本物
「ちょっと、ボス。何で警察に連絡せえへんかったん?」
次の日の朝、事務所に入った俊哉をゆきは責めた。あの事件があってから、ゆきには頭が上がらない俊哉だった。
「いや、何も盗られてないからさ」
「ちゃうやん。不法侵入やし、ドア壊されてるし、器物損壊も」
「ああ、それは自腹で直すよ」
「だから、そういう問題とちゃうって」
うんうんと頷きながら、俊哉は自分の机に向かった。
「頼んでいた報告書はできた?」
ゆきはぷんぷん怒りながら、書類を俊哉に手渡した。俊哉はすぐに目を通すと、「さすが、完璧」とにっこりした。
「やっぱり、パソコンほしいわ。手書き、しんどいんやけど」
「でもほら、空巣に入られても、データを盗られる心配もないし、パソコン壊されたりすることもないし。良くない?」
「令和の時代に何を言うてんの」
「カメラは新しくしただろ?」
「圭ちゃん入ってからね。めっちゃ最近までフィルム現像して」
「コピー機も新しいのにした」
「パソコン」
「いらないって」
「まったくもう……昔の資料がどこにあるのかボスにしかわからへんって、ボスがどうにかなってもうたら、どうするん?」
「俺が死んだら、事務所はたたんでもらって構わないから」
「何を縁起でもないこと言うて」
「ところで一昨日の夜、瑠美と飲んだんだって?」
その言葉に、ゆきは素知らぬ顔を即座に作って、自分の机に戻っていった。
「酔った瑠美を介抱してたって、嶋が言っていたけど?」
あのあほ、おしゃべり……と、ゆきは心の中でつぶやいた。
「大丈夫……だったか?」
「何が?」
「いや、何を言っていたかなと思ってさ」
「気になる?」
いや、別に……と濁した俊哉を見て、ゆきはにやりと笑った。俊哉は、瑠美を酔わせたことを怒っているのではなく、酔った勢いで瑠美が何を言ったのかが気になっている、とゆきは思った。
「泣き上戸やったんやね、お嬢って」
「え?」
「いやぁ、びっくりしたわあ。いろんな話聞かせてもろて」
俊哉は、へぇ……と言いながら、コーヒーメーカーに入れるコーヒー豆を棚から取り出した。ゆきは椅子に座り、机に頬杖をつきながら俊哉を観察していた。
「仕事の悩みとか」
「ああ、なるほど」
と、俊哉はスプーンで豆を計りながら相槌を打っている。
「湊さんへの愚痴とか」
俊哉はうなづきながら「いっぱいありそうだ」と呟いた。
「昔のこととか」
あっ……とコーヒー豆をこぼした俊哉を見て、ゆきはまたにやりとした。わかりやすい……妹のことになると、いつも冷静沈着な俊哉がとたんに落ち着きがなくなる。
どんだけ妹が好きやねんと心の中で突っ込みつつ、少し瑠美が羨ましくなるゆきだった。ただ、俊哉のことはシスコンに違いないと思っているので、俊哉のような兄貴が欲しいかと言われれば、絶対に拒否するだろうとも思っている。面倒くさい……結局、そういう結論に至るのだ。ただ、妹のことで慌てふためく俊哉を観察するのが面白くて、いつも揶揄ってしまう。今、隣に嶋がいたら、「またっすか?性格悪いっすよ」と言われていただろう。
俊哉はこぼれたコーヒー豆を掃除しながら、「昔って?」と尋ねた。
「せやから、昔のこと」
「どれくらい昔?」
「小さい頃の家族の思い出とか」
平気で嘘がつける自分が怖いわぁと思いながら、ゆきは俊哉の観察を続けている。俊哉は、「ああ」と、ほっとしたような表情で再び豆を計り始めていた。
「誘拐されたこととか」
ザクっという音を立てて、スプーンはコーヒー豆の中に刺さったまま動かなくなった。
「誘拐……そんな話を?」
「うん、せやけど、誘拐については、そんなに詳しくは聞かんかったけどね。どちらかといえば、それって初恋の話やん」
俊哉は何も言わずにコーヒーの袋を閉じ、コーヒーメーカーに水を注いでスイッチを入れた。
「ボスはその刑事さん、見たことあるん?」
「あるよ、一度だけな」
「どんな人やったん?」
「覚えてない」
俊哉は不機嫌な様子で答え、自分の机に戻っていった。
絶対覚えてるくせに……一度見たものは忘れないんじゃなかったん?と言おうかと思ったが、ゆきは言わなかった。ただ、しかめっつらで書類に印鑑を押している俊哉を、興味深そうに見つめていた。
嶋は、昨日俊哉がいた公園から関口の部屋を監視していた。といっても、公園から見えるのは玄関のドアだけなので、関口が出てくるのをひたすら待っていた。
関口の他にこのアパートに住んでいるのは、三人のようだ。二階の奥の部屋と手前から二部屋目そして一階の一番手前の部屋にそれぞれ住人がいるのが確認できた。関口以外の住人は、午前九時までには外出しており、今アパートにいるのは関口だけだった。
昼を過ぎても関口が出てくる気配はなかった。嶋は上下とも薄いベージュの作業着を着ている。それは俊哉から指示を受けた通りの変装だ。
嶋はポケットからストラップ付きの名札を取り出すと、それを首にかけた。名札には、『日福建設株式会社 福田一郎』と書いてある。そして鞄からクリップボードとペンを取り出すと、服の色と同じ色の帽子をかぶり、アパートに向かった。
嶋は、クリップボードに何か書き込むふりをしながらアパートの正面に立った。向かって右側の一階の端の部屋が関口の部屋だ。ドアの左側のインターホンの上に、関口と書かれた小さな表札があった。
嶋は、外壁を確認しているかのように、向かって左側の壁ぞいに歩き、裏側へと回った。二階のベランダに洗濯物を干しているところはあったが、あとはカーテンが閉じられていて中は確認できない。壁から少し遠ざかり、壁の上の方を見ているような格好で関口の部屋の前を通り過ぎた。関口の部屋のベランダも、黒っぽいカーテンがかかっていて、中は何も見えなかった。エアコンの室外機が動いていて、古い物なのか、カタカタ音が聞こえている。
嶋はまた、クリップボードに書き込むふりをしながら、今度は関口の部屋側を通って正面に戻ろうとアパートに近づいた。そして横の壁を、しゃがんでじっくりと観察している時だった。うす茶色の毛のかたまりが、ベランダの柵の下側に引っかかって、風で揺れているのが見えたのだ。嶋は、壁の劣化箇所を写真におさめているような格好で、携帯電話で素早くその毛の写真を撮ると、クリップボードにペンを走らせながら正面に戻った。
そして、そのままアパートの敷地から出ると、公園には戻らず、人気のない路地に入った。そこで嶋は素早く上着を脱ぎ、中の黒いシャツの裾をズボンから出し、帽子を脱いで眼鏡をかけ、脱いだ服とボードを持っていた袋に詰めると、急いで公園へと戻った。
午後三時を過ぎて学校から帰ってくる小学生の声が遠くから聞こえ出した頃、俊哉が公園にやってきた。俊哉はベンチに腰を下ろすと、嶋にペットボトルの水を手渡した。
「今日はまだ動きはなしか」
「はい」
と答えながら、嶋はペットボトルを開けて水を一口飲んだ。
「これは、犬の毛に見えるな」
嶋が送ってきていたメールの写真を見ながら俊哉は呟いた。
「犬を飼ってもいいアパートではないっすけどね」
と、嶋は携帯で調べたアパートの賃貸情報を俊哉に見せた。このアパートの情報の中に、ペット可という文言はなかった。
「レオがアパート周辺に迷い込んで、それを関口が家に連れて帰り面倒をみていたが、レオはすぐにいなくなった……」
「でも、そんな犬の捜索を探偵に頼もうなんて思うんすかね?」
「関口が頼みたかったのは、犬の捜索ではないんじゃないかな」
「じゃあ……」
その時、部屋のドアが開いて関口が出てきた。黒縁の眼鏡をかけ、Tシャツに綿パンというシンプルな格好の関口だった。昨日とは違って、歩く時は少し猫背で、やはりおどおどして見えた。
「あれが、ボスの会った関口ですか?」
「そうだ」
「昨日とは全然違うじゃないっすか。やっぱり二人いるんじゃないですか?」
俊哉は嶋に関口を尾行するように指示すると、自分はアパートに向かった。
どこかの窓が少しでも開いていないだろうかと、部屋の周りを見てみたが、どこもきっちり施錠されていた。耳を澄ましてみるが、中から物音はしない。嶋が近づいた時には動いていた室外機も今は止まっている。ベランダの柵に引っかかっている毛を確認してから表側へ戻ると、俊哉はインターホンを押してみた。古い型のもので、モニターなどはなく、ただ音が鳴るだけのインターホンだ。部屋からは何の応答もなかった。俊哉はトントントンとドアをノックしながら、「すいません、あやだ不動産です」と、このアパートを管理している会社名を言ってみた。しかし、やはり部屋の中で人が動くような気配は感じなかった。
関口はアパートから出ると、ショッピングモールの横を通りすぎ、駅へと向かった。そしてそのまま駅の中を通って南側へ渡り、昔ながらの商店街に向かった。堀川探偵事務所がある路地の西側の商店街である。
関口は、商店街に入ると一つ目の信号を右に曲がり、そこから百メートルほど歩いたところにある坂井内科に入っていった。
「病院だって?」
と、嶋に合流した俊哉が言った。二人は、内科の向かい側にある立体駐車場の1階の壁に身を潜めていた。
約一時間後、病院から出てきた関口は処方箋らしき紙を握ったまま商店街に戻り、そのまま南へと歩いた。そして商店街の南の端にある薬局へと入って行った。嶋もすぐ後に続いて薬局に入り、処方箋コーナーの待合の椅子の後方に座った。
しばらくすると、薬剤師に名前を呼ばれた関口がカウンターに向かい、薬の説明を受けていた。小さな声でよく聞こえなかったが、嶋は耳を澄まし、薬剤師の口元をじっと見つめていた。
嶋は読唇術ができる。俊哉が嶋を探偵に誘ったのも、その技術があったからだった。
関口は薬局を出ると、今度は駅へと歩いていく。アパートに帰る方向だ。しかし、関口は薬局とその隣の楽器店の間で立ち止まると、何かを見つけた様子で後退りした。そして急に走り出した。
嶋が後を追い、俊哉は薬局と楽器店の間で止まった。薬局と楽器店の間には狭い通路があり、そこを通って奥に行くと探偵事務所がある路地に行き着く。
見ると、楽器店の壁にレオのチラシが貼ってある。そしてその横には、左向きの矢印と共に『堀川探偵事務所』と書かれた古い看板があった。先代の堀川の時代にかけられた看板だ。
俊哉はチラシに近づいた。チラシには、てんとう虫が乗った四葉のクローバーの写真が追加されている。楽器店から人が出てきて、俊哉に声を掛けてきた。
「よう、探偵さんやないか。久しぶりやな」
店主の重本だ。
「お久しぶりです。このチラシなんですが」
「ああ、いなくなってもうたんやって」
「このチラシ、貼り替えられたと思うんですけど」
「そや、首輪の情報が抜けてた言うてな、昨日張り替えてはったで」
「そうですか、ありがとうございます」
俊哉は重本に礼を言うと、関口が行った方向に走って行った。
その日は、関口は走ってアパートまで帰った後、一歩も外へは出なかった。嶋によると、薬局で受け取った薬は睡眠薬らしい。
そして次の日は、また派手な格好の関口に戻っていて、コンビニでバイトをしていた。
「一体、どっちが本物の関口なんすか?」
と、引き継ぎの時に嶋に聞かれたが、俊哉は「さあな」としか答えられなかった。
ところが土曜日の夜、アパートから出てきた男は、関口であり関口ではなかった。黒い上下の服に身を包み、黒いマスクをつけた関口は、暗闇よりも暗く見えた。歩き方も黒縁眼鏡の時やバイトに行く時とも違って、ゆっくりと足音も立てずに歩いている。
昔見たことがある……いや、見たことがあるような気がしている幽霊にそっくりだ、と俊哉は思った。
幽霊のような関口は、警戒心が強かった。少しでも油断すれば、尾行に気づかれそうだ。俊哉は息を殺して後をつけていた。
関口は、住宅街をぐるぐる回っていた。時に同じところを数回通りながら、ひたすら歩いている。一時間程住宅街を回った後、関口は姫伊川の方向に向かって歩き出した。その後ろ姿は、事務所に来た後の関口を尾行していた日の後ろ姿と同じだと俊哉は思った。3人の関口は皆歩き方が違うのだが、今目の前にいる関口の背中は、あの日姫伊川の河川敷で見失った時と同じ背中だった。
関口は、ガラス工場の横の坂道を下って河川敷に入った。街灯は無く真っ暗だ。暗闇の中に吸い込まれ、砂利を踏む足音すらすぐに消えてしまった関口を、俊哉はそれ以上追うことはできなかった。




