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「扁桃炎?」


「そう」


「扁桃炎って、そんな倒れるような病気だったっけ?」


 翌朝、事務所に来た俊哉が、昨晩の出来事をゆきと嶋から聞いているところだった。


「しょうちゃんは、ボスとは違って我慢強いから。調子悪いのに言わへんし、休まへんしで、ひどなってん。めっちゃ高い熱で、意識失って」


「俺もそこそこ我慢強いけど?それで今どこに?」


「わからんの。お嬢が知り合いの医者に診せるって言って、湊さんの車に乗せて行ってもて。真夜中に、意識戻ったっていう連絡はあったけど。ていうか、ボス、なんで今の今まで連絡つかへんかったん?」


「すまん、スマホの電源切ってた」


「また?」


「もう、これで最後。ちゃんと最後のお別れしてきたから、もう会いません」


と、俊哉は手を合わせて謝る仕草をしながら言った。


「最後のお別れ……」


 嶋がハッと目を見開いて俊哉を見ると、俊哉は嶋に向かって頷いた。


 ゆきは、そんな二人をチラッと見ると、フンと鼻息を鳴らした。


「まあ、ええけど。それより、しょうちゃんが保険証持ってないってどういうこと?」


「保険証どころか、身分を証明するものが何一つないんだ」


 あっけらかんと言う俊哉に、ゆきは呆れた様子で両手を前で組んだ。


「そんなんで、よう雇ったね」


「瑠美が身元保証人になるって言ったから」


「お嬢……ボスは、いいの?」


「なにが?」


「なにがって……しょうちゃん、犯罪者とかじゃないやんな?なんか心配になってきて……」


「それはないっしょ。あんな良い人」


と嶋が言うと、ゆきは嶋を睨みつけた。


「良い人でも犯罪者になりうるって、私らいっぱい見てきてるやんか」


「そう……っすね、すいません」


「調べてみる?しょうちゃんのこと」


「ゆき姉、仲間を調べるんすか?」


「私やって、そんなことしたくないけど、せやけど……だって、このままやったら……」


「やめとけ」


 俊哉が珍しく声を荒げた。ゆきが目を丸くして俊哉を見ている。俊哉は気まずそうに頭を掻いた。


「いや、すまん。しかし、俺がなんとかするからさ、お前らは首を突っ込むな」




 田中は夢を見ていた。


 首を絞められ、気絶したところを海に放り込まれる。気絶していたのは一瞬で、海の中で目が覚めると、そこにあるのは死の恐怖。こんなところで、あんな奴らに殺されてたまるか……もがけばもがくほど、波の渦にのまれていく。もう駄目だと思った時に瑠美の声がして、海面に上昇する。


 同じ夢を何度も見た後、ようやく目が覚めた田中は、自分の置かれた状況を把握するのに少し時間がかかった。


 喉が切れそうなほどに痛み、頭痛もある。真っ白なシーツが、ここは自分の家ではないことを気づかせた。左手の甲には針がテープで固定され、ベッドの左側にある点滴とチューブでつながっている。そして、自分を抱き抱えたまま添い寝している瑠美……


 おっ……?と驚いて田中が動くと、瑠美が目を覚ました。


「ああ、良かった。目が覚めたんですね」


 笑顔で起き上がる瑠美に、田中は戸惑うしかなかった。


 俺は……と田中は言おうとしたが、声にならない。


「喉、痛いんでしょ?無理しないでください。田中さんは、扁桃炎が重症化してしまったんです。しばらく入院ですよ」


「入院?待て待て、俺は保険証を持ってない。お金もないし」


と、田中はかすれた声を絞り出した。


 しかし聞き取れなかった瑠美が首を傾げると、田中は指でバツを作って瑠美に示した。


「あ、ひょっとして、費用のこと気にしてますか?大丈夫ですよ。何も心配せず、田中さんは自分を治すことに集中してください。ここは、私の実家が昔からお世話になっている病院です。何も心配はありません」


 そう言って、瑠美はにこりと笑った。


 そう、その笑顔が見たかったんだ、と田中は思いつつも視線を瑠美から逸らせた。真正面から見てはいけない、理性を失いそうになるから……


 ドアをノックする音が聞こえ、瑠美が「どうぞ」と言うと、湊が部屋に入ってきた。


「お目覚めになられたようですね」


「うん」


と瑠美が頷く。


「お嬢様、一度マンションにお戻りになってください。着替え等々、必要かと存じます。ここは私が」


「そうね。ありがとう」


と、瑠美は立ち上がった。


「また、すぐに来ますから、おとなしくしていてくださいね」


 まるで子供に諭すように田中に言うと、瑠美は部屋を出て行った。


 湊がカーテンを開けたり、部屋の掃除をし始める。田中はどうしたらよいかわからず、ベッドの上で正座していた。


「何をそんな格好をなさっておられます?横になっていてくださいませ」


 そんな田中に気付いた湊が言った。田中は恐る恐る横になる。湊はぐちゃぐちゃになっていた掛け布団を綺麗に整えながら田中にかぶせた。


「あの…」


と、田中はかすれる声で言った。


「寝ている間、俺、なんか言いませんでしたか?」


「ずいぶん、うなされておられましたよ。私は一晩中ここにいたわけではございませんのでわかりませんが、私がいる間だけでも、何度も叫んでおられました。ほとんど何をおっしゃっているのかはわかりませんでしたが、お嬢様のお名前を呼ぶ時だけは、はっきりおっしゃっていました」


「えっ……本当に?」


「はい。瑠美、瑠美と。こちらが恥ずかしくなるほどに何度も呼んでいらっしゃいました」


 湊はそう言うと、部屋の片付けに戻った。


 田中は掛け布団を頭の上まで引き上げると、布団の中で頭を抱えながら丸まった。




 夕方、ゆきと嶋を早めに帰らせると、俊哉は一人、棚の奥の金庫の中へ入った。


 いくつかある棚には、薄茶色の同じファイルがずらりと二千冊程並んでいる。背表紙には何も書かれておらず、どこに何があるのかがわかるのは俊哉だけだ。堀川がいた頃は、もちろん堀川もどこに何のファイルがあるのかわかっていたが、堀川が引退してから、俊哉が扱った案件のファイルもランダムに間に入れられているので、今は俊哉にしかわからない。


 俊哉は迷うことなく、奥から二番目の棚の上から三段目、そして右から十七冊目のファイルを抜き取った。


 開くと、一ページ目にあるのは、ある男の経歴書。警察官の服を着た男の写真と名前、年齢、部署、経歴……


佐伯(さえき)剛志(つよし)


 俊哉は写真を見ながらぼそっと呟いた。それは、瑠美を誘拐犯から救った刑事だ。


 俊哉は佐伯の写真の頭と制服を指で隠し、目と鼻と口だけにしてみた。


「田中正一」


 今の方がずいぶん日焼けしていて、目尻に皺もあるが、写真の男は田中にそっくりだ。


 気付いていた。気付いていないふりをしていた。ずっと……そう、瑠美と一緒に田中に会いに河川敷に行った時から俊哉は気付いていた。


 まさか、と思った。しかし、住居を準備した湊と職を提供しようとしている瑠美を見て確信した。瑠美も湊さんも気付いているのだ、と。


 恩返しをしたい気持ちはわかる。ただ、佐伯が行方不明になった原因が何なのか、なぜ田中として生きているのかがわからないうちに、田中を信用することはできなかった。


(ずっと様子を見ていたのか?俺は。いや、違うな。逃げるのを待っていたんだ。干渉されたくないと自分からいなくなってくれないかなと、心のどこかで期待していた……情けない……佐伯がいなくなったら、瑠美がどれだけ気を落とすことになるか、考えなくてもわかるというのに。俺は自分のことしか考えてない)


 俊哉は、深いため息をつきながら、ファイルのページをめくった。




「体温、落ち着いてきましたね」


 検温に来た看護師が病室を出ると、瑠美が言った。部屋には夕陽が差し込んでいる。田中はベッドに横になったまま、その暖かい光に照らされた瑠美の横顔を眺めている。


「今夜も私が付き添いますから」


 自分の方に視線を移して言う瑠美から逃れるように、田中は上を向いた。


「いいよ。もう大丈夫。仕事もあるやろ?」


「明日は日曜日ですよ。私はここに居たいんです。迷惑でしたら、帰りますけど」


「迷惑ではないけど……寝てる間に、また何言うかわからんし」


「私は気にしませんよ」


「いや、俺が気にするねんて」


 瑠美はふふっと笑った。


「また、悪夢でもみたら可哀想ですから。側に誰かがいた方がいいでしょ?」 


 瑠美の言葉に、田中は苦笑いを浮かべた。


「一体、どんな夢を見ていたんですか?」


「ん?」


「怖い夢をみたら、人に話すと良いって聞いたことがあります。話してみませんか?」


 田中は上半身を起こすと、ベッドサイドに置かれた水を一口飲んだ。喉の炎症は少し改善し、液体なら飲み込めるようになっていた。


「殺されそうになる夢。首を絞められて気絶して、橋の上から海に落とされて、溺れて、もうあかんと思ったところで……瑠美さんが俺を呼ぶ声が聞こえて、海面に上がれる、そんな夢」


 瑠美は胸に手を当てた。胸がヅキンと痛んだからだった。初めて田中の苦しみに触れた気がしていた。それは、実際に起こった出来事ではないのですかと心の中で問いかけた。


「そんな顔、せんとってくれ」


 瑠美を横目でちらっと見ると、田中は笑った。


「夢やって」


 瑠美はベッドの端に腰を下ろすと、田中の背中に手を置き、ゆっくりとさすり始めた。


「もどかしいです」


「なにが?」


「私は、こんなことくらいしかできません」


「ありがとう。それでもう充分や」


 もうええでと言おうとした田中だったが、背中から伝わる瑠美の想いにもう少し甘えたくて言うのをやめた。


 もどかしい、俺も……田中は襟足をぽりぽりと掻いた。


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