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おっさん

「連絡してくんの遅すぎやねんて」


 居酒屋『だん』のカウンター席で、矢野が文句を言っていた。関口逮捕の二日後のことだった。


「逮捕できたんだから良いだろ」


 隣で俊哉が言うと、矢野は呆れ顔で言った。


「湊さんが撃たれとったらどうするつもりやったんや」


 俊哉は飲んでいたビールのグラスをトンとカウンターに置いた。


「あの時は本当に焦った。でも仕方なかったんだ。真相がわかった時がまさにその時だったんだから」


「で?誰やねん、関口を捕まえて縛り上げたんは」


「通りすがりのおっさん」


 俊哉がナッツを取ろうと皿に手をのばすと、矢野がひょいと皿を取り上げ、俊哉から遠ざけた。


「んなわけないやろ。なんでそんな腕っぷしの良いおっさんが、偶然墓参りに来とるねん。都合良すぎるわ」


「知らないよ。瑠美も湊さんも、関口さえもそう証言したんじゃないか。その場にいなかった俺が知ってるわけないだろ。いいから皿を置けよ」


 俊哉は口元に笑みを浮かべながら言った。矢野は皿を元に戻すと、膨れっ面でビールをぐいっと飲んだ。


「お前は隠してばっかりやから信用ならん」


「そのおっさんが犯罪を犯したわけじゃないだろ?湊さんが撃たれそうになったところを助けてくれただけじゃないか。感謝状でも渡したいのか?」


「お前は気にならんの?警察が来たら逃げたんやで、そのおっさん」


「別に。助けてもらって、ありがたいとは思うけど」


 二人の前に刺身が運ばれてきて、俊哉の前には日本酒が置かれた。


「それで?妹さんの具合は?」


「ああ、ぎっくり腰?だいぶ良くなって歩けるようにはなった」


「湊さんは?あの武士みたいな人。事情聴取しとる時、この人この後切腹でもするんちゃうかと心配になったけど、大丈夫やったか?」


 グラスに入った日本酒に口を付けていた俊哉は、思わず吹き出しそうになった。


「笑わすなよ。でも確かに切腹しそうではあった。みんなで必死に止めたよ、湊さんは何も悪くないってな。悪いのは……誰だろうな。関口は素直に自供してるのか?」


「するわけないやろ。通りすがりのおっさんに暴力振るわれたって、そればっかり言っとるわ。まあ、妹さんが録音してくれてたおかげで言い逃れはできひん」


「精神鑑定は?」


「することになるやろな」


 矢野はビールを飲み干すと、大将におかわりを頼んだ。


「ややこしい。多重人格とか言われても。俺にはようわからん」


「あの時、俺の事務所に来た時、本当は言いたかったんだろうと思う、助けてくれって。しかし殺人鬼の人格が出てきそうになったから慌てて逃げ出したんだ」


「犬を殺したのは、他の人格に対する脅しか?」

 

「おそらく、恐怖で支配したんだろうな。俺に助けを求めてきた人格は、もう存在しないかもしれない」


「母親からの虐待の影響で、そういう人格になったんやとしたら、関口拓実も被害者やと思うか?」


「なんだよそれ。そんなことを言い出したら、大抵の犯罪者は被害者だってことになるんじゃないのか?」


「ああ、ほんまやな」


と、矢野はナッツの皿を右手に取ると、残っていたナッツを全部左の掌に乗せ、一気に口の中に放り込んだ。


「あ、こら、全部食べるな。相変わらずだな、お前は」


 二人は何かを思い出したかのように、くっくっと肩を揺らしながら笑った。




 土曜日の朝、瑠美はマンションの前で俊哉の車に乗り込んだ。


「だいぶ良さそうだな、腰」


「うん、ゆきちゃんが腰痛ベルトを買ってきてくれたの。これをつけたら、普通に動けるようになったわ」


「無理はするなよ。それで?なんだよ、頼みって。どこに行けばいいんだ?」


「河川敷」


 俊哉は、助手席の瑠美に目を向けたが、何も言わずに車を発進させた。


「今日は湊さんは?」


「今日も来ると思うよ。あれから毎日、毎日だよ。お兄ちゃんからも言ってよ、もう大丈夫って」


「湊さんの気の済むようにさせてやれよ。駄目だって言ったら何するかわからないぞ。ゆき姉が、土下座する人を初めて見たって、目を丸くしてたぞ」


と、俊哉は笑った。関口が逮捕された日、事情聴取が終わると、湊は皆の前で瑠美に土下座をして謝ったのだった。


「湊さんのせいじゃないのに」


「ああ、でも湊さんはそうは思えないんだよ。自分のせいで瑠美を危ない目にあわせてしまったって責めてるんだ。自分に厳しい人だからさ。まあそのうち、元に戻るさ」


「そうだといいけど」


 瑠美は窓の外を眺めていた。犬を散歩している親子連れの姿が目に止まった。


 レオを探して探偵事務所に入ってきた男の子の姿が目に浮かび、途端に悲しくなって瑠美は目を伏せた。


 事件は終わっても、悲しみは続く。そんな人たちの力になりたいと私は弁護士になったんだと瑠美は自分に言い聞かせていた。


「大丈夫か?」


 俊哉の言葉に、瑠美は「うん」と力強く返事をした。




 河川敷グラウンドの駐車場に着くと、俊哉は車を降り歩き始めた。


「ちょっとお兄ちゃん。どこに行くの?」


「会いにきたんだろ。通りすがりのおっさんに」


 瑠美は驚いた様子で言った。


「どうしてわかったの?」


「湊さんに聞いたんだ。お前がおっさんを見て、田中さんって言ったってな。俺も田中さんには会いたいと前から思っていたんだ」


 鉄橋に向かって歩く俊哉の後を瑠美も歩いた。鉄橋の下には、以前と同じブルーシートのテントがあり、フードをかぶった田中が、川の方から戻ってきたところだった。田中は、二人が近づいてくるのに気づいたが、目を向けることはなく、川で洗ってきたシャツをハンガーに掛けていた。


「田中さん」


と、瑠美が声をかけた。田中は二人をちらりと見たが、すぐに視線をそらせた。


「何の用や」


「お礼が言いたくて」


「礼なんかいらん。俺のこと、警察には言わんでくれたみたいやな。それで十分や」


「助けていただいて、ありがとうございました」


と、瑠美が頭を下げると、


「もうええ」


と、田中はテントの中へ入って行った。


「田中さん、お聞きしたいことがあるんですが」


 俊哉がテントに向かって言ったが返事はなかった。


「あなたが陣さんの遺体の第一発見者ですよね」


 田中は何も答えなかったが、俊哉は続けた。


「あなたが見つけた時、陣さんはまだ息があったんじゃないですか?」


 テントの中にいる田中の動きが止まり、かわりにため息が聞こえてきた。


「探偵さんやったな。なんでそう思うねん」


「あなたが関口を探して、後を追ったからです」


「関口……あの犯人の名前か」


「陣さんから何かを聞いて、あなたは関口を追いかけたんじゃないですか?」


「もしそうやったらどうやねん。なんか悪いんか」


「いえ。ただ、気になっただけです。あまりにあなたが優れているから。探偵の僕を出し抜いてくれたので、嫉妬しているだけです」


 田中は「なんやそれ」と呟きながらテントから出てきて、テントの前にあるブロックに腰掛けた。


「全部たまたまや。たまたま、犬を殺した後の若造とすれ違って、その血の匂いが気になって後をつけたら、ネットカフェに入って行くのを見た。朝、陣さんが倒れているのを見つけたらまだ息があって、息子に頼まれた、まだ他も殺しに行くと犯人が言うとったと、陣さんの最後の言葉が聞けた。それもたまたまや。犬もボーガンで殺されとったから、ひょっとしてあの若造かと思ってネットカフェに行ったら、そこにおった。これもたまたまや。俺が優れとるんとちゃう。偶然やで探偵さん」


「そうでしょうか?」


「まだなんかあるんか?」


「あなたは何者ですか?」


 田中はふっと笑みを浮かべた。


「ただのホームレスのおっさんや」


「そうは思えませんが」


「なんやねん、もう帰れ。用事は済んだやろ」


 田中は立ち上がって、再びテントの中に入ろうとした。


「ただのおっさんが、ボーガンを持っている男に丸腰で挑むなんてことしないと思うんですが」


「ほな、ただのアホのおっさんやな」


 そう言ってから、田中は二人を追い払うように手を振った。


「帰れって」


「ちょっと待ってください」


と、それまで二人のやりとりを黙って見ていた瑠美が口を開いた。


「私、田中さんにお願いがあって来たんです」


「お願い?」


「兄の探偵事務所で働きませんか?」


 瑠美の提案に、田中と俊哉が声を揃えて「は?」と言った。


「あなたのスキルを、人助けに使ってみませんか?」


「この人、あんたの妹やったん?」


 田中が驚いた表情で俊哉に尋ねると、俊哉は口を半開きにしたまま頷いた。


「とんでもないことを言う人やな」


「探偵事務所が嫌なら、私のボディガードになってください。一ヶ月だけでもいいです」


「お嬢さん、俺が見えてるか?こんな汚い、過去に何やったかもわからん怪しいおっさんに、アホなこと言うたらあかん。あんた、確か弁護士やったな。人を信じるのが仕事です、なんか言うたらあかんで。世の中、あんたが想像しとる以上に汚いねん。それに俺は好きでここにおる。自由気ままな生活を謳歌しとる。ほっといてくれ」


 そして再びテントに入ろうとする田中を遮るように、瑠美はテントの入り口を手で塞いだ。


「おい」


と、田中は天を仰いだ。


「しつこいな。なんやねん」


「あなたのことを警察に話してしまうかもしれません」


 田中はため息をついて、またブロックの上に座った。


「なんのつもりや。意味がわからへん。弁護士さんが脅しか?」


「ごめんなさい。田中さんがどうしてここにおられるのか、何も事情を知らないのに勝手なことを言っているのは分かっています。でも、ほんの少しでもいいですから、働いてもらえませんか?探偵として、それから用心棒として」


「用心棒?えらい古風な人やな」


「狙われやすい家系なのか、私も兄もよく襲われる運命にあるみたいで」


と、瑠美はにこりと笑った。


「必要なんです、強い人が。それに湊さんが……あなたが助けてくださった私の家族みたいな人なんですが……湊さんがあなたにお礼をしたいと言って」


と、瑠美は鞄から鍵を取り出して田中に差し出した。


「事務所の近くにアパートを借りたそうです。家賃はもう一年分払っています」


「俺に、そこに住めって?」


「はい、どうしても田中さんにお礼がしたいと」


「無茶苦茶やな」


「あー、湊さんの申し出は断らない方がいいですよ」


 それまで困った様子で瑠美の話を聞いていた俊哉が、あきらめ顔で言った。


「切腹しちゃうかもしれないんで」 


「もう……なんやねん。江戸時代か?あのな、弁護士さん。俺のことをずいぶん買いかぶってくれとるが、俺は犯罪者で、逃げるためにこうやってホームレスになっとるっていうこともありえるぞ」


 瑠美は田中の前にしゃがんで真正面から田中の目を見た。瑠美のまっすぐな視線から田中は目を逸らすことはなかった。


「それはないと思います」


 瑠美は自信たっぷりに言った。


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