被虐の巫女のやりなおし ~幼女に戻って龍神様に愛される~
これは、私がまだ幸せになる前、村で巫女として生きた最後の日の話。
今日は、私の誕生日。
そして私の命日だ。
だれが悼んでくれるわけでもない、惜しんでくれるわけでもない。
ただ、三十歳になったから巫女として用済みだと――それだけの理由で、私はこれまで仕えてきた龍神様の守護するという村のひとびとに、命を絶たれる。
村からその役割を強いられた巫女として、一生を終える。
人間らしいことは――生涯、ついになにもできなかった。
食器で食事をすることも。あたたかい布団で眠ることも。愛し、愛されることも。
朝早く。
神社の奥にある、龍神様がいらっしゃると伝えられる湖のほとりで。
私は村人たちを前に、正座させられていた。
いつぶりかわからないほど久しぶりに着せられた、まともな服。巫女服の正装で――どうせこんなの汚れてしまうから、無意味なのに。
村人たちは、今日の私のためにわざわざ、各々の家から道具を持ってきてくれている。……要らないのに、そんなの。
いますぐに、持って帰ってくれたらいいのに……。
……命など、惜しくはないと思っていたけれど。
やっぱりいざ命日となると――怖いものだな、となんだか他人ごとのように、思った。
木々の狭間から見える、空を見上げる。
……命日は、せめて晴れればいいなと思っていたのに。
あいにくの、曇りだった――しかも、いまにも雨が降り出しそうな、灰色の。
……天気までも、私に味方はしてくれない。
ずっと、願うことが、うまくいったことなどない。
「本日、当代の巫女が役目を終える」
湖を後ろにして、村長が仰々しく、村人たちに宣言する。
村長も村人も立っているから、正座させられている私からすればずいぶん視点が上だ。
村人たちは、静かに頭を垂れているけれど――形式上のものだ。彼らが頭を下げているのは、龍神様やその巫女を生涯務めた私に対してではなく、村でいちばんの権力を持つ村長に対して。あるいは、緊張感ある空気に従っているだけだろう。
「巫女の命を、最後の欠片に至るまで龍神様にお捧げする。みな、龍神様に祈ろう」
村長。……龍神様を、本気で信じてなんかいないくせに。
村人たちだって。龍神様を敬ってなんかいない。
……みな、おざなりに格好だけの祈りを見せる。
龍神様を、もうみんな本気では信じなくなってしまった。
その証拠に、結重神社はいまにも朽ちてしまいそうなほど、古ぼけてしまっている。
神社の最も奥――つまり最も神聖であるはずの龍神様の湖も、水が濁っている。
……神社をいつも綺麗に保つのは、龍神様とのお約束だったはずなのに。
この村は、かつて龍神様の怒りを買って、近くにある川が氾濫して滅ぼされかけたのだという。
当時の村人たちは改心して龍神様に謝罪し、龍神様に心より奉仕することでこの村を護っていただけると、龍神様とお約束したはずなのに――。
私などが、僭越かもしれないけれど。
神社を綺麗にして差し上げたい、と。
もはや廃墟と見まがうほどの結重神社が朽ちていくのを三十年ぶん見ていた私は、いつも思っていた。
たまに村人たちの気まぐれで外に連れ出されるときにも、いつも思っていた。
廃墟同然の結重神社の、社務所とは名ばかりの牢屋に獣同然に閉じ込められてきた私には、神社のお手入れをしたくともできなかった。そもそも、……掃除って、どうやっていいのかわからない。だれも教えてくれなかったし、自分でしてみたこともない。
敵意を剥き出しに、そうでなければただ退屈そうな顔をした村人たちのなかで、小さな子どもたちだけは、不安そうにしていた。
年端もいかない女の子が、不安そうに、母親と母親の抱くおくるみに包まれた小さな赤ちゃんを見る――。
私が巫女に命じられたのは、あの女の子よりも幼いころだった。
次の巫女、……村の犠牲者は、だれになるだろう。
前の巫女もやはり、三十になる誕生日の日が命日になったという。前の巫女が命を終えた年に、孤児だったらしい私が、新しい巫女――いわば犠牲者として、選ばれた。
神社の社務所で食事もろくに与えられないで、でも命を終えることもできず、村のためにずっとずっと、生かされることになった。
前の巫女も――孤独で、地獄の世界に生きていたのだろうと、……私は勝手に親近感を抱いている。
これから――死後の世界で、会えるのかな。
前の巫女には、家族がいたのだろうか。
私は、孤児だったけれど。
それはそれで、よかったのかもしれない。
自分が、毎日、つらい思いをしているのに、おなじ村に住んでいてなぜ助けに来てくれないのと嘆かなくてもよかったから。
それに。
自分が、命を絶たれるってときに。
村人のなかに、産みの親や血のつながった家族がいて――それなのに助けてもらえずに、ただ命を奪われていくだけというのは、……悲しかっただろうから。
いや、むしろ――そんな悲しみさえ得られない私は、ほんとうのほんとうに、……不幸だったのかも、しれないけれど。
もうそんなこと考えてもしょうがない。
私の三十年の儚い人生には――龍神様の巫女として結重神社に閉じ込められて孤独に生きる以外、なんにも、なかったのだから。
形ばかりの祈りを終え、村長や村人たちが目を開ける。
「巫女よ。――なにか言い残すことは?」
村長はやたらとぎらぎら光る瞳で、私を高みから見下ろしてくる。
村人たちも、私を蔑んでいる。
……老若男女関係なく、うつむいている人は、私を憐れんでくれているのかもしれない。
彼らは直接、私を虐げてくることはなかった……。
けれども私を助けてくれることもなかった。
……仕方ない。私だって、巫女ではなければ――巫女を助けるなんて、できるわけない。
そんなことすれば、次に巫女に指名されるのは――その家の女だろうから。
だれだって。
この村の因習の、被虐の巫女にはなりたくないはずだ。
言い残すこと。
だから。……私が、願うのは。
私で、被虐の巫女は最後にしてくださいませんか――。
……もう、こんな因習、なくなってしまえばいい。
お願いだから――私で、最後にして。
これ以上、神聖な龍神様の名前を利用して、苦しむ少女を生み出さないで――。
しかし、私は。
せめてもの願いを、言葉にできなかった。
唇をどうにか開けるのが、精いっぱいで。
それ以上は、怖い。
村長や村の人々になにかを言うのは怖い。
これまで口答えなどしようものならつらい思いをして、だから私は、いつしかまともに話をすることさえ封じていたのだから。
言いたかったのに……。
最期の最期まで私は、なんにもできない、……ただ他人を怖がるしかできない、被虐の巫女だった。
村長は、鼻で笑った。
「ふん。言い残すこともないのか……孤独な生涯よ」
村の人々も、嘲笑している。
もちろん。
望んで。
そんな人生を送ったわけでは――ない。
「それでは――龍神様への捧げ物を始めよう、皆の衆」
村長は、右手を高く挙げた。
その手には――曇りの日でも冷たい光を放つ、儀式用の器具があった。
他の村人たちも、各々、持ってきた手に儀式の道具を持つ。
村人たちは、今日の私のためにわざわざ、各々の家から道具を持ってきてくれているのだ。
私を、儀式の供えものにするために。
ああ。
これまでも、苦しめられたことも馬鹿にされたことも、いくらでも、……あったけれども。
命を絶たれるのは、これまでにないくらい、苦しかった。
「身体は龍神様への捧げ物だから、湖に投げ入れておけ」
村長の声がする。
身体……。
もう私は、ひとから見ても生きているか死んでいるかもわからない、状況なのだろうか。
……龍神様のいらっしゃるという、湖。
ずっと、手入れしたかったのに、できなくて。
ついに、汚れてしまったままだった……。
……はやく、この命が終わってくれるといいな。
ほんとうに。はやく、終わってくれるといい。
はやく……この意識が遠くなっていけば、いいのに。
私なんか早く解放されたい……。
はやく。
……私は龍神様を信じている。
もちろん、お会いしたことも、直接にその存在を感じたこともないけれど……。
家族の顔をだれひとり知らず、村のだれにも優しくしてもらえなかった私はずっと、神々しくて清らかな、龍神様を信じている。龍神様だけを、信じている。
せめて、最後は。
安らかに、してくださいますか。龍神様――。
ただそれだけの希望を込めて、私は灰色の空を見上げた。……空を自在に飛ぶと伝わる龍神様だって、こんな日に好き好んで飛びはしないだろうという、どんよりと曇った空。
――ひな。
頑張ったね、って。
生涯、ほとんど呼ばれなかった私の名前を呼んで。頭を撫でて、……きれいで、透き通っていて、もう苦しいことも痛いこともなにもない場所に、連れていってくださいますか……。
はやく、迎えに来て。
龍神様。
はやく。
……はやく。
私の意識は、そこで、途絶えた。……やっと終われる喜びを感じる間もなく。
そして。
このあと本当に、龍神様が私を迎えに来てくださるとまだ知るよしもなく――。
――ひな。ひな。
だれかが、遠くから呼んでいる気がした。
水の気配を、感じた。
龍神様のいらっしゃるという、神社の奥の湖に投げ込まれたからだ。
それは、わかる。
だけれど……なぜ?
冷たくはない。ただ、滑らかな感触の絹に包まれているような……それでいて清廉な、透き通るような香り……。
水中のなかで、漂っているような感じ。
苦しくはない。むしろ、全身はあったかくて……痛みもなくて……。
もう死んでいるはずなのに、おかしいな……。
――ひな。当代の、我が巫女姫。
生涯を俺への信仰へ向け、俗世の穢れも耐え、よく頑張った。
迎えに来たから……ともに生きよう……。
死んでいるはずなのに、眩しさを感じて、目を開けた。
そこには――信じられないことに、人間がいた。
光を弾き艶めく紺色の衣を翼のように纏った、驚くほど端正な顔立ちをした青年が――この上なく柔らかい表情で、私の顔を覗き込んでいる。
……こんなに優しく見つめられたことはない……。
人間?
……ううん。
ひと、ではない。たぶん。
だって、光り輝いている。このひとは。
衣をまとってもなおわかる、しっかりとしているけれど細身な長身のまわりに、光たちのほうから集まってきているかのように。
それに。
こんなに神々しい――美しいひとが、人間であるわけない……。
実りの秋の稲穂のような金色の髪も、遠く山々までも染める夕暮れのような真っ赤な瞳も。
あまりにも――人間離れしていた。
……だいたい、ただの人間だったら水中でこんなに穏やかに、苦しそうな素振りもなく私を見つめているはずがないのだ。
私もいま、苦しくないから――不思議だけれど。
そう。
私も、水のなかでたゆたっていた。
巫女服も水のなかでゆらゆらとゆらめいて……。
もう身体にくっついていなかったはずの腕も脚も、おそらく身体のなにもかもが元通りみたいになって。
水底に向かって深く深く仰向けの格好で、空中に浮くかのように、水のなかで……ふんわりと、浮いていた。
私は――死んだはずじゃ、なかったの?
水が、とても透き通っている……。
きれいだ。
こんなに透明で、なのに水の青さも鮮やかで――。
……濁っていた龍神様の湖も、これほど手入れされて透明ならばよかったのに。
そんなことを思っていると、目の前の青年は私の頬に両手を当ててきた。
「もう、哀しそうな顔はしないで……ひな」
水のなかなのに、あぶくとなっているはずの声がちゃんと聞こえる……。
「あなたは……だれ……?」
愛おしくて堪らないとでも言うかのように、青年はくつくつと笑った。
「貴女が生涯を捧げてくれた、龍神さ。貴女にはを伝えよう、我が真名は、陽という。俺は、ひなを迎えに来たんだよ――」
青年は微笑みを崩さないまま、しかしふいに真剣な雰囲気となる。
「愛しい巫女姫よ。龍神の寵愛をもってして、人間として、やりなおそう」
「……龍神様……」
現実味のないふわふわした頭で、私は言う。
「……ごめんなさい。神社も、湖も……ぜんぜん、きれいにできなくて……」
「ひなのせいじゃないさ。それに、神社はともかく湖はこんなにきれいじゃないか――」
「……え?」
龍神様だと名乗る青年は、右手を広げてあたりを示す。
眩しい光を反射して……きらきら、きらきらと、透明で青い水がきらめく。
「俺たち龍神が舞い降りれば、湖なんて一瞬できれいになるよ。……ひなの気持ちはわかっている。なんにも、気にすることはないさ」
「……龍神様になにもできなかったのに、気にしないなんてそんな……そんなこと……」
「――ひなが俺を愛してくれていたのは、よくわかっているから」
青年は、私の背中に腕を回して強く、抱きしめた。
「つらかっただろう……巫女が役目を終えるまで、龍神は手を出してはならない約束になっている。旧い約束だけれど……あの村の者の先祖と昔の龍神たちが契約した以上は、遵守せねばならないんだ。……俺はずっと、ひなを見ていた。村人たちが信仰をなくし、巫女にまでつらく当たるなか、なんて健気な巫女だろうと――貴女の生涯を、見つめていた。……見惚れていた」
青年は、苦しそうに、それでいて愛おしそうに話す。
こんな私などに、向かって。
「見つめていても、ひなが現役の巫女である以上は手を出せなくて、ずっともどかしかった……すまなかった、と本当に思う。これからは、貴女を苦しめはしない。村のやつらがなんにもしなかったぶんを――俺が、ひなになんでもしてやるから」
「……龍神様……」
私は、まだほとんど夢見心地で、……信じられない気持ちで、でも、……信じたい気持ちもあって、意を決して口を開く。
「貴方さまは本当に、龍神様なのですか。私などを……お迎えに来てくださったのですか」
「もちろん。ひなを、ひなだけを迎えに来た」
「……龍神様。龍神様……」
失礼だと、承知しつつも。
私は、紺色の高貴な衣をまとったその大きな胸にすがりついてしまった。
まだ、信じられない気持ちもあった。
けれども……信じたかった。
これは私の夢かもしれない。
それでもいい。
龍神様は、ほんとうに、いらっしゃったんだ。
龍神様は、嫌そうな素振りひとつ見せず――むしろ笑顔を深くして、私を両腕で包み込むように抱いてくれるのだった。
……信じても、いいよね。
龍神様は、私をお迎えに来てくださったんだ、って。
なんにもない、どころか、――苦しみと痛みを受け続けるだけの人生だった。
そんな私の人生の最期に……ひとつくらい、とっても嬉しいことが、……優しいことが起きたって、いいよね。
たとえ、蜃気楼みたいな夢でも……妄想でも……。
涙があふれる――水のなかなのに、ぽろぽろ、ぽろぽろと、……私の涙はふしぎなかたちの透明なしずくになる。
やっぱり、ここは、ただの水中ではない――龍神様のご加護が働いている、ふしぎな空間なんだ。
水のなかなのに、身体のぬくもりも、感じる。
龍神様が、いらっしゃる……。
「本当に……いらっしゃったのですね……すみません、こんな失礼なことを……でも、でも……私、ずっと、なんにもなくて……龍神様しか、いなくてっ……」
涙も、抑えられなかった。
「龍神様……龍神様……!」
龍神様は。
こんな私がすがりつくのを止めることもなく、ただただ優しく抱きとめて、背中を撫でてくれるのだった。それはそれは、優しく。
「わかっている。ひな。……わかっているから」
私が落ち着くまで、そうしてくれていた。
時がとまったかのような、ふしぎな水中の空間で――。
……ずっと、優しくしてもらったことなど、なかった。
肌にふれられることはあっても……それは、残酷な目的のためだけで……。
私は、はじめて知るあたたかさに、……おぼれてしまいそうだった。
……私の嗚咽も落ち着いて、すこし落ち着いてくると、急に恥ずかしくなった。
「……申し訳ありません。赤子みたいに泣いてしまって」
もう、私も良い年なのに……。
けれど龍神様は目を細めて笑い、私の頭をよしよしと撫でる。
「いいんだよ。ひなが心のままに泣いてくれたことが、俺は嬉しいよ。……俺は龍神だ。ひなの願いもわかっている。……ひなはずっと、まわりの人間のように生きてみたかったんだよね? 泣いたり、笑ったり、ときには甘えてみたり――」
「あ、その……」
自分の意志を尋ねられたことなどほとんどないから、口ごもってしまった。
でも、龍神様は。村のひとたちみたいに怒ることもなく、ただただ柔らかく、私の返事を待ってくれている。
「ひなが、もっとも幸福でいたかった時代に、これからは戻ることができるよ」
……どこか熱のこもった、けれど粘ついてはいなくて不快ではない、宝物を見るような慈愛に満ちた目で。
「もっとも、自分らしくいたかった姿?」
「先代の巫女も、その先代の巫女も、幼子のすがたに戻った。……その時代に、もっとも幸せでいたかったんだろうね」
「先代の、巫女……」
それって……私が巫女に選ばれる年に犠牲になった、私が勝手に親近感を覚えていた先代の巫女のことだろうか……?
どういうことだろう。
龍神様のお言葉の意味を、理解したい。
でも、うまく尋ねられない。
自分の思ったことをうまく尋ねる練習なんて――これまで、させられてこなかったから。
けれど、龍神様はそんな私の気持ちなどすべて見透かしたみたいに、愛おしそうに小さく笑った。
「龍神の郷では、最も自分が幸せでいたかった姿に、みんななるんだ。自然と、そのすがたになる。もちろん、ひながいくつの歳になっても、俺はひなのことが大好きだから、心配しないで」
龍神さまは、それはそれは優しく微笑む。
「ああ、そうだ。大事なことを訊き忘れていたよ」
龍神様は、にっこりと笑った。
「俺と、結婚してくれるね――ひな」
「けっこん……」
ずっとずっと、村では言われ続けてきた。
おまえは龍神様の嫁だから。
だから、だれとも結婚してはならない定めなんだと――。
言われ続けてきたのに。
「……いやか?」
龍神様は、不安そうにこちらを見てくる。
私はあわてて首を横に振った。
「いやなんて、そんなこと……あるわけ、ございません」
龍神様の顔が、ぱっと輝く。
「では、俺の花嫁となってくれる?」
「もちろん、もちろんです、こんな私でよろしければ」
「ひなじゃないと嫌なんだ」
龍神様は、格好いいのに、……悪戯っぽくて。
「よかった……断られなくて」
それでいて、安堵して煌めいていて。
……ふしぎ。
私なんかの答えに一喜一憂されるなんて、いままでなかったから。
「もう、ひなを悲しませるこんな村にいる必要はない。行こう。龍神のへ」
「龍神の郷――」
「俺にしっかり捕まってて!」
尋ねる間もなく。
龍神様は私を抱きしめると、――ものすごい勢いで、水のなかを上昇しはじめた。
水中から、地上へ。
濁っていたはずの龍神様の湖は、龍神様が降り立ったからなのか――信じられないほど透き通っていた。
じっくりと、見つめているもなく。
龍神様の飛翔は、地上からさらに天空へ。
生涯を過ごした結重神社が、どんどん小さくなっていく。
「わあ……!」
私は思わず、歓声を上げていた。
空から一面見下ろせる、畑、田んぼ、山々――。
どこまでも、壮大で。
とても、美しかった。
「どうだい? 天から見下ろす、人の里は」
「……すごいです、すごいです……!」
私の拙い言葉では、それだけ言うのが精いっぱいだったけれど。
「ひなが喜んでくれて、よかったよ」
龍神様には、伝わってくださったようだった。
龍神様は私を抱きかかえたまま、山の向こうを目がけて飛んでいく。
結重神社も、村も。
どんどん、どんどん、遠ざかっていく。
ついには、豆粒のようになって――見えなくなった。
そして私は、若き龍神様とともに、龍神様たちの暮らす郷へと向かうのだった。
高く鋭く堂々とそびえ立つ山々の上を軽々と飛翔する。
山に向かえば向かうほど、人間の暮らす里はどんどん少なくなっていく。
下を見れば深い森、上を見れば雪に染まる山の頂。
凍えるほど寒くてもおかしくないのに、ちっとも寒くなかった。むしろ温かった。
私などをそれはそれは大切そうに抱きかかえてくださる龍神様が……護ってくださっているのだろうか。
空を飛ぶ旅は、そう長い時間ではなかった。
たどり着いたのは高山の真ん中にぽっかりと存在する、神秘的な龍神様たちの郷。
「すごいです……」
思わず、言葉を漏らしてしまう。
周囲が深緑に満ちてしんと静まるなかで――龍神様の郷だけが、はらはら、はらはらと、桜であふれていたからだ。
龍神様の郷があったなんて……。
知らなかった。
でも、同時に私は納得もしている。
人間は、どんなに好奇心旺盛な探検家だってこんな秘境に辿り着けるわけがない。
こんなに深い森を分け入って、こんなに高いところまで、昇ってこられるわけがないから――。
そして若き龍神様とともに、龍神様の郷へ降り立つ。
「ただいま、そしてようこそ、ひな。ここが俺たちの、これから暮らすところだよ」
龍神様たちの暮らす郷は、入り口からして夢の世界のようだった。
瓦が龍の角のごとく堂々と反り返る、大きくて荘厳な鳥居。
ふかふかの草の絨毯に、桜がどこまでもどこまでも咲き誇る。花々の甘い香りが、透き通った空気を彩るかのように香る。澄み渡った池には赤い橋が渡され、中では鯉たちが優雅に泳いでいる。
さながら、理想郷だった。
「……きれいですね……すごく……」
胸がこんなにもいっぱいなのに、私の言葉ではそんな簡潔な言葉を漏らすだけで精いっぱいだった。
そして、自分の声に対してちょっとだけ違和感を覚える……あれ、私の声、こんなに高かったっけ?
でも普段から声を出さない生活をしていたから、よくわかっていないだけかもしれない。
若き龍神様は愛おしそうな声色で、私に言葉をかけてくれる。
「ひなが喜んでくれると、俺も嬉しいよ」
そこで、ふと、気づいた。
声が、頭上から聞こえてくる……?
隣に立つ龍神様を見上げた。
……龍神様の背丈がとても高いのかもしれない。
でも、それにしても、大きくていらっしゃる。
まるで幼子が大人を見上げているよう――。
「……龍神様は、大きいのですね」
若き龍神様は、くすくすと笑った。
「ひなが、小さいんだよ」
龍神様はしゃがみ込んで、私に目線を合わせる。
人間離れした芸術品のようなお顔が、すぐ目の前に……。
慌てる私に笑みをもっと深くして、龍神様は私の頭に手を伸ばして柔らかく撫でた。
「私は、小さいんですか?」
村の男たちより小さかったのは確かだけれど、私よりも小さな村の女たちもいた。
だからそう言ったのだけれど、龍神様はいよいよおかしくて堪らない、とでも言うかのようにくつくつと笑った。
「そこに池があるだろう。郷の池は澄んでいて鏡にもなるから、覗き込んでおいで」
「わかりました」
どうしてだろうと若干気になりつつも、私は小走りで池のほとりに行く。
龍神様が示したのは、赤い橋がかかり鯉の優雅に泳ぐ池のことだ。
池を、覗き込むと――そこに映っていたのは、小さな小さな女の子だった。
長い黒髪にぱっつんの前髪、桃色の下地に金色の星々のような模様の可愛らしくも上品な着物。頬はさくらんぼのように染まり、唇もつやつやして、弾けそうなほど健やかだ。
まだ年端もいかない、それこそ七つにもなっていないような。
龍神様も充分若く見えるけれど、もっともっと幼い――たとえるならば、兄と妹ほどの年齢差だった。
幼いころの私と顔立ちは似ていた……けれど、装いや雰囲気は似ても似つかない。
私がこのくらいの年齢のころには既に巫女とさせられていた。髪の毛はいつもささくれる木々のように乱れていて、まだ子どもなのに山姥だと村の男の子たちにからかわれていた。ろくな着物を着せられることなどなく、ぼろ布を服代わりにしていた。顔色はいつもげっそりとして、生気がなかったに違いない。
まばたきをすると、ぱちくりと湖に映る幼子もまばたきをした。
びっくりして口を手で押さえると、湖に映る幼子もそうした。
これは、もしかして……。
もしかしなくても、私だ……。
三十の大人だったはずなのに、幼いころの自分に――しかも実際よりずっと恵まれた状態で、……戻っている。
これが、自分がもっとも幸福でいたかった歳に戻れる――ってこと?
後ろに、優しい顔をした龍神様が映り込む。
そばに来てくださったらしい。
私は思わず龍神様を振り返った。
「龍神様、これは……」
「ひなが最も幸福でいたかった時代のすがただ。小さなひなも、とってもすてきだよ」
たしかに、おっしゃっていた。
でも本当に、幼子のすがたになるなんて……。
龍神様のお力というのは、やはり人間からすると計り知れない。
「それと、いつまでも龍神様、とよそよそしいのは戴けないな。龍神というのもたくさんいるんだよ。人間を人間、と呼ぶようなものだ」
「す、すみません……」
「怒っているわけじゃないんだよ、さみしいんだ」
あっけらかんと、龍神様……ううん、ええと、龍神の陽さまは笑う。
「ひなと俺はもうなのだから、龍神様ではなく、陽と呼んでほしい」
「え、えっと……」
畏れ多い。
それにだれかの名前を呼んだことなど、ほとんどないから……。
恥ずかしくて。
もじもじしてしまう。
「……よ、陽さま」
「さまなんて、つけなくてもいいんだけどな。陽、って気軽に呼び捨ててもらっていいのに」
「そ、そ、そんな、お、畏れ多くて」
さすがに、そんなの……畏れ多すぎて、卒倒してしまいそうだ。
「でも、ひなが呼びたいように呼んでもらえばいい。俺の愛しい巫女姫のひな――やっと、俺の名前を呼んでくれたね」
陽さまは後ろから私を愛おしそうに抱きしめると、髪にそっと口づけてきた。
私など、価値もないのに。だから、不安で。
どうして、私などをここまで愛しんでくださるのですか……。
そう尋ねたい気持ちと同時に、これまで経験したことのない熱い気持ちと感触で、全身と五感がいっぱいになって……不安までも融かしてしまう。
私は幸せになることなどなかったはずなのに……。
まるで夢の世界のような桜の吹雪く龍神様の郷で、自分よりもずっと大きな身体の若い龍神様の陽さまにかれながら、夢見心地で、……これが本当に夢だったなんて結末じゃなければいいのに、と切に願って、とろんとした気持ちで口を開く。
「夢みたいです……」
「夢なんかじゃないよ」
「夢だったら、どうしましょう」
「ひなが」
龍神様は、私を抱く腕に力を込めた。……とても夢とは思えない、現実味のある、圧倒的な感覚だった。
「信じてくれるまで、夢じゃないと言い続けるよ」
夢じゃない。きっと、夢じゃない。
信じたくて――でも生涯ずっと虐げられてきた私にこんな温かさが舞い降りてきたなんてやっぱり俄には信じられなくて、……私は、信じたい気持ちと温もりの狭間で、目を閉じたのだった。
桜の香りがふわりと広がる――。
陽さまとともに、鳥居をくぐった。
そこに広がる世界は、息を呑むほどの美しさだった。
鳥居の前にも桜は咲いていたけれど、鳥居をくぐったなかの世界は更に桜でいっぱいだった。
どこまでも続く桜並木が、静かに花びらを散らし続けている。
高くなってきたお日さまが、桜の花びら一枚一枚をびい玉のように輝かせる。
空は高く青く澄み渡り、桜を一層、輝かせていた。
両側には格調高い瓦屋根の家々が並ぶ。家々の前には上品なお着物を身にまとった――咲き誇る桜にも負けないほど美しいひとびとがずらりと並んで、一斉に、流れるように礼をする。……みなさま、なにか籠のようなものを持っていた。
私もつられて頭を下げかけたのだけれど――こらこら、ひな、顔を上げなさいと、呆れた感じなのに優しい陽さまの言葉に従って、顔を上げた。
「みな、ひなのために頭を下げているのさ。ひなが頭を下げてしまったら駄目だろう?」
「私のために……ですか?」
意味がわからなかった。
「そうだよ。ここは龍神の暮らす郷。彼らは龍神に仕える精霊たち」
精霊さま……。
見た目には人間に見えるけれど――端正な美しさはたしかに芸術品みたいで、人間離れしていた。
「そして俺は龍神で、ひなは龍神の花嫁なのだから――畏まられては、みなのほうが困ってしまうよ」
眩しく、陽さまは笑う。
こんなに美しい方々のなかにいても。
……陽さまの。輝くばかりの美貌は、圧倒的だ――。
頭を下げたことはいっぱいあっても、下げられたことはなかった……。
だから、現実味がなさすぎる。
熱をもったかのようにぼんやりしていると、陽さまが手を伸ばしてきた。
「手をつなごう」
「そ、そんな……」
「いいから」
躊躇する私の手を、嬉しそうに陽さまは取る。
陽さまの手は、すべてを包み込んでくれるほど大きくて、ずっとつないでいたいほど温かかった。
陽さまと手をつないで、精霊さまたちがずらりと並んでくれている桜並木の真ん中に、踏み出そうとする。
鳥居からまっすぐに伸びる石畳の道……真ん中は神様の通り道だ。
龍神様でいらっしゃる陽さまはともかく、私は端を歩かねばいけないのではないだろうか。
「あの、陽さま」
「なんだい、ひな?」
「龍神様でいらっしゃる陽さまと違い、神でもなんでもない私は――道の端を歩かねば、いけないのではないでしょうか?」
ぎゅっ、と。
陽さまは、私の手を握る力を込めた。
「そんなこと、ないよ。……ぜんぜん、ない」
はじめて見た、何かを嚙み締めるような、複雑そうな横顔だった。
私の視線に気がつくと、すぐにこちらを向いてにこりと笑顔になったけど……。
精霊さまたちが深く頭を下げているので、私もやはり頭を下げそうになってしまう……。
でも陽さまは、やはり何かを噛み締めるように、深く心に響く声で私に言うのだ。
「頭は下げなくていい。堂々としていて、俺の花嫁」
難しかったけれど、どうにか頭を下げずに足を踏み出すと――。
「ご結婚おめでとうございます! 陽さま、巫女姫さま!」
「おめでとうございます!」
「我々は陽さまの花嫁でいらっしゃる巫女姫さまのひなさまを、心より歓迎いたします!」
精霊さまたちは、それぞれ手にしていた籠から、色の違う――濃くて桃色のようだったり真っ白だったり、ふんわりとした桜の花びらを、次々と、投げては散らす。
きれいにお辞儀をしていたきっちりとした印象から、一転――精霊さまたちは、砕けた親し気な様子になって、どなたもにこにこと嬉しそうな笑顔で……。
私は少しだけあっけにとられて、きょとんとしてしまった。
「ね? 意外と、気のいいやつらなんだよ」
もともと桜の咲き誇る道が――ますます桜で彩られて、吸い込まれてしまうのではないかと思うほどに甘くて爽やかな香りと華やかな春の花の色に、満たされる。
歩けば歩くほど、桜が深まる――。
「お礼を申し上げないと……」
「ひなが幸せでいてくれることが、なによりの礼になるよ。龍神の郷は花嫁を待望しているんだ――早く来てくださらないか、来てくださらないかと、みな気が気ではなかったのだから」
「私などを……?」
信じられない気持ちで陽さまを見上げたけれど、もちろん、ひなをだよ、と陽さまは自信たっぷりに言い切る。
「ひなだからだよ。生涯を龍神に捧げてくれた、心の清い……報われるべき、花嫁」
「そんな……そんなことは……」
こんなに、桜の花びらに満たされているのに。
――私はふいに思い出してしまった。
それはもう、呪いだった……自分の深い深い根深いところに、こびりついている呪い。
――私の生涯は汚かった。けがれていた……とても、お天道さまに顔向けできるようなものでは、なかった。
「それに、ここに来たひなはもう礼を言うなんて、そこまで礼儀正しくなくていいんだよ。ひなは小さな小さな、可愛い女の子なんだから……少しは幼子らしくわがままになってくれなくちゃ、俺たちもやりがいがないよ」
「そ、そんな、わがままだなんて……」
「わがままに過ごしてほしいよ――生涯を、耐えたぶん」
私は、うつむいてしまった。
……わがままなんて。
言ったことも、やったこともない――幼少のことから、ずっと。
「俺の花嫁はとっても良い子だね」
桜の花びらが絨毯のように積もる石畳を、じっと見つめていたつもりだったのに――ふわりとふいに、視界が変わった。高くなって、上がって……。
視界に満ちるのは空の青と、青を埋め尽くす吹雪のような桜。
ほかになんにも濁りのない景色――。
なにが起こったかわからなかったのだけれど、一瞬のちに悟る。
どうやら私は陽さまに持ち上げられたようだ――。
理解が遅れたぶん、声が出るのも、一泊遅れて。
「ひゃわああ」
自分でもいやになるくらい変な声を出してしまい、……赤面する。
「良い子のひなには、高い高いだ!」
それ、そーれ、と陽さまのそれはそれは楽しそうなかけ声とともに、ふわりふわりと私の身体が宙に浮く。というより、空を舞う……ひとは空など決して飛べないはずなのに。
「わ、わ、わわわ」
喉から思わず漏れる声は、本当に変な声だ。
罵られても嘲られても仕方がないほど変なのに――。
「どうだい? 高い高いは、楽しい?」
陽さまは村人たちのように暴力や悪口の素振りなどまったく見せず、ぽーんと高く投げた私をふわりと確実に受け止めて、大きな胸で抱いたまま、それはそれはきらきらした目をしている。
「ここでは、ひなが我慢することなんて、なにもない」
「嬉しかったら笑えばいいし、そうだな、びっくりしたら声を上げればいいんだ。……さっきの、ひゃわわわわって可愛い可愛い声みたいにね」
「……ひゃ、ひゃわわわわとは言ってないです、……ひゃーって……」
……言いながら、自信がなくなってきた。
ひゃわわわわではなかったけれど、ひゃーでもなかったかもしれない……。
ひゃわああとか、わ、わわわ、とか、なんかそんな感じの……。
――って。私。口答えするなんて、なんたること。
私はそう思ったのだけれども――。
「そうそう、その調子だね!」
陽さまは、とってもとっても嬉しそうだった。
大事そうに、小さくなった私の身体を抱きかかえたまま――。
……にわかには、信じがたいけれど。
まるで、まるで。
私などを励ましてくれている、みたいだった。
陽さまは私の身体を軽々と抱きかかえ、精霊さまたちの祝福してくださる桜並木を進む。
「ひな。向こうにある、お城が見える?」
陽さまは私を抱きかかえたまま、右腕を伸ばしてぴんと、桜並木を進んだ先――深い緑が爽やかな山を示した。
山の頂点は桜色に染まり、まるで深緑の身体をもつ山が冠のように桜色を戴いているかのような風格があった。
そして山の頂上には、堂々と龍の角のようにそびえ立つ立派な建物がある。
信じられないほど大きくて、金色の壁と赤色の屋根があいまって、朝焼けの光そのもののように輝いていた。
「あれが、お城……初めて見ました」
噂には聞いていた。お城。えらい人が、暮らすところ。
でも私は村から、どころか生涯ほとんどを神社のなかで過ごしたから、ついにお城を目にする機会がなかった。
大きくて、煌びやかで、村などとは異なる雲の上の世界。
お城に入ったことのある恵まれた一部の村人たちは、うっとりとしていつまでもいつまでも、お城は素晴らしいところだと囁きあっていた。
自分も城主になりたいものだと、どこまで本気かわからない村長の言葉に、村長ならきっと下剋上で天下人になれますよとお追従を言う村人たちの記憶がよみがえってきた――彼らは盃を交わしていたのに、私は傍らに放置されて何も口にできず飢えていた。
……私からすればめったに行かない村長の家だって大きくて煌びやかで、別世界だった。
村のことを思い出してまた心がずきりと痛みかけたけれど、痛みきってしまう前に、陽さまが……声をかけてくださる。
「ひなは、なんでも初めてなんだね」
「はい……」
なんと答えていいかわからなくて、つまらない返事になってしまったのだけれど――陽さまはよしよしと、頭を撫でてくれた。私の身体を抱えているというのに、余裕の手つきで。
「それでいい、それでいい」
どういう意味でしょうか、と問わねばいけないだろうに言葉が出てこない。
それなのに陽さまは、もっと微笑みを深くして、わしゃわしゃと私の頭を撫でた。
「うまいこと返事しようなんて、俺の前では思わなくていいんだよ。小さな女の子が上手に返事をしていたら、そちらのほうが怖いだろう?」
「で、でも……私は、三十の……」
「違うよ、ひなはまだ七つもいかない、年端もいかない女の子。……ね?」
ね? と、微笑まれてしまうと。
それ以上、なにも言えなくなってしまうのだった。
「花嫁さま、花嫁さま」
笑顔いっぱいに祝福してくださる精霊さまのなかでも、ひときわ笑い皺の深い、翁のように見える精霊さまが、楽しそうに手招きをしてくる。
陽はその精霊さまの前に立ち止まって、私がその精霊さまのお話を聞きやすいような位置で抱きかかえてくれた。
「花嫁さま、僭越ながら、ここだけのお話ですが……」
その精霊さまは、柔らかい声色で話しかけてくる。
楽しそうに、子ども同士で内緒話でもするかのように。
「龍神様のお城は、現世の人間の住まうお城とは比べものにならないほどご立派なのですよ。花々が進んでその身を差し出し彩る、まさに神々のお住まいになる神聖な都でございます。この世でもっとも素晴らしい場所であると言えましょう」
「困ったな、そんなこと言われてしまったら、なんとしてでもひなに龍神の城がこの世でもっとも素晴らしい場所だと思ってもらわなくてはいけなくなるじゃないか」
「これはこれは。失礼いたしました。かっかっか」
陽さまは翁のように見える精霊さまを小突いて、翁のように見える精霊さまはかっかっかと笑いながら避ける。
陽さまと精霊さまの雰囲気はとても良くて、親しそうだった。
じゃれあっているみたい。
「陽さまは相変わらず明るくていらっしゃいますねえ」
「いてくださるだけで、ぱっと場が華やぎますよ」
「……良かったわねえ、本当に、ついに花嫁さまが来てくださってよかったわ。ずっとお悩みになってきた……陽さまのお気持ちを想うと……」
目頭を押さえる精霊さままでいらっしゃった。
陽さまは精霊さまたちに、そうだな、本当に、と笑顔で返すと、そのままの笑顔を私に向けてきた。
「往こう、俺たちの住まう城へ!」
陽さまは、とっても元気におっしゃって――だから私は、思わずふふっと笑ってしまった。
「……あ、ひな!」
私は、はっと手に口を当てる。
いけない、笑ったりしてはいけないのだ。
私などが……不遜だ。
「あ、わ、私ったら……申し訳ございません。笑うなど――」
「ひな!」
陽さまはとってもとっても嬉しそうに、私の名前を呼んだ。
「いま、笑ってくれたよね?」
「え、は、はい――」
「ひなの笑顔は可愛いなあ――」
可愛い……。
そんなこと、言われたこと、ない。
「これから、もっともっと笑わせてあげたくなる」
桜の木々はひとつ残らず満開だった。
陽さまが話してくださった――龍神様の郷の桜は、人間の里のものと違って、咲かないことも散ってしまうこともない。
ずっと、ずっと、咲き誇っている。
龍神が祝福されているあかしだよ、と陽さまはおっしゃった。
お城は、煌びやかだった。
巫女としてお勤めを果たしていた村の、夜に行われるお祭りが、私の知る限りいちばんの輝きだったのだけれど。
村のお祭りよりも、ずっと、ずっと。
私の背丈よりも背丈が高いけれど、見た目にはお若い陽さまは、少年のようにきらきらと私を導く。手を、しっかりといっしょに握って。
玉座に導かれた。
畳が一段高い玉座には、壮年の男性が座っていて――その膝には、幼い女の子が座っていた。七つもいかないほどの……いまの私とおそらく同じくらいの。
畳張りの部屋。豪華絢爛な調度品が上品に置かれている。甘い香も焚かれていて、本棚や筆、びい玉やめんこといった遊び道具もずらりと揃って、品のよさと過ごしやすさの両立した不思議なお部屋だった。
玉座に座っていらっしゃる龍神様は、陽さまに似ていた――端正な顔立ちといい、深い微笑みといい。
「戻りました、お父様」
陽さまはきれいにひざまずく。
私も慌てて倣おうとするけれど……。
「ああ、巫女姫、そなたは礼などしなくて良い」
陽さまのお父様だという龍神様のあたたかい声に、やんわりと制された。
「陽もご苦労だったね。堅苦しいのはいらない、顔を上げて」
「はい、お父様」
陽さまは顔を上げる。
「龍神の郷によく来てくれたね、当代の巫女姫であり花嫁となった、ひなよ。儂は陽の父、円という。気軽に円と呼んでくれればいい。よろしく頼むよ」
またしても頭を下げそうになる私の胸もとに腕を入れて、陽さまは立ったまま私を抱えた。視界が、一気に高くなる。
「ひな、本当に礼などいらないんだよ。花嫁は龍神にとって最も尊い存在なんだ。いつでも気楽にしていてもらえばいい――幼子となって自由奔放に、どんな場においても、したいことだけをしていればいいんだ。……龍神の郷では花嫁たちにぜひ、そのように過ごしてもらいたいんだよ」
「その通り。ふむ……当代の花嫁、ひなを見ていると、儂の愛しい愛しい小さな花嫁の幼いころを思い出すのう……なあ? すず」
円さまは、膝にちょこんと乗っている幼い女の子に話しかけた。
女の子は、ほんわりと答える。
「ほんとに。私も郷に来たばっかりのころは、可愛いひなちゃんのように戸惑っていたっけ。……ひなちゃん。よく来てくれたわね。私は、あなたの先代の巫女のすず」
「――先代の」
私が一方的に、勝手に共感を覚えていた、先代の……巫女。
「村は、相変わらず? 相変わらずというのはつまり、巫女を村の儀式の供えものにして、村の管理を円滑にするという意味だけれど」
「……はい」
「そう……ひなちゃん、あなたはいったい、あの村でどんな生涯を過ごしたのかしら。私はね……」
幼い容姿でありながらもなお大人っぽさと思慮深さを感じさせるすずさんが、ぽつりぽつりと話してくれた、彼女の生涯は。
……私の生涯とおなじくらい、悲惨なものだった。
私は、すずさんよりももっと言葉少なに、ぽつりと、……自身の生涯を語った。
途中で泣いてしまったりもしたけれど……。
私の下手な説明でも――ここにいるみなさんは、理解してくれたみたいだった。
……話しているあいだ。
陽さまは、私の身体をずっと――ぎゅっと、抱きしめてくれていた。
私の言葉に。ときには、彼まで肩を震わせながら、聞いてくれた。
私の話を聞き終わると、すずさんはこちらに歩み寄ってくる。それに伴い、円さまも玉座から降りてきて、すずさんの隣に座った。
「ごめんなさいね。きっとつらい思いをしていると、わかってはいたのだけれど……」
「それについては儂から謝罪とともに説明しよう……儂ら龍神は、かの村と契約を交わしている。かの村の人間たちは古来より龍神の加護のもとに暮らしていた。しかし時がくだるにつれて、かの村の人間どもは傲慢になり、龍神を軽んじ、自身の利益のためになら近隣の村を襲うなどの暴挙に出るようになった。これでは龍神の加護を受ける資格はない。そこで儂らの先祖の龍神はかの村を滅ぼそうとしたのだが――かの村の人間どもは頭を下げ、懇願してきたのだ。今後は心を入れ替え慎ましく暮らすから、どうか見逃してほしいと」
円さまの表情が、暗くなる。
「……先祖は了承した。そして人間どもと契約を結び直したのだ。人間側は心を入れ替え清く正しく慎ましく生きる、その証として村から龍神に生涯奉仕する巫女を選出し、巫女の主導のもと村全体で龍神を祀り続ける。龍神側は巫女を伴侶とすることを条件に、人間側を加護し続けると」
円さまは、そこでいったん言葉を句切った。深呼吸をするかのように。
「先祖が悪かったわけではない――かの村の人間どもの心が、結局もたなかったというだけのこと。その代の人間どもはまだましだったという……次の代、その次の代もまだ……しかし契約を結び直した代の曾孫の代となるともう、彼らの心はすっかり元通りに悪に染まっていた。龍神をまともに信じなくなり、近隣の村を暴力で支配し屈服させるという暴虐に出るようになった」
「その曾孫の代が、いまの村長の曾祖母世代なのよ……」
すずさんが暗い顔で言った。
「そうだったんですか……」
初めて、知る事実だった。
円さまが説明をつづける。
「……しかし龍神の側から契約を破棄することもできぬでな。契約というのは強いものよ――村人たちが巫女を選出し龍神に奉仕させている以上、契約の条件は満たされてしまっている。たとえ形だけのものであってもな――」
「神様と人間の約束は……簡単には、破れない」
私は、思わずそうつぶやいた。
そう。……神様と人間の約束は、簡単には破れない。
たとえ、どちらから言い出す場合でも。
契約、というのは強い力を持つ――双方が条件を出して、自身の意志で合意しあって、護っていこうと決めるものだ。……都合が悪くなったから一方的に破棄できる、というものでもない。
「村人たちが、どこまで契約について正しく知っているかはわからないけどね……」
すずさんの言葉に、私はうなずく。
契約についてなんて……村人たちはもう、興味も抱いていないように思う。
「村人たちの信仰が薄ければ、儂らは村に顕現できない。村は幽世かくりよ、龍神の郷は現世うつしよ。隔たりは、それはそれは大きくてな――とくに現世の側から幽世に属する我らを見ようとすれば、村人たち自身の信仰が必要になるのだ」
話が進むにつれて。
陽さまの横顔が、険しくなっていく。……まるでなにかを悔やんでいるかのように。
「……事情は、お父様のおっしゃる通りなんだ。村人たちの信仰がそのまま、俺たち龍神の力の源となる。お祖父様の代はまだ、姿を見せることはできずとも村に自由に行くくらいの力は残されていたらしい。でも俺の代になるともう……村に行くことすら、力を溜めねばできない有り様で……」
悔しそうに、絞り出すように、陽さまは言う。
「ひなに手出しをすることは、ずっと、できなかったんだ。ひなが俺たちを心から信じてくれているのはよくわかっていたよ――でも周りの人間たちの不信心に邪魔をされて、顕現できなかったんだ……」
陽さまはそれはそれは苦しそうに声を絞り出して――私を抱き締める力を、ぎゅっと強める。
「だからいまでは、儂らは当代の巫女が命を終えるのを待つしかなくなってしまったのだ――すずの祖父母世代、つまりひなの曾祖母世代から、かの村で巫女が被虐などというとんでもない役割を負わされた挙げ句、三十になれば用済みなどと言い命を絶たれるなどという、酷い一生を送っているとわかってはいても……世代がくだればくだるほど信仰は薄まり、ますます儂らは手出しができなくなった。……現世の人間としての生命を終える瞬間に迎えに行き、娶り、龍神の郷で大事に大事にして幸福にするほかは――どうしようもなくなった。だから巫女を巫女姫として大事に大事に幸福にするのは、儂ら龍神にとっての願いでもあり……幸福でも、あるのだよ」
「……そういうことなんだ。ごめん、ひな、謝っても足りないだろうけど、龍神のせいで生涯つらい思いをさせてしまって、本当にごめん。……小さいころから、ひながまともに扱われていないのを隣でずっと見ていたのに、俺は……俺は、いままで、なんにもできなくて」
「そんな……私は……」
私は陽さまのあたたかい腕のなかで、胸がいっぱいになりながら、本音を、本音だけを絞り出す。……どうか伝わりますように、と願いを込めて。
「龍神様……陽さまが、おそばにいてくださったのだと……知れただけで、充分です」
ほんとうに。
それはほんとうにほんとうに、心の底から思うことだった。
暴力を受けて目覚める朝、飢えて痛くて朦朧とする昼、独り冷たく眠る夜。
おそばにだれかいてくださればと――心のなかですがっていたのは、間違いなく、龍神様だったのだから。
まさか。
ほんとうに、いてくださるなんて――。
「これから俺のすべてをかけて幸せにするからね。ひな。愛しているよ。ずっと、そばで見てきた俺の、俺だけの花嫁……やっと出会えた。もう絶対に離さない。俺が……幸せにする」
陽さまは切実な声で、私の全身を抱きしめる。
「ひなは、ひとりの人間として、龍神の郷で再出発するんだ。……誓ってもいい。俺の心からの愛しさとともに」
自分の生涯を語っていたときとは違う涙が、あふれてきた。
「私なんかが、だめです、そこまで甘えてしまっては……」
陽さまは、私を抱きしめる腕にふいに力を込めて。
でもすぐに力を抜いて……そんなことないよ、と優しい声で言ってくれた。
「甘えればいい。ひなは、俺の可愛い可愛い、小さなお嫁さまだから」
よしよしと、陽さまは私の頭を撫でてくれた。……それはそれは、愛おしそうに。
幼女の身体は、なかなか慣れなかった。
身体がちいさい。手も足も、なにもかもがちいさい。自分のものではないみたいだ。お人形さんのものみたいだ。
でも、私はなんにもできなかったから。
ほんとうになんにもできなかったから。
まともな食卓につくのが初めてで、食事の作法も知らなくて。
文字の読み書きを習ったことがなくて、筆の持ち方さえわからなくて。
ずっとぼろい布の上で眠っていたから、布団の敷き方もわからない……。
でも、陽さまはいつも優しく教えてくださる。
私がわかるように教えてくれて、いっしょにやってくれる。
「ひなは、幼いのだから。いっしょにやろう、ね?」
できない、ということの恥ずかしさも悔しさも、幼いのだからと言い聞かせてもらえれば――そういうものかもしれない、と思えるのだった。
「そうそう、すごい、ひなはすごいな……こんなに小さいのに、もうできてしまったなんて! さすがは俺の花嫁、愛してるよ……」
そしていちいちおでこに口づけなんかしてきて……。
とろけるほど優しく……教えてくださるのだ。
見た目には同年代のすずさんとも仲よくなって、いっしょにびい玉やめんこや、いろんな遊びをするようになった。
遊びというものの存在は知っていたけれど、自分がやったことはなかったから……。
こんな幸福な生活を送っていても。
村でのつらい生涯の記憶は、いつでもどこでも襲いかかってきた。
でもそのたびに陽さまは、私のおそばにいてくれて、撫でてくれて、私が落ち着くまでいつまでもいつまでも共にいてくれた――夜が、明けるまででも。
私の心は。ううん。……私という、人間は。
陽さまのおっしゃった通り、再出発していた。
不幸だった人生を取り戻して……やりなおしていた。
幼いころにも若いころにもできなかったなにもかもが――この小さな身体だと、とりこぼしたものをひとつひとつ、取り戻していける、……陽さまがともに、取り戻してくれる。
ひと月の後、私と陽さまは盛大な結婚式を挙げて、正式に夫婦となった。
円さまもすずさんも精霊のみなさまも、とってもお祝いしてくれた。
晴れやかな青空のもと。美しい、桜ばかりの幻想的な龍神様の郷で――。
――これは私が幸せになる前のお話。
そう、いま、私はとっても幸せだ。
陽さまの寵愛を受けて――。
幼女として再出発した私が、本来の自分を取り戻して。
おてんばとまで言われるようになって。
被虐の巫女がもう二度とあの村に生まれないために、私が陽さまとともに村に降り立って。
――私で、被虐の巫女は最後にしてくださいませんか、と。
陽さまが護ってくださる隣で、村長や、村の人々に堂々と言い放って。
陽さまの、特別な、龍神のお力も使っていただいて。
村長や村人たちが自らひざまずくまでになり、長年続いた龍神と村人との約束を破棄させ、村には二度と被虐の巫女が生まれないようになるのは――もう少し、先のお話。