癖
「まじっすか」
嶋は小声で呟いた。
「先生から連絡があった。田中さんに探偵として働いてもらいたいそうだ」
と、夕方事務所に戻った時に俊哉が言ったからだった。
「圭ちゃんは、探偵見習いやったのにね」
と、ゆきが横から耳打ちしてきたので、嶋はもっと不機嫌になった。
「ボス、俺、今日もう帰っていいっすか」
「ああ、いいよ、お疲れさん。新しい仕事が入ったから、明日から早速、田中さんと頼むよ」
しかし、嶋は黙ったまま事務所から出て行った。
「あーあ、拗ねちゃった」
と、ゆきが肩をすくめる。
「ボス、フォローしたらな。最近の若者は、褒めて大事に育てんと。辞めてまうで」
「あのなぁ……俺も若者だよ」
「どこがやねん」
「こんなことで辞めるんだったら、辞めた方がいいんじゃないか、こんな仕事。まあ、俺は圭がそう簡単に辞めるような奴じゃないって思ってるけどな」
三年前、嶋が堀川の面接を受けた時に堀川は言った。
「あなたは良いものを持っています。しかし、まだまだ……おままごとです。あなたが探偵に昇格できるかは、俊哉さんにお任せすることにしましょう」
ついさっき、老人ホームの中庭で繰り広げられていた格闘が脳裏に浮かび、嶋は口を尖らせた。
(ちょっと強いからって何なんだよ。強けりゃ何でもいいのかよ)
怒って事務所を出た後、近くの狭い通路に嶋は潜んでいた。緑色のドアが開くのをじっと待っているのだ。
しばらくすると、ドアがゆっくりと開いて田中が出てきた。田中は嶋がいる通路とは逆の方向に歩き出した。
身長が180センチの嶋と比べると、頭ひとつ分ほどの差があるので、田中の身長は160センチほどだ。パーカーのフードをかぶって、ズボンのポケットに手を入れ、少し背中を丸めて歩いているからか、より小柄に見えた。
(この体格差なら俺なんかでも勝てそうなんだけどなぁ。だけどヤバかったよなぁ、さっきの……)
自分が田中と格闘したところで、秒で仕留められることくらい嶋も分かっている。喧嘩で勝とうなんてこれっぽっちも考えていない。
(でも俺だって三年間、探偵の修行を積んできたんだからな)
二十メートル程の距離をあけて、嶋は田中の後をつけ始めた。
田中は駅の方に向かって歩き、駅前のコンビニに入った。嶋は商店街の入り口にあるカフェのメニューボードを眺めながら、コンビニにいる田中の動きを探っていた。田中は店内をぐるりと一周した後、ペットボトル飲料を一本買って出てきた。
線路に沿って東の方へ歩く田中の後を、嶋は尾行していく。商店街の近くよりも人通りが少なく、見晴らしも良いため、嶋は田中と三十メートルは離れて歩いていた。
高架下にある歩行者専用の南北通路に入った田中を見て、嶋は少し小走りで追いかけた。そして通路の入り口で立ち止まり、田中に近づきすぎないようにと考えて、トンネルのような通路をそっと覗き見た。
「あれ?」
トンネルのような通路内に田中の姿はなく、通路を抜けた先の道路にも誰もいない。嶋は南北通路を走り抜け、左右を見渡しながら先に進んだが、どこにも田中はいなかった。
もう一度南側に戻ろうと、嶋はトンネルのような南北通路に再び入る。しかし、通路の中央あたりで背後に人の気配を感じ、立ち止まって後ろを振り返った。
視界の隅に田中の姿を捉えたと思った瞬間、嶋は腕を取られて背中の後ろで捻りあげられ、そのまま通路の壁に押し当てられてしまった。田中は右手にペットボトルをもったまま、左腕一本で嶋を押さえ込んでいた。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待って」
「おい、誰の命令で俺を尾行しとんねん。ボスか?」
「ち、ち、違います。ボス関係ないっす」
「ほな誰や」
「誰の命令でもないっす」
「俺、今日はあんま機嫌良うないぞ」
「本当っす。ただ……」
「ちょっと、何やってるんですか、田中さん。圭ちゃんと……」
突然聞き覚えのある声がして、田中と嶋が声のした方を同時に見た。そこには瑠美が目を丸くして立っていた。
田中がつかんでいた嶋の腕を離し一歩後ろに下がると、嶋は「いて〜」と顔をしかめながら右腕をさすった。
「田中さん!」
瑠美の怒っている声がトンネルに響いた。
「お嬢、違うんです。俺が悪かったんです。だから田中さんを怒らないでください」
「どういうこと?」
「嶋くんが、俺を尾行してきたんや」
と、田中が言うと、瑠美は呆れた表情になった。
「圭ちゃん、また悪い癖が出たのね?駄目だって、お兄ちゃんからも言われているでしょ?」
「いつものじゃないっす。今回はただ……なんか悔しかったから……だから、ボスには言わないでください。お願いします」
そう言いながら、嶋が瑠美と田中にそれぞれ深々と頭を下げたので、瑠美と田中は困った様子で顔を見合わせた。
三人は近くの公園に移動した。嶋の様子がおかしかったので話を聞く必要があると瑠美が感じたからだった。
公園にはベンチが二つあって、片方に瑠美と嶋が、もう片方に田中が座っている。
「だから、今日のはほんまに違うんですって」
嶋から今日の出来事をすべて聞き、瑠美は納得して頷いた。
「さっきから、いつものじゃないとか、違うとか、一体何の話や」
と、田中が言うと、嶋は頭を抱えてうなだれた。
「圭ちゃん、尾行する癖があるんです」
と、瑠美が答えた。
「なんやねん、そんな癖、聞いたことないぞ」
「圭ちゃんと出会ったのも、圭ちゃんが私を尾行していて、それに気づいたお兄ちゃんが圭ちゃんを捕まえたからで……」
「お前、ストーカーか?」
「違います。俺は……ただの癖っす」
「そんな癖あるか」
「背中……母親に似てる背中を見ると、無性に追いかけたくなっちゃうんですよね、俺」
「なんでや」
「俺、母親に捨てられたんです。教会の椅子に座ってて、ちょっとここで待っててねって、母親が出て行って。ずっと待ってたけど、帰ってこなくて。つまり、児童養護施設のある教会に、捨てられたんす、俺」
田中はベンチの背にもたれ、腕を前に組んで空を見上げた。
「あの時、俺まだ三歳だったんですけど、教会から出ていく母親の後ろ姿が、今でも目に焼き付いて離れないんです。母親の顔は覚えてないのに。あの時「お母さん」って呼んでたら……追いかけてたら、結果は変わってたのかなって、そんなことを考えちゃうんすよね。考えたってしょうがないのに」
瑠美が心配そうな顔をして、嶋の背中に優しく手を置いた。
「お嬢、大丈夫っすよ、俺。意外と楽しく生きてこれたんで。施設の人たちは、めっちゃ愛情深くて優しくて、でも厳しくてちゃんと怒ってもくれて。さみしい思いなんかしてこなかったし。母親なんかいなくたって、大丈夫やったんすけど……」
「我慢しとるんやんか。だから変な癖がついてんねん」
と、田中が小さな声でぼそっと言った。
「お前の母親、どんな事情があったんかはわからんけど、お前のことを大事に思ってたってことやな」
「なんでそんなことわかるんすか?」
「お前ももう大人やし、こんな仕事しとるし、わかるやろ。人ってもんは、色々事情を抱えとるもんなんやって。お前の母親がどういう事情があって子供を捨てたんか知らんけど、少なくともお前を虐待したり、心中したりすることはなかった。信頼できる所に置いていった。三歳なら待ってろって言ったって、動き回る年齢やろ?ひょっとしたらお前の母親は、すぐに教会に連絡して、お前を保護してもらったんかもしれんな」
………電話があったのよ………遠くの方から数人の足音がして、教会の椅子に座っている男の子の側に三人のシスターが小走りでやってきた。そしてシスターの一人がしゃがみこみ、男の子の目線に合わせて微笑んだ。
「圭介くんね。お母さん、ちょっとご用事で遅くなるのよ。隣にお泊まりできるところがあるから、一緒に行きましょうね。大丈夫、遊ぶところもありますからね」
あの時の記憶が、ふと嶋の脳裏によみがえった。
「お母さんは、いつ迎えに来るの?」
幼かった頃の嶋は、シスター山本にこの質問を投げかけた。シスター山本は玄関を掃き清めていた手を止め、幼子と同じ目線になるようにしゃがんで答えた。
「そうね……それは私にもわかりません。私は祈ることしかできないのです。圭介さんと圭介さんのお母様に神の御加護がありますように、毎日お祈りしています」
神の御加護ってなんだろうと幼子は思った。そんなものはいらないから、お母さんに会いたい……
「圭介さん、私と一緒にここのお掃除をしましょう。ほら、この小さなほうきで」
と、シスター山本は小さなほうきを持ってきて嶋に渡した。
「玄関は、そこに住んでいる人の心を映す鏡です。玄関を綺麗にすることは、心を綺麗にすることなのですよ」
ふと、小さな玄関が幼子の脳裏に浮かんだ。いつも座って頑張って靴を履いていた玄関。夜、大きな声がして起きると、玄関には大きな靴が乱暴に脱ぎ捨ててあって……お母さん……
「圭介さん、こうやってやるのですよ」
シスター山本の声で、幼子は自分がほうきを持っていることに気づいた。シスター山本の言う通りにほうきを動かしてみる。
「そうそうとても上手です、圭介さん」
笑顔のシスターに、幼子も笑みで返した。
圭介が高校生になった頃、シスター山本は病床に伏せていた。末期の膵臓癌だった。
その頃の圭介は反抗期の真っ只中で、施設の職員も手を焼いていた。
ある時、シスター山本は圭介を病室に呼び寄せた。そして不満げに部屋に入ってきた圭介を見て、穏やかな表情のまま言った。
「今、何時ですか?圭介さん」
「三時半っす」
「私は午後二時に来るようにとお伝えして、あなたも了承したはずでしたね」
圭介は何も答えなかった。シスター山本がベッドの横にある椅子に座るように促すと、圭介はめんどくさそうに座った。
「圭介さん、時間は命です」
シスター山本は圭介の目をじっと見つめながら言った。
「一分一秒が命なのです。怠慢で時間を守らないことは、誰かの命を殺すことなのです。あなたは今日、私の時間を殺したのです。あなたはそれを自分自身で考えなければなりません」
いつも通りの優しい口調だったが、その言葉の強さに圭介は心が痛くなった。そして思わず涙がこぼれ、圭介は慌てて下を向いた。
「圭介さん、あなたは優しく、そして正しい人です。私はよく知っています。いつも私はあなたを思って祈っています」
「確かに、母親の選択は間違ってなかったかもしれないっす。あそこにいれたから、俺は今こうしてまともに生きてるんだと思います。でも、神様って、いると思います?」
嶋の問いに、田中と瑠美は驚いた表情になった。
「俺を気にかけてくれたシスターは、膵臓癌で五十七歳で亡くなりました。いつも俺と俺の母親に神の御加護がありますように祈って……御加護って何すか?結局、納得できないんすよ。あんな聖人みたいな人が病気で若くして死んじゃうなんて。神様がいるなら、一体何やってるんだって話なんすよ」
「俺、キリストに会うたことあるで」
と、田中が急に真剣な表情で言うので、瑠美は眉をひそめた。
「田中さん、変な冗談……」
「冗談ちゃう。河川敷にな、わしはキリストやって叫んでる男がおってん。洗礼や言うて川にざぶざぶって入ったり、天に向かって手を広げて、神よ!神よ!って叫んどった」
「それって……」
と、嶋が困惑を取り繕うように笑った。
「その人、今も河川敷にいるんすか?」
「いや。なんや、逃げなあかん、はりつけにされてまうからって言いながら、どっか行った」
嶋と瑠美は一瞬顔を見合わせたが、すぐに二人揃って笑い出した。
「ちょっとおもろいっすね、その人」
「せやろ。悪い奴ではなかったんやけどな」
田中は背中を丸めるように座り直し、組んでいた手をポケットに入れた。
「結局、お前次第なんとちゃうんか?」
「え?」
「都合のいい神様なんか、どこにもおらへんってことや」
「それは……そうっすね。祈ることは自分と向き合うことらしいっすから。俺にはまだよくわかんないっすけど」
「お前、ほんまについとるわ。ええ人に出会えて」
「まじっすか?じゃあ、ちょっとは信じてみようかな」
嶋はベンチから立ち上がった。あたりは暗くなり始めていた。
「あれ?そう言えば、お嬢はなんでこんなとこにいたんすか?」
「あっ!」
と、瑠美は大きな声で言った後、右手を頭の上に置いた。
「すっかり忘れてた。駅前のホテルの十八階にあるイタリアンで同期会だったの」
「うわっ、セレブな同期会っすね。まだ間に合うんじゃないっすか?」
「ううん」
と、瑠美は首を横に振った。
「やっぱり行くのはやめようっと」
瑠美は同期の畑中に素早くメールを送ると、「これでよし」とスマホをカバンに入れた。そして田中と嶋の腕に手を置きながら言った。
「みんなで居酒屋『だん』に行きましょ」
「ん?」
「いいでしょ、田中さん。お礼も兼ねて。ね、圭ちゃん」
「いいっすけど、酒は飲まんといてくださいよ。俺では処理しきれないっすからね」




