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油断

 長木塾までは徒歩五分、塾のサイトによると今日は午後六時から八時まで小学五年生の教室があるので、医学部の後藤が来るだろうと、俊哉は塾の裏手に潜んでいた。


 午後八時すぎ、親たちが次々と迎えにきて生徒が全員帰った後、若い男が塾から出てきた。俊哉は男の後を追い、塾から少し離れたところで男に声をかけた。


「後藤くん」


 若い男は立ち止まり振り返った。


「突然すいません。井上歩美さんのことを聞きたくて。後藤くんですよね?」


「え?あ、はい。井上歩美さん?あぁ、四年生担任の井上さんですか?」


「面識はありましたか?担当の曜日は違いますよね?」


「あぁ、はい。でも語学の授業で一緒になって。お互い名前だけは知っていたので、少し話したりはしましたけど。どうしてそんなこと聞くんですか?」


「実は井上さん、行方不明なんです」


「え?」


と、後藤は驚いた様子で言った。


「行方不明なんですか?」


「ご家族と一緒に僕も探していて」


「あぁ、ひょっとして彼氏さんですか」


 今度は俊哉が驚く番だった。


「井上さん、そんなことまであなたに話していたんですか?」


「いや、そんなに詳しいことは聞いてないんですけど」


と、後藤は苦笑いを浮かべた。


「むしろめっちゃ警戒されちゃって、ほとんど話せなかったんですよね」


と、後藤は笑いながら言った。


「警戒というのは?」


「いや、それが……講義が終わった後に話しかけたら、めっちゃ嫌そうな顔されちゃって。まあ、合コンの誘いだったのが駄目だったみたいなんですけど、冷たい目で見られちゃって。私は彼氏がいるので、合コンには行きませんって、怒られたんです」


「なるほど。では、塾講師のバイトを辞めたがっていた、なんて話をしたことは?」


「いや、ないですね。合コンの件があってからは、あんまり近づかないようにしていたんで」


「長木先生について話すこともなかったですか?」


「なかったです。本当に、その合コンの誘いの時に話しただけなんで」


「そうですか。ありがとうございました」


 後藤は、俊哉に軽く会釈すると、駅の方向に向かって歩いて行った。


 俊哉は再び塾へと向かおうと歩き始めた。しかし「しまった…」と呟くと、もう一度後藤が去った方向に身体を向けた。後藤くんの名前を確認するのを忘れていた……俊哉は後藤の後を追おうとした。


 俊哉は完全に油断していた。この時俊哉は、自分の周りの空間に、あまり神経が行き届いていなかった。通りを走る車の数も少ない上に、交差点の信号が赤になり、右折して入ってくる車もなかった。街灯は所々にあるものの、俊哉がいた場所は暗かった。


 突然、ドスッという音と共に後頭部に衝撃が走り、俊哉の目の前が真っ暗になった。カランと金属が地面とぶつかる音が聞こえる。よろけて倒れそうになっていた俊哉は、少しだけ開けることができた目で、金属バットの先を見た。


 金属バットで頭を殴られた……俊哉は振り向きながらその場に倒れた。相手の足が見える。もう一度相手がバットを振りかぶっている気配も感じる。俊哉は薄れゆく意識の中で腕を伸ばし、爪で相手の足首を引っ掻いた。


 引っ掻かれた人物は、驚いた様子で足をあげ、俊哉の手を踏みつけた。足を引っ掻かれたことで、もう一度殴る予定がほんの少しずれた。


 その時、車のヘッドライトが辺りを照らした。

 

 ヘッドライトの灯りの中で、前から歩いてきたサラリーマンと目が合った犯人は、慌ててその場を逃げ出した。しかしその時には、既に俊哉の意識はなかった。




「お兄ちゃん」


「ボス」


 俊哉が目を覚ますと、瑠美とゆきが安心した様子で同時に呼びかけた。


「おぉ、死に損ない。やっと目を覚ましたか」


 乱暴な言葉遣いながらも、安堵の表情は隠せない様子で矢野が言った。


 俺は何をやっているんだ……俊哉は状況が把握できていなかった。頭がぼんやりしていて、何も考えられなかった。


「おい、一体誰にやられたんだ?」


と、矢野が尋ねたが、俊哉は何も答えずに手を出して自分の額に触った。頭に包帯がぐるぐると巻かれているのがわかった。


「ちょっと矢野さん、あかんって。まだ目を覚ましたとこやのに、無理やって。何も覚えてないかもしれへんし」


と、ゆきがイライラした様子で言った。


「いやいや、お姉ちゃん。俺は警察官や。一刻も早く犯人を捕まえんとやな……」


「警察官やからって、偉そうに。こないだの事件やって後手後手やったくせに」


「あのなぁ、お姉ちゃんにそんなこと言われる筋合いないっちゅうねん」


「ちょっと、二人とも」


と、瑠美が二人の間に立った。


「ここは病院。喧嘩は駄目です」


「病院?」


と、ようやく俊哉が口を開いた。


「そう、お兄ちゃんは何者かにバットで殴られて、脳震盪を起こして倒れたんだよ」


と瑠美が言うと、俊哉は目を瞑った。金属バットが地面に当たる音が確かに俊哉の耳に残っていた。


「覚えてる?」


「覚えているような、いないような……」


「犯人の顔は?見たんか?」


と、矢野が尋ねた。 


「わからない」


「通報者も、犯人の顔はよう見えんかったらしい。お前、何を調べとるんや?なんであんな所におった?今の仕事に関係しとるんやろ」


「そんなこと言えるわけないやん。守秘義務って、知らんの?」


「お姉ちゃんには聞いてへん。俺は富田に聞いてんねん」


「また喧嘩する」


と、あきれ顔の瑠美が、矢野とゆきの身体の前に手を出して止める仕草を見せた。


「お兄ちゃん。守秘義務はわかるけど、こんなことになってしまっているんだから、矢野さんに協力してもらった方がいいんじゃない?」


 うう……と、俊哉は低く唸った。少し身体を動かすだけで頭が痛かった。


「安静にしとかなきゃ、ね?」


と、瑠美が優しく言った。


「俺の携帯は?」


「あるよ」


と、瑠美がベッド横の棚から俊哉のスマホを取って渡した。


「お財布も盗られず無事よ。強盗ではないってことね」


 俊哉が画面を操作していると、ピコンと音がして、矢野が自分のスマホをポケットから取り出した。


「写真を送った」


と俊哉は言うと、スマホをベッドの上に置き、目を瞑って深くため息をついた。矢野は「おう」と返事をしてからメールを確認している。


「長木塾講師の長木義彦。それからこっちは陽城大学法学部の喜多川晃准教授。こいつらを調べとるんやな?なんや、どういう関係や?」


「法学部三回生の井上歩美さんが二週間前から行方不明になってる。警察に行方不明者届をご両親が出しているから、調べればわかるだろう。警察が動いてくれなかったから、うちに捜索の依頼が来たんだ」


「警察がしっかりせえへんから、ボスが襲われたんやんか」


と、ゆきが口を尖らせた。


「それは……申し訳ない」


 矢野が素直に謝ったので、ゆきは尖らせていた口を、きまり悪そうにもごもごと動かして元に戻した。その様子がおかしくて、瑠美はクスッと笑った。


「それで、その井上歩美の失踪とこの二人が関係しているっていうんか?」


「それを調べているところだ。井上さんにはアキラという名の恋人がいたらしい」


「ああ、喜多川は晃っていう名前やな」


「喜多川は井上さんのことを知っている感じだったから、今、圭と田中さんに調べてもらっている」


「田中さんって誰や。そんなんおったか?」


「数日前に入った新人だ」


「へぇ。わりと儲かるんやな、探偵も。んで、長木っていうのは?」


「長木はおそらくストーカーだ、井上さんの。長木に話を聞こうとしていた矢先に襲われてしまったけどな」


「ほな、お前を襲ったんは長木か?」


「それが……長木は俺のことは知らないはずなんだ。だから俺を襲うとは思えないんだが……」


「しかしお前が倒れていたのは、この塾の近くや。ストーカーか……しょうもない男やな。よし、俺に任せとけ」


 病室を出て行こうとする矢野を、「おい」と俊哉は右手を出して呼び止めた。


「ちょっと待て」


 そう言って、俊哉は伸ばした右手の先をじっと見つめたまま固まっていた。


「なんや、どないした?」


 俊哉は右手をゆっくり回転させ指の先を見た。殴られて倒れた時に見た足首を俊哉は思い出していた。そして右手の爪を矢野に見せながら言った。


「犯人……俺を殴った犯人の足首を思い切り爪で引っ掻いたんだ。皮膚にめり込んだと思う」


「おいおい」


と、矢野が俊哉の右腕を掴んで、その指先を食い入るように見つめた。


「そういうことはもっと早く思い出せ。とりあえず鑑識呼ぶから、手を洗うんじゃねえぞ」

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