泥棒
嶋が事務所に着くと、俊哉が一階のシャッターの前に佇んでいた。迷い犬のチラシをじっと見つめている。
「何があったんすか?」
走って事務所まで来た嶋が、息を切らしながら尋ねた。
「なぁ、書いてないよな。てんとう虫が乗っかったクローバー」
と、チラシから目を離すことなく俊哉が言った。
「ああ、そりゃそうっすよ。あの時持っていたチラシを貼ったんでしょう?あの子のお父さんが、クローバーの飾りのことも載せておいた方がいいですね、って言ってましたから、チラシを作り直してから、また貼りに来るんじゃないっすか?」
「だよな」
俊哉はシャッター横の緑色のドアを開けた。嶋も俊哉に続いて階段を上がり、事務所の中に入ったが、そこで「は?」と驚きの声を上げて立ち止まった。
「なんで?」
机の上に置いてあったものは、ほとんどすべて床に散らばり、机の引き出しも開いていて中はぐちゃぐちゃな状態、そして観葉植物が植っている植木鉢はすべて倒れていた。
「泥棒?」
部屋の真ん中でため息をついている俊哉に、嶋が言った。
「たぶんな」
「警察、連絡します?」
「いや、いらない」
「何を盗っていったんっすか?ここに金目の物なんてないのに」
「それは悪かったな」
「ひょっとして、あれじゃないっすか?不倫してた旦那が、証拠を奪いに来たとか」
「明日依頼人に渡す資料だったら、盗られてない」
「過去の資料かもしれないっすよ」
「その形跡はなかった」
「じゃあ、一体何を?」
「こんな状態だから全部は見れてないが、一つだけ確実に無くなったものがある」
「何すか?」
「関口という男が書いた受付票」
「関口?」
「夕方、突然来た依頼人だ。妙な男で、自分の犬を探して欲しいというんだが、いまいちはっきりしない。本当に飼い犬なのかどうかも疑わしい」
「なんすか、それ」
「わかっているのは、しば犬みたいな茶色い犬、名前はない、てんとう虫の乗った四葉のクローバーの飾りのついた首輪」
「レオじゃないっすか」
「同じ日に、同じような犬の捜索依頼が二件。偶然、そっくりな犬が行方不明になったのか、同じ犬を他人が探しているのか……迷い犬のチラシにはクローバーの飾りの件は載っていない。犬を実際に見た人じゃないと知らない情報を、関口という青年は知っていた。しかも、その関口が書いた受付票が盗まれた。氏名と住所しか書いていない紙切れだ。なぜ、そんなことをする必要があったのか」
と、俊哉は髪を両手で掻き乱しながら言った。
「尾行したんだけどなぁ。まかれたんだよなぁ」
「え?」
「いやおかしいだろ、どう考えても。同じような犬が立て続けにいなくなるか?んなわけないだろ。ずいぶん落ち着きのない男だったし、料金の話になると急に逃げるように出て行ったし、誰かに追われてるんじゃないかって思うほど、終始ビクビクしていたし」
「それで尾行を?」
「駅の北側のガラス工場の方まで行って」
「そんなところまで歩いたんっすか?ここから小一時間はかかりますよ」
「工場の横の姫伊川の河川敷に入って行ったんだが、辺りが暗くなってきていて、しかも関口が急に走り出したもんだから、あっという間に見失ってしまったんだ」
俊哉は床に散らばっている書類を拾い上げ始めた。
「本当にいいんすか?警察に連絡しなくて」
「あぁ、別にいいよ。金目の物を盗られたわけじゃないから」
「でも、ドアも壊されてるし」
事務所のドアは、バールでこじ開けられたのか、歪んでしまっている。
「あぁ、それなら亮さんに連絡したから、明日には直る」
亮さんとは、富田家に出入りしていた大工の棟梁で、俊哉は幼い頃から可愛がってもらっている。居心地の良くない家の中で、俊哉が唯一心許せる相手でもあった。
「明日からしばらく、関口の家に張り込むから、明日の依頼人、頼めるか?」
「え?俺が?」
「大丈夫だよ。ゆき姉もいるしな」
「ていうか、住所、覚えてるんっすか?一度見ただけでしょ?」
「当たり前だ。一度見たものは忘れない」
「さすが」
「とりあえず、明日、ゆき姉が騒がないように、片付けないとな」
「時間かかりそうっすね」
「そうだな。やっぱりゆき姉も呼んで手伝ってもらうかな」
「やめた方がいいっすよ。警察にすぐ連絡しそうだし。第一、今は酔っ払ったお嬢の介抱でそれどころじゃ……」
嶋は、しまったという顔をしたが遅かった。俊哉の探るような視線から逃げるように、嶋はあちこちに散らばっている物を急いで拾い始めた。
事務所の片付けを終えた頃には、外はもう明るくなり始めていた。
近くのコンビニから戻ってきた俊哉は、ソファーの前にある丸テーブルにコーヒーとサンドイッチを置き、自分は奥のデスクの方へと向かった。ソファーでは、嶋がぐっすり眠っている。
いつも俊哉が使っている事務所の奥の場所には、先代の所長である堀川陽三が使っていたカリモクのデスクとチェアがあり、その後ろの壁一面は備え付けの棚となっている。
堀川がいた頃は、棚にはたくさんのレコードが並び、そこから毎日1枚選んでは、使い込んだレコードプレーヤーで音楽を楽しんでいた。しかしそれらは、引退する時に堀川が持ち帰ったため、今は古いミニカーが所々に飾られているだけの棚になっている。
俊哉は、自分の朝ごはんをデスクの上に置くと、棚のちょうど真ん中あたりを軽く手で押した。すると、押した部分から六十センチメートルほどの幅で棚がゆっくり奥側へと動き始めた。その動いた棚は右側へと移動し、ちょうど右側の棚の後ろ側に収納された。そして棚があった場所には、新たに白い扉が現れた。その扉は暗証番号を入力しないと開かないようになっており、俊哉は慣れた手つきで十桁の暗証番号を入れると、白い扉を開けた。
白い扉を開けて中に入るとまた扉があって、それが、奥にある三畳ほどの広さの金庫の扉となっている。金庫の中に入っているのは、過去の依頼の記録ばかりだ。
やはり泥棒が入った形跡はないな……金庫の扉はダイヤル錠を開けた上に、鍵がないと開かない仕組みになっているが、ダイヤル錠が誰かに触られた跡はなかった。
過去の資料を盗む奴なんていないよな……パソコン嫌いの先代の影響で、書類はすべて手書きだ。データ化すればスペースも手間も省けるが、俊哉もあえて今でもパソコンは使っていない。ここのデータを盗むためには、この金庫を開ける必要がある。そして金庫の中は、二千冊以上の同じファイルが、背表紙に何も書かれていない状態で、しかも年代順などではなくランダムに、ずらりと並んでいる。一度見た物は決して忘れない特技を持つ俊哉なら秒で見つけられるが、泥棒が目当ての資料を探すとなると、とんでもなく時間がかかるだろう。
俊哉は外に出ると白い扉を閉めた。棚は自動的に元の位置に戻っていく。俊哉は立派な椅子にどかっと座ると、大きなため息をついた。
それからどれくらい時間が経っただろうか。おそらく、二十分程しか経っていなかったのだが、椅子に座ったまま眠ってしまっていた俊哉は、慌てた様子で飛び起きた。
妙な夢を見てしまった……俊哉は顔を両手でこすると、机の上に置いていたコンビニの袋からコーヒーを取り出し、半分ほどを一気に飲んだ。
壊れた事務所の扉から血だらけの関口が突然現れる夢だった。俊哉は事務所の扉に目を向けたが、もちろんそこには誰もいなかった。
(犬が一匹いなくなった、それだけのはずなのに、この嫌な予感は一体何なんだ……)
朝ごはんに買った焼きそばパンを袋から取り出したものの、食欲がなくなってしまった俊哉は、そのパンを丸テーブルの方に置きに行った。
「おい、俺はもう行くから、留守番を頼むぞ」
そう言いながら、俊哉は嶋の肩を軽く叩いた。嶋はすぐに起き上がった。
「すいません、寝ちゃいました」
「いや、付き合わせて悪かったな。朝ごはん、置いといたから」
「まじっすか、すいません。ありがとうございます」
いいよ、と言いながら、俊哉は望遠レンズ付きのカメラの入った袋と飲みかけのコーヒーを手にした。
「場所、俺にも教えといてもらえませんか?」
「あぁ、確かにそうだな。メールで住所を送るよ」
「気をつけてくださいね」
「え?」
「いや、泥棒に入ったのが誰なのか分かんないっすけど、関口っていう人に関係してるとしたら、なんか、やな感じするじゃないっすか」
「なんかやな感じ、か。まあ、そうかもな」
俊哉は頷きながら、残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
関口拓実が住所として書いた所は、少し古びたアパートだった。それは、二十年ほど前まであった大手の紡績工場の従業員の社宅だった建物だ。
紡績工場は、業績不振による規模縮小で、この地域からは撤退したため、社宅だった建物は大半は取り壊されたが、一部はそのまま賃貸アパートとして使われている。工場があった場所にはショッピングモールができており、朝からトラックや従業員が出入りしていた。
アパートは二階建てで、それぞれの階に四部屋ずつある。俊哉はアパートの斜向かいにある公園の木陰にあるベンチからアパートの様子を伺っていた。
そこは、昔の寺の遺跡を残すためのような公園で、特に遊具はなく、ひと気はあまりない。時々、散歩やジョギング中の人が通りがかったり、夕方になればキャッチボールやバトミントンをする子供達もいるが、平日の朝には誰もおらず、小鳥の声だけが響いていた。
関口の部屋は、一階の一番奥だ。ついさっき一瞬玄関が開いたりしたので、中にいることは確かだ。
嶋には言わなかったが、昨夜、関口を見失った後、俊哉はこの場所で関口の帰りを待っていた。しかし一時間ほど待っていても帰ってこなかったため、俊哉は事務所に戻り、泥棒に荒らされた事務所を発見したのだった。
時刻は午前八時十分。
玄関が開き、中から関口が出て来た。
えっ?と俊哉は思わず声が出た。確かに昨日の青年と同じ顔だが、印象が違いすぎたのだ。昨日は黒縁の眼鏡をかけ、白いシャツに綿パンというシンプルな格好だったのが、今日は派手な色合いのシャツに革パンを履き、眼鏡もかけず、耳にはワイヤレスイヤホンを付け、ポケットに手を突っ込んだまま肩を揺らしながら歩いている。
俊哉は首をかしげながら伊達眼鏡を掛け、帽子を被ると、関口の尾行を開始した。