亡霊
その日、俊哉が事務所に戻ってきたのは、夜十時を過ぎてからだった。事務所には嶋が残っていて、俊哉の帰りを待っていた。
「なんだ、いたのか。帰っていいってメールしたろ?」
と言いながら、俊哉は事務所の扉の閉まり具合を確認した。扉の歪みは直り、ドアノブは新しいものに交換されていた。
「鍵、変わったんすよ。三本あるんで、ひとり一本持ちます?」
と、嶋が差し出した鍵を俊哉は頷きながら受け取った。
「この手の空き巣、最近多いらしいっすよ。亮さん言ってました。あと、今日の修理は応急措置みたいなものだから、扉ごと交換した方が良いってボスに言っといてくれって」
「そうか、わかった」
と言うと、俊哉はソファに横になり、ふぅと息をついた。
「尾行どうでした?何か出ました?」
「出たような、出なかったような……」
「なんすか、それ」
俊哉はテーブルに置いたカメラを指差した。嶋はカメラを手に取ると、撮影された写真を見始めた。
「これが関口っすか?」
と、嶋が画面を俊哉に向けると、俊哉は黙って頷いた。
「割と派手な奴っすね。ボスが言ってた雰囲気とは違うような……」
カメラには、コンビニで働いている関口の姿も写っている。
「あれ?無職って、ボス言ってませんでした?」
「昨日ここに来た関口拓実は、いったい誰だったんだろうな」
「どういうことっすか?これは、別人?」
「いや、顔は確かに昨日の男と同じだった。コンビニに近づいて話し声も聞いたが、声も一緒だった」
「じゃあ、同一人物なんすね?」
「いや、違いすぎる。雰囲気が正反対なんだ。同じ顔を持つ別の人間がいるような気がしてならない」
「ボスは、事務所に入った泥棒に関口が関係してると思ってるんですよね?」
「盗まれたのは、関口の書いた受付票だけだからな」
「ここに相談されてはまずいと思っている人間がいるってことっすか?」
「たぶんな。とりあえず、もう少し関口を調べてみるよ」
「俺も手伝います」
「いいよ、仕事じゃないし。俺が勝手に調べてるだけだから」
「だめっすよ。俺だって、ここを荒らした犯人を捕まえたいっす」
「おいおい、俺たちは警察じゃないんだから」
「わかってますよ、ワンワン吠えるだけっす」
「何だって?」
「今日、ゆき姉に言われたんで」
と、嶋は笑いながら言った。
嶋と明日の打ち合わせをした後、俊哉は自宅のマンションに戻った。昨日は事務所に泊まったため風呂に入れておらず、俊哉はとりあえず浴室に直行した。
暖かいシャワーを頭から浴びる。頭を洗いながら、今日の依頼者には教わった通りの対応ができたと嶋が言っていたのを思い出した。
教わった通りの対応か……自分にそれができていれば、あの事件は起こらなかったかな……シャワーの音が、大雨のあの日の夜を想起させた。大雨の降る中、包丁を俊哉に向けていた女性が数人の警察官に取り押さえられて連行されていったあの日の夜を。
俊哉はシャワーを止め、顔をごしごしと洗った。しかし、過去の亡霊は頭からは消えてくれなかった。
四年前、ちょうど堀川から事務所を継いだ頃のことだった。
依頼者は角田智子、二十七歳。夫が不倫しているのでは、と浮気調査を依頼してきた。角田智子も、今日の依頼者と同じように、不倫などしていないかもしれないと、かすかな希望を抱いての依頼だった。
結果は、同じく黒だった。彼女の夫は、会社の同僚の女性と不倫関係にあった。
彼女にその結果を伝えた時の、彼女の眼の奥でうごめいた得体の知れない物の存在を、俊哉は今でも覚えている。
その後、彼女は今後のことを相談したいと事務所を訪れた。それは探偵の仕事ではないと言っても、彼女は聞かなかった。まあ話を聞くだけならと事務所に入れた。それが、地獄の始まりだった。
「あの……富田さん。あの人、男性依存症やないかと思うんですけど」
四年前、ゆきは今とは違って遠慮がちにそう言った。話し方は控えめだったが、言う事は今と同じで鋭かった。
角田智子は常に、誰でもいいから寄り添ってくれる男を求めている……ゆきは智子が俊哉に悩みを話すのを聞きながら、彼女の性質を感じ取っていた。
「知り合いにおったんです、ああいう女。絶対気をつけた方がええです。早めに、はっきり、こっちにはそんな気がないことを伝えた方がええと思います」
と、智子の相談を受けた日にゆきはこう言った。
あの時に、なぜ自分はゆきの言う通りにしなかったのだろう……時間が戻せたなら、あの時に戻れたなら、角田智子を犯罪者にしなくて済んだのかもしれない。
「いや、言ったんだけどさ、探偵の仕事じゃないって。まあでも、話してすっきりするんだったら、それでもいいかなって」
と、答えてしまった自分を殴ってやりたい。俊哉は、風呂場の壁に拳を突き立てた。
智子は、初めの頃は隔週に一度くらい事務所に来る程度だったのが、だんだん間隔が短くなっていき、数日おきに来るようになった。電話も頻繁に掛けてくるようになり、俊哉が仕事を終えて帰るのを、事務所の近くで待ち伏せるようにもなった。
俊哉はだいぶ前からわかっていた。智子が自分に好意を持っていることを。ゆきが言ったように、夫の意識が自分に向いていないことがはっきりした今、寄り添ってくれる男を求めていることを。
優しさが俊哉の優柔不断さを後押しした。しかし、智子につきまとわれるようになってようやく、自分が間違っていたことに気づいたのだった。
つきまとい始めた頃、智子は俊哉に交際を求めてきた。俊哉は、はっきりと拒否したが、その日から智子の俊哉に対するストーキングがどんどんエスカレートしていった。
事務所に無言電話をかけてくる、つきまとう、突然目の前に現れて交際を求めてくる、マンションの扉の前で待ち伏せている、インターホンを俊哉が出るまで鳴らす……それが何日も何日も続き、俊哉は気がおかしくなりそうだった。
ある日、いつものようにマンションの前で待ち伏せていた智子に気づいた俊哉は、これ以上つきまとったら警察に連絡する、と厳しい口調で告げた。智子は、顔を引きつらせながら逃げるように立ち去った。
その数日後の雨の日だった。朝から降り続いていた雨は、夜にはより一層強くなっていた。
ゆきと一緒に事務所から出て、緑の扉を開けると、雨に打たれてずぶ濡れの智子が通りに立っていた。
咄嗟に、俊哉は後から出てきたゆきを扉の向こうに押しやった。智子の手に包丁が握られているのに気づいたからだった。
「私、あなたのことを愛してるの」
智子は目を見開いて言った。
「どうしてわかってくれないの?」
「申し訳ないが、俺は君を愛してない」
「どうして?」
「理由がいるのか?好きではない、ただそれだけのことだろ」
「きっと好きになるわ」
「ならない。俺の好きな人は別にいる」
「誰?」
「君の知らない人だよ」
智子は包丁を俊哉に向けて構えた。その時、包丁から赤い雫が少し垂れているのが見えた。
「誰よ」
俊哉は何も答えなかった。
「私はこんなに愛してるのに?私が結婚してるから、遠慮してるんでしょ?大丈夫、あんな馬鹿な旦那はもういないから」
「どういう意味だ?」
「もうこの世にはいないから、安心して」
「まさか……」
「だから、私と一緒になってよ」
俊哉は首を横に振った。智子は見開いた両目から涙をながし、奇声を上げた。そして包丁を構えたまま俊哉に向かって突進した。
俊哉は冷静に、持っていた傘で智子の肩を突いた。剣道の経験がある俊哉の突きは重く鋭く、智子は後ろに弾かれるように倒れ込んだ。
パトカーのサイレンの音が遠くから聞こえてきていた。ゆきが通報したのだ。
「誰も、私を愛してくれない。私はこんなに愛してるのに」
智子は突かれた肩を反対の手で押さえながら立ち上がった。そして再び奇声を上げると、俊哉に襲いかかった。振り下ろされる包丁から何度か身を避けた後、俊哉は傘で智子の腕をはたき、包丁を地面に落とした。そしてすぐに包丁を遠くに蹴り飛ばした。
「もうやめろ」
と、俊哉は言った。パトカーが近くに止まり、警察官が路地に入ってくるのが見えた。
「殺したのか、ご主人を」
俊哉の問いに智子は答えなかった。ただ泣きじゃくりながら地面を叩いていた。俊哉を殺せなかったことを、悔しがっているようだった。
俊哉は風呂場から出ると、Tシャツに短パンというラフな格好に身を包み、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。そして、その場でそれを一気に飲み干すと、二本目を冷蔵庫から取り出してソファへ向かった。
いつもは足の踏み場もないほど部屋が散らかっているが、先週の土曜日に瑠美が来て片付けてくれたので、少し小綺麗になっていた。
俊哉はビールを一口飲むと、缶をテーブルの上に置き、ソファの背にもたれて天を仰いだ。
自分がもっと適切な対応をしていれば、角田智子は夫を殺さずに済んだのだろうか。夫が不倫をしている事実を伝えた時に智子の眼の奥でうごめいた殺意は、俊哉にも相手にされなかったことで増幅したのかもしれない。絶望している智子に自分が追い討ちをかけてしまったのかもしれない。
「おい、にいちゃん」というしゃがれた声が俊哉の脳裏に響いた。
四年前、俊哉は警察での事情聴取からの帰り道、自転車を押しながら歩く、歯のほとんどない爺さんに呼び止められたのだった。
「にいちゃん、気ぃつけや。女難の相が出とるわ」
と、爺さんは歯のない口を開けてにこっと笑った。
俊哉はぎょっとしながらも、平静を装った。
「わかりますか?」
「昔、占い師やっとったでな。気ぃつけや」
爺さんは、そう言って自転車を押しながら去っていった。
女難の相か……いつまで俺につきまとうんだよ……俊哉は残りのビールを飲み干すと、缶を片手でぐしゃりと握り潰した。