皇国の最期
1945年8月15日
広島、長崎に原爆が投下され、
ソ連からの侵攻をも受けた大日本帝国は、
ポツダム宣言を受諾し連合国に対し降伏
しなかった。
1945年8月16日
昭和天皇による玉音放送、そして降伏という現実を受け入れることのできなかった陸軍青年将校が帝都東京にて蜂起、これに海軍青年将校も加わり瞬く間に政府機関を掌握、蜂起には一部の近衛師団も加わり、皇居をも掌握した。
同日に発足した新政府によりポツダム宣言受諾の撤回が発表され大日本帝国はさらなる泥沼の戦いへと向かっていった。
1945年8月19日
3発目の原爆が帝都東京に投下、
その後も小倉、大阪、佐世保、神戸、横浜、新潟、
そして京都などの日本各地に原爆は投下された。
1945年11月5日
連合国はダウンフォール作戦を発令し
同時にオリンピック作戦が開始された
栄光を誇った帝国聯合艦隊にはもはやこれを止める力はなく、連合国は鹿児島に上陸。
帝国陸軍は九州を決戦の地と見て上陸部隊の殲滅を計画、が、上陸部隊を殲滅しようとした陸軍部隊は敵の艦砲射撃により壊滅、その後も何としてでも侵攻を止めようとしたが、1946年1月24日九州は完全に陥落、
両軍が関門海峡を挟んでにらみ合うという江戸時代末期のような状態となった。
1946年4月16日
連合国はコロネット作戦を開始し、
関東に上陸、関東平野を占領し、日本の心臓部を完膚なきまでに粉砕することとした。
そして1946年5月5日からは東京決戦が行われたが、
既にほとんどの戦力をなくし、残っている軍も中国大陸に閉じ込められている大日本帝国に大した抵抗ができるわけでもなく、1946年5月5日最後まで陸軍庁舎に立てこもり抵抗を続けた部隊を艦砲射撃により建物ごと粉砕したことにより大日本帝国の戦力は事実上全滅、そして東京での決戦の影響により政府機能も崩壊、急遽発足した臨時政府により今度こそ無条件降伏の受諾が発表され、
1946年5月6日
大東亜戦争は終結した。
連合国に降伏した大日本帝国は連合国の支配下に置かれることになり、
本州南部をアメリカが、九州をイギリスが、四国を中国が、そして、北海道と本州北部をソ連が占領することとなり、日本という国は消滅した。
その後冷戦の時代がやってきたが、
朝鮮半島は既にソ連が押さえており、さらに核開発も成功させたソ連は、アメリカにとって強大な脅威となった。
そしてアメリカは、ソ連の脅威を抑え込むためにも何としてでも日本を仲間にしなければならないと考えた。
1951年9月8日
サンフランシスコ平和条約の発効により本州南部、九州、四国を国土とする日本国がアメリカ支援により、
本州北部、北海道を国土とする日本人民共和国がソ連支援により誕生し、日本は南北に分断されることとなった。
1960年4月10日
こんな状態の日本を一変させんとする出来事が起ころうとしていた。