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ため息

 コンサートから二週間ほど経ったある日の夕方六時ごろ、ゆきは佐野法律事務所を訪れた。事務所の入り口に立つゆきを見つけると、瑠美はにこやかに笑いながら近づいてきた。


「どうしたの?ゆきちゃん」


「お嬢、まだ仕事?」


「ちょうど、今から帰るところ」


「ご飯でも行かへん?」


「もちろん、いいよ」


 瑠美はすぐに支度を終えると、ゆきと商店街へ向かって歩き始めた。


「お嬢、元気そうで安心したわ。ちゃんと食べてる?」


「うん、大丈夫」


「最近、うちの事務所に遊びに()うへんから」


 ちょうど、田中と一緒に入ったうどん屋の前を通り過ぎて、瑠美は小さなため息をついた。


「大丈夫。忙しかっただけだよ」


 ゆきは口を結んだまま瑠美を横目で見ていた。


(元気そうで、そうでもなさそうな……)


「何食べたい?」


「何でもいいよ」


「ほな、おうどんにしよか」


「え?」


 ゆきは瑠美の腕をぐいぐい引っ張って、通り過ぎたばかりのうどん屋に入った。


 店内に広がる出汁の香りは、瑠美にあの日の夜の出来事を思い出させた。途端に胸が苦しくなり、慌てて深呼吸する。


 ゆきはまた口をぎゅっと結んで瑠美を見つめた。二週間前にボスと嶋の地雷を踏んでしまって以降、ゆきは深く考えずにポロリと余計なことを言ってしまう癖を直そうと努力しているところだ。


「何食べる?」


 テーブルにつくと、ゆきが言った。


「……きつねうどん」


「OK。すいません、きつねと天ざるください」


 はーいと店員の明るい声が店内に響く。

 

 ゆきは俯きがちな瑠美をじっと観察していた。またや……あ、また……これで三回目、と瑠美がため息をつく回数を数えている。


 ずっと黙ったままのゆきに、瑠美が不思議そうに尋ねた。


「どうしたの?何かあった?」


「なんで?」


「だって、ゆきちゃん、ずっと黙ってるんだもん」


「お嬢のため息の回数数えててん」


「え?」


「ここ入ってから、もう五回はため息ついてる」


「もう……ゆきちゃん、いじわるだよ」


 うどんが運ばれてきて、二人は笑顔で「いただきます」と手を合わせた。


 瑠美のきつねうどんは、なかなか減らなかった。無理もない。うどんを口に運ぶたびに、お出汁をすくって飲むたびに、小さなため息が漏れて動きが止まってしまう。湯気の向こう側には、田中の優しい目があるような気がしてしまう。そしてまた、ため息が出てしまう。


「重症やね」


と、ゆきが呟いた。


「え?何か言った?」


「なんも言ってないよ」


 そう言うと、ゆきは最後に残しておいた海老の天ぷらを頬張った。


「来たんやんな?しょうちゃんと、この店に」


と、海老を食べ終わったゆきが言った。瑠美は驚いた様子で顔を上げた。


「どうして?」


「亮さんの奥さんから聞いたんよ。この店を出てから、二人で手つないで歩いてるとこ見たって」


「それは……違うの。演技」


「演技?」


「畑中くんが私たちの後をつけていたから……」


「ありゃま、ややこしいことになってるやん」


「大丈夫。もう信じてもらえたと思う」


「なんで?手つないで歩いたくらいで信じるかな」


「恋人でもなければ、そんなことしないでしょ?」


「違う違う。しょうちゃんみたいな演技が下手な男が、って話。しょうちゃんの演技やったら、嘘ってすぐにバレると思うで」


「そうかな……」


「たとえば、たとえばやで?恋人だと見せつけるためにキスしてください、みたいな話になったとして、ボスやったら躊躇なく見境なくキスできると思うねん。圭ちゃんは、それが事件を解決するのに必要とか、その人の命を助けるためとか、そういう理由があったら、うまいこと演じれると思う。ただ、しょうちゃんはあかん。解決するための違う方法を考えると思うわ。その人のこと本気に好きやないとキスできひんタイプ。私の勝手な分析やけどな。わりと自信あ……」


 ふと前を見ると、耳まで真っ赤になって俯く瑠美を見て、ゆきは口に手を当てた。


 あかん、またやってもうた……でっかい地雷踏んでもうた……ゆきは手を口から頭の上に移動させて、自分の頭をゲンコツでコツンと叩いた。


 その時、ゆきのスマホが鳴った。嶋からの着信だ。圭ちゃんナイスと思いながら、ゆきは電話に出た。店の中にいるので、ひそひそ声で話していたが、突然「えっ!」と大きな声を出した。


「ちょっと待ってな」


とスマホに向かっていうと、ゆきは瑠美に目をやった。

 

「どうしたの?」


 瑠美が尋ねたが、ゆきは迷っている様子で目をそらせた。


「何かあったの?」


 ためらっていたが、意を決したようにゆきは瑠美に向かって言った。


「しょうちゃんが倒れたって」


 瑠美は目を見開いて、その場に立ち上がった。


「調査から帰ってきて、具合が悪そうにしてたらしいんやけど、急に倒れたって。慌てた圭ちゃんが救急車呼ぼうとしたら、病院はあかんって、保険証もないからってしょうちゃんが止めたらしいんよ。でもその後すぐに気を失ってしまったらしくて。保険証ないってどういうこと?ボス何してんの?」


 最後の方は、スマホに向かってゆきは言った。


「お兄ちゃんは?」


「電話がつながらへんねんて」


「ゆきちゃん、圭ちゃんにすぐに行くから待っててって言って。私がなんとかするからって」


 そう言うと、瑠美はスマホで電話をかけながら、店を飛び出して行った。


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