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怒り

 襲撃の二時間ほど前のことである。


「柳田の写真はあるか?」


 河川敷で合流した俊哉に、田中は尋ねた。


「ありますよ」


 堀川が保管していた資料から抜き取ってきた柳田の写真を、俊哉は田中に渡した。


「ちょっと借りてもいいか?」


「いいですけど、どうするんですか?」


「発煙筒、車にあるか?」


 田中は俊哉の問いには答えずに言った。


「ありますけど」


「駐車場に停めた?」


「はい」


 田中が手を出してきたので、俊哉はその手に車の鍵を乗せた。 


「ちょっと借りるぞ」


 そう言うと、田中は北の方向に歩き始めたが、すぐに戻ってきて言った。


「ところであの二人、なんであんなに演技がうまいんや?」


「え?」


と、川岸に並んで座る嶋とゆきを俊哉は見遣った。


「子供じゃあるまいし、恋人とデートした経験くらいあの二人にもありますよ。相手が自分の恋人だと思えばいいだけの話です。それがどうかしたんですか?」


「いや……なんでもない」


 田中はくるりと方向を変え、北に向かって走っていった。



(俺が悪かったのかな……変なこと言ったか?)


 不機嫌な田中の後を追って発煙筒に向かって走りながら、俊哉は考えていた。


「田中ちゃーん。捕まえたで」


 田中が近づくと、発煙筒を振り回していた男が嬉しそうに言った。三人の男が、縄で縛った若い男の周りを囲んでいた。


「あぶないなぁ。怪我ないか?」


と、田中が声をかける。


「見つけてくれるだけで良かったのに」


「田中ちゃんの役に立ちたいやんか。よう世話になったからな」


 ほい、と縄の先端を田中に渡したのは、河川敷に住むホームレスだ。


「昔、レスリングやっとったでな」


と、男はニカッと笑った。


 田中は腰を下ろすと、捕まえられている若い男を正面から見据えた。顔や服に草や泥が付着していて、捕物の激しさを物語っていた。


「柳田雄太やな」


 田中の後を追ってきた俊哉が、息を切らしながら「やっぱり」と呟いた。田中は、柳田がゆきたちを遠くから監視しているはずと考え、顔見知りのホームレスに周辺を探してもらっていたのだった。


「ここで高みの見物か?」


「何なんですか?僕は何もしていないのに、この人たちが急に乱暴してきたんです」


と、柳田が言った。   


「お前、柳田雄太やろ?」

 

 田中が言うと、柳田は口を尖らせて下を向いた。


「もう全部バレてんねん。お前がやったこと全部。素直に認めた方がええぞ」


 柳田は何も答えない。


「お前な、自分が実行犯やなくても、殺人の教唆は殺人罪と同じやぞ」


「僕は殺せなんか言ってない」


「へぇ……ほな、何て言うたんや?」


 柳田は口をつぐんだ。


「警察に引き渡しましょう」


と、俊哉が言うと、田中は頷いた。


「次に出てきた時……まぁ、今度はずいぶん先の話やとは思うが、その時にまたお前があの子の前に現れたら、その時はお前の命の保証はせえへんから、覚えとけよ。俺はお前みたいな奴が一番嫌いやからな」


 田中が吐き捨てるように言うと、柳田は顔を赤らめながら立ち上がり、田中に近づいた。


「僕は何も悪くない。悪いのはあの女だ。あの時、僕は受け子を辞めようとしていたんだ。それなのに警察に通報して……おかげで何もかも失った。何もかもだ」


「それで復讐か?ふざけんな」


と、田中は柳田の胸ぐらを掴んで、いつでも殴りかかれる体勢をとった。


「友人まで殺して……自分の罪を他人の責任にするな」


「僕は殺せなんか言ってない。ちょっと脅かせって言っただけだ。やった奴が、力の加減を間違ったんだ。僕は何も悪くない」


 俊哉は、力が入った田中の右腕を掴んだ。田中が怒りに任せて柳田を殴ったら、怪我するどころの騒ぎではなくなると思ったからだった。


「殴ってみろ。暴行罪で訴えてやる」


と、柳田が叫んだ。


 田中は左手を胸ぐらから離すと、瞬時に柳田の首を掴み、締め始めた。柳田の顔が恐怖で歪んでいる。


「田中さん、駄目ですって」


と、俊哉が田中の身体にしがみつき、柳田から遠ざけた。柳田は腰が抜けたように、その場にへなへなと座り込んだ。 


「おい、何してんねん」


 その時、矢野が走って近づきながら言った。矢野の後ろには、ゆきと嶋もいた。


「なんや?どういう状況や?」


 縄で縛られ草むらの中で咳き込みながら座り込む若い男、その男を取り囲むように立つホームレスの男たち、そして田中を押さえている俊哉を順に見て、矢野は首をひねった。


「こいつ悪い奴やで、刑事さん。殺人犯」


と、ホームレスの一人が柳田を指差しながら言った。


「僕は何もしていない。この人が、僕を殺そうとしている」


 柳田が顎で田中を指しながら矢野に訴えた。俊哉が田中を押さえたまま柳田の方に振り返り、その顔を睨みつけている。


「何だよ。僕は何もしていない。あいつらが勝手にやったことだって言ってるだろ。僕に責任はない」


 すると、ゆきが矢野の後ろから出てきて柳田に近寄った。


「ゆき姉!」


と、嶋が言い終わらないうちに、ゆきの右手が宙を舞い、柳田の頬を打った。


「卑怯者。復讐なら自分でやったらええやん」


 柳田は驚いた表情でゆきを見た。


「私の大事な人たちを傷つけたら、絶対に許さへん」


 ゆきの頬に涙がつたっていた。


「刑事さん、見ました?今、暴行を受けました。この女を逮捕してください」


 柳田の叫び声が河川敷に響いた。ゆきは怒りで身体を震わせながら、俊哉に押さえられている田中と柳田の間に立った。そのゆきの姿に、いつでも飛びかかれる状態だった田中は、その力を緩めて俊哉の肩に手を置いた。


「いやいや、違うわ、お兄ちゃん」


 とぼけた様子で言いながら、矢野は柳田の前にしゃがんだ。そして柳田の頬についていた小さな葉っぱをつまむと、ぽいっと投げ捨てた。


「蚊、や」


 矢野はパンパンと自分の手をはたいた。


「は?」


と柳田が聞き直す。


「蚊!蚊がな、お兄ちゃんのここにおったからやな、このお姉ちゃんがパチンとしたわけや。な、そうやんな?」


 後の方はホームレスの男たちに言うと、みんなが頷いた。


「蚊や、蚊。蚊をパチンとしたくらいで暴行罪にはならん」


 矢野はにこりと笑った、と思ったらすぐに真顔になり柳田をじっと見つめた。その矢野の威圧感に、柳田は視線を下に落とした。


「とりあえず、署で話を聞こうか」


 上の道路にパトカーがやって来て、警察官が数人下に降りてきた。その警察官たちに柳田を引き渡すと、やれやれといった様子で両手を腰にあて、矢野は俊哉と目を合わせた。俊哉は苦笑いを浮かべながら片手で矢野を拝むような仕草を見せた。


「矢野さん、私……」


と、ゆきが矢野に近づいた。次に言うべき言葉を探していると、矢野が笑って言った。


「勇ましいお姉ちゃんやな。警察官の前で人をはたいたらあかんぞ。でも俺はそういうの、嫌いとちゃうけどな」


 ゆきが目を丸くして矢野を見ていると、矢野は頭を掻きながら言った。


「ところで、さっきの男はどこのどいつや?」


 ゆきが堪らずに笑った。


「おい、富田。お前もすぐに署に来いよ」


 矢野も笑顔を浮かべながら俊哉に向かって言うと、パトカーの方に走って行った。




 矢野が乗ったパトカーが走り去るのを見届けると、ホームレスの男たちは田中に手を振りながら北の方へと戻って行った。男たちを見送ると、田中は気まずそうな顔で、柳田に向かっていた時とは別人のように弱々しくゆきに声をかけた。


「ゆき姉……すまん」


「なんで?しょうちゃん、謝らんといてよ」


「ついカッとして……俺を止めようとしたんやろ?」


「私の問題やから。みんなに迷惑かけたくないし」


「迷惑だなんて、誰も思ってないっすよ」


と嶋が言うと、俊哉も頷いた。


「そうだな。いつもゆき姉に迷惑をかけているのは俺たちの方だしな」


「ありがとう」


と、ゆきは皆に向かって頭を下げた。


「しょうちゃん、私なんかのために怒ってくれて、ありがとう。圭ちゃんもボスも、守ってくれてありがとう」


「そんなこと言われたら、むず痒くなるからやめてくれ」


と俊哉が言い、田中は襟足を掻き、嶋はにやにやと笑った。


 三人の反応を見て笑いながら、ゆきは流れてきた涙を隠すことなく声を上げて泣いた。それまで我慢していた感情が溢れ出しているかのように、涙は次から次へと流れた。


 俊哉と嶋は、そんなゆきの背中に優しく手を当てた。


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