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事件の始まり

 駅前の大通り沿いにある裁判所から、西側へ徒歩十分、雑居ビルが建ち並ぶ中に、佐野法律事務所はある。佐野法律事務所は一階が事務所、二階と三階は佐野弁護士の住居となっている。


 瑠美は法律事務所の前を通り過ぎると、商店街の手前の狭い通路を左に曲がった。薄暗い通りは人通りも少なく、少しひんやりとしている。商店街の明るさとは正反対の静けさが、無機質な建物の壁からただよっている。そんな通りでも、店舗は所々に営業しており、小洒落た美容室や隠れ家カフェなるものもあったりする。


 瑠美は、テナント募集と張り紙のあるシャッターの横の古びた緑色のドアを開けた。ドアを開けるとすぐに階段があり、そこを上がると堀川探偵事務所にたどり着く。瑠美は探偵事務所の扉を勢いよく開けた。


「うわ、びびった」


と、扉近くにいた探偵見習いの(しま)圭介(けいすけ)が、肩をびくっと上げてのけぞった。


「あ、ごめん」


「どないしたん、怖い顔して」


と、事務員の浜谷(はまたに)ゆきが言った。


「そんなに怖い顔、してる?」


「めっちゃ怖いよ」


「ねえ、ゆきちゃん。恋人って、どうやったらできるの?」


 事務所の奥の机でコーヒーを飲んでいた俊哉が激しく咳き込んだ。


「ボス、大丈夫?」


「き……き……気管に入った」


「ああ、それ、おっさんになってきた証拠ですわ」


「うるさい。瑠美が変なことを言うから」


と、俊哉は再び咳き込んだ。


「急にどうしたん、お嬢。彼氏ほしいん?」


「いや別に、欲しいわけじゃないんだけど」


 瑠美は壁際に置いてあるソファーに座ると頭を抱えた。


「なになに、昼間っから。ひょっとして飲んでんの?」


と、ゆきが瑠美の隣にどかっと座った。


「飲んでないけど、飲みたい気分かも」


「うわっ、めずらし。ほな、今日行こう」


「ゆきちゃんって、今の彼氏さんとどこで出会ったの?」


「パ・チ・ン・コ」


「え?」


「パチンコ好きでよく行くんやけど、なんかしょっちゅう隣にくる奴がおるなぁ思ててん。それがなかなかの男前やってな。ちょっと声かけてみたら、これがまた気ぃ合うねんやんかぁ。それでなんか、なんとなく付き合うようになったって感じかなぁ」


「お嬢とゆき(ねえ)って、ほんまに同い年なんすか?」


と、嶋が半笑いで言った。


「どういう意味やねん」


「ゆき姉、20歳くらいサバ読んでません?」


「あほか」


と、ゆきはテーブルの上においてある飴の小袋を一つ掴むと、嶋に投げつけた。飴は嶋の額に直撃し、嶋は「痛っ」と声をあげた。


「パチンコかぁ。何か趣味があれば良いってことかな。趣味で出会える?」


「お嬢、趣味は?」


「読書かな」


「それはあかんわ。本屋さんで、同じ本を同時に取ろうとする奇跡を待つ以外に出会いなんかないやん」


「いいなぁ、それ。理想だな」


と、俊哉がにこりと笑った。


「何をあほなこと。ボスはあれでしょ、バーに一人で来た女をナンパするんでしょ」


「しないよ。バーには行かないし」


 俊哉はコーヒーのおかわりを入れようと立ち上がった。


「湊さんに何か言われたな?見合い話でも持ってきたんだろ?」


「どうしてわかったの?」


「わかるさ。湊さんのしそうなことくらい」


「へぇ。で、どんな人なん?」


と、ゆきがにやついた顔で尋ねる。


「どんな人って……知らない。ちらっと見たけど断ったから」


「それで、自分で見つけるから放っておいて、とかなんとか言ったんだろ」


「どうしてわかるの?お兄ちゃん」


「わかるさ。お前の言いそうなことくらい」


と、俊哉は自分のカップにコーヒーを注いだ。


「お嬢って、マジでお嬢様なんすね。執事がいるって、やばくないっすか」


と、嶋が書類から顔を上げた。


「執事というか、監視役かな。昔から両親よりも近くにいる人だから」


「なら、湊さんに気に入られる人じゃないとだめなんすか?」


「そうなるね」


「いないっすよ、そんな人」


「うわっ、圭ちゃん。えらい辛口やん。こわっ」


と、ゆきが肩をすくめた。


「いや、こんな仕事してたら、そうなりますって」


「こんな仕事で悪かったな」


 俊哉が口を尖らせてみせたので、嶋は慌てて手を顔の前で振った。


「いや、そういう意味じゃなくて。だって、裏ばっかりですやん。真面目そうな人が不倫してたり横領してたり借金まみれやったり。俺、人間不信っすよ」


「私だってそうだよ。離婚調停してて、この夫婦も愛し合って結婚したのになって思っちゃうもん」


と、瑠美がまた頭を抱えた。


「ちょっと、2人とも病みすぎちゃう?そんな人ばっかりやないよ。ボス見てみいや。裏表ないやん、どっちもだらしない。その逆の人も絶対おるし、なんならそういう人の方が多いって」


「おい、ゆき姉。俺のどこが裏表ともだらしないんだよ」


「ボス、隠し子とかおりそうやもん」


「おい」


 その時、事務所のドアがキィーと小さな音を立てながら開いた。


 皆が振り向くと、そこには5歳くらいの男の子が立っていた。


「えっ……」


 瑠美が俊哉に目を向けると、俊哉は「違うよ」と、首を横に振った。


「えっと……どないしたんかな?」


と、ゆきが男の子の目線に合わせてしゃがみながら近づいた。


「ひとり?」


「たんていさんって、さがしてくれる?」


「何か探してるん?」


「レオ」


と、男の子はチラシをゆきに見せた。それは迷い犬のチラシだった。


「ワンちゃんか……しば犬、オス、3歳。レオ君が、いなくなってもうたん?」


「うん。にげちゃった」


 瑠美もそのチラシをのぞきこんだ。チラシの真ん中には、かわいい茶色のしば犬の写真が載っていた。


「心配だね、はやく見つけてあげたいね」


と、瑠美が声をかけると、男の子はこくりと頷いた。


「申し訳ないが、うちはペットの捜索はやってないんだ。ごめんな」


 俊哉はそっけなく言うと、自分のデスクに戻っていった。ゆきは俊哉を睨みつけながら、「ボス、言い方」と怒った。

 

「仕方がない。犬猫アレルギーなんだ」


 それに子供も苦手なんだよな……俊哉は誰にも聞こえない小さな声で呟いた。


 その時、誰かが事務所のドアをノックしたので嶋がドアを開けると、そこには男の人が立っていた。手には迷い犬のチラシを持っていて、中にいる男の子を見つけると慌てて言った。


「すいません、申し訳ないです。りゅうへい、勝手に入っちゃだめじゃないか」


「たんていさん、いるよ」


「すいません」


 男の子の父親は、頭を下げた。


「このチラシを、下の電柱に貼らせてもらえないかと思いまして。他のお店に僕が伺っている間に、この子が勝手にこちらに入ってしまって」


「そうでしたか。全然、構いませんよ。目立つところに貼ってください。この下は、まだしばらく店は入りませんし、シャッターに貼ってもらっても大丈夫ですよ」


と、俊哉が言うと、男の子の父親は「ありがとうございます」と、また頭を下げた。


「うちらも、気いつけて見とくわな。最近は野良犬なんか見いひんし、ワンちゃんが1人でおったら、すぐわかりそうやけどなぁ。なんか特徴ある?」


「レオはね、げんきいっぱいなんだ。とんぼとかすきやから、おいかけていっちゃったんじゃないかな」


「そうかぁ、見た目で何か特徴ある?」


「くびわにこれとおそろい、ついてる」


 男の子は、背負っていたリュックを下ろして、チャックに付けているキーホルダーを見せた。それは、四葉のクローバーの上にてんとう虫が乗っかった、かわいいキーホルダーだった。


「これ、写真撮っていい?」


と言いながら、ゆきはスマートフォンで写真を撮った。


「ちょうど、散歩に行こうと首輪をつけたところで、開いていた玄関から飛び出して行ってしまったんです。首輪をしているところの写真が無くて……でも、このキーホルダーのことも、チラシに載せておいた方が良さそうですね」

 

 父親は、ありがとうございましたと何度も言いながら、男の子の手を取って帰って行った。




 その日の夕方5時、探偵事務所には俊哉だけしかいなかった。嶋とゆきは、瑠美と一緒に迷い犬を探しに行ったっきり戻ってこない。


「依頼でもないのに、お前らはお人好しだな」


と俊哉は三人に声を掛けたが、そんな彼らを止めることはしなかった。


 俊哉は、依頼人に明日渡す報告書を仕上げると、それを封筒に入れて、ため息をついた。 


 自分に有利な条件で離婚したいために配偶者の不倫を立証してもらいたいという依頼もあれば、ひょっとしたら不倫なんてしていないかもしれないと微かな望みをかけて調査を依頼する人もいる。今回の依頼は後者だったが、結果はクロだった。明日のことを考えると気が滅入る。涙を流す依頼人もいれば怒りに震える人もいる。溢れ出そうな感情を必死に抑える人も。そのどれが来ても、俊哉の胸は痛む。痛むが、それを表に出すわけにはいかない。あくまでも事務的に淡々と処理していかなければならない。


 俊哉の中途半端な優しさが、トラブルを招いたことが過去にあった。それは後々、現在に至るまで、ゆきにだらしがないと揶揄される原因となった出来事だ。


(あんなのは、もう懲り懲りだ……)


 俊哉が、今日はもう帰ろうと事務所の鍵を手に持った時だった。事務所のドアを弱々しくノックする音がした。


「はい」


 俊哉がドアを開けると、黒縁の眼鏡を掛けた青白い顔の青年が立っていた。


「ご依頼ですか?」


「はい、あの…………犬なんですが、探してもらいたいんです」


「犬、ですか」


 俊哉は即座に断ろうとしたが、顔色の悪い青年から漂う違和感に、それを躊躇した。誰かに追われているのかと思うほど、青年から焦りのような切迫感を感じたのだ。俊哉は階段の方に目をやったが、もちろん誰もいなかった。


「どうぞ」


と、俊哉は青年を中へ入れた。


「こちらにお掛けください」


 俊哉は奥の応接室に青年を通した。


「こちらにご記入をお願いできますか」


 青年は受付票を受け取ると、素早く記入し、俊哉に渡した。


「えっと、関口(せきぐち)拓実(たくみ)さん」


「はい」


「ご依頼は、犬の捜索ですね」


「はい」


「犬種、色、大きさ、特徴など、教えていただけますか?」


「犬種……すいません、わかりません」


「わからない?ご自身が飼われていた犬ではないのですか?」


「いえ、僕が……でも、もらった犬なので。しば犬みたいな、でも雑種かもしれないです」


「なるほど。色は?」


「茶色で、大きさは、これくらいです」


と、関口は両手を広げてみせた。


「名前は?」


「えっと名前は……名前はないです」


「え?」


「あ、いや……もらったばっかりで。名前を付けようとしていた時に、逃げられてしまったんです」


「いつ、どこで逃げられましたか?」


「昨日のお昼に、気がついたらいなくなっていて」

 

「気がついたら?」


 俊哉は、関口をじっと見つめた。関口は落ち着きがない様子で、ずっと顔のパーツを右手でいじっている。額を押さえたり、眉間をぼりぼりと掻いたり、鼻をこすったり、とにかく忙しい。


「ご職業の欄が空欄ですが、お仕事は?学生さんですか?」


「あ、いえ。フリーターです」


「では、何かアルバイトを?」


「はい、いえ、今は何も。少し前に辞めてしまって」


「そうですか」


「探してもらえますか?」


「そうですね……1日8時間捜索するとして、3日間で10万円ほどかかりますが、よろしいですか?」


「あっ」


と、関口は急に立ったり座ったりを繰り返し、両手で頭を掻きむしった。そして、俊哉に頭を下げながら言った。


「すいません、この話は無かったことにしてください」


 関口は、すぐに応接室から出てドアの方に向かった。


「ちょっと待ってください。もし、この周辺で見かけたらご連絡しますから。個人的に気をつけて見る程度ですので、料金はいただきません。写真か何かありませんか?」


と、俊哉が言うと、ドアの取っ手に手をかけていた関口は足を止めた。


「写真、ないんです」


「そう……ですか」


「あ、でも首輪をしてます。四葉のクローバーの葉の上にてんとう虫が乗っかった飾りを付けた首輪を」


 そう言うと、関口は事務所から急いで出て行った。



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