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【第一話】夢の花

 僕───霧島 楓(きりしま かえで)は夢を見ていた。


 それは、いつも同じ夢。どこか懐かしく、だけど遠い、ぼんやりと霞んだ世界。そこには、まだ幼い少年と少女が立っていて、ふたりは言葉を交わしている。


「いつか一緒に、夢の花を咲かせようね」

 少女がそう言うと、少年は静かにうなずき、彼女の手を握り返す。約束を交わすように、その手のひらに小さな温もりが伝わるのが分かる──でも、その感覚は僕には届かない。ただ、目の前で繰り広げられるその光景を、遠くから眺めることしかできないのだ。


 言葉も、表情も、まるで水面に映る影のように不確かで、夢が終わるたびにその記憶は霧のように薄れていく。

 ただひとつ、少女の言葉がずっと胸に残る。


「いつか一緒に、夢の花を咲かせよう」

 目が覚めたあとも、その言葉だけが心の奥で囁くように響き続けるのは、最近になってからよく起こっていた。でも、なぜそんな言葉が僕の心に残るのか、自分でも分からない。ただ、そこには何か大切な意味がある気がしてならなかった──。


 そして僕は、その意識が暗闇に飲まれ現実に引き戻されるのを実感した。


**


「───!楓!起きろー。次移動教室だぞ〜?」

 暗闇に沈みかけた意識の中で誰かが声をかけてるのが聞こえた。この声は聞き覚えのある。小学生の時に知り合った、幼なじみの高橋だ。フルネームは高橋凌介(たかはし りょうすけ)と言う。


 意識がはっきりしてきて、楓は目を擦る。

 春風は心地よく窓から差し込む光が優しく感じられる。4月、楓は新学期が始まり高校2年生になったばかりだった。今日は、始業式から数週間が経った、よくある普通の授業日だ。1年の時の授業日程とは相反した2年生の授業日程を把握しきれておらず、次の授業が移動教室では無いと勘違いして昼休みに昼寝していた。

 極論、これはよくある事だったため、重要では無い。

 近頃この学校ではとある噂が広がっている。それは、どうやら、このクラスに転校生が来るかもしれないという話題だった。


「なぁ楓?この隣の空席、結局転校生くるんかな?」

「あぁこれ?こんな中途半端なところに空席置くのも違和感ありすぎるし、いずれ転校生くるんじゃない?」


 転校生。

 この話題は、実は春休み前から噂されていた。どうやら、先生の話を聞いた女子のひとりが噂を流したらしい。この高校では転校生のような新たな仲間でも、たくさんの人が囲んで歓迎するのはお決まりで風習にもなっている。転校生が来ること自体、楓はそこまで重要視していなかったが、今回は少し違和感を覚えていた。

 違和感を感じたのは、転校生が来ると言うならば、春休み終わりの初登校日に来るのが自然だと思うのに、春休みがあけて数週間がたった今ですら、未だに姿を現していないところだった。


「だよなぁ。でも、学校側が全然言ってくれないじゃん。気になるくね?だって、お前の隣だぞ!可愛い子来たら、楓も話しかけてみろよ!な?」

「お前なぁ…」

「なんだよ、別にいいやん。お前が思ってる以上に、女子が隣に来たら案外楽しくなるもんだぜ!」

「お前の場合はな…。僕は別に話しかけられるほどの要素もないだろ」

「んな事ないでしょ。楓は成績もそこそこだし、別に顔立ちもいいと思うけどなぁ」

「はぁ、せめてお前よりは成績がいいとは思うんだけどなぁ。なんだよそこそこって。」

「そこは気にすんなって!バカにしてる訳じゃないし」


 ポイントなのは、その空席が何故か僕の隣の席になっているという点だ。始業式が終わって、出席番号順での席順が嫌だと散々喚いた女子のお願いに担任が負けて、くじ引きで席替えをしたってのに、何故かくじ運が良かったのか隣の席になった。しかも、面白いことに出席番号順の時も、僕の隣の席が空席だったため、2連続で同じ人の隣に席が来るという。正直好きな人がいたとして、連続で隣の席になりました、とかだったら気分は上がるが、誰なのかもわからない、ましてや転校生なのかも不明な空席が2連続で隣に来るとか、わけも分からないところで運がいいのは都合が悪い。


 仮にその転校生が男子だろうが女子だろうが、あまり話しかける予定は無いのに隣に新しい生徒が来るとなると、気まずい。だから、いつもの如く本を読みながら時間を過ごす日々になりそうだった。


 楓の肩を揺らすように、明るげな声で話しかける高橋。

 こいつは何だかんだ青春というものを謳歌している。

 しかし、これだけ楽しそうにしといて付き合ってる人はいないそうだ。でも、こいつは世間で言うところの「陽キャ」だし、仮に転校生が女子生徒だとしても躊躇いなく話しかけるんだろうなぁと思っていた。それに、こういう積極的な奴ほど彼女が出来て、僕みたいな陰キャには彼女は出来ないものだ。


 こいつと話してると、世の中の不公平さを常々感じる。僕だって普通の高校生だ。多少は恋愛みたいなことも楽しみたいってのに、陽キャの男子にどんどん女子がついて行く、陰キャは置いてけぼり、不平等にも程があるだろう。


「次パソコン室だからな。俺先行ってるよ!お前遅刻すんなよー」

「はいはい、すぐ行くから。あっ、トイレ行くから僕の分の教科書と筆箱持っていってくれない?」

「おう、分かったよ。よし!貸1な。貸が3になったらジュース奢ってもらうでな」

「それくらいなら別にいいよ。悪い、先行ってて」


 そう言うと、高橋はそそくさと教室を出ていった。

 楓は窓の外に視線を向けた。春の柔らかな日差しが校庭の芝生に反射し、風が桜の花びらをそっと舞い上げている。あまりにも圧巻される美しい景色だ。春の季節は新しい出会いと別れを繰り返すもので、自然と心が浮き立つものだが、それでも、楓の心には微かな違和感が渦巻いていた。


「転校生かぁ…」

 呟いた言葉は風にかき消されそうだった。胸の中のわずかなざわめきは、ただの好奇心から来るものではない。彼自身もその正体をつかみきれないまま、言いようのない不安と期待が入り混じる。


 誰が隣に来るのか。どんな人なのか。そして、なぜ自分の心がここまで敏感に反応するのか──楓には答えを出すことができなかった。ただ、春の訪れとともにやってくる「何か」を感じていた。

 この感情は、まるで閉じた扉の向こうにある真実を覗き見るようなものだった。


 

「もう授業には慣れてきたと思うので、このまま明日も全員欠席無しで揃うようにしましょう。お話は以上です。では、挨拶して終わりましょう。」

 その後の授業は何故か集中できなかった。

 最後の授業が終われば学校全体でそれぞれの担当の場所で掃除をする。それが終わると、帰りのショートホームで放課になる。特に変わったことも無く、帰りのショートホームもスムーズに進んだ。担任の向井先生の話を締めくくる声が教室に響く。全員が起立し、揃っているとは到底言えない適当な帰りの挨拶を済ませる。まあ、その程度のことで特に問題はない。


「なぁ楓、今日も残るのか?」

 帰りの挨拶が終わると、高橋が早速話しかけてきた。彼はいつも男友達とつるんでいて、その輪に僕を混ぜようとしてくれる。話しかけるのが苦手な僕にとって、それはありがたいけれど───僕の返事は決まっている。


「うん、今日も残るよ。先に帰ってて」

「またかよ?まぁいいけどさ。また本でも読むのか?」

「悪い?家に帰ってもやることないし、読書は趣味のひとつだよ」

「まぁ、そうかもしれんけどな。俺らこれから約束してた女子たちと帰るんだぜ?お前も一緒に来いよ~」

「遠慮しとくよ。僕が行ったところで、相手の子たちも気まずいだけだろ」

「えー、でもそれじゃつまんねぇじゃん。俺たち、もう高校2年なんだぜ?青春を楽しまないと損だろ?しかも、あの鈴宮も一緒だぜ!お前にとってはチャンスだって!」

「誰それ……?っていうか、チャンスって何だよ」

「えぇ!?知らないのか?クラスのアイドル的存在だぞ?ファンクラブまであるんだ」

「悪いけど、知らないね。正直、陽キャな女子には興味ないんだ」

「いや嘘だろ……もったいなくね?仮に俺が鈴宮といい感じになっても、嫉妬しないのか?」

「全くしないね。そもそも、なんで僕にチャンスとか言うんだ?」


 こんなやりとりはいつものことだ。恋愛に興味がない楓と、青春を無理やりでも楽しませようとする高橋。結局、今回も高橋が折れてくれた。

「ちぇー、お前がそこまで言うなら、無理強いはしないけどさ。なんでそんなに斜に構えるんだよ?」

「まだ読んでる本の続きがあるんだ。そんなに心配しなくてもいいよ。楽しんできなよ」

「お…おう?分かったよ。けど、お前もあんまり遅くなんなよ?巡回の先生に見つかったら面倒らしいからな」

「はいはい、気をつけるよ。また明日」

「じゃ、お疲れ〜」


 そう言って、高橋は姿を消した。

 楓は帰宅してもやることがないので、放課後は教室に残り、友達が帰って静かになるまで読書で時間をつぶす。誰とも会話を交わさない日々も、なぜか苦痛に感じたことはなかった。しかし、なぜあんなにも高橋が恋愛を強要してくるのかは謎すぎて、ここまで来るとなにか意味があるのではとも考えてしまう。


「また明日ね!」

「うん!お疲れ様!じゃあね!」

 いつものように長居する女子の2人組が教室を去っていくと、ようやく訪れる1人だけの自由な時間。楓がこの時間を大切にする理由は単純だ。賑やかな教室が嫌いだから。それだけだ。新しい学校生活も何事もなく進んでいるし、特に心配することもない───はずだった。


 だが、心のどこかに引っかかるものがある。


「転校生……誰なんだろう。」

 この考えが頭を離れない。気になるのは、単なる興味本位ではないのは自分でもわかっていた。これだけで授業に集中できなくなるとは。


「まぁ…考えても仕方ないか。とりあえずトイレに行こう。」

 あれから1時間ほど小説に没頭していた。

 独り言を呟き、楓は教室を出た。夕方の学校は、オレンジ色の光が差し込み、廊下に長い影を作っている。空気も少しひんやりしてきた。ふと先を見ると人影が見えた。


「……ん?誰かいる?」

 その姿は女子生徒のものだった。この時間帯にまだ生徒が残っているのは珍しい。普段楓は長い時間居残りして、18時頃に学校を出る。そう考えると、明らかにこんな時間に生徒がいるのも違和感を感じた。楓は少し躊躇ったが、声をかけてみた。


「あ、あの……君、何をして───って、おい!待って!」

 声をかける間もなく、少女は振り向きもせず走り去ってしまった。楓は追いかけることを諦め、無意識に肩をすくめて苦笑する。自分にはどうせ無理だと思う気持ちが胸を過ぎった。


 しかし、彼女の姿に妙な既視感があった。

「誰だろう……どこかで見た気がするけど…。気のせいかな…」

 その場に立ち尽くした楓は、考えることをやめられなかった。見慣れた姿のような気がするが、ぼんやりとしていてはっきりしない。普段、楓は周りの生徒と極力関わりを持たないようにしている。ましてやそこそこな規模で、生徒数は200人弱にも渡る学年なので、名前なんて把握しきれていない状態だ。

 あの生徒は誰だろうと考える。もしかしたら、あの生徒は転校生ではなく、単なる同級生かもしれない。いや、同級生だと言い切れるのか?先輩や後輩の可能性だってあるのに、なぜ知らない顔を見て自然と同級生だと思い込んだのだろう。しかも、なぜ転校生とまで…。


「……おかしい…。どうしたんだよ、楓……気にするなってば」

 胸の中に残るざわめきは消えなかった。何かがおかしい。あの生徒は確かに一人の生徒に過ぎないはずなのに、転校生で同級生だと思い込んでしまう自分がいた。


 苦笑いして自分を無理やり納得させた楓は、教室に戻ろうとしたが、なぜか足が動かず、バッグを片手に学校を出ることにした。初めての出来事なのに、まるで前にも経験したかのように感じる───それが「デジャビュ」という現象だと聞いたことはあるが、まさにそれが今起こっているのだ。気を紛らわせようと、楓はグラウンドへ向かった。今日は部活動もないため、誰もいないグラウンドをジョギングしようと決めた。文化部に所属している楓がジョギングをすることは滅多にないが、この違和感を振り払うためには必要だと感じたのだ。


 夕方の冷たさが残るグラウンドには人の気配はなく、わずかに寂しさと切なさが漂っていた。このような違和感を抱くようになったのは、あの「夢」を見るようになってからだった。

 誰かもわからない少年と少女が交わす約束───それが夢の中で毎晩のように繰り返される。今日も授業中の休み時間にうたた寝をした際、同じ夢を見た。あの少女には、何かしら意味があるのだろうと思っている。しかし、楓にはその少女に関する具体的な記憶がない。懐かしさを感じるのは確かだが、それも単なる錯覚に過ぎないのだと思っていた。


 数分ほどグラウンドをジョギングしだけで少し汗ばんだ。自分の運動不足感が否めなかったが、それでも気を紛らわすことはできた。あたりも少しずつ暗くなり、楓は帰路に着いた。街並みはは薄いオレンジ色が残った濃紺に染まり、冬の名残を感じさせる少しだけ肌寒い風が吹く。冷たい風が頬をかすめ、心地よい疲労感が広がる。帰り道の静けさに紛れて、さっきの少女のことが脳裏にちらつく。


 家に着くと、玄関を開ける。すると、リビングからは自分の好きな鍋のいい匂いが感じられ、先程は何ともなかったのに、あっという間に空腹感が押し寄せた。玄関を開ける音に気づいたのか、母は迎えに来てくれた。自分のよく知る日常がそこにある。父親はいつものようにスマートフォンを片手に、アニメを見ていた。


「ただいま」

「おかえり楓。今日は普段より遅かったのね」

「うん、少しジョギングしてきたの」

「夕飯はできてるから、荷物を置いて着替えたら食べにおいで」

 簡単に挨拶を済ますと、まずは自室に直行する。制服を脱いで部屋着に着替えると、ようやく制服特有の窮屈な感じから解放されて一気に脱力した。その後、夕飯を済ませ再び部屋に戻れば、次は課題の時間になる。今回の課題は、数学のプリントだ。明後日まででいいとは言われていたが、やらないままでは後々、面倒な事になるので、とにかく無心でシャーペンを走らせる。いつも通りの風景、いつも通りの静けさ───そしてかすかに残る違和感。


 一時間ほどかかった後、無事に課題は終わった。

その後、制服等を洗濯し、お風呂に浸かって戻ってくる頃には、絶妙なまでに丁度いい疲労感が体を包み込む。今日はいつも以上に疲れていたのか、すぐにベットへと横たわる。疲れが次第に睡魔として襲い掛かり、今日はいとも簡単に意識がゆっくりと沈んでいった。


────僕は夢を見ていた。

 優しい風が吹き抜ける草原、晴天の青空、大きな桜の木が目の前にあった。夢の中には、やはりいつもの少女と少年だ。しかし、相変わらず自分の意思で少年のセリフに干渉することはできないようだ。何か会話している。それすらも断片的で、全てをセリフとして聞き取るには難しい。


「いつか────になったら────────!約束──!」

 少年はそれに対して、「うん」と返事を返したようだ。これは普段と違う夢…?ぼんやりだが、これも夢の花と関係があるのか…?

 目の前に移る夢の中の情景についても、なぜか分からないが少し見覚えのある気がする。一体ここはどこなんだろうか。結局、普段の少女と少年が約束を交わす夢とは全く違う内容なのには納得ができなかった。てっきり今日も、少女と少年が、夢の花を咲かせようと約束をする夢だと身構えていたからなおさらだ。少女の言っているセリフもイマイチよく分からなかった。3割?いや、2割ほどしか聞き取れない。


「ねぇ、知ってるかな?この場所はね────」

 少女の声は、やはり断片的で聞き取れない。しかし、その少女の声にはどこか、温かさや切なさを感じる一方で、何か懐かしさを感じさせる。夢で見ている景色は、やはり少年の視点だ。少女は楽しそうに草原をかけながら、ある一点で止まると嬉しそうにまた話しかける。夢の内容が変わったとはいえ、普段見ていた少女の声の雰囲気などから、少しばかり成長を感じるのも事実で、時系列に並べられた、誰かの記憶を見ている気分にさせられた。


「ほらこれ!────!さっきからずっと探していたんだけど、本当にあったの!」

 肝心な場所が聞こえないのはなかなかモヤモヤする。しかし、目の前の少女の笑顔には、何かを訴えかけうような意思を感じさせる。そして今度は、はっきり一言一句聞こえた。


───この約束が叶う日は、もしかしたら近いのかもしれないね。

 次の瞬間、意識が一気に錯乱する。おそらく夢が終わるタイミングなのだろう。少女の姿はぼやけ形を失うと同時に、視界が白色に染まっていく。楓はその中で手を伸ばしてみようとしたが、うまくいかず空間を切るだけだった。何も掴めない。


 目覚めた時に聞こえたものは、不快なまでにうるさい目覚まし時計のアラームでしかなかった。布団の中で浅い息をしていて、心臓が高鳴っているのを感じる。少しばかり汗をかいていた。


**


 翌日、楓はいつも通り時間に余裕を持って学校に着いた。朝早く学校に来る習慣は、読書をする時間が増えるため、自分にとっては欠かせないものだった。人気のない教室に1人、窓際の席に腰掛けてページをめくる。静寂の中、紙の擦れる音が心地よい。朝の空気は清々しく、まだ眠っている校庭を見下ろすと、穏やかな朝が始まる感覚に包まれた。


 しばらくして、廊下から駆け足の音が近づいてくる。タイミングよく、高橋が息を切らせて教室に滑り込んできた。鞄を勢いよく机に投げ出し、ニヤリと笑って楓に声をかける。


「よっ、おはよう楓!」

「高橋、おはよう。今日も相変わらずチャイムギリギリだね」

「まぁまぁ気にすんなって。間に合ってんだから全然OKってことで。それより、昨日の話なんだけどさ、やっぱ鈴宮めっちゃ可愛かったんだよ!」

「あーまた始まったよ…。はいはいよかったねー」

「はぁ?そのどっちつかずの返事やめろって!ちょっとくらい話させろって〜」

「だーかーらー。僕が陽キャ女子に興味無いと何度言えばわかる?ってか肩揺らすなって。読書という至福の時間を邪魔するのは大罪だぞ?」

「そーかもしれんけどさ!ほんとに、マジでよかったの。声かわいいし、笑顔めっちゃ可愛いし、そしてうってつけの───あのスタイルの良さっ!」

「お前、同級生の女子好きになる条件緩すぎない?」

「別に普通じゃね?男は女子なんて外見しか見てないもんだろ?」

「偏見が過ぎるだろ。絶対そういう奴は付き合ってもすぐ別れると思うけど」

「え〜なんだよ。ひでぇな。たかが高校生なんだし、突発的に恋愛するのも悪いことじゃないと思うけどな」

「ふーん……それで?鈴宮さんとはどうなの?」

 高橋は少し肩をすくめるようにして笑ったが、その顔はほんの一瞬、微かに曇ったように見えた。楓はその仕草から、おそらく高橋の片想いが実らなかったのだと察したが、あえて何も言わずに視線を本に戻した。


 しかし、高橋はすぐに表情を戻し、話を切り替えようとする。その切り替えの速さに、楓は少し呆れつつもいつものことだと心の中で笑った。

「それより楓、お前の恋愛観ってさ……ってあっ、チャイムか。まぁいいや、また話そうぜ」

 何かを聞こうとしたのは分かったが、高橋はチャイムがなればそそくさと自分の席に戻っていった。


 チャイムが教室に響き渡り、朝のショートホームの時間が始まる。向井先生が教室に入ってきて、ざわついていた生徒たちは一斉に静かになる。向井先生は、外見や内面も表向きにはとても優しいように見えるが、いざ生徒がやらかした時、怒らせてしまえばあまりにも怖いことを誰もが知っている。そのため、教室に向井先生が来ようものなら無駄にふざける生徒は息を潜める。


 そんな中、今日の向井先生は出席簿を持ちながらも、その視線は教室の後ろに注がれていた。

 

「えーっと、今日は皆さんにいいお知らせがあります。新しい転校生が入ってくることになりました」

 教室内が、再びざわめき始める。楓はその言葉を聞いてから、何とも言えない胸の中のざわめきを覚えた。昨日の夢の断片が頭をよぎる。転校生──それだけで心が妙に落ち着かなくなるのは、どうしてなのだろうか。


 扉が開き、柔らかな足音が教室に響いた。その瞬間、楓は一瞬息を飲んだ。目の前に立つ少女の姿は、夢の中の彼女と重なるように映り込む。茶髪のロングヘアーにパッチリとした二重、青とピンクの混ざった綺麗な瞳を持つ少女───外見から見れば、とてつもないほどの美少女だ。そして、彼女は黒板に丁寧な字で自分の名前を漢字で書くと、口を開く。


「初めまして。水瀬咲良(みなせ さくら)です。よろしくお願いします」

 教室内は拍手で盛り上がる。

 しかし楓は、その名前を聞いた瞬間、何故か胸に鋭い痛みが走った。それに…彼女の視線は、明らかに「楓」という1人の男子に向いていたのを、見なくとも実感していた。やはりそうだった、昨日の放課後に出会った少女だ。間違いない。


「水瀬さんは、あの席だからね。じゃあ、その席に着いて」

「はい、わかりました」

「皆さんも、水瀬さんと仲良くしてあげてくださいね。それじゃあ、先生からは以上です」

 隣に水瀬さんが座った時、自ずと目が合ってしまってドキッとした。しかし彼女は、軽く会釈して「お願いします」と言うかのように柔らかな笑みを向けた。


 生徒一同が立上がりショートホームが終わる。

 早速隣の席には、水瀬さんに興味を持った女子生徒たちが囲む。また、その圧倒的美貌からか、1部の男子も何とかして水瀬さんと話そうと女子の輪に入り込もうとしている。隣の席だったこともあり、女子たちの話し声に聞き耳を立てると、どこ住みなの?とかウチの輪に入ろうよ!と水瀬さんを巻き込もうとしていた。当然だが、水瀬さんも初めての環境だってのにそんな対応をされちゃあ気まずいだろうなぁと、気の毒そうではあったが思った。


 そんなことを思ってた末に、もっとも警戒すべき相手が話しかけてくるリスクを考えていなかったことに後悔する。背後から強い衝撃が押し寄せた、その正体は───


「おい楓!転校生きたって!めっちゃ可愛いぞマジで!!」

そう、高橋だ。…厄介なことになったと思い苦笑いする。


「おい聞いてんのかよ!楓、話しかけようぜ!俺と一緒にさ!」

「うるさいなぁ……こっちは本読んでるって事を見ても分からないの?」

「なんでだよー!今週もテストとかある訳でもないんだし、そういう時に楽しむべきことはただひと〜つ!答えをどうぞ!」

「うーん、勉強?」

「えっ?勉強!?いやアホか!?青春だって言ってんだろーが!勉強ばっかりに頭使ってたら後にバカになるぞ?」

「はぁ…そのセリフ、お前にだけは言われたくなかったよ」

「いやいやいや!お前だって転校生ちょっと気になるって言ってただろ!?話しかけないのかよ!?」

「一旦落ち着け高橋!安心しろ、お前は水瀬の彼氏になることは無いから」

「───ん?なんか、シレッと俺の事バカにした?」


 楓にとってはこれは面倒だ。

 実際見ての通りだが、高橋は普段にまして上機嫌だ。今朝は鈴宮さんって人のことばかり話してきたってのに、転校生が来たらすぐそっちへ乗り換える。どんだけ気分屋なんだろうか。気になってる小説を読みたいってのに、周りの環境音に邪魔をされるなど以ての外だった。


 まぁ、高橋のその自由気ままな性格を否定する気もないのだが、相変わらず自分に対する恋愛の強要をしてくる様子は変わらないようだ。

 隣をちらっと見る。そこでは女子の賑やかな雑談が一通り終わり、一息つこうとした水瀬さんに、今度は数人男子が絡んできていた。

「それにしても、水瀬って奴超人気じゃん。まぁでも、アイツら甘いな。やはり!俺みたいなイケメンがあの子の彼氏にふさわし──痛って!何すんだよ楓!」

「ちょっと、いや、信じられない程ウザかったから一発ビンタさせてもらった」

「おーい…冗談じゃんか」

「冗談か、お前外見も内面も色々と終わってるから全部嘘だってわかってたけど?」

「いやいや!それは無慈悲すぎるし何の慰めにもならんじゃんか…。いや!確かに俺も多少はそういう性格のアレはあるけどさぁ…俺そんなに終わってる人間に写ってるってマジ?」

「何を言う、こっちも冗談に決まってるよ」

「いやだよなぁ!?いや、むしろ冗談じゃなかったら全然不登校になるところだったよ…」

「結構ダメージ受けてるし……ずっと小学生の時から仲良くしてたってのに、そんなこと言うわけないじゃん」

 なんだかんだ高橋は冗談の通じるやつだから、こうやってしょうもないことではあるがレスバになるのも少しばかり楽しさはある。しかし、こうしてないと先程の胸に走った痛みを誤魔化すことが出来ないのだ。


 水瀬咲良。

 その名前にはどこか覚えがあるような感覚があった。夢の中でいつも見ていた「少女」と、どこか似ている気がしてならない。夢に登場する少女は幼く、まるで記憶の中に閉じ込められた誰かの子供時代のようだった。その少女は、茶髪と青とピンクが混じる瞳が特徴的で───今まさに男子たちの告白ラッシュ(?)をようやく乗り越えた隣の席の水瀬咲良と驚くほど酷似している。


 この高校ではカラーコンタクトや派手な髪色などの校則は厳しい。そのため、初めは彼女の特徴的な瞳の色に「カラーコンタクトか?」と疑ったが、指摘されずにいるならば、咲良の瞳が自然なものである可能性も考えられる。生まれつきの瞳の色なら、なおさら彼女は特別だと感じた。


ふと思った。

「この子は夢の中の少女の成長した姿か?」と───。


(いや違う……何考えてるんだよ……楓)

 彼女が自己紹介で見せた声のトーン、身のこなし、長い髪をさらりと揺らす動き。何か懐かしさを感じさせるその仕草は、まるで記憶の底に眠る何かを揺り動かしてくるかのようだった。けれど、それでも記憶は靄に包まれ、核心には届かない。


 授業なんて、集中する事は難題だった。

 楓は幾度も頭の中でその考えを振り払おうとした。しかし、そのたびに彼女の声や視線が思考を引き戻す。咲良は新しいクラスメートたちに囲まれ、笑顔を浮かべていた。その表情が何度も目の端に映り、集中を奪っていく。


 ───頭によぎる疑問が留まることを知らず、教科書に目を落としても文字はただ黒い塊にしか見えない。授業は次々と進み、板書を写す手も止まりがちだった。気づけばページをめくる音や先生の声が遠くに聞こえるだけで、何も頭に入ってこない。


 休み時間、高橋が隣で軽口を叩く声も耳に入らないほどだった。もはや咲良の存在が、楓の心を何度も揺さぶっては離さなかった。


 

 気づけば帰りのショートホームになっていた。

今日は、水瀬さんが来たことがとてもクラスメイトにとって衝撃的だったのか、一日中教室がうるさかった。挙句昼休みは図書館に逃げたのに、水瀬さんが図書館に来てしまったという事もあって、どこへ逃げてもうるさいのに変わりはなかった。

 結局これも、運がいいのか悪いのかという話なのだが。


「気をつけ、ありがとうございました」

 一人の評議委員が挨拶し、帰りのショートホームは終わる。いつもの如く、1部の男子はそそくさと荷物を片付け帰宅、1部の女子は居残りして雑談という流れが普通だ。ちなみに、水瀬さんは先生に呼び出されたのか、荷物を置いて教室を出ていった。


 今日も高橋が話しかけてくるものかと思った。しかし、昨日のこともあったからか、高橋は楓が小説を直ぐに読み直す所を見て察したのか「お先にな」とだけ言って帰っていった。


「そろそろ帰ろっか!」

「わかった!また明日ね!」

 いつもの居残りして雑談する女子の2人組も、どうやら帰ったようだ。今日は授業が終わるのも早かったからか、みんないつも以上に明るい時間帯に帰った。それと同時に、ようやく1人になれたと安堵の息を吐く。


 先生の目線もない、誰もいない教室は、正直なところ家の中よりも安心できるものがあった。僅かに聞こえるカラスの鳴き声が、夕焼けの訪れを感じさせる。窓を開ければ、絶妙なちょうどいい涼しさの春風が流れ込み肌をかすめ、その感覚が心地よかった。

 楓は心を落ち着けるために、鞄からお気に入りの小説を取り出し、読み進める。ページをめくる音が静寂を打ち、教室の空気に溶け込む。心の中のざわめきを落ち着けるように、文字を追っていると、ふと足音が聞こえた。


 ──トン、トン、と軽い靴音が近づく。

 閉まっていた教室のドアを開ける音がして、顔を上げると、そこには見覚えのある姿があった。水瀬咲良だ。茶色の髪の毛に春の日差しが差し込み、瞳の色はわずかに光を反射して輝いている。まるで夢の中で見た光景が、そのまま現実に紛れ込んだかのようだった。


 咲良は少し躊躇した様子で、しかし柔らかな微笑を浮かべ、教室に入ってくる。楓は胸の中でわけのわからない鼓動を感じつつも、その場に立ち尽くした。


「霧島くん……ちょっと、話せる?」

 彼女の声が静寂を破り、楓の耳に届く。普段は心の中で思考を巡らせてばかりの彼にとって、この瞬間は異質なもので、言葉を発するまで一瞬間が空いた。


「あ、うん。大丈夫……何か用かな?」

 咲良は自分の席───すなわち僕の隣の椅子に腰掛け、視線を向ける。彼女の瞳が、まるで真実を探るように楓を見つめていた。彼も自然と椅子に座り、距離を取ることなく向き合う形になっていた。


「今日、私が唐突に転校生でここに来たせいで、うるさかったよね…色々大変でさ。」

「…いやいや、その。むしろ、このクラスはだいたいそんな感じの雰囲気なんだ」

「そう?なんだか、みんなが皆フレンドリーでどんどん話しかけてくるせいで…少し頭がパンクしちゃうかと思っちゃったよ。あぁ、いい意味でね?」

 彼女の声は優しく落ち着く。

 水瀬さんのその顔には、なにか意味があるのかと思ったが考えるのを止める。

 

「あっ、そうだ。先生から聞いてたんだけど、霧島くんって言うんだよね?その、下の名前、聞いてもいい?」

「楓って言うよ。好きなように呼んで」

「楓ね…素敵な名前だね。教えてくれてありがとう。」

「お…おう」

「うーん…しばらくの間は霧島くんって呼んでいいかな?」

「全然いいよ、これからよろしく」

「うん」

 無論彼女には疑問点が多い。

 そもそも彼女の姿は、普段夢で見る少女と酷似しているのだが、それが単なる錯覚なのかは分からない。そして、妙な既視感や儚さを感じるのも、否定はできない。


「霧島くん、その小説ってどんな話なの?」

「これ?これは恋愛小説だよ」

「恋愛小説?ふふ、ちょっと解釈一致かも」

「解釈一致?それって、僕が現実で恋愛出来ないってバカにしてるとか?」

 ───高橋の時みたいに少し冗談っぽく言ってみる。と言っても、自虐ネタではあるのだが。

 咲良は少し変わったリアクションはしたものの、すぐに笑顔を戻してくれる。


「えっ?違うよ。むしろ、霧島くんは恋愛上手だと思うけどなぁ」

「ほんとに?そんな事言ってくれる人に今まで会ったことなかったけど」

「ふふ、女の勘だから。女の子の勘って意外とあたるものなんだよ?」

 楓は、咲良の言葉に何かを感じつつも、なぜか心が落ち着かないまま視線をそらした。心の中で渦巻く疑問と記憶の欠片が、胸の奥をくすぐるようだった。


「そうか、女の勘か……なんだか信じていいのか分からないな」

 軽く肩をすくめて笑ってみせたが、咲良の目は微かに陰を帯びた。その表情は一瞬のうちに消え、教室に流れる夕方の静かな空気がまた和やかに戻った。


「ところで、霧島くんは普段、どんなことをしているの?」

「え?僕?……そうだな、特に変わったことはしてないよ。本を読むことは昔から好きで、高校生になってもずっと続けてる。君は?」

「私は……そうだね、お花を集めてお部屋に飾ったりするのが好き。あと、写真を撮るのも楽しくて、色んな場所に行ってはシャッターを切るんだ。」

 会話はゆったりとしたテンポながらも心地よく続いていく。教室で二人きりで話していると緊張するのは当然だが、美少女の転校生と話していると思うと、楓の心臓はその分だけ早鐘を打つ。花を飾るという話や写真を撮る趣味──またしても感じる得体の知れない違和感。だが、その違和感は意識の奥に押し込んだ。


「ねぇ、霧島くん」

「うん?どうした?」

 高橋とは違い、水瀬さんに話しかけられることは、読書を中断されることへの苛立ちを感じさせなかった。


「その…少し失礼かもしれないんだけど、聞きたいことがあるの」

「……うん、何でも聞いて」

咲良の瞳が楓を真っ直ぐに見つめる。


「あのさ───」


───私たちって、どこかで会ったことがあるかな?


 その質問が楓の胸に鋭く突き刺さり、心臓が強く打った。その理由は分からないが、何か心の奥深くに触れられたような感覚があり、息が詰まる。良い感覚とは言えず、胸の中で何かがざわめくのを感じた。


「えっ、どういう意味?」

「───うん、分かった……。ごめん、変な質問しちゃったね。私の勘違いだったのかも」

 今のリアクションからして、鎌をかけられたのか?

 彼女の答えは一見平静を装っているが、その間にある沈黙には奇妙な重さがあった。「分かった」という言葉が何を指すのか、楓の頭は混乱する。彼女が知るのは、ただの偶然なのか、それとも……?しかし、考えても答えは出ない。楓の心のざわつきとは対照的に、咲良は何事もなかったかのように微笑みを浮かべた。


「……」

「ねぇ、そろそろ帰ろう?さっき先生に呼ばれたときに、霧島くんにも早く帰るように説得してって頼まれちゃったんだ」

「えっ?本当?どの先生?」

「うーん、まだ名前は分からないんだけど、メガネをかけてジャケットを着てた人」

「分かりそうで分からないな…学年主任かも。先生がそう言うなら、今日は早めに帰ろうかな」

 まさか先生にバレていたとは思わなかった。

 普段は巡回の先生が来る前に校舎を出るように気をつけていたため、少し意外だったが、特に重要な問題ではない。水瀬さんに連れられて、生徒昇降口まで降りると、まだ夕焼けのオレンジ色があたりを染めていた。普段より少し早く学校を出たため、空はまだ明るい。


「ねぇ、霧島くん」

「ん?どうしたの?」

「さっきの質問、気にしないでね。昔出会った人と似ている人を見かけると、ついその人と過去に会った人の姿を重ねてしまうことって、あるでしょう?」

 咲良の言う「さっきの質問」とは、「私たち、どこかで会ったことがあるかな?」という質問のことだろう。


「そうかな…?僕は、あまり似たような顔の人に出会ったことがないから、正直分からないかも」

 楓の答えに、咲良はほっとしたように微笑む。


「ううん、共感してもらおうって思ったわけじゃないの。ただね、霧島くんが、私の過去に出会った人と本当に似ていて…」

「そうなんだ。その、僕に似ている人って───」

「……」

 楓の問いかけに、咲良の顔に一瞬困惑の色が浮かんだ。もしかすると、その人の名前を言いたくない理由があるのかもしれない。あるいは、過去に辛い思い出があり、その話を避けたいのだろう。彼女の雰囲気から察して、これ以上詮索するのは良くないと感じた。信頼関係が深まっていない現時点で、無理に彼女の過去を知ろうとする資格はない。


「言いづらいことなの?」

「うん、ちょっとね。その…名前については今は教えられないんだ。ごめんね」

「いや、それなら無理に聞かないよ」

「でもね、霧島くん。いつか、あなたにもその人が誰なのか分かるかもしれない」

「えっ、それはどういう意味?」

「それも、今は秘密かな。けど、いつか分かるかもね」

 咲良の笑みには、何かを含んだ意味が込められていたが、楓にはそれを理解する術はなかった。その謎めいたやり取りが、やけに心に引っかかる。



「それじゃあ、そろそろ帰ろっか」と咲良が言うと、楓は頷き、昇降口で靴を履き替えた。外に出ると、春の心地よい風が二人の間を通り過ぎ、夕焼けに染まる空が広がっていた。

 校門まで一緒に歩くと、「霧島くん、帰り道ってどっちなの?」と咲良がふと尋ねた。


「この道をまっすぐ行って、駅の方に向かうんだけど…」

「ほんと?私もそっちの方向なの。じゃあもうちょっと一緒にいれるね。一緒に歩いていい?まだこの街に慣れてなくて」

 その申し出に楓は驚きつつも、すぐに頷いた。実際、今までほとんど接点がなかった異性のクラスメイト(それも転校生)とこんな形で歩くことになるとは思ってもみなかったが、妙な安心感があった。


 二人は歩き始めた。まだ街灯が灯る前の、ほんのりと明るい夕暮れの道を並んで歩くと、街のざわめきや鳥の鳴き声が遠くから聞こえてくる。咲良は足を揃えるように歩調を合わせ、楓に話しかける。

「こうやって、誰かと一緒に帰るのは久しぶりかも」

「本当?転校する前は、友達と帰ったりしてたんじゃないの?」

「うん、そうだね。けど…こっちに来てからはまだ慣れなくて、ちょっと緊張してたんだ。それに、クラスの子達は、あくまでも一時的に話しかけてくれただけだし、信頼関係築いていくなら、時間もかかっちゃうでしょ?」

「そうかもね」

「元気いっぱいな子も好きだけど、やっぱり私は、霧島くんみたいな、大人しくて何でもかんでもお話を聞いてくれる人の方が落ち着くんだ」

 …告白らしきものをされた気がするが気のせいだろう。

しかし、彼女の言葉を聞いて、楓は少し意外に感じた。


「……水瀬さんって、もっと明るくて自信に満ちているイメージだったから、少し意外」

「そう?私結構こう見えても慎重なんだよ」

 転校初日からクラスでの人気者で、話しかけられても堂々としているように見えた咲良が、こんな風に不安を抱えているとは思わなかった。楓は一瞬戸惑ったが、言葉を選びながら返した。


「まぁ、ここのクラスの人たちはお節介だけどいいやつばかりだから、すぐに馴染めると思うよ」

「ありがとう、霧島くん。なんだか、少しホッとした」

 咲良の笑顔が夕日に照らされて、より優しく見えた。楓は思わず視線を逸らしたが、その瞬間、胸の奥にある不思議な感覚が再び疼いた。


 駅のホームで電車を待っていると、1本の在来線がやってくる。甲高いブレーキの音は、いつ聞いても不快なのに変わりなかった。咲良も耳を塞いでいたので、この音は誰にとっても不快なのだろう。

 電車に乗り込み、窓際の席を見渡す。普段より早く帰ったため、今回は帰宅ラッシュの満員電車に巻き込まれることなく済みそうだった。

 隣を見ると、つり革を掴む水瀬さんがいる。目が合い、どう反応していいかわからず視線を逸らすと、水瀬さんも微笑んだように見えた。


 ふと疑問が頭をよぎり、咲良に質問をすることにした。

「水瀬さん、ひとつ聞いていい?」

「ん?なに?」

「その…体調とかは大丈夫なの?」

「体調…?あ…あぁ、私が始業式の日から登校していなかったことを気にしてるのかな?」

「う、うん。それについて」

「えっと…」

 楓の遠回しの質問にも関わらず、咲良はすぐに本意を理解してくれたようだ。しかし、彼女の表情にわずかな戸惑いが浮かぶ。何かを言いかけているのがわかるが、その表情から察するに、また触れてはいけない話題だったのかもしれない。だが、彼女は口を開いた。


「初めてここに来た時に、引越しに時間がかかっちゃってね。あと…その…」

 何か言おうとしているのは明らかだが、言葉が続かない。楓はさっきの会話と同じく、これ以上深入りするのは失礼だと判断した。とはいえ、引越しに時間がかかっただけで数週間も学校を休むのは現実的ではなく、違和感が残った。


「無理には言わなくていいよ。ただ、体調が悪かった状態であれだけクラスのみんなに絡まれてたなら、大変だったんじゃないかと思って」

「えっ?いや、大変どころか、むしろ楽しかったくらいだよ」

 咲良は笑顔を浮かべて答えたが、その目には一瞬の曇りが映る。楓はその曇りに気づくが、その点についても深く追求しなかった。

 電車が停車し、二人は同じタイミングで降りた。咲良の迷いのない足取りに、楓は一抹の違和感を覚えた。つい先ほどまで道案内を頼んでいた彼女が、この地に踏み入れた瞬間、何のためらいもなく自分の家の方向へ歩いている。

「水瀬さん、そっちの方向、どうして知ってるの?」

 さすがに疑問を口にせずにはいられなかった。咲良は驚いたように立ち止まり、一瞬だけ何かを思い出すような表情を見せた後、少し照れたように笑った。


「ううん、偶然だよ。でも、なんだか懐かしい感じがするかも…」

 そのセリフの意味には何か特別な意味がありそうだった。

 懐かしいと感じるなら、彼女は昔ここに住んでいたことがあるのかもしれない。まぁ、だとしたら、街に慣れていないと言うことに矛盾するのだが。そんなことを考えながら足を進める。しばらく分かれ道が来なかったためか、お互い時々生まれる小さな会話以外は特に何も無く、静かに帰路を進んでいく。


 家の近くの小さな交差点で、咲良と自分の道が分かれることがわかった。交差点と言っても、分かれ道程度の場所で車通りは全然ない場所だ。


「あっ、霧島くんはそっち?」

「うん、水瀬さんは?」

「右だよ。ここでお別れみたいだね」

 引越し先は途中で彼女が話していた近くのアパートだと覚えている。治安の良いこの辺りの住宅街は、小さい頃に友達とよく駆け回った記憶がある。だが、住宅街が薄暗くなるにつれて、彼女がこの地に詳しすぎることへの違和感が再び頭をよぎった。


「引越しの時に時間がかかっちゃって───」

 その言葉が脳裏で響く。もし本当に街の地理を知らないのであれば、楓に案内を頼む理由も理解できる。しかし、実際は躊躇なく道を選び、懐かしさすら口にする姿には不自然さが残った。


「ありがとう、今日は案内してくれて」

「ううん、気にしないで。少し暗くなってきたから気をつけてね」

「うん、そうする。また明日」

「おう、また明日ね」


「───あっ!待って、霧島くん!」

 別れ際、彼女は声をかけてきた。彼女はスマートフォンを楓の前に差し出す。


「その、友達になろ?もしかしたら、また道案内頼むかもだし…このチャットリンクってやつ、霧島くんも使ってるでしょ?」

 チャットリンク───高校生のほとんどが利用しているSNSアプリ。メッセージのやり取りや電話が簡単にでき、日常生活には欠かせないツールだ。もちろん、楓もアカウントを持っているが、普段やり取りしている相手といえば、クラスメイトの高橋か家族くらいだった。


「やってるよ。じゃあ、僕がQRコードを読み取るね」

「うん」

 彼女が「はい、これ」と言いながら画面を見せてくると、楓はスマホでQRコードをスキャンした。瞬く間に、「Sakura」という名前のアカウントが画面に表示される。アイコンは可愛らしい猫の画像で、思わず楓は口元を緩めた。彼女らしいセンスで、初対面の印象と同じく少し不思議で暖かい。


「ありがと!じゃあね、霧島くん」

「うん、また明日」

 咲良が微笑むと、咲良は引越し先の自分の家、もといマンションの方向へと歩いていった。軽い足取りで去っていく姿を、楓は少し見送った。夕闇の中で、楽しそうに揺れる彼女の髪が印象的だった。自分も歩き始めたその時、スマホが軽く震えた。画面を確認すると、咲良からの連絡が届いていた。

 確認してみるとスタンプだった。小さな女の子が笑顔でお辞儀をするイラストに、「よろしくね!」という言葉が添えられている。それを見た瞬間、胸が少しだけ高鳴った。まさか、自分が女子からこんな風にメッセージをもらう日が来るとは…。


 どう返すべきか迷った楓は、思わず心の中で小さく息をついた。慎重に言葉を選び、「こちらこそよろしくね」と、無難な文字を送り返した。その間、胸の奥でワクワクとした感情がじんわりと広がっていくのを感じた。

 返信を送り終えると、これから始まる新たな何かを予感させる夜風が、静かに彼の頬を撫でていった。



 家に帰り、楓は手早く着替えると、夕飯を急いで済ませた。普段なら丁寧に取り組むはずの勉強も、今日は何とか早めに終わらせようと考えていた。しかし、勉強机に座っている間も、咲良の表情や声が頭から離れない。気がつけば、定期的にスマホを手に取り、通知を確認している。明らかに良くない勉強姿勢であったが、課題の締め切りは来週の休日明けだと知っていたため、焦る必要は無いと分かっていた。しかしながら、今日のノルマはやりきるのに時間がかかりそうだった。


 そんな中、スマホが小さく震える。咲良からのメッセージだった。今回はスタンプではなく、文章が添えられていた。


『霧島くん、今日は本当にありがと。誰かと帰るのは久しぶりだったけど、すごく楽しかった!』

 文と共に、可愛らしいスタンプも送られてきた。笑顔を浮かべたアニメのキャラクターが「最高!」と書かれたセリフを持ち、楽しげに手を振っている。文章で見ると、実際に話している咲良とは少し雰囲気が違うが、それでも自然と「可愛いな」と思ってしまう自分がいた。


「気にしないで。そんなに大したことはしてないよ」

 そう返すことで、少し謙虚な態度を取ってみた。送信ボタンを押すと、数秒もたたないうちに「既読」の文字が表示される。その瞬間、楓の胸は緊張でわずかに高鳴った。咲良がすぐにメッセージを読んでくれていると分かり、不思議な心地よさが広がる。


 しばらくして、返信が届いた。


『そんなことないよ。私にとっては、転校初日から霧島くんっていう最初の友達ができて、本当に嬉しかったよ』

 画面を見た瞬間、楓の口元が自然とほころんだ。これまで人と深く関わることのなかった彼にとって、誰かに感謝されるという経験は新鮮で心温まるものだった。胸の奥でじんわりと暖かいものが広がっていく。


「そう言ってくれたなら良かったよ、また案内が必要な時は言って」

『いいの?ありがとう!』

 会話のやり取りこそ長くはなかったが、この時間は楓にとって、普段の学校生活とはひと味違う心地良さを感じていた。あまり長い時間、女子生徒と話しているのも緊張してしまうため、会話は今日はここまでにしようと決めた。最後の『いいの?ありがとう!』というメッセージにグッドマークを付けて、読んだことを伝えた。

 仮にここで会話をこれ以上しない形をとっても、明日も学校だし隣の席だということも考えれば、いずれ話しかけられたりするだろう。


 いつものように風呂を済ませ、ドライヤーで髪を乾かす。髪が乾ききる頃、心地よい疲労感が体を包んだ。朝早く起き、学校で適度に疲れ、夜には自然と眠気が訪れる。これは一日が充実していた証であり、良い生活習慣の証拠でもある。───今日は良い具合に寝付けそうだった。


───しかし、楓は考え込んだ。

 またあの夢を見てしまうのではないかと。その予感が胸を締めつけ、不安の種が芽生えた。


 その夢は、楓自身の経験や心象風景を描くものではなかった。

 幻想的でロマンチックな夢とはかけ離れ、「誰かの記憶を覗いている」ようなものだった。

 これまで見てきた夢のすべてがそうだった。

 楓自身の視点ではなく、少年の視点で夢が展開される。

 楓はその少年を知らない。

 そして、転校生の「水瀬咲良」に似た少女がいつも夢に現れる。

 少女の正体は依然としてわからないままだ。


 この夢が何日も続くとさすがに気味が悪い。同じ内容の夢を繰り返し見るなら、慣れも生まれるはずだったが、最近の夢は違っていた。変化し始めていたのだ。


 夢を見ている間に、悲壮感や切なさだけでなく、身体の痛みを感じることさえあった。現実のような感覚が心に重くのしかかる。その感覚に嫌気が差し始め、楓は少しずつ夢を見ること自体を恐れるようになった。原因はわからない。それでも、心の奥底では、夢を見ずに眠れることを祈る自分がいた。


───だが、自分の意思には関係がないらしい。

 またしても、夢の中に引き込まれていった。いつものように、楓が知らない誰かの記憶を見る夢が始まる。



 いつもの視点だ。

 目の前には、見知らぬ少年と少女。今回の夢の内容は、前に見たものとは違っていた。広々とした公園かグラウンドのような場所にいる二人の姿は、以前の夢よりも鮮明で、少女は少し成長して見える。


「───私ね、───になりたいんだ」

 言葉は相変わらず断片的で、風の音にかき消されるように消えていく。話の内容は、文脈的に見て将来についてのものだろうと推測できるが、はっきりとはわからない。


 少年が少女の言葉を受け止め、わずかに沈黙した後、ゆっくりと首を振った。無表情なその動きには、何か決定的な違和感がある。まるでその動作そのものに悲劇の影が宿っているかのようだ。


「───、──────!」

 再び風が言葉を奪い去る。楓は耳を澄ませようとするが、声はぼやけて全く聞こえない。ただ、少女の震える瞳と悲しげな微笑だけが胸に突き刺さった。それはまるで見てはいけない秘密の一瞬に立ち会ってしまったかのような錯覚を与える。


 少年の顔は見えない。だが、その視線の先にいる少女の喜怒哀楽は克明に伝わってきた。言葉が理解できないまま、楓は夢の視点に引き込まれていく。


───夢は続いている。

 普段なら夢はここで終わるが、今回は異常に長く続いた。切なさと緊張が入り混じり、楓はその光景を見続けることが苦痛になってきた。だが、目を逸らすこともできない。


「いいの?!──────!わがままだったのに───?───!ありがとう!」

 少女の声がかすかに耳を打つ。その言葉に含まれた喜びが、彼の心を不自然に締めつける。少年は無言のまま手を差し伸べ、少女がその手に飛び込んだ瞬間、周囲の空気が凍りつくような感覚に襲われた。


───突然、視界が揺れた。

 楓は胸に強い痛みを感じ、夢から現実へ引き戻されるように意識が引き裂かれる。痛みは単なる感覚ではなく、意識を抉るような鋭い苦しみだった。この痛みは、まるでこの少年と共有しているようだった。


 痛い。

 痛い。

 頭の中で叫ぶ声に応じるように、痛みは増幅していく。少女の喜びの表情が、断片的な記憶の中で無惨に消えていく。その残像は、楓の心の奥底に不安と恐怖を刻みつけた。


 やがて視界が暗転し、重たい沈黙が辺りを支配する。早く現実に戻ってと、強く願った───。



「───!はぁ、はぁ…!」

 楓は胸の奥に残る鈍い痛みと共に目を覚ました。額にはうっすらと汗がにじみ、心臓の鼓動は早鐘のように激しく響いている。寝室の薄暗い天井を見上げると、夢の中で見た少女の表情が脳裏に焼き付いて離れなかった。それは、まるで彼の記憶の奥深くに刻まれた忘れられない一場面のようだった。


 荒い息を整えながら、楓は重い体を起こした。窓の外には夜の静寂が広がり、街の灯りが微かに輝いている。目覚まし時計は午前2時を指していた。ぼんやりと自分の姿が窓ガラスに映り込み、楓は目をこすった。夢の中の少年と、自分の姿が重なって見える気がして、思わず肩が震えた。


「何なんだよ、これ……」

 かすれた声でつぶやき、手で顔を覆った。夢の中で少女が何を伝えようとしていたのか、少年が何故首を振ったのか、そしてその後に見せた行動───それらの意味は全て霧の中だ。しかし、断片的な情報から伝わる感情だけは異様にリアルで、胸の奥に鋭く刺さったままだった。


 思考の隅で、転校生の水瀬咲良の顔が浮かぶ。彼女と夢の中の少女に何かしらの繋がりがあるのではないか、そんな疑念が重くのしかかる。


 なぜそんな風に感じるのか、明確な根拠はない。少女の容姿が咲良と似ていることが一番の理由だが、それだけではなかった。咲良の言葉や態度を思い返すと、夢の中の記憶と微妙に重なる部分が見え隠れする。まさか───あの少年は、自分なのか?ましてやあの少女は……


「……いや、違う…そんなはずがない……」

 自分の中で浮かんだ推測を、楓はかぶりを振って否定した。もしそれが真実だとしたら、自分は一体何を思い出しているのだろう?知らず知らずのうちに、忘れたくても忘れられない何かを見せられているのかもしれない。少女と少年、その二人は───自分の知っている誰かなのかもしれない。


 もう考えるのはやめよう。

 そう思い、楓は無理やり心を無にして布団に潜り込んだ。しかし、その後は眠ることができず、やがて夜は明け、気づいた時には空は明るくなっていた。


**


 翌朝、楓はいつも通り早めに学校へ向かった。昨夜の不気味な夢のせいで寝不足だったものの、習慣づけた早朝の登校は変わらない。静かな街の道を歩きながら、心の奥で眠気を追い払うように深呼吸をする。


 途中、後ろから軽い足音が聞こえ、誰かが近づいてくるのを感じた。恐らく咲良だろう。そう思いながらも、楓は自分から話しかけることができなかった。夢と現実の境界が曖昧になるような妙な違和感が、心の中でくすぶっていたからだ。しかし、その感覚が生活に支障をきたすほどではなく、夢から覚めてしまえばほとんど回復するものだと自分に言い聞かせる。夢とは本来、目覚めたら消えてしまうもの。あの夢も例外ではないはずだ───その一部を除けば。


 学校に着くと、楓は自分の席に腰を下ろした。まだ朝の読書のチャイムが鳴るまでには40分以上の時間があった。教室には誰もおらず、静けさが広がっている。この一人きりの時間が、楓にとっては心地良いものだった。だが、すぐにその静寂は破られる。


「おはよう、霧島くん」

 暖かく優しい声に、楓は振り向く前から誰かを察していた。水瀬咲良だ。いつものように柔らかな微笑みを浮かべて立っている彼女を見て、楓の胸にわずかな違和感がよぎった。しかし、その感覚はすぐに押し殺す。咲良は真面目で礼儀正しく、転校生としての立場を忘れない生徒だった。楓もその点には好感を持っていた。


「おはよう」

 返事をすると、咲良は一瞬だけ嬉しそうに目を輝かせた。その姿を見て、楓はかすかな安堵を覚える。学校にいる間だけは、夢のことを考えないようにしよう。そう決意した。考えれば考えるほど、夢の中の情景が現実を侵食しそうな気がしたからだ。



 朝のショートホームルームが終わると、毎度のことながら高橋が話しかけてくるのは「お決まりのイベント」と言っても過言ではない。楓は慣れた様子でその声を迎えた。


「楓、一限なんだっけか?」

「木曜日だから現代文だよ」

「現代文かよー。寝よっかな、めんどくさいし」

「また寝るのか…。だからモテないんだろ?真面目感ゼロだし」

「うっ…その通りです…」

 痛いところを突いてやった。そんなやり取りの中、ふと隣を見ると水瀬咲良が女子たちに囲まれているのが目に入った。彼女のリアクションには微妙な違和感があった。視線が一瞬こちらをかすめ、こちらに助けを求めているようにも見えたが、楓は声をかける勇気が出なかった。


「なぁ楓?なんか今日は元気なくね?」

 高橋の声が急にトーンを変え、心配そうに楓を見た。

「えっ?いや、そんなことはないよ」

「ほんとに?声のトーンからして疲れてる感じがするぞ。寝不足とか?」

「……まぁ、半分正解かな」

「おっ、当たりやん!───ん?いや待て、半分ってどういう意味だ?」

「そのまんまの意味だよ。寝不足と、それ以外の原因があるってこと」

「ふーん。なんか意外だな、楓ってちゃんと生活リズム守ってるタイプだと思ってたけど、そんな日もあるのか」

「まぁ、たまにはね」

 本音を吐き出すわけにはいかなかった。夢に現れた謎の少女と少年のことを話すなんて、到底できることではない。あの夢がただの悪夢ではなく、何か意味を持っている気がして、無意識に重要視してしまっている。しかも、楓の中でその夢を深く探ることは危険だと、自然とブレーキがかかるのだ。


「ま、安心しろって。俺なんか昨日寝たの朝の4時だし」

「それはもはや“昨日”じゃないだろ」

「だろ?マンガ読んでたら気づいたら朝。あと、一昨日も友達とチャトリしてたらオールしてたんだよな」

 “チャトリ”とは、高橋が勝手に作ったチャットリンクの略称だ。彼はこういった略語を軽々と作り出すので、時々話についていけなくなる。今回はかろうじて理解できたが納得はしていない。


「しかし、朝4時まで起きてるなんて…。普通じゃないな」

「だろ?けど、俺にはこれが普通なんだぜ」

「ドヤ顔で言うな」

 いつもの事だが高橋の夜行性ぶりには驚かされる。授業中にしばしば寝ている理由もこれで納得がいく。しかし、そうやって話が盛り上がる中、突然彼が声を弾ませて言った。


「あっ!そうだ、お前、水瀬に話しかけた?」

「何だよ急に…。読書の邪魔だって」

 高橋の質問に一瞬動揺が走る。心の中では、咲良の視線を感じてドキリとしてしまったが、それを悟られないように楓は本を握りしめた。


「なんだよ、そのどっちつかずな返事は。水瀬さん、結構ガード固いんだぜ?俺も話しかけたけど、軽くあしらわれちまった。だからこそ!お前なら本当に上手くいくかもしれないだろ?」

「そうか?お前が不真面目そうだって、顔を見ただけで判断されたんじゃないのか?」

「お前、辛辣すぎるだろ…。これ、俺じゃなかったら結構凹むぞ?」

「知ってる。高橋のメンタルが強いって分かってるから言ってるんだよ。他の友達にはこんな事言わないし」

「なんだよそれ!幼なじみだぞ!?もうちょっと仲睦まじい感じにできないんすかねぇ」

 そんな調子で高橋との会話は続いたが、結局楓は水瀬咲良とのことについては何も口にしなかった。隣に本人がいたことも理由の一つだったが。


 チャイムが鳴り一限が始まった。担当は今年からこの高校に来た若い男性の先生だ。この先生はしっかりした授業を行うタイプで、いい意味でも悪い意味でも評判が高い。そのため、小テストが頻繁にあるのが生徒たちの悩みの種だった。

 今日の教材は「日常の中の問い」というタイトルらしく、新しい文章の読解だ。丸読みの時間が始まり、無気力な声で生徒たちが順に読み進めていく。


「日常とは、特別な意味を持たない瞬間が連なったものであると言われることがある。しかし、果たして本当にそうだろうか。ある哲学者は───」

 抑揚のない読み方が続き、内容がまるで耳を素通りしていく。楓は、この執筆者さんが、日常が何かしらの重要な意味を持つということ伝えたいのだろうという、浅い事くらいしか理解できなかった。どうにも集中が途切れ、内容が頭に入らない。


 少しして段落読みだということに気づいた時には、もう数行進んでいた。そんな自分の注意散漫ぶりに内心でため息をつく。


「じゃあ、霧島。次を読んでみろ」

「───えっ?あ、はい」

 心の中で「席順じゃないのかよ」と突っ込むと同時に、目の前の教科書に見える明らかに長い段落を見て気が重くなる。しかし、指名された以上、読まざるを得ない。


 読み始めても尚、水瀬さんの視線が気になって、どうしても集中できない。夢の中で見た少女の姿と重なってしまい、余計に落ち着かないのだ。もちろん、水瀬さんを責める気はないが、どこかもどかしく、胸がムズムズするような感覚が広がった。


 最近、授業中に集中力が途切れることが増えた。成績をキープするためには良くない兆しだと自覚している。原因を考えると、どうしても水瀬さんの存在が頭をよぎる。いや、まだ転校してきてたった一日だというのに、彼女に責任を押しつけるのは違う気もするが。


 隣で真剣に文章を読む咲良を、ふと横目で見た。慣れない新たな環境での授業にもかかわらず、姿勢を崩さず取り組むその様子には感心させられる。


 もし自分が彼女の立場なら、周囲の視線や反応が気になって堂々と振る舞えないだろう。そう思うと、彼女との「格の違い」を痛感する。真面目で誠実、そしてどこか心優しい印象の彼女が、早くもクラスの中心的存在になりつつあるのも納得だ。


 結局、午前の授業はあまり集中できなかった。頭の中が散らかっていて、授業内容がほとんど入ってこない。内容が理解できていないと気づいた瞬間、ぐっと落ち込むが、そんな時に限って高橋が軽いノリで声をかけてくる。そのため、高橋は人間性だけで見たら面倒なやつだが、幼なじみでいてくれるありがたい存在と言えるだろう。


「おーい楓!購買行こうぜー」

「ちょっと待てよ、教科書片付けるから」

「りょーかい、急げよな〜」

 昼休みになると、いつものように高橋が購買に誘ってくる。これもある種の「お決まりのイベント」だ。教科書を素早く片付けてから彼の後を追った。親が忙しい日は購買で昼食を済ませるように言われているため、これが楓の日常だった。


「お待たせ、高橋」

「よっしゃ、行くぞー!」

 廊下を歩きながら、楓はふと高橋に問いかける。


「高橋、最近購買で済ませること多いよな。弁当は持ってこないのか?」

「あー、そんな気もするけど、別にいつもってわけじゃないぞ?」

「いや、昨日もそうだったし、弁当持ってくることあんまりない気がするけどな」

「……ここだけの話な?親が料理そんな得意じゃないんだよな。だから弁当は毎日は作れないって話」

「そういうことか」

 そう言うと、高橋はあっけらかんと笑った。妙に素直なその態度が、楓にはどこか羨ましくも感じられる。


 特に特筆すべきこともない、ありふれた学校生活。しかし、今の楓にとってはそれが少しだけ重く感じられるのだった。


 購買に入ると、咲良も女子に囲まれて食べ物と睨めっこしていたのを見つけた。

 高橋は、大きいサイズのカレーライスを買い、ついでに菓子パン数個を買っていた。相変わらずの凄まじい食欲に、もはや驚くどころか呆れてくる程だ。自分はと言えば、手頃なサイズの唐揚げ弁当を手に取る。


 生徒数がかなり多い学校なので、相変わらず購買は混んでいる。正直、レジの行列は長く、途切れることも無さそうだ。少し見て回った後、高橋とまた合流しレジに並ぶ。しかし、そんな中で高橋の悪ノリがまたまた炸裂した。


「あっ!あれ水瀬じゃね?」

「あぁ、そうだね」

「よしチャンスだ楓。行こう!レディゴー!」

「うおっ!押すなよ高橋…!」

「えーなんだよ勇気ないなぁ。絶対楓なら話せるって!」

「そういう問題じゃないだろ…」

「はぁ?別にいいじゃん。高校生活はあっという間だし、彼女作っちゃおうぜ?」

「……。全く、そんなに言っておいて高橋に彼女がいないのかよ。ほんと面白いな」

 高橋の軽口を軽くあしらっておいて、水瀬さんを見る。しかし、自分の方から話しかけようとは思えなかった。だが、それに気づいた水瀬さんは自然と笑顔を返してくれて、話しかけに近寄ってきてくれた。

 きっと先程高橋に煽られてるのを聞いていたのだろう。正直ありがたい。


「霧島くんも来てたんだ!何買うの?」

「水瀬さん…。僕は、この唐揚げ弁当ってやつだよ。よくある商品の弁当よりも小さめで、結構お気に入りのやつなの」

 話しかけられたので自然に振る舞うと、やはり高橋も乗っかってくるものだ。いつまで経っても諦めず話しかけようとする高橋のメンタルの強さには毎度の事ながら驚かされる。

「いいぞ楓!その調子で───ぶへっ!おいこら!何でビンタするし!」

「会話の邪魔はしないでおいてもらえると助かる」

「楓…!女子には優しいってのに俺には辛辣なのかよ!」

「そうか?僕はいつだって普通だけど」

「いやいやいや!絶対違う!水瀬も見てたよな!?コイツ問答無用でビンタしてたよなぁ!?」

 高橋が水瀬さんに助け舟を求めている。しかし、別にビンタくらいいいだろうと思っている。痛いほどまでに強く叩いてるわけでもあるまいし。

 そんなやり取りをみて、水瀬さんは少し口を押えて笑いをこらえていた。


「ふふ、楽しそうでなによりだよ。私、転校して初めての購買だから何買えばいいか分からなくてずっと迷ってるの」

「そっか、まだ転校してきて1日目だもんね。さっき水瀬さんが見てたコーナー以外だと、向こうの右側に弁当コーナーもあるから、見て回ってきたらどう?」

「えーっと……あっ、あれか!ありがとう!見てみるね」

 彼女は小走りで生徒たちの間をかいくぐって弁当販売のコーナーに向かっていった。その後、高橋が「なんだよ、しっかり話せるじゃんか!」と話しかけてくるが、面倒だったので「話しかけられたから返事した迄だ」と適当に返しておいた。


 午後の授業も、やはり集中が途切れた。

 結局のところ、水瀬咲良という転校生の存在に違和感を感じるものはあっても、核心に迫ることはできない。やはり、夢の中の少女と咲良が似ているのは、単なる偶然なのだろうか、と少しずつ思い始めていた。


「気をつけ、ありがとうございました」

 ショートホームルームが終わり、生徒たちがそそくさと帰る準備を進め、教室を出ていく。今日は午後から曇り、雨が降る予報だったからか、みんな早めに帰る気配だった。

 また、水瀬さんはバックだけ置いて教室を出ていく。先生に呼ばれたのか、単に御手洗に行ったのか、ふと考えてしまう。


 今日は放課後まで談笑していた女子2人組もすぐに帰った。雲がたちこめているので、長居は良くないと思ったが、それでも水瀬さんの行方が気になっていた。

 放課されて数分後、高橋が散らかった机を片付けながら話しかけてきた。おそらく、あのセリフだろう。


「おい楓、今日は早めに帰ろうぜ?雨降りそうだぞ」

「高橋……うーん、どうしよっかな」

「流石に先生にも心配されるかもしれんぞ?親がいないのかとか思われそうだし」

「でも、読みたい小説があるから持ち帰るのもなんか嫌だな」

「また小説かよ。なんで嫌なん?」

「それがさ、学校に来れば小説を読めるって感じにしないと、モチベーションが上がらなくてさ」

 もちろん、こんな理由だけで躊躇っているわけではない。

 スマホを確認すると、天気予報では5時頃から雨が降るとのこと。しかし、今はまだ小雨程度だった。結局、高橋は楓のことを気にかけてくれているようだが、それでも心のどこかで何かを感じていた。

 挙句、水瀬さんが気になるので、別の言い訳をして高橋に先に帰ってもらうことにした。


「やっぱり残ろっかな」

「いいのか楓?傘はあるのか?ないなら俺の折り畳み傘貸すぜ?」

「いや、傘は持ってるよ。大丈夫、そんなに土砂降りにならなければ問題ないよ」

「世間ではそれをフラグって言うんだぜ?まぁいいや、それなら俺は先に行くよ」

「うん、また明日な」

「おう、じゃあな。お疲れ〜」

 咄嗟に読みたい本があるから残ると言おうとしたが、高橋は理由を聞いてこなかった。

 こういう個人的な事情に頭を突っ込まないところが、ありがたいし、好感が持てる。教室に残る生徒がだんだん少なくなっていく中、楓はようやく一息つき、シオリに指をかけた。


 ───小説を読み始めて30分が経過した。

 その時、楓は1人の気配を感じた。教室に残っているバックは水瀬さんのものしかないので、きっと彼女だろう。

 その思いで、思わず小説の文字を追うのを止める。


 暗い教室のドアが開き、入ってきた少女は案の定、水瀬咲良だった。


「あっ、霧島くん……。今日も小説読んでるの?」

 少し驚いた様子の声と仕草だったが、すぐに明るい笑みを浮かべて、暗い教室でもわかるように笑顔を向けてくれた。


「うん、そうだよ。それより、水瀬さんは何してたの?」

「えっ?私?特には、何もしてないかな…」

「何もしてなかったの?」

 咲良の言葉に違和感を感じて、思わず話しかける。


「えっと…ほんとに何もしてないよ?ちょっと、友達に捕まっちゃって…あはは…」

 その言い方に、何か別の理由を隠しているような気がした。明らかに、この時間帯まで彼女を引き止めるような生徒がいるとは思えない。しかし、深く聞くのも躊躇われた。そのため、しつこく質問するのはやめておこう。


 少しの沈黙の後、咲良が口を開いた。

「そんな事より…霧島くんは帰らないの?」

「あー、もうちょっと残ろっかな。今日は6時台まで残るつもりだけど」

「そうなの。うーん…私もちょっと残っていい?霧島くんに案内お願いしたいから」


 ふとした言葉に疑問を返す。

「案内?」

「そう、案内。私、昨日転校してきてからやることが多くて、ゆったりした時間が過ごせなくてさ。学校の中を案内して欲しかったんだけど、声掛けられなくて…」

 もうだいぶ暗くなり始めている。外は雨が降り始めたので、今は5時頃だが普段より暗い。それに、案内と言っても、僕以外に宛はあったはずだし、先生が普通は案内とか紹介とかするものだろうか。


「なんで僕なの?」

「うーん、霧島くんって遅くまで残ってるでしょ?それに、放課後にならないと、休み時間とか短くて全部案内して貰えないでしょ?これは、霧島くんが適任だと思って。」

「……そう?まぁ、案内くらいなら全然いいよ?」

 予想の斜め上だった咲良のお願いに、少しばかり驚く。だが、彼女の期待感と、優しさに溢れた表情から、断る気にはならなかった。

 現在時刻を見ても、まだまだ巡回の先生は来ないだろう。6時に巡回の先生と合流した時が、学校を出る最後の合図になる。しかし、その時間になるまで後50分以上余っていた。規模がそこそこある高校なので、全部回ることは出来なくても、教室棟や特別教室棟辺りまでは見て回ることはできるはずだ。


「じゃあ、時間もあれだし、行く?」

「うん!ごめんね、わがまま言っちゃって」

 提案をしてみると、咲良は嬉しそうに頷いてくれた。

 わがままとは思うが、不快な我儘な訳では無いし、謝られる筋合いは無い。そのため、「謝らなくていいよ」と促してあげた。

 

 教室を出て階段を上り、教室棟3階へ向かう。

 5時過ぎの教室は、外の立ち込める雲と日の入りの影響でだいぶ暗かった。


「もう暗いね。外はまだ雨降ってるし」

「まぁね。ただ、晴れてたらこの時間帯は結構夕焼けが綺麗な時間帯なんだよ」

「そうなんだ。それにしても、すっごく静かだね。こんなにもシーンとしてるとは思わなかった」

「この時間帯と言えば、居残りする生徒は僕くらいしか居ないんだ」


 楓は2年生のクラスのうち、1組に所属している。この高校は、学年それぞれにフロアがあり、校舎の2階が2年生、3階は1年生、1階が3年生のフロアになっている。また、校舎もいくつかあり、教室棟だけでなく、管理棟、特別教室棟など様々なものがある。


「ここが1年生のフロアだね。ちょっと見て回ってみよっか」

「うん。えっと…この部屋は?」

 階段を登って左に曲がると、右側に見える部屋へ咲良は目を向けた。

「これは生徒会室だね。生徒会が集まって、ここで打ち合わせしたり食事したりするんだって」

「生徒会室…私生徒会やったことなくて、見たこともなかったな。こんな感じの部屋なんだね」

「思いのほか広い部屋だよね」

「確かに。もっとこじんまりとしてるイメージだった」

 予想はできてたが、施錠はされていた。

 しかし咲良は、扉に着いている窓から部屋を覗いている。何が彼女をそこまで興味を持たせるのか少し不思議に思った。室内には、色々な書類の入った棚や、ペンを始めとする道具などが散乱していて、綺麗と言える部屋ではなかった。まぁ、その点についてはそこまで重要では無い。

 数秒して、咲良が次の場所へ行こうと提案してきたので引き続き案内する。


「ここから教室がずっと並んでるね。1年生は…合計何人いたか分からないけど、例年通りならクラス辺り40人くらいで、5クラスあるかな」

「私たち2年生は?」

「同じくらい?あっ、でもちょっと少ないかな。1組は確か36人だったはず」

「なるほど…。1年生の教室、入ってみていいかな?」

「いいと思うよ。まだ巡回の先生来ないはずだから」

 そう言うと、教室のドアを開けて入る。

 薄暗く、電気が付いていない教室に人の気配は無い。ここは1年1組の教室だ。この真下には、楓たちの教室がある。

 さすがに暗いので電気をつけてみると、先程の暗さをかき消すような眩い蛍光灯の光に2人とも目を細める。結局、さっきの暗さがいいという結論となり再び電気を消す。


「雨、止まないね」

 ふと、咲良が教室の窓の景色を見ながら呟く。


「そうだね。でも、こういう自然の音とか、雨の音って、落ち着くんだよね」

「その気持ち、わかる気がする」

 短めの会話だったが、心地よかった。教室の窓から見える雨の景色をしばらく眺めていたが、外はまだしとしとと降り続けている。しばらく静かにしていた二人が、ふと目を合わせた。


「こうやって、ずっと見てると、なんだか時間が止まったみたいだね」と咲良が呟く。それに対し、「うん、そうだな」と返事を返す。楓も同じように感じていた。


 しばらくそのままでいたが、ふと時計を見ると、思いのほか時間が経っていたことに気づく。


「そろそろ、行こうか」

 楓が口を開く。

「うん、そうだね」

 咲良も同意して、二人は教室を後にした。


 廊下を歩きながら、二人は次に向かうべき場所を決めようとしたその時、どこからともなく足音が響いてきた。廊下を歩いてくるのは、巡回の先生だ。二人は思わず顔を見合わせる。


「やばい、先生だ…!」

 咲良が慌てたように小声で言う。


「そうだな…ちょっと戻るか」

 そう言うと、楓も急いで足を速め、二人は慌てて教室棟の方に向かって戻り始めた。


 急いで歩きつつ、楓は振り返りながら言った。

「今日の巡回の先生捕まると面倒臭いんだよね……。少しだけ教室で待とうか」

「うん、そうだね」

 咲良も一緒に歩きながら、足早に戻っていった。


 二人は早足で1年生の教室に戻ると、ドアをそっと閉めて中に入った。先ほどの電気を消した状態で、再び窓の外の雨音を聞きながら静かに待つことにした。


 その後、数分が過ぎ、巡回の先生の足音が遠ざかるのを確認した二人は、再びドアを開けて廊下に出た。時間も少し経ってしまっていたので、そろそろ帰る準備を始めることにした。


「流石に、先生に見つかるのは嫌だね…」

 咲良が少し苦笑しながら言った。


「うん、次はもうちょっと早めに切り上げないとな」

 楓がそう言って、二人は急いで元の教室へ戻ると帰り支度を始めた。

 その後、二人は急いで学校を出る準備を整え、少し名残惜しそうに校門を抜けて、外の雨の中へと歩き出した。


 少し歩き、帰路にあるいつもの駅まで咲良と共に避難した。雨は小雨だったものの、さっきまでかなり雨は降っていたせいもあって、靴や制服のズボンはびしょ濡れになっていた。無論、それは隣にいる咲良も同じだ。


「水瀬さん、大丈夫?」

「うん、平気だよ。ただ、さっき大きい水たまり踏んじゃって、靴下がびしょ濡れだけどね…」

 そう言いながら、咲良は少し苦笑いを浮かべて、自分の靴を見下ろした。ぴちゃぴちゃと音を立てる歩き方が妙にコミカルで、思わず楓の口元が緩む。


「まぁ、靴下くらいならすぐ乾くよ。駅まで着いたから少しは休めるし」

「そうだね。ありがとう、霧島くんが一緒で助かったよ」

 軽く礼を言われた楓は、なんとなく照れくさくなり、「別に」と言いながら目を逸らした。雨音が会話を遮るように響き、しばらくの間、二人の間には静けさが漂った。


 在来線は混んでいた。

 帰宅ラッシュの時間帯に乗り込んだせいで、車内はぎゅうぎゅう詰めだ。楓にとっては日常の風景だが、咲良にとっては勝手が違うらしい。肩が触れるたび、彼女は少し申し訳なさそうな顔をする。


「霧島くん、ちょっと当たっちゃったらごめんね?」

「う、うん。大丈夫だよ」


 彼女の声は周囲のざわめきにかき消されそうだったが、それでも楓にははっきりと届いた。こんな密着した状態では、否が応でも彼女の肩の温もりを感じる。気まずさを振り払うように、楓は話題を切り出した。


「普段こんな電車には乗らないの?」

「うん、久しぶりかも。これが毎日だなんて、すごいね」

「慣れたら平気だよ。まぁ、最初は嫌だったけど」

「私はいつまで経っても慣れなさそうだなぁ」

「それが普通だよ。むしろ、これに慣れちゃう方が変なんだと思う」

「そっか。そうかもね」


 会話が途切れると、再び周囲のざわめきが耳に入る。列車のブレーキで前に倒れ込まないよう足元に力を込めながら、楓は目的地が近いことを車内放送で確認する。人混みをかき分けて降車準備に入った。咲良もそれに続く。


 列車が停まり、ドアが開いた瞬間、二人は息を揃えてホームに降り立った。

「ふぅ…疲れちゃった」

「お疲れ様。これでも今日はマシな方だけどね」

「えぇ!?これでマシなの?霧島くん、ほんとすごいよ…」

 咲良の声には本気で驚いた様子が滲んでいた。楓は肩をすくめ、軽く笑う。

「毎日放課後これくらいの時間に帰ってると、嫌でも慣れるんだよね」と言うと、彼女は関心したリアクションをした。


 改札を出るまで、楓は周囲の人波を気にしながら、さりげなく咲良の歩調に合わせる。ようやく駅を出ると、雨上がりの空気が冷たく頬を撫でた。しばらく歩き、小さな交差点に差し掛かったところで、咲良が立ち止まる。


「今日は本当にありがとう。また案内してくれる?」

「え?あぁ、全然いいよ」

「ふふ、無理しないでね。霧島くんの都合が1番だからね」

「ううん、案内くらいするよ。そのくらいなら、僕にできることだし」

「ほんと?ありがとう。じゃあまた明日ね」

「うん。気をつけてね」

「分かった。おやすみなさい」

 咲良が小さく手を振りながら去っていくのを見届けた楓は、ふと夜空を見上げた。雲が薄れ、星がわずかに顔を覗かせている。いつもの帰り道のはずなのに、どこか満たされたような気分がするのは、咲良のおかげだろうか。


 静けさを取り戻した道を歩きながら、楓は心の奥でほんの少し、今日という一日を特別に感じていた。


 家に帰ると、楓は濡れた制服を脱ぎ捨て、部屋着に着替えてから夕飯を済ませた。日課にしている課題も淡々と終わらせると、風呂で一日の疲れを落とした。

 部屋のベッドに腰を下ろし、ぼんやりと窓の外を眺める。外は既に雨は降っておらず、ライトアップされた住宅街の家の光が見えていた。


 頭の中には、昼間からずっと考えていたことが渦巻いている。───夢の中で見た少女と咲良のことだ。

 夢の中の少女が咲良ではないかという考えは、何度も楓の中で浮かんでは消えていた。いくら考えても確証に至ることはできない。現実の咲良は、ただの転校生であり、友好的で明るい女子高生であり、それ以上でも、それ以下でもないはずだった。


 だが初めて咲良と会った時に感じた既視感の正体について、どうにも引っかかる。

 初めて咲良と出会った時に感じた違和感は、少しずつ薄れてきたものの、それでも楓の中で完全に消えたわけではなかった。


「まだ、夢が変わる可能性もある……か」


 独り言のように呟きながら、楓は自分なりに仮説を立ててみた。


 夢の中の少女が咲良と酷似している以上、夢の中の少女が咲良と同一人物だと仮定してみる。そうすると、夢の中で描かれるものは、あの少女の幼さからして、咲良自身の過去の記憶となる。そして、夢の中に登場する少年が自分だとすれば──自分と咲良は、幼い頃に会っていたことになる。


 しかし、その考えには1つ綻びがあった。そう、楓の記憶にはそんな事実はどこにもないという点だった。

「夢は基本的に、自分の経験を元に作られる」と何かで読んだことがある。だとすると、この夢が意味するのはなんだろうか。


「やっぱり、水瀬さんはただの転校生だよな…。こんな幼い頃に出会ってたなんて、ありえないよな」

 そう自分に言い聞かせながらも、ふと別の可能性を思いついた。


 楓はスマホを取り出し、「明晰夢」というキーワードで検索してみた。夢の中で自分が夢を見ていると気づき、意識的に行動することができる現象。読んでいくと、明晰夢を体験できる人はごく少数であることや、見られる条件が非常に難しいことなどが書かれている。


「……仮に夢だと気づいて、あの少年を僕の思う通りに動かせたら……あの少女に直接話しかけられるかもしれないな」

 自分が見ている夢の中で、夢だと認識する。そして、意識を保ったまま行動する──もしそれができれば、この夢の謎に一歩近づける気がした。


 ただ、それがどれだけ難しいことなのかは明白だった。データによれば、あるアンケート調査では400人中たった2人しか明晰夢を見たことがないという統計もあった。特別な訓練や心理状態が必要だという記事もあり、成功の確率は極めて低い。


「まぁ、試してみるしかないか」

 楓は自分にそう言い聞かせる。どんな手段を取っても、この夢の真相に近づきたいという気持ちが芽生えていた。夢を夢と自覚し、その中で自由に動けるなら、何かが掴めるかもしれない。


 決意を固めると、楓はスマホを机の上に置き、布団に横になった。閉じた瞼の裏で今日一日の出来事がぼんやりと浮かび、やがて意識はゆっくりと薄れていった。


───痛みを感じる夢かもしれないと思ってはいたが、今はそんなことを考えるほど、余裕を持つことすら出来なかった。



 やはり夢だ。

 楓は今回も少年の視点から景色を眺めている。寝る前の記憶を辿り、目的を実行する。しかし自分が夢だと認識しているにもかかわらず、少年の体を動かそうとしても一切言うことを聞かない。何もできず、ただ流れるように展開される夢を目撃するしかないのだ。


 今回の舞台は教室のようだった。壁には掲示物が貼られ、窓から淡い光が差し込んでいる。しかし、その空間全体がどこかぼんやりとしているのは、夢特有の感覚だ。


 目の前にはやはり、咲良に似た少女が立っていた。彼女は険しい表情を浮かべ、少年に向かって何かをまくし立てている。


「───!なんで───なの!───を──────って約束だったじゃん!」

 声は聞こえるのに、言葉の輪郭がぼやけている。楓には断片的なフレーズしか理解できない。ただ、その中の「約束」という言葉だけは明確だった。


「夢の花を咲かせよう」

 聞こえなかった約束の正体はそれだ。幼い頃、夢の中で聞いた言葉。この少女の口から再びそのフレーズが発せられたように思えた。


 少年も何かを言い返しているようだが、その声もくぐもっており、内容まではわからない。声のトーンから察するに、必死に反論しているのだろう。

 だが、少女は少年の言葉を遮るように、さらに声を荒げた。


「───!もう知らない!」

 少女はそう言い捨てると、くるりと背を向けた。その仕草には拒絶の意思がはっきりと現れている。彼女は顔を背けたまま、教室の出口に向かって一歩、また一歩と歩き出していった。その背中が、妙に現実感を帯びているように思える。


 楓は心の中で何かを叫ぼうとしたが、夢の中の少年は動かない。ただ、少女の小さな背中を黙って見送るしかできなかった。


(なぜ喧嘩しているんだ?何が原因なんだ?)

 そう考えた矢先、視界が暗転し、場面が切り替わった。


 次の瞬間、楓の視点の少年は、放課後らしき時間帯の廊下に立っていた。窓から差し込む夕日の光が柔らかく床に広がっている。場面が切り替わるときに感じた、不快な違和感がまだ残っていた。


 少年はどうやら少女を追いかけてきたらしい。少女は廊下の窓際に立ち、遠くを見つめている。


「……───、ごめん」


 少年が何かを言っている。楓にはその言葉の内容こそ分からないが、その声色には明らかな後悔と謝意が滲んでいた。先ほどの喧嘩について謝りに来たのだろう。


 少女は振り返らず、窓の外に視線を向けたまま、少しだけ肩を震わせた。そして、しばらくの沈黙の後、微かな声でこう呟いた。


「───。……仕方ないなぁ」


 その声が響いた瞬間、少女はゆっくりと振り返った。彼女の顔には、どこか寂しさを湛えた笑顔が浮かんでいる。それでもその笑顔には、わずかな温かさと救いのようなものが含まれているように思えた。


 楓はその光景に心を揺さぶられ、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。だが、夢の中の少年の体は相変わらず動かない。ただ、この場面を見届けることしかできなかった。

 楓の中で、仮説が新たな確信に変わりつつあった。

夢の中で動けない理由は、「過去を改ざんすることは出来ないから」ではないのだろうかと。もし仮に、この夢が誰かの過去で、実際に起こったことなのだとしたら、夢の中で少年の意志を操るのは、言い換えれば過去を書き換えることになる。


 ───そうなると、楓は誰かの記憶をみている第三者の鑑賞者では無いのかもしれないと、そう考えた。その頃には意識が遠のき、夢から目覚めるのだろうなと実感した。



 目を覚ました楓は、ベッドの中でしばらく呆然としていた。

 今回の夢は、これまでの夢とは明らかに違っていた。喧嘩、仲直り……そして、「約束」という言葉。それは楓の記憶のどこかを微かに揺り動かすが、今もその全貌は掴めない。


 痛みではなく、切なさや温かさだけが残る不思議な感覚。そして、予想していた「苦痛な夢」とは異なり、どこか懐かしささえ感じる内容だったことに、楓は戸惑っていた。


「これって……いったい……」

 額に手を当てながら、楓は曖昧な記憶の輪郭を追おうとする。それでも、その答えは霧の中に隠れたままだった。


 時計を見ると、時刻は朝の4時を少し回っている。

 朝が近づく気配を感じながら、楓は再び目を閉じたが、心の中では得体の知れない感情が静かに渦巻いていた。

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