弁護士
「おはようございます」
佐野法律事務所の事務員、葉山亜希子は、始業時間ギリギリにやって来た瑠美を笑顔で迎えた。いつもなら少し早めに来て事務所の掃除を一緒にするのだが、今朝はどうしても起きられなかった瑠美だった。
「ごめんなさい、葉山さん。遅くなってしまって。トイレ掃除は私がするから」
「何を言ってるんですか、富田先生。今日は9時半から法律相談の当番ですよ」
葉山は瑠美よりも十歳年上のベテラン事務員で、瑠美にとっては姉のように頼りになる存在だ。うっかり者の瑠美をいつも優しくサポートしてくれる。
「あれ?そうでした?」
「手帳に書きましたよ」
「ごめんなさい、うっかり」
「掃除は大丈夫ですから、準備してくださいね。もしかして、十二時半からの吉井先生との会食もお忘れになってませんか?」
「あ、それなんですけど、今日は頭痛がひどいから、お断りしようと思って」
「え?」
「佐野先生が行かれるんだから、大丈夫でしょ」
「だめですよ。鎮痛剤、飲みますか?私、持ってますよ」
「行かないとだめですか?」
「行きたくないんですね」
と、葉山はくすっと笑った。
「先月は腹痛でお断りしていますし、さすがに毎月欠席していては、怪しまれると思いますよ」
「別にどう思われようと構わないんですけど」
「富田先生、もう研修生ではないのですから、もう少し大人になっていただかないと」
「社会人としての最低限のお付き合いですか?最近ではメシハラっていう……何が嫌って、吉井先生のところにいる、同期の畑中くんも来るんです」
「畑中先生、面白い人じゃないですか」
「じゃあ、私の代わりに葉山さんが行ってくださいよ。畑中くん、吉井先生が好きなプロレスラーとか佐野先生の好きな力士とかのモノマネを必ずするんです、ご機嫌とりで。あれがもう、全然面白くないし、背筋がぞくぞくするんです」
葉山は、またくすくすと笑った。
「先生、時には我慢も必要ですよ。しまいには、佐野先生が怒ってしまわれますよ。いいですか、法律相談が終わったら、その足で弁護士会館に向かってくださいね」
瑠美はがっくりとうなだれ、力なく「はい」と呟いた。
法律相談が終わると、葉山に言われた通り瑠美は弁護士会館に向かった。気は進まないが、食事を楽しみに行くんだと瑠美は自分に言い聞かせた。
弁護士会館地下一階にある洋食レストランは、ディナーには少しお高めなコース料理ばかりが並ぶが、ランチはお手頃価格で本格的な味が楽しめる人気の店だ。ランチの一番の推しメニューは煮込みハンバーグで、自家製のデミグラスソースが絶品だ。
今日も、吉井先生を筆頭に同じ大学出身者ばかり集まった七人のうち、四人が煮込みハンバーグを頼んだ。
七人のうち、女性は瑠美ひとりだ。弁護士の女性比率はまだまだ低い。裁判官や検察官に比べても低い。男性弁護士では女性依頼者の気持ちを理解できない、とは思わないけれど、男の人には話しづらいということはあるはずで、その時に女性弁護士がいないと、弁護士に相談することすら諦めてしまう人もいるかもしれない。
瑠美は、吉井先生のリクエストでまた訳のわからないものまねをしている同期の畑中を見ながらハンバーグにナイフを入れた。そして自分がもし依頼者だったら、畑中にだけは絶対相談しないと心に誓いながら、ハンバーグを口に入れた。
食事会は終始、他愛もない話ばかりで進み、食事会が終わると瑠美と畑中以外の五人の先生方は、今抱えている集団訴訟の弁護団としての打ち合わせで四階の会議室に向かった。
瑠美は、さっさと弁護士会館を出て、事務所に戻る道を歩いていたが、後ろから畑中が走って追いかけてきて言った。
「富田先生、出るの早いですよ」
「畑中くん、先生ってやめませんか?同期でしょ」
「あぁ、すいません。でも珍しいですね。富田さん、こういう集まりは嫌いなんだと思っていました」
「苦手です。仕方なく来ました。社会人なんで」
「はっきり言いますね」
「何か御用ですか?」
「そんなに僕が嫌いですか?」
瑠美は立ち止まると、畑中を見つめた。
「急に何ですか?」
「いや、会食中、富田さんの僕への視線が冷たかったので」
「それは……」
と、瑠美は畑中から視線を逸らすと、また早足で歩き始めた。
「畑中くんのことは嫌いではないですが、あのものまねが苦手です」
やっぱりそうか……と、畑中は頭を押さえながら瑠美を追いかけた。
「いや、僕だって好きでやってるんじゃないんですよ」
「そんな風には見えませんでしたけど」
「去年の懇親会で、僕のグループが最下位で……覚えてます?」
毎年5月下旬に行われる弁護士会の懇親会では、弁護士やその事務所職員などが集まり、ランダムにグループを決めてテニスのトーナメント戦を行う。試合は夕方まで続き、夜は大宴会となる。
「覚えてますよ」
「最下位だったので、何か罰ゲームをっていう流れになって、一番若い僕が一発芸をする羽目になってしまったんです」
「そうでしたね」
「面白いことなんて思いつかなくて、昔、祖父が酔った時によくしていたものまねをしてみたんです。そうしたら、先生方に妙にウケてしまって。あれ以来、事あるごとに要求されるので、僕も困っているんです」
「そうでしたか。意外です。喜んでしているとばかり思っていました」
「そんな訳ないじゃないですか」
「冷たい目で見てしまってごめんなさい。謝ります」
「いえ、いいんですよ」
と、畑中は嬉しそうな顔をした。瑠美の歩くスピードがほんの少し遅くなったことも、畑中を喜ばせた。
「今年も行きますよね?懇親会」
「いいえ、私は行きません」
「え?」
「私、テニスはあまり得意ではないんです。宴会も嫌いで。だから、今年は行きません」
「本当に?」
「だめですか?」
「いや……行かないという選択肢があるということに驚いただけです」
「今時の若者は……って、先生方に言われるでしょうね」
「確かに。でも、参加することによるストレスが大きいのであれば、行かないのもありですね。飲みニケーションのメリットが、デメリットに勝ると思うのであれば行けば良いんです。無理は身体に悪いですから」
「畑中くんは、メリットの方が勝りますか?」
「先生方とのコミュニケーションも大事ですよ。まあ、飲み会の席でしか仲良くなれないとは思いませんが、有効な手段だとは思います」
佐野法律事務所の前で、二人は立ち止まった。畑中の勤めている吉井法律事務所は、商店街を抜けた先にある。瑠美は、「それでは」と、軽く会釈をした。
「あの、今度の日曜日なんですが、お忙しいですか?」
「は?日曜日ですか?」
「姫伊川の河川敷にあるグラウンドで、炊き出しをするんですが、そこで無料法律相談をするんです」
「炊き出し?」
「僕の高校の先輩が、生活困窮者支援団体を作っていて、定期的に炊き出しを開催しているんですが、今回、初めて無料法律相談のブースを設けることになったんです。ただ、一緒に相談に入るはずだった弁護士が、急に来れなくなってしまって。もしお時間があれば、お手伝いいただけないかなと思って」
瑠美は手帳を取り出すと、スケジュールの確認をし、頷いた。
「大丈夫です。日曜日は空いてます。何時から行けば良いですか?」
畑中は驚いた表情で少し顔を赤らめた。そして弾むような声で言った。
「ありがとうございます。嬉しいです。午前十一時から始まりますので、それまでにお迎えに伺います」
「わかりました。よろしくお願いします」
堀川探偵事務所では、その日、朝からゆきの機嫌が悪かった。
扉が壊れている、引き出しの中はぐちゃぐちゃ、嶋に理由を聞いたら泥棒に入られたと言う、それなのに警察に連絡していない、俊哉は張り込みに行ったとやらで事務所に姿を見せない……
「まじ、最悪なんやけど」
と、今日で同じ台詞を十回以上呟いているゆきに、嶋は何も答えなかった。嶋は、これから来る依頼人に渡す資料に何度も目を通していた。
「圭ちゃん、聞いとる?やっと机の中綺麗になってん」
「すいません」
「圭ちゃんが謝ることちゃうねん。ボス、いつ帰ってくるん?」
「今日は帰ってこないかもしれないっす」
「圭ちゃん、あんた、依頼者に説明できる?大丈夫?」
「大丈夫っす。旦那さんの尾行してたの俺なんで、詳しく説明できますよ」
と、嶋は読んでいた資料を封筒にしまった。
「そんな簡単なことやないで」
「大丈夫っす」
その時、扉をコンコンと叩く音が聞こえたので、ゆきが振り向くと、少し開いている所から、大工の西松亮治が顔を覗かせていた。
「まいど」
「亮さん。久しぶりやん」
ゆきの声が少し明るくなり、嶋は少しほっとした顔をした。
「やられたな」
西松は、バールで壊された箇所を確認しながら言った。
「せやねん。直せる?」
「とりあえず閉まるようにはしといたるけど、交換した方がええで。また用意しといたるわ」
「交換かぁ。高いんちゃうん?」
「安うしといたるって。また、俊君に言うといてや。せやけど、ここんとこ多いで、この手の空き巣。わし、もう今月三軒目や、ドア直すん。みんなバールでやられとるわ」
「え?そうなん?空き巣?」
「せや。先月くらいからかな、急に増え出したんや。あんたらも気ぃつけや、一人暮らしやろ」
「気ぃつけろ言われてもなぁ。どうしようもないよなぁ」
と、ゆきは嶋と顔を見合わせた。
「俺、盗られる物なんて家にはないっすよ」
と、嶋が言うと、ゆきは両手を口に当て、眉毛をハの字にして困った顔をした。
「夜中とかに入られたらどうしよう。私みたいにか弱い女の子は危ないわあ」
「お嬢じゃあるまいし。ゆき姉に限ってそれはないっすよ」
と、嶋が笑いながら言った。
「何がないって?」
と、ゆきが真顔に戻って言うと、嶋はまた笑った。
「撃退できるっしょ、余裕で。空手やってたんですよね?」
「一発殴ったろか?」
「いや、大丈夫っす」
嶋はぶるぶると首を横に振った。
「せやけど、圭ちゃんも何か鍛えた方がええで。華奢すぎやわ。なあ、亮さん」
西松は長袖を肩まで捲り上げ、力こぶを作ってみせた。筋骨隆々で上腕二頭筋はたくましく膨れ上がっている。
「どや。六十五歳やで」
西松は得意気に言った。
「素敵やわ。どっかで鍛えてるん?」
「ジム行っとる」
「今度、圭ちゃん連れてってや」
「おう、いつでも連れて行ったる」
「いや、俺はいいっすよ」
と、嶋は手を横に振った。
「運動は苦手で……」
「あかんて。鍛えといた方がええって。探偵になりたいんやろ?犯人に襲われたりしたらどないするん?」
「映画じゃあるまいし。そんな殺人事件に巻き込まれたり、凶悪犯と対峙したりなんてこと、今までありました?ないっすよね?」
「せやけど、ボスはああ見えて鍛えてるで」
「え?まじっすか?」
その時、か細い声で「すいません」という声がしたので、西松が扉を開けると、そこには依頼者の女性が立っていた。廊下の電気をつけ忘れたのかと思うほど、そこにだけ光がないように見え、ゆきは思わずぶるっと震えた。
「荒木です」
「あ……はい」
嶋は緊張した様子で、勢いよく席を立った。
嶋は依頼者の荒木を、奥の応接室に案内した。
事務所に入ってから応接室の椅子に座るまで、ずっと下を向いていた荒木は、前の椅子に嶋が座って封筒をテーブルの上に置くと、目を見開いてその封筒を凝視した。そして「どうぞ」と嶋が言い終わらないうちに封筒に手を伸ばし、中の書類を取り出した。
嶋は何も言わずに荒木が書類を読み終えるのを待った。何か質問があれば答えようと準備はしていたが、自分から発言するのは控えておいた方が良さそうな空気だった。
ドアをノックする音が聞こえ、ゆきがお茶を盆に載せて応接室に入ってきた。ゆきは荒木の前に湯呑みを置くと、そのまま嶋の横に座った。
重苦しい空気が漂う中、何も言わない嶋に痺れを切らせたゆきが、優しい口調で荒木に話しかけた。
「何かご質問はありますか?」
荒木は、書類から目を離すことなく、少し震えた声で答えた。
「つまり、出張だの飲み会だのといった話は全部嘘で、不倫相手と密会していたということでしょうか」
「嘘といいますか……飲み会には確かに出席しておられるのですが、小一時間程で帰られて、その後不倫相手のマンションに向かったということです。出張も、出張先の同じホテルにあらかじめ不倫相手が部屋を取っていて、そこにご主人が向かったということで……」
と、嶋は荒木の夫が不倫相手の部屋に入るところの写真を指差して示した。
「全部嘘だったということと、何が違いますか」
「それは……」
「いいんです、ごめんなさい」
荒木の目は泳ぎ、明らかに動揺していたが、それを悟られまいとしているのが痛々しかった。
嶋は、思わず「大丈夫ですか?」と言った。しかし言ってしまってから後悔した。大丈夫なわけがない。ここで同情したところで、依頼者には何の慰めにもならない。
「我々ができることはここまでですが、この結果を元にお二人が話し合いをされていくなかで、何かお困りのことがありましたら、こちら、法テラスというところがありますので」
と、嶋は法テラスのパンフレットを机の上に置いた。
「そこで、いろいろ相談にのってもらえますし、もしすぐにでも直接弁護士の先生に相談したいということでしたら、当事務所がお世話になっている先生がいらっしゃいますので、ご紹介させていただくこともできます。もちろん、法テラスでも弁護士の先生を紹介してもらえますし」
「そうですか。弁護士……いえ、大丈夫です」
荒木は、立ち上がるとお辞儀をした。
「いろいろ、ありがとうございました」
嶋とゆきも立ち上がってお辞儀をし、去っていく荒木の後ろ姿を目で追った。
荒木が事務所から出ていくと、ゆきはため息をつきながら嶋の肩をぽんぽんと叩いた。
「できた、できた」
「あれで、良かったんすか?」
「あれ以上ないやん。うちらは、麻薬捜査犬と同じ。怪しい所をクンクン嗅いで、見つけたらワンワン吠える。その後の処理は、専門の人に任せたらええ。うちらが、したり顔で偉そうなこと言うたらあかん」
「あの人、大丈夫ですかね」
「だから、そんなことをいちいち気にしてたら、この仕事やってられへんで。それは、うちらの仕事とちゃう」