を開かなかった。
楓はただ、窓の外に広がる夕焼けを見つめていた。
「一期一会」という言葉は、とても深い意味のある言葉だと認識している。座右の銘に掲げる人だっているし、今のこの瞬間を大切にすることは、人生への教訓とも言える格言のようでもある。───だが、咲良が発した瞬間、その言葉には妙な儚さが宿っているように感じた。まるで、今の瞬間が終わりを迎えることを前提にしているかのような、不安を誘う感覚に包まれていた。
───まさか、咲良は何かを暗示しているのか?
楓の胸の奥で、その問いが膨らんでいく。だが、言葉にする勇気は湧かず、ただ黙って目の前の空間に目を凝らしていた。
「霧島くんも、今を大切に生きることは、とても重要なことだよ」
突然、咲良がその口を開いた。
だが、その言葉にはどこか温かみがあり、それと同時に、楓に対して、今をもっと大切に生きないといづれ後悔すると、暗示させられたような気がした。楓は顔を上げ、咲良を見る。彼女は静かに微笑んでいるが、その瞳はどこか遠くを見つめていた。
「水瀬…さん」
楓は、咲良の名前を呟く。聞きたいことが山々だと言うのに、言葉に出来なかった。
「ふふ、そろそろ帰ろっかな。霧島くんはどうする予定?」
咲良は軽く笑いながら、立ち上がった。彼女の仕草はいつも通りの明るさを見せているけれど、その背中を見送るのは、なぜかとても切なく感じる。
楓は少しだけ間を置いて答える。
「俺は……少し本を読んでから帰ろうかな」
咲良は楓の言葉を聞くと、にっこりと笑い、自分のリュックを手にして歩き出す。そして、教室のドアの前で一度立ち止まり、振り返った。
「じゃあね、霧島くん。また明日。文化祭の練習、一緒に頑張ろうね」
その言葉が、楓の胸に重くのしかかる。教室のドアが静かに閉まる音が、まるで何かを区切るように響き渡り、やがて教室には深い静寂だけが残った。
咲良の言葉が繰り返し頭の中を巡る。「最後かもしれない」という言葉の重みが、じわじわと彼を侵食していく。
───「これが最後」と言われると、どうしてこんなに胸がざわつくんだろう?
ふと息苦しさを覚え、楓は思わず立ち上がった。窓の外には、オレンジ色に染まった空が広がっている。沈みゆく夕陽が、街並みを赤く染め上げていた。
自分でも分からない焦燥感に駆られ、教室の中を歩き回る。だが、どれだけ歩いても、この違和感の正体には辿り着けない。
気づいた頃には外はかなり暗くなっていた。教室を出ようと準備を始めたその時、脳裏に浮かぶのは、またもや咲良の微笑み。彼女が教室を後にする際に見せたあの笑顔には、どうしても捉えきれない何かが隠されているように思えてならなかった。
───「文化祭の練習、一緒に頑張ろうね」
何気ないその言葉の中に、言外の意味が含まれているような気がして、楓は胸の中に得体の知れない不安を抱える。
「おや、まだ残ってたの?霧島君」
突然、後ろから聞こえた声に楓ははっとする。振り返ると、巡回中の先生が立っていた。
「あっ、すみません。すぐ帰ります」
「暗くなる前に気をつけて帰りなさい」
「はい、ありがとうございます」
先生が去った後、楓は自分が教室に長居しすぎたことに気づく。カバンを持ち、ようやく校舎を出ると湿った空気が身体にまとわりつく。蒸し暑さの中に息苦しさがさらに増し、頭痛がした。
楓はカバンの中を探り、常備している頭痛薬を取り出すと、水なしで飲み込んだ。そして、街灯に照らされた道を歩き出す。
───家に着く頃には、楓はすっかり疲れ果てていた。
咲良の何気ない言葉が、ここまで自分の心を掻き乱すとは思わなかった。あの「最後かもしれない」という言葉が、ただの冗談で済むものではないように感じてならない。それがどこから来る不安なのか、楓はまだ分からなかったが、胸の中でその重みだけが増していくのを感じていた。
ふと、楓はスマホを手に取り、チャットリンクを開いた。
咲良とのチャット履歴は、中間テストの時に勉強会に誘われた時のもので止まっており、それ以上の進捗はない。
咲良が何かを隠しているのは明白だった。
───水瀬さん、今空いてる?少し聞きたいことがある……と、楓は少しだけ勇気を出して文字を打ち込んだ。そして、送信ボタンを押す。
返事が来ないだろうと予想していたが、その予想はすぐに覆された。
『空いてるよ、どうしたの?』
文字だけのやり取りでも、咲良の温かさが伝わってくるようだった。気づけば、楓の胸にほんの少しだけ安心感が広がった。
聞きたいことは山ほどあった。だが、いきなり直球で聞くのは失礼だし、場違いだと思われてしまう。
そのため、慎重に言葉を選んで文字を打つ。
「水瀬さんって、最近夢って見る?」
既読がつくが、しばらく返事は来ない。おそらく、向こうも何か考えているのだろう。楓はその間に、少しだけ息を呑んだ。
夢の中の少女との、明らかに酷似した容姿。
過去にどこかで会ったことがあるか、という質問。
初めての土地なのに、躊躇いなく振る舞う様子。
「最後かもしれない」と言った時の、あの表情───
楓の中に疑問が増え続けていった。だが、それを直接尋ねることができず、ただもどかしさだけが募っていく。
数分後、ようやく咲良から返事が届いた。
『最近は夢は見てないかな。ほんとうは私も夢を見たいんだけど、最近はずっと見れないんだよね』
───またしても、妙に意味深な返答だった。
ただの雑談のようにも見えるが、咲良の言葉にはどこか引っかかるものがある。
本当に「夢を見たい」のは単なる願望なのか。
それとも、「夢を見れない」という状況に何か特別な理由があるのか。
その一言の中に、意図的なのか無意識なのか、二つの意味を含んでいるようにも思えた。楓にはそれを深読みしすぎなのか、的を射ているのか判断できない。ただ、一つ確かなのは、胸のざわつきだけは消えないということだった。
「最近、僕はよく夢を見てる。まぁ、毎日じゃないけど」
ためらいながらも楓は返信を打つ。
『そうなの?どんな夢?』
咲良からの返事はすぐだった。
楓は一瞬、夢の内容を話そうとした。
あの少女の夢──夕陽の中での約束、そして何度も繰り返されるあの面影。
だが、文字にしようとする手が不思議と止まった。言葉を打つどころか、その思考そのものをどこか拒むような感覚があった。自分の意志のようで、そうではない、何か見えない力が働いているような。
「それは、あんまり覚えてないというか……」
言葉を濁すしかなかった。
『やっぱり、夢って起きたら忘れちゃうよね』
咲良の返信は柔らかく、何も気にしていないようだった。
けれど、その一言すら、楓には単純な共感の言葉として受け止められなかった。
まるで、咲良はすべてを見透かしながらも、あえて何も追求せず流しているように思えたのだ。楓は、咲良の返信をじっと見つめながら、もやもやとした感情が胸に広がっていくのを感じた。
「水瀬さん……何か心配事とか、ないの?」
思い切って送信ボタンを押す。打った直後、自分でもなぜそんなことを聞いたのか分からなくなった。けれど、今の咲良には何か隠しているような雰囲気がある──その気配がどうしても気になって仕方がなかったのだ。
既読がついたのは、送信から数分後だった。
『どうして?そんな風に見える?』
その返事に楓は一瞬、詰まる。まるでこちらの質問に答えるのではなく、逆に探りを入れてくるような、その曖昧な言葉がさらに疑念を深めた。
「いや、なんとなく……。今日は昨日より少し元気がないように見えたから」
再び文字を送る。
今度の返事はなかなか返ってこなかった。画面を見つめる楓の手の中でスマホが重く感じられるほど、咲良の沈黙が長く思えた。
───数分後、ようやく通知音が響く。
『元気がないように見えたなら、それはごめんね。大丈夫だよ、心配しないで』
その返事を見た瞬間、楓の胸に何か冷たいものが広がる。言葉自体は気遣いに満ちているが、そこには何の実感もなく、ただ表面を取り繕うだけの薄っぺらさを感じた。
「本当に大丈夫? なんか、水瀬さん、無理してるような気がして」
一歩踏み込むような言葉を、思わず送ってしまう。
返事はなかなか返って来ない。声ではなく、文字でのやり取りであるため、向こうの感情の起伏を読むことは出来ないが、それでも感じる。咲良は、この話題をそらそうとしていると。
『……大丈夫。本当に。普段通りのつもりだったけど、そんなに元気ないように見えるこかな? でもね、霧島くんがそう思ってくれるのは、嬉しいよ』
その言葉に楓は違和感を拭えない。
結局、咲良は何も本音を明かさない。ただ曖昧な言葉でかわしながら、何かを必死に隠そうとしている。
その姿が、まるで手の中にある砂がすり抜けていくようで、楓はどうしても諦めきれない気持ちに駆られていた。
しかし、それ以上問い詰めることが、なぜか許されない気がして、結局こう打つしかなかった。
「分かった。けど、無理はしないでね。何かあったら、僕に話してほしい」
既読はすぐについたが、咲良からの返信はもうなかった。静かに部屋に広がる沈黙だけが、楓の不安をさらに強めていくのだった。
風呂を済ませると、楓は自室のベッドに横たわった。
今日は色んなことがあった。文化祭での演劇で主人公役をやることが決まったり、咲良の意味深な発言があったり。最近、咲良との関係は少しずつ良くなり、普段からよく話すような仲になった。それでも、今日の出来事は、これまでの咲良との関わりの中で一番謎めいていて、違和感がどんどん増しているように感じた。
「水瀬さんは、何か言おうとしてくれてるのかな…?電話で話を聞くべきだったのか───いや、いきなり電話なんてしたら変に思われそうだし、トークでのやり取りは正解かな…」
手元のスマホの画面には、夜の11時を指していた。疲れが全身に染みつく中で、気を紛らわせるためには寝るのが一番だと思った。
「───何か考えても埒が明かない。今日はもう寝よう…」
楓はそのまま部屋の電気を消し、スマホを充電したのを確認すると、目を閉じた。
様々な違和感が頭の中でぐるぐると渦巻いていたが、睡魔は容赦なく押し寄せ、やがて意識は暗闇へと沈んでいった。
───また夢だ。
気づいた瞬間、楓は夢の中の少年の視点から景色を眺めている。寝る前の記憶を思い出し、自分の意思で動こうとするが、相変わらず少年の体は言うことを聞かない。
今回も、舞台は教室だった。最近は同じ夢ばかり見ている。どこか懐かしさを感じる空間だ。
目の前には咲良に似た少女が立っていた。彼女の表情は険しい。今まで通りに行くなら、恐らく彼女は少年に対してなにか怒るはずだ。そして、彼女は少年に向かって声を荒げた。
「なんで忘れちゃうの! あんなに───!」
その言葉は今までの夢とは違い、輪郭がはっきりしている。だが、ところどころ言葉がぼやける瞬間があり、楓はその意味を完全には捉えられない。それでも、「なんで忘れた」という怒りと悲しみの混じった感情は明確だった。楓の胸にざわつきが走る。だが、これはただの夢だ──そう思い込もうとした。
(いや、そんなことはない……)
声にならない声で、楓は否定を呟いた。
しかし、夢は容赦なく続く。少女は言葉を続ける。
「私たち、あの時約束したじゃない! 夢の花を咲かせようって……!」
夢の花──その言葉が楓の脳裏に突き刺さる。それは断片的に覚えている、どこかで聞いたはずのフレーズだった。
少年の視点の自分が何かを言い返しているのが分かる。
「でも……無理だよ。僕には大切な───いるし、みんな───だから……!」
(そんなはずがない───。この声は自分……? なんで……そんな訳が無い───。)
「いや……違う……違うんだ……!」
少女はそんな少年の言葉を遮るように、さらに声を荒げた。
「もういいよ! ──くんなんか、もう知らない!」
少女は怒りと失望に満ちた顔でそう叫ぶと、くるりと背を向けた。その背中は妙に現実感があり、見る者の心をざらつかせる。彼女は教室の出口に向かって、一歩ずつ歩き出していった。
楓は叫びたい衝動に駆られた。だが、少年の体はまるで金縛りにあったように動かず、ただその背中を見送るしかなかった。
───次の瞬間、少年は夕焼けが差し込む廊下に立っていた。場面の移り変わりとともに、不快な違和感が楓を包み込む。
少年の視点の自分が、意を決したように歩み寄る。そして、低い声でこう言った。
「……──、ごめん。僕が悪かった」
その声は震えていて、後悔と謝意が滲み出ている。その言葉が耳に届いた瞬間、楓は目を見開いた。
(なんでだよ……違うってば……。これが僕……? いや、そんなはずは───!)
しかし、その場面は否定する余地を与えないほど鮮明だった。
少女はしばらく沈黙した後、小さく肩を震わせる。そして、窓の外を見たまま、微かに呟いた。
「……どうして、忘れちゃったんだろうね……。ふふ、しょうがないなぁ」
その声は、怒りでも悲しみでもなく、ただ寂しさを含んでいた。
ゆっくりと振り返る少女の表情には、どこか諦めと、ほんの少しの救いのようなものが入り混じっていた。彼女は微笑みを浮かべながらも、その目には涙が滲んでいる。
楓の胸に鋭い痛みが走る。
思考がそこで途切れた。視界が暗転し、夢の世界が徐々に崩れていく。その中……誰かの声が聞こえる。
───現実──、逃げて──駄目だよ。
ぼんやりとした声だったが、その切迫感だけは心に残った。
楓ははっとして目を覚ました。胸は高鳴り、額には汗が滲んでいる。最近こんな感情になって目覚めることがなかったせいか、不意を突かれたような気持ちだった。
「……違う……僕じゃない……」
そう呟いても、その夢の鮮明さが否定を許してはくれなかった。
身に覚えの無い記憶だ。普通、経験していないことから夢は作られないはずだ。それなのに、こんなことが起きる理由が分からない。自分では無い───そう否定する思いが頭を支配していく。
だが、その心の奥底で、消えない痛みと切なさが残っているのを感じた。そして……夢の最後に投げかけられたあの言葉。
───「忠告」された。
内容は不明瞭で、はっきりとは思い出せない。ただ、それが何か重要な意味を持つものだという確信だけが心にこびりついていた。誰かが何かを伝えようとしている、そんな感覚がする。
けれど、それが咲良によるものだと考える自分を、楓はどこかで必死に否定しようとしていた。もしそうだとしたら───考えるだけで、何かが決定的に変わってしまう気がしたからだ。
(気のせいだ……あんな夢に意味なんか……。)
自分を安心させるようにそう思い込もうとする。しかし、胸のざわつきは一向に収まらなかった。
**
気づけば、文化祭当日が間近に迫っていた。
結局、脚本担当の女子が余計な演出を提案することはなく、演者の身体に触れるような場面は幸い回避された。ただ、一つだけ、ずっと心に引っかかることがあった。
「ねぇ、霧島くん」
「ん? どうしたの、水瀬さん」
「この脚本、ヒロイン役が死ぬよね。演出、難しくない? あと、霧島くんの演技力がだいぶ試されると思うんだけど」
「……そ、そう? まぁ、恋愛モノってそういう展開多い気がするし」
───そう、ヒロインが命を落とす脚本なのだ。
練習を重ねる日々の中で、楓は咲良と何度もセリフを合わせた。咲良は感情の表現や言葉の抑揚などを熱心に指導してくれ、その積極性には驚かされるばかりだった。
ストーリーは、主人公が暮らす中命日が訪れる時がきて、庇う形でヒロインが命を落とすクライマックスで感動を呼び起こし、その後、主人公が切り替えて生きていく───そんなよくある無難(?)な恋愛ものだ。
それでも、咲良が何かを思わせるように一生懸命だったことが、楓には引っかかって仕方がなかった。
教室展示の準備で、周りの生徒たちは忙しく動き回っている。すると、高橋が声をかけてきた。
「おーい、楓! ちょっとこっち手伝ってくれんか?」
「分かった、ちょっとセリフ合わせだけさせて! それ終わったら行く」
「了解! 悪いけど、人手が欲しいからなるべく早く頼むな!」
「おう」
高橋は、教室展示に使う仕切りの壁になる板を運んでいた。運動部の連中が1人で持ち運んでいるのも見かけたが、かなり重そうだ。さっき水瀬さんにセリフ合わせをしようと言われたので、高橋の負担が大きくなる前にサッと終わらせようと決めた。
「セリフ合わせする?」
「うん、頑張るよ。水瀬さんもいい?」
「うん! あっ、でも、声大きくしちゃうとアレだから、暗記のために、読むだけにしよっか」
「分かった。最後のシーンの長ゼリフのところを練習したいから、その少し前からお願い」
楓は、思わずうなずきながら、セリフのやりとりを始めた。二人で暗唱しながら、演技を感じ取ろうとする。その途中で、楓はふと咲良の真剣な表情を思い出した。何度もセリフを合わせる中で、彼女の積極的な指導の裏に、何かが隠れている気がしてならなかった。
「じゃあ、ここからだね」
「うん、しっかり合わせよう」
そして、二人はシーンの終わりまで、細かい部分を合わせながら繰り返し練習を重ねていった。
セリフ合わせが終わると、咲良も他の生徒に呼ばれて教室を出ていった。楓も後を追うように廊下に出ると、文化祭準備で散らかった廊下に生徒たちが忙しく動き回っているのが目に入った。小道具や装飾品を手に、各自の役割をこなしているようだ。
「おーい、楓ー!こっちだ!」
教室を出て左手奥の廊下から、高橋が声をかけてきた。
「分かった、すぐ行く」
楓はその声の方に向かうと、そこには教室展示で使う仕切り用の白いタイルが山積みになっていた。どうやら、それを運ぶのが仕事らしい。
「良かった、楓が来てくれればだいぶ助かるよ」
「これを運ぶのか?」
「そうそう。あと10枚以上残ってる。運動部の連中が頑張ってるけど、さすがに限界が見えてきてさ」
楓と高橋は一枚の鉄製タイルを持ち上げた。白く塗装されたそれは思った以上に重く、腰に負担がかかる。楓は一瞬姿勢を崩しそうになったが、何とか持ち直した。
「……これ、めっちゃ重いな」
「だろ?なのにあっちの野球部の奴、一人で持っていくんだぜ」
「どんな物食べたらそんな力持ちになるんだよ……」
「よし、2組の教室まで運ぶぞ!」
腕にかかる負荷を感じながら、二人は廊下を歩く。周囲では、生徒たちの声が飛び交っていた。
「もう少し右!」「違う、そこじゃない!」
準備に熱中する女子たちの指示や笑い声が、文化祭前の高揚感を醸し出していた。
所定の位置まで運び終えると、楓は額の汗を拭いながら息を吐いた。
「ふぅ……これ、しんどいな」
「俺も腕が壊れそうだよ。それに腰壊しそう」
「まだあるのか?」
「分からん。もう一回見に行くか!」
疲れた体を引きずるように歩き出すと、ふと高橋が話しかけてきた。
「なぁ楓、最近水瀬とずっと一緒にいるよな?」
「そ、そうか?」
「クラス中で噂になってるぞ?お前、水瀬といる時だけ妙に楽しそうだってさ」
「……別に、セリフ合わせがあるから普通に話してるだけだろ」
「へぇ~?」
高橋が意味ありげにニヤニヤしながら楓を見る。その視線に耐えきれず、楓は少しばかりぶっきらぼうに返した。すると、後ろから咲良の声が聞こえてきた。
「霧島くん、何してるの?」
不意を突かれた楓は、ドキリとしつつ振り返る。
「タイル運んでたんだ。もうちょっとで片付くよ」
「結構重そうだったけど、大丈夫?手伝おうか?」
一瞬、お願いしようか迷ったが、高橋にからかわれる未来が簡単に予想できたので、楓は軽く首を横に振った。
「いや、何とかなるよ。でも、ありがとう」
咲良は優しく微笑みながら頷いた。
「そう?無理しないでね。運動不足だと何があるか分かんないもんね」
そう言うと咲良は、小走りで教室の方へ戻って行った。そのやり取りを見ていた高橋が、大袈裟に声を上げて肩を組んできた。これだから陽キャは苦手だ。
「楓さん!これって、いわゆる“脈アリ”ってやつじゃないんすか?」
「……なんだよ、その親戚のおばちゃんみたいな喋り方は。声がデカいぞ」
「いやいや、水瀬ってめっちゃ優しいじゃん!これはもう、お前が好きってことだな!」
「次同じこと言ったら、手加減無しでビンタするぞ」
「おぉ〜おっかねぇ~!やめときま〜す!」
高橋がふざけながら笑う中、高橋の言っていることが冗談ではなかったら、と一瞬想像してしまった。
それから1時間、ひと通りの装飾が終わると、クラス全員が教室に集まり、自然と雑談が始まった。運動部の男子たちや、一軍女子の集団、教室の端で静かに様子を見守る生徒たち──教室全体が喧騒に包まれている。
放課のチャイムは既に鳴り、帰る生徒は好きなタイミングで帰れる時間帯だが、ほとんどの生徒は文化祭の細かい打ち合わせのため、まだ残っていた。咲良や楓、高橋も例外ではない。
「この後どうする?」
「ステージ発表の練習した方が良くない?」
「いや、今は吹部が体育館使ってるから無理じゃない?」
そんな声が飛び交う中、先生がいないことをいいことに、多くの生徒がスマホを手にしている。そのとき、女子たちのやり取りが一段落ついたらしく、咲良が楓の方に駆け寄ってきた。
「霧島くんは、まだ残るの?」
「水瀬さん?ああ、まあ……まだ打ち合わせ続きそうだし、とりあえず聞くだけ聞こうかなって」
「ふふ、やっぱりそうだよね。この感じ、もしかしてステージ練習あるのかな?」
「ありそうかも。でも、放課後ずっとセリフ合わせしてきたし、少しは自信ついたかな」
「おー、霧島くん、変わったね~」
咲良がからかうような笑顔を見せるが、不快ではない。むしろ、セリフ合わせや表現の指導を重ねてきた日々を思い返し、楓は少し誇らしく感じていた。
例年の文化祭プログラムでは、学年ごとの発表、軽音部や吹奏楽部の演奏、各部活による出し物がステージを彩る。今年も同じような進行が予定されている。
教室の外からは、微かに籠もった音でドラムや金管楽器の響きが聞こえる。先ほど女子たちが言っていた通り、吹部が練習中で体育館は占領されているらしい。
時間が経つにつれて、少しずつ、生徒数は減っていく。すると、咲良が優しい声で話しかける。
「いよいよ明日だね」
「自信が無いことはないけど、少し緊張するな」
「それは私も同じだよ。けど、この機会はすごく貴重なんだから、全力で楽しまないとね」
「そうだね」
楓は軽く頷きながらも、心の奥では明日の本番を思い浮かべ、微かな不安を覚えていた。そんな彼の表情を見て、咲良は微笑みながら少し前に踏み出す。
「ねえ、霧島くん。緊張しない方法、教えてあげようか?」
「そんなのあるの?」
「うん。でも、ちょっと変わったやり方かも」
咲良は立ち止まり、真っ直ぐ楓を見つめる。その瞳に宿る静かな光に、一瞬だけ楓は息を呑んだ。
「演劇をすると思わないで。むしろ、脚本に書かれている出来事が架空じゃなくて、今の現実だって思ってみて。私はただこの脚本の中で死ぬ、"悲劇のヒロイン役"じゃなくて、本当に君の前にいる“私”なんだって」
その言葉に、楓は困惑する。
「現実って……そんな簡単に切り替えられるもんかな?」
「ふふ、ちょっと難しいかな。でも大丈夫。霧島くんならできるよ。要するに、素のリアクションをするのが1番感情を表に出せるんだよ」
咲良はどこか意味深に微笑むと、続ける。
「それに、私にとっては……これはただの準備に過ぎない───」
「えっ?」
楓がそう聞き返すと、「ううん、なんでもない!」と咲良は慌てて笑いながら手を振る。
「とにかく、そうやって本気で向き合えば、緊張なんて消えちゃうよ。試してみてね」
そう言うと咲良は、「別件あるからお先に帰るね!ごめんね、明日は頑張ろっ!」と言い教室から出ていった。
教室から咲良が居なくなったあと、楓は、彼女がくれたアドバイスを頭のなかで復唱していた。
『演劇をしていると思わないようにする』
『脚本出起こる出来事が全て現実だったとしたら、と想定してリアクションをする』
───確かにいいアドバイスだ。
劇をする上で、脚本通りにセリフを読むだけでは、感情の起伏の表現がしにくい。そのため、セリフの大まかな部分だけを理解して、後はアドリブで演じる。
このアドバイスは、セリフ合わせの時に何度も彼女に言われた事だ。だが……咲良の言い方が、少し言外の意味を含んでいる気がしてならなかった。緊張をほぐすためのアドバイスのはずが、より心臓が脈を打つスピードが早くなっていた。
───私はただこの脚本の中で死ぬ、悲劇のヒロイン役ではなく、本当に君の前にいる私だって。
まさかな───と、最悪の考察が思いついてしまい、悪寒が走った。しかし、その考察はあまりにも現実離れしていたのもあり直ぐにその考えは飲み込んだ。
───結局、その違和感の正体に迫ることはできないまま、もやもやとした感覚を抱えながらも、文化祭当日が容赦なく訪れた。
**
文化祭当日。
楓はいつもより少し早く学校に着き、教室へと向かった。だが、普段の光景とは違い、教室は壁一面に貼られたポスターや飾りつけで、まるで別世界のように変わり果てている。自分のリュックを置くスペースさえ見当たらず、楓は昨日の帰り際に言われた「集合場所が会議室」という言葉を思い出した。
「そうだった、会議室か……」
呟いて教室を出ようとしたその時、廊下から見覚えのある声が響く。
「あっ!霧島くん!おはよう!」
振り向くと、朝日を浴びて明るく微笑む咲良が立っていた。彼女も早く登校してきたらしい。
「水瀬さん、おはよう」
「おはよう!ねえ、今日いつもより早いね。文化祭、そんなに楽しみだったんでしょ?」
「いや、そんなことないよ。……まあでも、少しは楽しみかな」
「やっぱりね!ふふ、霧島くんのそういうところ、なんかかわいいね」
無邪気な笑顔を浮かべながらそう言う咲良は、今日に限ってどこか子供っぽく見えた。その天真爛漫な様子につられるように、楓も自然と微笑んでしまう。
「あ、そうだ。会議室に集合だったよね?一緒に行こうよ!」
「うん、そうしよう。準備もあるし、最後にセリフ合わせもしないと」
「そうそう!大丈夫だとは思うけど、練習しておいた方が安心だよね」
咲良は弾むような足取りで、楓と並んで廊下を歩き出した。ふと隣の咲良を見ると、今日一日の全てを楽しもうという期待が溢れているようだった。
楓もまた、目の前に広がる文化祭の喧騒を思い描きながら、咲良の無邪気な声に応える。高揚感と少しの不安が入り混じる中、二人の足音が特別教室棟へと続いていった。
この高校の文化祭は、毎年「体育館ステージ発表」と「教室展示」の二部門が両立する形で運営される。各クラスは展示運営を分担しながら、ステージ発表の出演者と教室担当の役割を交代制でこなす仕組みだ。
例えば、楓たち2年生の場合、1組は軽食やスイーツを販売する出し物、2組はお化け屋敷のような体験型展示を担当している。一方、ステージ発表のメンバーは、発表時間が近づくと体育館へ向かい、その間は残った生徒たちが教室の展示を運営する。
現在時刻は8時半。文化祭の開始は9時だ。
楓たちのクラスのステージ発表は10時半頃に予定されている。そため最初の30分間は、楓は教室展示で調理部門の担当に割り振られている。
調理役に立候補した生徒の8割が女子だったこともあり、男子である楓は多少の居心地の悪さを感じていたが、元々明るいメンバーが多いおかげで、その場の雰囲気に流されてなんとかなりそうだ。
朝のショートホームルームが会議室で終わると、楓たちは慌ただしく教室棟へと向かった。教室で、仕込んでいた材料のチェックや最終準備を行うためだ。
「霧島くん、包丁扱える?」
調理場に着くなり、同じ班の女子が声をかけてきた。
「大丈夫、手伝えることがあればなんでも聞いて」
「ほんと?わかった!こっちも手伝うから無理しないでね!」
楓が包丁を握ると、自然と周りに女子が集まり始めた。指導してくれるのかと思いきや、雑談を始める気配が濃厚だ。仕込みの野菜を、打ち合わせ通りに包丁で切りながら、周りの状況をよく見ていた。また、お願いされていたクレープの作り方についても、もう一度見直した。
「霧島くんって器用なんだねー!普段料理とかするの?」
「いや、ほとんどしないけど……」
質問攻めに困惑しつつも、楓は手を動かし続けた。実際料理は好きで、親の手伝いはする。だが、謙遜しておかないと任せっきりにさせられそうなので返事には気を使った。思った以上にみんなが気さくで、徐々にリラックスしてきたところで、ふとしたきっかけで話題が咲良に移った。
「そういえば咲良ちゃんって、別の班だっけ?」
「うん、咲良ちゃんは接客だったよね?霧島くんとペアになればよかったのに!」
「はぁ……そしたら絶対カップルみたいって冷やかされるんだろ」
冗談交じりの会話に、楓は半ば苦笑いで答えたが、心の奥では少し意識している自分がいることに気づく。
「冷やかさないよー!ただただうやらましいなぁ〜って目で見てるだけだし!」
「それもある種の冷やかしだぞ?」
「それはそうかも!ってか、実際咲良ちゃんのこと好きなの?」
「はぁ……。僕には黙秘権があります」
「えーなんでよー。───いや待って!?そう言うってことはもしかして好きってこと!?きゃあー!」
「勘違いも、ここまで酷いと天晴れだよ」
相変わらず、陽キャの女子とは本当に大変だ。どうにかして話を切っても、数秒もせずに質問攻めの繰り返し。そのコミュ力と語彙力の高さには感心するが、正直言うと面倒ではある。
しかし、楓と咲良との関係が、教室でざわめきを生み出しているのは事実ではあるのだ。実際問題、ステージ発表の演劇の役割分担の際に、咲良がヒロイン役に積極的に立候補した時から、色んな人にいじられたし、数名の男子からは嫉妬の槍が常に向けられるほどだった。
───水瀬さんが、楓に気があるのでは無いのか。
───水瀬さんは、楓にだけ優しいけどほかの男子には塩対応。
───水瀬さんがヒロイン役で、その相手が楓なのはずるい。
散々と言われ続けて、正直気を使うのはもう御免だ。
しかし、そんな日々に対しても、咲良は躊躇うことなく僕に話しかけてくれていた。それも、周りのことを気にすることも無く。そんな様子が、楓にはある種の違和感として残り続ける。
ずっと思っていた。
───水瀬咲良。あの転校生は、確かに1人の生徒であるはずだ。だけど、クラスの生徒たちが言うことは事実。気がある……と言うより、僕───霧島楓にだけは、何か特別な意味を見いだしているような気もしていた。
それからしばらくして、ついに文化祭が始まった。
生徒たちの足音が廊下を行き交い、次第に校舎内が活気に包まれていく。やがて訪れたお客さんたちの声が混じり始め、雰囲気は一気に賑やかさを増した。小さな子供を連れた家族連れもちらほら見受けられ、早速多くの人がクラスの出し物に足を運び始める。
「いらっしゃいませー!こちらで食べ物やスイーツを販売してます!ぜひ立ち寄ってみてくださいね!」
咲良の明るく元気な声が教室中に響き渡る。その笑顔と弾んだ声は、それだけでお客さんを引き寄せているように見えた。
(さすが、水瀬さん。こういう場に慣れてるって言ってただけあるな……)
楓は感心しながら、目の前調理台に向き直った。料理系の出し物は特に昼頃にピークを迎えるので、今のうちに体力を温存しておくべきだろう。とはいえ、咲良は最初から全力で客引きをしている。
「クレープふたつ、シュガーバターで!」
咲良が明るい声で注文を復唱する。楓はそれに短く返事をする。
「了解。すぐ作る。」
準備していた生地を鉄板に広げ、素早く焼き始める楓。バターの香ばしい匂いが広がり、子供たちの目がキラキラと輝くのが見えた。
「うわぁ、いい匂い!」
「お兄ちゃん、上手だね!」
小さな子供の素直な言葉に、楓は思わず笑みを浮かべる。
次々と訪れるお客さんに対応しながらも、教室内の雰囲気はどこか温かかった。咲良の存在がその中心にあることは間違いない。彼女の笑顔や軽快な接客は、自然と周りを明るくしている。
やがて、時計の針が10時に近づいた頃、咲良が楓のほうへ歩み寄る。
「霧島くん、そろそろステージ発表の準備行こっか。」
「あぁ、そうだね。」
楓はエプロンを外しながら頷く。
「みんなー、あとは任せたよ!頑張ってね!」
咲良がクラスメイトたちに声をかけると、「お任せを!」と明るい返事が返ってくる。どうやら調理班のメンバーは、咲良が抜けても問題なく回していけそうだった。
楓と咲良は教室を後にし、体育館のステージ裏の控え室に向かう。廊下を歩きながら、咲良は笑顔で続けた。
「本番前って、緊張するよね。でも、大丈夫だよ。昨日も言ったでしょ?現実だと思って演じれば平気だから。」
その言葉を聞いた楓の胸に、再び微かな違和感が広がる。だが、咲良の無邪気な表情を見ていると、その理由を追求する気持ちは湧いてこなかった。
こうして、文化祭の熱気が溢れる中、楓と咲良は控室へと足を踏み入れるのだった。
体育館ステージの裏に足を踏み入れると、それぞれの役に合わせて準備された衣装が並んでいた。楓も指示された衣装を手に取り、着替えを済ませる。
ステージ上では軽音楽部のバンドが発表を行っており、聞き覚えのある有名な曲が大音量で体育館中に響いていた。その音に自然と気分が高揚すると同時に、本番が迫っているという緊張感がじわじわと胸を締め付けてくる。
ふと、小声で咲良が話しかけてきた。
「霧島くん、どう?」
振り返った楓の目に飛び込んできたのは、ステージ用の衣装に身を包んだ咲良の姿だった。その装いはあまりにも煌びやかで、息を飲むほどだった。
「……すごく似合ってるよ、水瀬さん。」
率直な感想が口をついて出る。
「えへへ、ありがと!霧島くんもその格好、すごくお似合いだよ!」
「そう?それはどうも。」
軽く肩をすくめながら返す楓に、咲良はふと真剣な表情を見せた。
「もう1回言っとくね。この舞台は、ある種の現実だと思って演じてみて。目の前の私が、本当に脚本通りの存在だって想像して。霧島くんがその瞬間に感じたことを、全部表現するの。」
咲良の言葉には、自信に満ちた静かな力があった。それを受け止めた楓は、自然と頷く。
「……わかった。頑張るよ。」
「大丈夫、感情の表現は練習した通りできてたよ。あとは自信を持つだけ!いいね?」
「うん。」
咲良の言葉を胸に刻みながら、楓はバンド演奏に耳を傾けた。自分の気持ちを落ち着かせるため、目を閉じて深呼吸する。軽快なリズムと観客の拍手が混じり合う音に、少しずつ緊張がほぐれていく。
気づけば演奏はフィナーレを迎え、体育館全体が拍手喝采の渦に包まれていた。
「───次、私たちの番だね。」
咲良の声に楓は深く息を吐き、覚悟を決めた。
**
ステージ発表終了後のこと。
「本当に焦った」
「あはは…ごめんごめん。私の演技が役に入りすぎちゃったみたいだね…」
「怖かったよ、現実だと思えって言われたけど、演技が凄すぎて本当に劇だったこと忘れそうだった」
楓はステージ発表の後、体育館のステージから出て、一旦会議室へ戻っていた。咲良から言われていたアドバイス───この演劇は、架空の物語ではなく、現実に起こっている出来事だと想定して演技する───は、正直難しいものだと思っていた。
今までの練習は、生徒全員へのサプライズの意味も込めて、ステージ発表では少し棒読み気味でやっていた。
それ故に、ステージ発表練習で、本気で演じている咲良を見たことがなかったのが痛恨のミスだった。
2人は、先程の数十分ほど前のことを思い返す。
**
ステージ発表は順調に進み、いよいよクライマックスシーンまで近づいていた。この脚本の中で、最も重要な瞬間───それは、ヒロインが命を落とすシーンだった。
物語のあらすじはこうだ。
未来を見る力を持つヒロインは、主人公との関係を深めていく中で、避けられない主人公の死が近づいていることを知る。しかし、その理由を知らなかった主人公はその事実を受け入れることができず、何も考えずに日々を過ごし続ける。
そして迎えた命日。主人公がその日が「運命の時」だとは気づかずに過ごしていた。そこにヒロインが、主人公がかつて元カノを取り返しのつかないよう裏切ったことをきっかけに、元カノの復讐で主人公が銃殺される運命の日であることを告げられるのだ。しかしヒロインは主人公を守ろうとし、結果的に主人公ではなくヒロインがその命を落としてしまうのだ。
と言っても、何で主人公が元カノのことをとんでもない裏切り方をしたってことをヒロインは知ってるのに好きでいるのかは不明だ。まぁ、気にしすぎは良くないのだし、それは文句を言える立場でもない。
「はぁ……自分の死ぬ日って───いつなんだろうか…」
「ねぇ、楓くん?」
「えっ?咲良?」
楓がその名前を呼ばれる度に、胸の中に不安が込み上げる。今、目の前の咲良は何かを伝えたがっているシーン。
そして、何度も繰り返してきたあのシーンが、目の前で現実のものとなったと考える。
「楓くん、あなたの命日は、今日なんだ」
「えっ……?咲良…?どういうことだよ…?」
咲良の瞳が、少しだけ悲しそうに、でも確信に満ちて楓を見つめる。楓はその視線を避けるように、目を逸らしそうになる。言葉がうまく出てこない。けれど咲良は、続けた。
「私は、ずっと黙っていたんだ。あなたに、命日を告げるのは、その日が来るまであなたを苦しめるから。でも、それは私の間違いだったの」
「咲良……?」
「覚えてるよね。私があなたに、未来が見えるって言ったこと。私は……君に救われようのない、死の未来を見てしまったの」
「───それが、今日だって?」
「そうなの。ただ、私は伝えたいことがあったから、君に命日であることを教えたの」
彼女の言葉、セリフ一つ一つが真剣で、演劇だと思っても、それをかき消すほどだった。
「信じられないよ───なんで……。死に様は、なんだっていうの……。君は未来が見えるんだろ……」
咲良が小さく息をつき、ゆっくりと語りかける。その一言一言が、楓の胸に重く響く。
「死に様は、銃殺。あなたは、ある人に狙われているの。その人に、撃ち殺されることになる」
「銃殺───?なんで…僕は悪いことなんかしてないはずだ……!!」
「いいや、楓くん。それは間違ってるよ」
劇は続く。───次は咲良があのセリフを言うから、と頭の中で考える。
「あなたは前世で、救いようのない悪を働いた。そう、あの人を裏切ったんだから」
演技であるのに、違和感が立ちこめる。裏切り───という言葉。
「でも、私はそれをチャンスだと思っているの」
「ちゃ…チャンス……?」
咲良の瞳には、迷いも不安もない。彼女はこれから起こることを、すべて知っているかのように淡々と語る。その言葉が、楓をさらに困惑させた。
「私はあなたのことが、好きなの。だから───絶対に、死なせたくないの。私が庇うから」
楓は一瞬、言葉を失った。咲良のその告白に、心の中で何かが動いた。だが、すぐに彼女の目を見て、理解しなければならないことがあると気づく。
「……ど…どういうこと…?」
咲良は少しだけ笑みを浮かべ、楓の手を取る。手のひらが温かく、けれどその感触が急に冷たく感じられる。
「ありがとう、楓。私は、これで最期だからね。私の分まで、長く───生きて。」
その言葉に、楓は震えるような感覚にとらわれた。心臓が急激に早鐘を打つ。だが、その瞬間、咲良は楓を力強く押しやり、楓はその勢いで後ろに倒れ込んだ。
「咲良、待って───!」
しかし、咲良はすでに目を閉じている。その目は、決意と愛情に満ちていた。それを感じ取った楓の中で、時が止まる。すべてが、ゆっくりと動き始めた。
体育館内に、───銃声が響き渡った。
「うぅっ!!か……えで…」
「えっ!?おい!咲良……?咲良……!!何して───!」
その瞬間、楓の心臓が突き刺さるような痛みに包まれた。咲良が命を落とすシーン、楓はその視覚が信じられなかった。目の前に倒れる彼女を見て、身体が凍りついたように動けない。
「ご……めん……」
咲良の最後の言葉が、楓の耳に届く。楓は必死にその体を揺さぶり、叫ぶことしかできなかった。
「なんで……そんなのおかしいって……!おい……起きろってばぁぁぁ!!咲良ぁあ!!」
その声が、体育館内にこだまし、彼女の命が消えていく。楓はただ、必死に咲良を抱きしめながら、その手を握りしめていた。
「───」
その時、ステージが暗転し、すべての音が消えた。暗闇の中で、楓は呆然と立ち尽くし、息を荒げていた。
少しして、咲良はゆっくりと起き上がり、ステージ裏に戻りながら微笑んで楓を見つめる。その笑顔に、楓は息を呑んだ。
「大丈夫だよ、霧島くん」
その言葉が、楓を安心させる。しかし、その瞬間、楓は咲良の演技がすべて「演技」であったことに気づき、胸の奥に込み上げてくる感情が抑えきれなくなる。
「ありがとう…咲良」と……心を落ち着かせて演技を再び続けた。
**
「最近のスピーカーの技術ってすごいね……銃声リアルすぎたから……」
「それは……私も同感かも。でも、霧島くんが本気で演じてくれてて、生徒たちも大絶賛だったよ。まぁ、1部の生徒は霧島くんと同じように本気で心配したみたいだけどね」
彼女はそう言うと、少しばかし自分の演技が凄かっただろと自慢するかのように微笑んだ。これは流石に、リアルすぎて怖いほどだった。演技であったことは一安心だ。
「とにかく、休憩しすぎてると教室展示の方が人手足りなくなっちゃうし、一旦戻ろ!あと少しやりきれば、あとは楽しむだけだし!」
「うん、わかった。とにかく、ステージ発表は成功ってことでいいかな?」
「うん!すごくよかったよ。大成功だったと思うよ!」
「それならよかった。あとの時間も頑張ろっか」
「よし!そうこなくっちゃ!」
ふたりで会話を交わし、教室展示の方へ、気分を切り替える。そのあとの作業も、クラス全員がやる気を持って取り組んでいたこともあり、思い切り、楽しむことができた。
────文化祭の終了を告げるアナウンスが鳴った。
ステージ発表が終わり、観客たちが次々に体育館を後にしていく中、楓と咲良も片づけを手伝った。さっきまで緊張しきっていた自分が嘘みたいに、楓の肩は妙に軽かった。
咲良も疲れた様子を見せることなく、笑顔を浮かべていた。いや、正しく言うなら恐らく、笑顔を作っていた、だろうか。
「霧島くん、本当にお疲れさま。あの演技、すごく良かったよ」
「いや、水瀬さんの方がすごかった。僕、途中で本気でやばいって思ったから」
そう言いながら楓は頭を掻く。咲良の演技が鮮明に蘇り、その表情や声が胸の中でぐるぐると渦巻いていた。演技とは分かっていても、心が引きずられるような感覚が残っている。
「でも、霧島くんも本気で演技してくれたでしょ?私があれだけリアルに演じたなら、霧島くんくらいのクオリティの演技はとても相応しかった。ありがとうね」
咲良は、どこか柔らかく、安心したような口調で楓に言った。その声に、楓はかすかな違和感を覚えた。
──どこか遠いものを見つめるような、その目。
「……水瀬さん、大丈夫?疲れたなら無理しなくてもいいけど」
「え?あ、うん、大丈夫だよ。むしろすごく気持ちいいくらい!」
そう言って笑う彼女の顔は、疲れを隠そうとしているようにも見えたが、楓はそれ以上追及しなかった。
教室に戻ると、クラスメイトたちが忙しなく動き回っていた。展示の後片づけが進む中、楓と咲良も自然とその輪に加わる。みんなの顔には、疲れよりも充実感が浮かんでいた。
「おーい、霧島!水瀬さん!発表最高だったぞ!」
「演劇部も顔負けだったって噂になってるぞ!」
声をかけてきたのは、いつも陽気なクラスメイトの高橋を初めとする男子軍だった。そして……
「楓さん、咲良さん!もし良ければ───演劇部に入部してください!!お願いします!!」
と、土下座までしながらお願いしてくる演劇部の生徒まで。まぁ、僕も水瀬さんも断ったのだが。
「ありがとな。でも、こっちはまだ展示片づけが残ってるし、さっさと終わらせないとだね」
楓がそう返すと、高橋は「だな!」と軽く笑い、手伝いに加わった。
しばらくして、教室の片づけも終わり、文化祭の閉会アナウンスが流れた。窓の外はすっかり夕焼けが広がり、学校全体が達成感に包まれていた。
帰り道、楓と咲良は校門を出て並んで歩いていた。二人とも無言だったが、それは気まずさではなく、どこか静かな余韻を味わっているような空気だった。
「ねえ、楓くん」
ふいに咲良が口を開いた。
「文化祭、すごく楽しかったね」
その声には、どこか感慨深さがにじんでいた。
「……まあ、悪くなかったな。クラスのみんなも喜んでたし」と、楓は肩をすくめて答えたが、咲良は少しだけ笑って首を振った。
「私、最後にこんな思い出ができてよかった」
「最後って……大げさだな。来年もまたあるだろ?」
「……そうだね、来年もあるかも」
咲良の笑顔が、夕陽に溶けるように薄れていった。その言葉の裏に隠された意味を、楓は知る由もなかった。
**
楓は家に帰ると、荷物を適当に放り出し、布団の上に身を沈めた。
天井を見上げると、今日一日の出来事が断片的に脳裏をよぎる。咲良との劇、教室展示での協力、クラスメイトたちとの交流。久しぶりに、充実した日だったはずなのに──。
それでも、どこか落ち着かない。心のどこかに違和感が張り付いて離れないのだ。
劇が終わった後、咲良の最後の表情が頭を離れなかった。控えめな微笑みはしていたが、どこか曇ったような目をしていた。気のせいだと思いたかったが、どうしても引っかかる。
「やっぱり、何か隠しているのか……」
楓はポツリと呟く。
文化祭が成功した達成感とは裏腹に、咲良の存在に対する違和感は日に日に大きくなっていた。普段の生活では普通に接しているはずなのに、どこか自分の知らない部分を見せないようにしている──そんな気がしてならない。
「……なんでこんなに気になるんだ」
体を横に向け、目を閉じる。だが、思考は止まらない。最近見る夢──あの少年少女が出てくる夢が気になって仕方がなかった。夢の中の少女は、どう見ても咲良に似ている。そして、夢の中で彼女と一緒にいる少年は──自分自身だったのではないか。
夢の中での光景はぼんやりとしていて、断片的だ。けれど、不思議なほど心に引っかかるものがある。
「夢と咲良……関係があるのか?」
楓は考えを巡らせながらスマホを手に取った。
このままでは落ち着かない。直接聞くしかないと思い、チャットリンクを開く。
「ごめん、今話せる?」
送信ボタンを押し、画面を見つめた。時間が過ぎるのを待つ。
一分、二分、十分──それでも咲良からの返事は返ってこない。
「……忙しいのかな」
自分に言い聞かせるように呟いてみるが、どうしても不安が拭えない。帰り際の咲良の表情が、頭の中で繰り返される。文化祭の熱気の中で見た、遠い場所を見つめるような目。あれは、一体何を思っていたのだろうか。
そのまま時間だけが過ぎていく。時計を確認すると、既に一時間が経過していた。焦燥感がじわりと胸を締めつける。
「……送らなくても良かったかな」
楓はため息をつきながら、チャットアプリの送信取り消しボタンを押した。その瞬間、胸の奥に重たい感覚が広がる。
「咲良……本当に大丈夫なのか?」
返事が来ない理由をいくつも考えた。疲れて寝ているのか、単にスマホを見ていないのか。それとも、何かトラブルがあったのか──。
妙な不安感が胸を覆う。考えれば考えるほど、悪い方向へと思考が向かっていく。
「大丈夫だよな…?明日も水瀬さん、学校に来るよな……?」
自分に言い聞かせるように呟いたが、その言葉には根拠がない。
布団の中で身を縮めながら、楓はどうにもならない胸のざわつきと闘い続けた。
そして翌日──水瀬咲良が学校に来ることはなかった。