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 インターホンが鳴り玄関を開けると、執事の湊が「おはようございます」とお辞儀をしていた。  


「おはよう、湊さん」


「お嬢様、今日は日曜日ですのに珍しいですね」


 身だしなみが整っている瑠美を見て、湊は驚いた様子で言った。


「法律相談があるの。十時半には出ないと」


「どちらまで行かれるのですか?」


「姫伊川のグラウンド」


「それでは、タクシーを手配いたしましょう」


「大丈夫。畑中くんが迎えに来てくれるって」


「畑中くんというのは?」


「同期よ、弁護士の」


 ほう……と湊は目を丸くして頷いた。


「朝食はもうお済みになりましたか?」


「まだよ」


 それでは……と、湊は台所に入り、瑠美は洗濯物を干しにベランダへ向かった。


「しかしグラウンドで法律相談とは、珍しいことですね」


「生活困窮者の方たちの無料法律相談なのよ。姫伊川の河川敷、駅の北側の方はホームレスの人たちも多いんだって」


 ボールで卵をといていた湊の手が一瞬止まったが、またすぐに動き出した。手際良く調理し、コーヒーを淹れる。コーヒーの香りに誘われるように、洗濯物を干し終えた瑠美が食卓についた。そして湊が出してくれたコーヒーの香りを嗅ぎ、そっと口に含んだ。


「湊さんの淹れてくれたコーヒーって、どうしてこんなにおいしいんだろう。今度教えて、コーヒーの淹れ方」


「承知致しました」


と、湊は嬉しそうに微笑んだ。


「ところでお嬢様、畑中様とはどのようなお方ですか?」


「どのようなって……あんまりよくは知らないかな。同期っていうだけで。ちょっと、湊さん。やめてよ、畑中くんの身辺調査なんてしないでよ」


「そうですか」


と、湊は残念そうに答えた。 


「本当に。そんなんじゃないからね」


 湊は時間の許す限り、部屋の掃除やら風呂場、洗面所、台所の掃除やらを手早く済ませ、十時半に迎えに来た畑中の車に乗り込む瑠美を、マンションの玄関で笑顔で見送った。そして、弁護士なら瑠美の結婚相手に申し分ないと満足気に頷いた。




「姫伊川の河川敷に、一体何の用があるんすかね?」


と、嶋が探偵事務所で俊哉に言った。俊哉はソファで横になり、目を瞑っている。


「ボス、頭痛大丈夫?寝不足なんちゃいます?休みなしで、その関口っていうのをずっと尾行してるから」


「今日は、張り込みに行かなくて良いんすか?俺、行けますよ」


「いや。圭はやめておけ」


と、目を瞑ったまま俊哉は言った。


「圭ちゃん、まだまだ尾行下手やもんなぁ」


 にやりとしながらゆきが言った。


「そんなことないっすよ。だいぶ上手くなったと思うんすけど」


 嶋は少しムッとした顔で答えた。


「でも、まだボスの尾行に成功してへんのやろ?」


「それは……まあ。でもいつか」


「成功せえへんかったら、いつまでも一人前と認められへんもんなぁ」


「上手い下手じゃなくて、嫌な感じがするんだ、昨日の夜の関口。あの関口に顔を知られているのは俺だけだから、圭は近づかない方が良い」


 俊哉は起き上がると、体をほぐすために上半身を左右にひねった。


「なんか変な言い方、昨日の夜の関口って。何人もおる、みたいな」


と、ゆきが首を傾げて言った。俊哉は頷いた。


「その通り。何人もいるんだ、関口は。彼自身の中に」


「多重人格ってことっすか?」


 嶋が目を見開いて言った。


「いや、芝居をしているだけかもしれない」


「そんな人おります?多重人格の芝居して一人楽しんでる人。誰にも見られてへんのに?」


「ある所では陽気なバイト店員、ある所では不眠症を抱える怯えた青年、ある所では真夜中徘徊する怪しい男」  


と、俊哉はこめかみを指で押した。


「多重人格、やっぱりあり得るんじゃないっすか?」


「ほな、怯えた青年がここに来た理由は、何やったんやろうね?レオとほんまに関係あるんかな?」


「とりあえず」


と立ち上がった俊哉は、首を左右にぐっと傾けた。頭痛はなかなか良くなる気配はなかった。


「レオを探すか」


「当てがあるんっすか?」


 俊哉はコーヒーを飲みながら、軽く頷いた。


「そういえば、お嬢と今日、レオ探ししよう思うてたんやけど、用事があるって言うとったなあ」


「用事って?」


「姫伊川の河川敷のグラウンドで、無料の法律相談するんやって。炊き出しもあって、生活に困ってる人とかホームレスの人とかに来てもらってって、言うてましたよ。あれ?ボス聞いてなかったん?珍し。あぁ、なんか同期の畑中君がどうのこうの言うてたからか」

  

 ゆき姉……と嶋が小声でゆきを注意すると、ゆきは首をすくめて舌を少し出した。


 案の定、俊哉はもう出かける準備を始めている。ゆきはにやにやしながらその様子を見ていた。


「俺たちも行くぞ」


「お嬢のボディガードに?」


と、ゆきが嬉しそうに言った。


「違うよ、レオを探しに」


「どこに?」


と、嶋が尋ねると、少し間を置いてから俊哉は答えた。


「河川敷」




 瑠美が姫伊川の河川敷のグラウンドに来るのは、十五年ぶりのことだった。小学校のマラソン大会がこのグラウンドで行われていたので、マラソンが苦手だった瑠美にはあまり良い思い出のない場所だ。そんなことを考えていたからか、瑠美の顔つきが険しく、畑中が心配して「何か嫌なことでもありましたか?」と聞いてきた。


「ごめんなさい、大丈夫です。小学校の時、ここでマラソンをしたことを思い出していました」


「そうなんですね」と、畑中はほっとした顔で言った。


 グラウンドでは、炊き出しや食料の配布のほかに、健康相談や就労支援なども行われていた。炊き出しには長い列ができており、途切れることがなかった。

 

 法律相談のテントにも何人かやってきて、離婚、借金、生活保護の申請などの相談を行っていた。


 イベント終了の午後二時前には、炊き出しも食料配布も用意していた物がすべてなくなり、各相談のテントに数人残っているだけで、グラウンドは静かになっていた。


「そろそろ片付けましょうか」


と、畑中が言った時だった。テントにふらっと男が入ってきた。


 白髪の髪はボサボサな状態で固まり、顔は赤黒く髭は伸び放題、着ている服は元の色がわからないほどに汚れていた。何より、瑠美が体験したことのない鼻をつくような独特な匂いが一瞬のうちにテント内に広がり、瑠美は顔つきが険しくならないように抑えるのに必死だった。


 男は、ぐるりとテント内を見渡して大声で言った。


「なんや、ここにも食いもんあらへんがな」 


 男の足はふらつき、酔っ払っているようだった。


「ここは、法律相談のテントですよ」


と、畑中が言うと、男は鼻で笑った。


「なんじゃそら。法律相談?わしらみたいなもんに、法律もくそもあるかぁ。え?あんたら、弁護士かいな。へぇ、えらそうな面して。弁護士なんかより、食いもんよこせってな」


 男の大声に、他のテントにいたスタッフが何事かと法律相談のテントに集まってきた。そして、炊き出しを担当していたスタッフが声をかけた。


「おじさん、ごめんな。また、来月も炊き出しするから、その時来てな」


 チッと男は舌打ちをしながら瑠美を見た。そして、「ん?」と唸りながら、ふらつく足で瑠美に近づいた。


「あんた、どっかで見たことあると思うたわ。あんた、富田さんの後妻さんやな」


「えっ?」


と瑠美は驚いた。そして慌てて答えた。


「違います、私は……」


「いいや、あんたや。後妻さんや。わし、よう覚えとる。富田で運転手しとったでな。あんたんとこクビになったせいで、このザマじゃ。なんや、お前らみたいな金持ちがこんなとこ来て。わしを笑いに来たんじゃろ」


 男は今にも瑠美につかみかかりそうな勢いだった。畑中が瑠美と男の間に入ろうとした時、誰かが男を後ろから羽交い締めにした。


「なんや、なにするねん」


と、羽交い締めにされた男は叫び暴れたが、羽交い締めの力が強く、あっけなく瑠美から離された。


「やめろって、陣さん」


 その声に男は後ろを振り返ると、「なんや、田中ちゃんか」とつぶやき、おとなしくなった。


 田中と呼ばれた男は、パーカーの帽子を顔を隠すように被っていたので、瑠美には口と髭しか見えなかった。田中は落ち着いた声で、「帰ろ」と男に声をかけた。


 暴れていた男が再び瑠美を睨みつけたので、田中は男の腕をぐいっと引っ張り、「行くで」と外へ引っ張り出そうとした。


 瑠美は、引っ張られて行く男の服をじっと見ていた。ズボンの左側のベルトループにきらりと光った物が、瑠美の見覚えのある物だったからだった。


 瑠美は、目を凝らしてその小さな光る物を見つめた。そして息をのんで、男に呼びかけた。


「待ってください。おじさん、その、腰につけている物、どうされましたか?」


「あん?」


と、面倒くさそうに男は振り返ると、自分の左側の腰を見た。ベルトループには、てんとう虫が乗った四葉のクローバーのキーホルダーがぶら下がっていた。


「これか?盗んでへんで。落ちとったんや。拾って何が悪いねん」


「拾った?どこでですか?」


「あん?お前、なめとんのか。お前になんでそんなこと言われなあかんねん」


と、また詰め寄ってきた男を、田中が後ろから止めた。


「やめろって、陣さん」


「この女、わしを盗人呼ばわりしやがった」


「そんなこと言うてへん。陣さん、酔っ払いすぎやて」


「ごめんなさい」


と、瑠美は頭を下げた。


「そんなつもりは全くありません。ご不快な思いをさせてしまって申し訳ありません。ただ、私はそのキーホルダーを首輪につけていた犬を探しているんです」


「犬?」


と、田中が言った。 


「はい。迷い犬を探しているんです」


「陣さん、どこで拾ったか覚えてるか?」


 田中が尋ねると、男は頷いた。


「覚えてるで。川の向こう側や」


「そこに、連れて行ってもらえませんか?」


「嫌や。お前に恩はないわい」


「陣さん」


と、叱りつけるように田中が言った。


「ええ加減にせえ、どんだけ飲んだんや。ごめんな、ほんまはこんな乱暴な男とちゃうねんで」


と、田中は瑠美に謝った。瑠美は首を横に振った。


「後で美味い鍋作ったるから、な、それが落ちてた場所に、この人連れてってあげてや」


 田中の頼みに、男はしぶしぶ頷いた。




 河川敷を歩く男の後について田中と瑠美、そして畑中が歩いていた。ここ数週間雨が降っていないので、川は所々に水たまりのような場所があるだけで、どこからでも向こう岸に渡れるような状態になっていた。


 瑠美は、グラウンドとは反対側の岸に来るのは初めてだった。反対側は、急な斜面に木や草が生い茂り、平坦な場所が狭いので、ほとんど誰も来ることはない。雨が降って川に水がたくさん流れ出すと、向こう岸に行くのも難しくなる。


男は、下流に向かって砂利の上を歩いていたが、突然止まると「この辺や」と言った。


「よく覚えていますね」


と、畑中が言うと、男は右手側の斜面の上方を指差した。そこには背の高い木が何本かあり、木の上方の枝の間には細い枝が何本も積み重ねられた鳥の巣があった。


「サギの巣や。これ拾うた時、ちょうどサギが巣作りしとったからな」


と、男は木の根元の辺りの草むらに入っていき、何かを見つけて戻ってきた。


「ほい」


と、男が瑠美に差し出したのは、犬の首輪だった。


「これに付いとったんや。キーホルダーだけ取って、首輪はいらんからほかしたんや」


 瑠美は首輪を受け取った。しかし、それがレオの首輪かどうかは瑠美にはわからなかった。


「おーい、お嬢」


 その時、聞き慣れた声がして瑠美が顔を上げると、グラウンド側の岸に俊哉とゆきと嶋がいるのが見えた。瑠美は手を振ってゆきの声に応えた。そして手を招いて、三人をこちら側へ呼んだ。


「ちょっと、これ、どういう状況なん?」


 走ってきたため、ゆきは少し息をきらせながら言った。そして赤黒い顔の男とフードを深々とかぶった男を訝しげに見つめた。


「その、手に持っている物は?」


と、俊哉が瑠美に尋ねた。瑠美は、首輪を俊哉に手渡した。


「ここに、落ちていたそうなの。あのおじさんが、クローバーのキーホルダーを拾ったとおっしゃったので、落ちていた場所に案内してもらっていたの」


「富田さん、この方たちは?」


と、畑中が俊哉たちを見ながら言った。


「犬を探している探偵さんです」


 瑠美がそう即答したので、俊哉は少し眉をひそめたが、何も言わなかった。


「探偵?」


 赤黒い顔の男は仏頂面で俊哉を見ると、ベルトループに付けていたキーホルダーをはずし、それを俊哉に差し出した。


「もういらんから、やるわ」


 俊哉はキーホルダーを受け取った。それは確かに、写真で見たキーホルダーと同じ物だった。


「レオのやな」


と、ゆきが言うと、嶋も頷いた。


「ここに来たってことっすね、レオが」


「連れてこられて、ここで首輪をはずされたっていう方が、しっくりくるかな」


と、俊哉は首輪を嶋の方に向けて言った。首輪は革製で、人間のズボンのベルトのように金具を穴に入れて留めるタイプのものだった。


「ちぎれてはいない。誰かがはずしたんだ」


「どうして?」


 瑠美の問いには答えず、俊哉は辺りを探り始めた。


「ボス?」


と、嶋も呼びかけたが、俊哉は無言のまま、草を掻き分けて進んでいた。皆、困惑した表情を浮かべながら俊哉の後を追った。


 十分ほど下流の方向に進むと、岸の部分が少し広い箇所にたどり着いた。背の高い草が地面を覆っている。その草を俊哉が両手で掻き分けていると、五十センチ四方ほどの広さで草がぐちゃぐちゃになり、土が掘り返された形跡のある場所を見つけた。


 俊哉はすぐにしゃがみこみ、土の上に手をおいた。そして、その場所を素手で掘り始めた。


「一体、どうしたの?説明してよ」


 瑠美が驚いて言った。


「ちょっと待ってや、ボス。嫌な予感しかせえへんやん」


と、ゆきも驚いた様子で後退りした。


 嶋は、足元に落ちていたプラスチックのゴミを拾うと、それをスコップ代わりにするよう俊哉に渡し、自分は被っていた帽子のつばで地面を掘った。


 しばらくすると、地面を掘っていた二人の手が止まり、同時に立ち上がった。俊哉の脇から覗きこんで見た瑠美が、悲鳴をあげて俊哉にしがみついた。


 地面から出てきたのは、泥だらけの犬の死骸だった。


「うそやん。レオなん?」


 ゆきの問いに、俊哉は頷いた。


「なんで?」


 レオの胴体には二本の矢が刺さっていた。


「むごいこと……」


「誰か警察に連絡を」


 俊哉の声に、畑中がすぐに携帯電話を取り出した。


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