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堀川

 堀川は、レコードの上に針をそっと置いた。部屋の中にドビュッシーのアラベスク第一番が流れ出す。堀川はその音にうっとりしながらソファに座り、目の前にいる、退屈そうに窓の外を見ている俊哉に話しかけた。


「良い天気ですね」


 俊哉は返事をせずに、ただ顔をしかめた。


「頭痛が酷いようですね」


 俊哉は堀川の顔をじっと見つめた。


「何でもお見通しな爺さんだと思いましたね?」


 ふっと笑うと、俊哉は言った。


「じゃあ、僕がここに来た理由がわかりますか?」


「ちょっと待ってください。このアラベスクが終わった後に答えを言います」


 約五分の間、目を閉じてアラベスクに耳を傾けていた堀川は、曲が終わり次の二番が始まったところで目を開いた。


「ふたつ、思いつきました」


「ひとつ目は何ですか?」


「浜谷ゆきさんについて、何か聞きたいことがある」


 俊哉の表情の変化を見て、堀川は嬉しそうに頷いた。


「正解ですね?ひとつ目で正解できました。腕はまだ鈍ってはいませんね」


 俊哉はため息をつきながら言った。


「ちなみに、ふたつ目は何ですか?」


「それは、今は言わないでおきましょう」


「なぜ、ゆき姉のことだと?」


「あなたが私を頼るのは、あなたが関わっていない何らかの依頼について聞きたいときでしょう。しかし、私が携わった依頼ならば、書庫の資料を読めばわかるはずです。書庫にないことで私に聞きたいこととなると、思い当たるのは数件しかありません。ゆきさんを雇った経緯をあなたにはお話しておりませんし、時期を考えてもそのことかと」


「時期というのは?」


「最近、刑期を終えて出所したばかりでしょうからね、彼女の元交際相手が」


 俊哉は右手を額に当てながら堀川を睨みつけた。


「そういうことは、きちんと引き継ぎをしてもらわないと困ります」


「ゆきさんに口止めされていましてね。その様子では、何かあったのですね?」


「その、元交際相手の話を詳しく教えてください」


 堀川は立ち上がると、後ろの棚から一冊のノートを取り出してきて俊哉に渡した。それは、新聞記事の切り抜きがいくつも貼られているスクラップブックだった。


 記事は七年前のものから始まり、詐欺グループのメンバーが次々に逮捕され、その後の裁判の判決の記事まで残されていた。


「この中の、一体誰が、ゆき姉の元交際相手なんですか?」


「一番最初に逮捕された男です。名前は柳田(やなぎだ)雄太(ゆうた)、柳田は受け子でした」


「受け子……最近流行りの闇バイトですか」


「そうです。柳田とは、ゆきさんが短大に入った頃に知り合ったと言っていました。

 柳田は大学生で、友人の誘いから安易に闇バイトに手を出してしまったようです。詐欺の片棒を担がされていると気づいた時にはもう遅い。抜けることはできず、ずるずると何度もやってしまった。

 そんな柳田の異変に気づいたゆきさんは、彼の携帯でのやり取りをこっそりと見て、彼が受け子として犯罪に加担しているのではないかと疑いを持ちました。そんな時、私の事務所に相談にきたのです。確か、あなたはその頃、政治家の不倫調査でほとんど事務所にいませんでしたから、知らなかったでしょう。

 すぐに証拠はつかめました。ゆきさんは悩みながらも、これ以上彼に犯罪行為を繰り返してほしくないという思いで自ら警察に通報したのです。

 そして柳田の逮捕をきっかけに、芋づる式に犯行グループのメンバーが逮捕されていきました」


「それで、最近、柳田が懲役刑を終えて出てきたと?」


「そうです。もし、ゆきさんや事務所が誰かに狙われているのであれば、柳田の可能性は低くないと思います」


「ゆき姉を恨んでいると?」


「自分の人生があの事件で終わったと思っているなら、恨んでいるかもしれませんね」


「自業自得でしょう?」


「なんでもかんでも他人のせいにしたがる人間は、ある程度存在します。自分が闇バイトに手を出したのは、友人が変なサイトを紹介したからだ、自分が逮捕されたのは彼女が裏切ったからだ、とね」


 そう言うと堀川は立ち上がり、棚から新聞を取ってきて俊哉に渡した。二日前の新聞だった。


「何ですか?」


「小さい記事ですがね、ここ」


と、堀川が指差したところを見ると、男性が線路に飛び込み、電車と接触したという記事があった。


「この線路に飛び込んた男性が、柳田に変なサイトを紹介した友人ですよ」


「あなたは本当に……」


と、俊哉は頭を抱えた。


「人が悪い、と言いたいのはわかります。ひとつ、言い訳をさせてください。昔繋がりのあった警察関係者は皆退職してしまって、なかなか情報が収集できなかったのです。身元やこれが事故なのか事件なのか、はっきりしなかったものですからね。やっと今朝情報が入りまして、駅のホームの防犯カメラに、この友人を背後から押す人影が映っていたことがわかりました」


「このこと、ゆき姉は?」


「まだお伝えしておりません。過去のことは、ゆきさんから口止めされていましたが、そうも言っていられなくなってきました。俊哉くんに先にお知らせした方が良いだろうと連絡を取ろうとしたところ、偶然俊哉くんが来てくれたのです」


「では、僕がここに来た理由を考える時間なんていらなかったではないですか」


「いえ、それは違います。人は皆それぞれ考え方も感じ方も違います。自分を基準にすると判断を誤ってしまいます。常にあらゆる可能性を候補に入れることが必要です」


「講義はもういいです」


「ところで、あなたは何も私に報告していませんが、すでに何らかの危害がゆきさんに加えられたのですか?」


「ええ。悪いイタズラのようなことがいくつか」


「あなたも、私に似てきましたね」


「全然違います」


 堀川は、一瞬にこりと笑ったが、すぐに真剣な眼差しで俊哉に言った。


「ゆきさんは勘の良い方です。しかし不器用な方です。

 柳田の事件のせいで、彼女は周囲から好奇の目にさらされました。短大を中退し実家にも帰りづらくなり孤独なゆきさんを、私は事務所で働かないかと誘いました。

 彼女はいつも明るく振る舞っているでしょう?そうすることで心のバランスを保とうとしているのだと私は思います。非常に不器用なやり方です。自分を隠せば隠すほど心のバランスは崩れるというのに。

 事務所に入った頃、彼女は人を信頼することを恐れていました。信頼すればするほど、裏切られた時に傷つくからです。でも最近は、ずいぶん落ちついてきたなと安心していました。俊哉くん、瑠美さん、嶋くん、素敵な仲間に恵まれて、本当に楽しそうにしていました。

 何らかの危害が加えられたのなら、もう犯人に気付いているかもしれません。そして、ゆきさんなら、自分で解決しようとするかもしれません。彼女にとって、あなたたちが今までで一番大切な存在になっているからです。大切な仲間を傷つけたくない、彼女ならそう考える可能性があると思います」

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