思い込み
「ボス、目を覚ましたらしいっす」
ほっとした様子で嶋がスマホをポケットに入れ直した。田中は外を向いたまま「良かった」と呟いた。
嶋と田中は、喜多川准教授の自宅マンションのベランダ側を見ることのできるテナントビルの非常階段に潜んでいた。五階建てマンションの四階の右から二つ目の部屋が、喜多川の自宅だった。
「ボス、大丈夫かな……」
「せやから、ここは俺がおるから嶋くんは病院に行けって」
「いや、それはいいっす。俺は俺の仕事をしないと後で絶対にボスに怒られます。俺が病院に行ったところで役に立てることはないし。それに、もし喜多川がまた車で出かけたりでもしたら、どうやって尾行するんすか?田中さん、免許持ってないし」
田中は何も言わずに喜多川の自宅の窓を睨んでいた。
「なんでボスが襲われたんすかね?長木にやられたんすかね?」
「どういう状況で襲われたか、犯人の顔を見たのか見なかったか、聞いてみんと何もわからん。警察も調べとるだろうが……とりあえず明日、喜多川が大学に行ったら、嶋くんは病院へ行ってこい」
「わかりました」
と、嶋は双眼鏡を覗いた。
「カーテン、閉まったままっすね」
喜多川が帰ってから部屋の明かりがついたのはわかったが、カーテンが閉められたままで、中の様子を窺い知ることはできなかった。
「田中さん、俺、田中さんの本職、わかっちゃったかもしれないっす」
田中はベランダから目を離すと、したり顔の嶋をちらっと見て、すぐにまたベランダの方に目をやった。
「なんや急に」
「田中さん、スパイでしょ」
ふっと笑ってから、田中は「あほか」とぼそっと言った。
「ホームレスは仮の姿で、本当はスパイ活動をしていたんでしょ」
「あのなぁ……それやったら、なんでわざわざ探偵事務所に雇われんねん」
「いや、だから今もスパイ継続中でしょ?いつもフードを被っているのは、顔を見られてはまずいからじゃないんすか?やたら強いのも納得できるし、さっきもやばかったっすよ。喜多川がここに着くなり車を降りてどっか行ったと思ったら、喜多川の部屋を突き止めてくるなんて……普通じゃないっす」
田中はにやりと笑った。
「おもろいけど……ええか、嶋くん。もしまた、こいつスパイかもしれへんって思うようなことがあっても、その人に「あなたスパイでしょ」なんか言うたらあかんで。まちがいなく消されるからな」
「え?俺を消すつもりっすか?」
「せやから、スパイとちゃうって」
この時、喜多川の部屋のカーテンが窓一枚分だけ開き、中から喜多川が出てきた。嶋と田中は双眼鏡で喜多川の様子を観察し始めた。
喜多川は部屋の中でハンガーにかけておいた洗濯物を持っていて、それらをベランダの竿にかけると、またすぐに部屋の中へ戻りカーテンを閉めてしまった。
「すぐに閉めちゃいましたけど、確かに喜多川でしたね」
嶋は双眼鏡から目を離したが、田中は双眼鏡を構えたまま、まだじっとベランダを見つめていた。
「何か見えます?」
「あれ、女の下着とちゃうか?」
「え?」
と、嶋は再び双眼鏡を構え、洗濯物を食い入るように見つめた。カーテン越しの少しの明かりしかなく、洗濯物はあまりよくは見えなかったが、ピンチハンガーの中に、確かにブラジャーらしきものがぶら下がっているように見えた。
「本当だ……いるんすかね?井上さんが、あそこに」
「慌てるな、そうとは限らん。大学での聞き込みでは喜多川は独身らしいが、恋人がおったっておかしくはないやろ」
「まあ、確かにそうっすね」
田中は双眼鏡を下におろすと大きなため息をついた。
「まったく……面倒なことになりそうやな」
いつの間にか眠ってしまっていた俊哉が目を開けると、もう朝になっていた。頭痛はだいぶ治まり、身体を起こすことができた。
スマホを手に取り確認すると、嶋から状況報告のメールが入っていた。俊哉は「了解」と返事を送った。
トントンと病室のドアを叩く音がして、間を置かずにドアが開き矢野が入ってきた。矢野はベッドの上で上半身を起こしている俊哉を見て、「おっ」と嬉しそうに笑った。
「ドアをノックした時は、どうぞと許可されてから開けるもんだ」
と、俊哉は文句を言いながらスマホを見た。「しかもまだ7時前じゃないか」
「俺は睡眠時間も潰して捜査しとるんやぞ」
「それはどうも、申し訳ない」
「これで借りは返したからな」
と、矢野はベッド横の椅子に座った。
「ん?犯人がわかったのか?」
「ああ。やっぱり長木だった。足首にお前が付けた引っ掻き傷があった。皮膚がえぐれとったぞ。お前の爪、やばいな」
「殺されると思ったんだ。せめて犯人の手がかりを残さないとと思って必死だったんだよ」
「さすが名探偵。今度お前が死体で見つかったら、必ず爪の間に何か挟まってないか確認してやるから安心しとけ」
「馬鹿野郎」
と俊哉はにやりと笑った。
「それで?どうして俺が狙われなきゃならなかったんだ?」
「そう、それなんやけどな。お前、井上歩美の彼氏やったんか?」
「は?何の話だ」
「井上歩美の彼氏から脅迫を受けていたって言うんや、長木が。歩美をストーキングしたら殺してやるとか、お前がストーカーだと警察に通報するとかSNSでバラしてやるとか何とか……何度も脅迫を受けていたらしい」
「それで、どうして俺が井上さんの彼氏ってことになるんだよ」
「昨夜、長木がバイトの後藤って子に言い忘れていたことがあって追いかけたら、お前とその子が話しているのが聞こえたらしい。何をしゃべったか、覚えてるか?」
「え?」
と、俊哉は頭に手を当てた。
「どうだったかな」
「覚えてないか?」
「すぐには無理そうだ」
「まあいい、後藤くんにも聞いてみる。とにかく、井上歩美の彼氏に襲われるかもしれないと毎日びびっていた長木は、お前がその彼氏だと思い違いをして、自分がやられる前にやっちまえってことになったという話や」
「なんだ、その短絡的な犯行は」
俊哉が呆れ顔で言った。
「知らん。あちらさんも必死やったんとちゃうか?身に覚えのない事で脅されて、毎日恐怖を感じていたらしい」
「身に覚えのない?」
「ああ。僕はストーカーなんかしてません!ってな。いや、裏は取れていないから何とも言えんが、どうも嘘をついているようには思えなくてな」
矢野は手を前で組んで首を捻った。
「長木の供述では、ただ、たまたま井上歩美の後を歩いていただけらしい。塾が終わった後、コンビニに行こうと歩いていたら、前を歩いていたのが井上歩美だった、ただそれだけだってな。嫌な予感はしたらしいんだ。井上歩美が途中から妙に後ろを気にする素振りをしていて、そのうち走って逃げてしまったから。ひょっとして、後をつけていると誤解されたんじゃないかって思ったらしい。そうしたら案の定、バイトを辞めたいと電話があって、その後から脅迫電話がかかるようになって……」
「おいおい」
目眩を感じた俊哉は再びベッドに横になると、額に手を当てて目を瞑った。
「長木の供述が真実なら、思い違いが重なって俺はこんな目に遭ったってことになるのか?」
「お祓いにでも行ってくるか?」
と、矢野は笑いながら立ち上がった。
「そういうことやから、俺は帰るぞ」
「脅迫電話の件、調べとけよ」
「誰に言うとんねん。言われんでもやっとるわ。ほな、お大事にな」
そう言うと、矢野は病室から出て行った。




