過去
次の日の朝、事務所から車で二十分ほど離れた閑静な住宅街の中にある『純喫茶ベルベット』で、俊哉は湊と向かい合って座っていた。
二人の前にホットコーヒーが運ばれてきて、優しい湯気を立てている。湊はじっと俊哉を見据え、俊哉は少し俯き加減で居心地が悪そうだった。
すると、真顔だった湊が、ふっと口元を緩めた。
「きちんとお食事はとられていますか?」
「え?」
俊哉はびくっと顔を上げた。
「少し、お痩せになったような気が致します」
俊哉は頭をぽりぽりと搔いた。
「湊さんには、かなわないな」
湊はカップを手に取り、コーヒーを啜った。
「驚きました。突然、私の家にたずねて来られたので」
「連絡先を知らなくてさ」
「お嬢様にお聞きになればよろしかったではないですか」
俊哉はまた頭を掻くと、黙ったままコーヒーを飲んだ。
「なるほど。お嬢様には、私と会うことを知られたくなかったのですね?一体、何のお話ですか?」
俊哉はコーヒーカップをソーサーに置いた。
「昔、運転手だった陣内浩のことを聞きたいんだ」
湊は何も言わずに、俊哉の目を見つめていた。しばらくして、窓の外に視線を移すと、通りで走る車に目を遣った。
「このタイミングで、その名前ですか。つまりは、河川敷で遺体で見つかった男性は、陣内浩でしたか」
と、湊は小さな声で言った。
「さすが、察しが良い。僕なんかよりよっぽど名探偵になれそうだ。でも、どうして?根拠もなく、湊さんがそんなことを言うはずがない」
湊は、俊哉に視線を戻すと軽く頷いた。
「先日、お嬢様が河川敷へ行くと言われた時に思い出したのです。河川敷のホームレスの中に陣内と似た男がいるのを見たと知人が言っていたことを」
「なるほど。知っていたんですね」
「陣内の何をお知りになりたいのですか?」
「運転手をクビになった理由」
「私が、陣内を解雇するように、旦那様に進言いたしました」
「湊さんが?どうして?」
「陣内がお嬢様の誘拐に関わっていたからでございます」
そう言うと、湊は不機嫌そうな顔で外を見つめた。
たった五分だった。
運転手が富田家で湊を乗せる時間に遅れ、学校への到着がいつもより五分遅れた隙に、瑠美は誘拐犯に拉致されたのだ。
二十年前、その事実に直面した湊は、顔面蒼白で富田家に戻り、警察へ連絡して犯人からの接触を待っていた。
しかし、一時間後にかかってきたのは犯人からの電話ではなく、犯人逮捕の知らせだった。
怪我ひとつなく戻ってきた瑠美を、旦那様と奥様が抱きしめて喜んでいるのに安堵しつつ、湊は怒りに震えていた。犯人に対する怒り、お嬢様を守れなかった自分に対する怒り、そして運転手への疑念である。
運転手だった陣内がなぜ遅刻したのか。陣内に問いただすと、給油に行った帰りに立ち寄ったスーパーの駐車場で、うっかり居眠りをしてしまったと説明した。
警察からの事情聴取もあったが、陣内が罪を問われることはなかった。しかし、湊は納得しなかった。
「ですから、私は探偵の堀川さんにお願いしました。陣内を調査してもらったのです。わかったのは、陣内がギャンブル好きで、捕まった誘拐犯が出入りしていた闇金に手をつけていたということでした。陣内があの日、遅刻するように指示を受けていたかどうかはわかりません。ただ、あの日に限って遅刻してきた陣内が、誘拐に関わっていないとは思えませんでした。証拠は何もありません。疑惑だけで陣内を告発することはできません。しかし、ギャンブルだの闇金だのという事実が出てきた以上、富田家に置いておくことはできません」
「それで、解雇に」
「そうです」
「でも、ボスの資料の中にそんな調査記録は残っていなかった」
「堀川さんには、資料を処分していただくように依頼致しました。富田家に関することですので」
俊哉は納得したように頷いた。
「二十年前のことと今回の事件と、何か関係があるのですか?」
「それはまだ……陣内のことで、他に知っていることは?例えば、家族関係とか」
「確か、あの時は独身だったと思いますが、それ以外は何も知りません」
喫茶店を出ると、俊哉は駐車場に向かって歩き始めたが、ふと思い出したように振り返り、入り口で見送っている湊に向かって言った。
「そうだ、言い忘れてた。うちの事務所、まあまあ依頼もあって経済的に困ってはいないので、ご心配なく」
「突然、どうされましたか?私は心配などしておりませんし、俊哉様のお世話をすることは旦那様より禁止されております」
「いや、だって、あの人たちは湊さんが育て上げた執事でしょう?3ヶ月前と2ヶ月前に一人ずつ、それぞれ5件ずつの素行調査を依頼しにきた人達。所作が湊さんにそっくりすぎて、笑っちゃったよ」
「勘違いでございますよ」
「まあ、いいけどさ。瑠美の見合い相手の素行調査を僕に頼むなんて、趣味がよくないな」
「よくわかりませんが、今後そのようなことをしないように肝に銘じておきましょう」
俊哉は口をへの字に曲げながら車に乗り込んだが、湊は俊哉が乗った車を笑顔で見送っていた。
嶋が事務所に戻ると、大工の西松がドアを交換しているところだった。
「圭ちゃん、おかえり」
「ボスは?」
「関口が前に住んどったとこに行くって、さっき連絡あったわ。田中さんに会えたん?」
「それが、いないんすよ。周りの人にも聞いたんすけど、全然帰ってきてないって」
「それってひょっとして、田中犯人説あるんちゃうん?」
と、ゆきが怪訝な顔で言ったので、嶋は笑った。
「それはないっしょ。めっちゃ評判良い人なんすよ」
「わからんで。そう見せてるだけみたいな人なんかいっぱいおるやん」
「よっしゃ、できたで」
と、西松が二人に声をかけた。
「頑丈なやつにしといたからな。せやけど、防犯カメラとかもつけといた方がええで。最近、物騒やからな」
「また空き巣あったんやってなあ」
「そや。あそこ、わしの知り合いや」
「そうなん?」
「富田で家政婦やっとった人の家や。しかし変な話があってな」
「何?」
「盗まれたんが、お金と年賀状やて」
「年賀状?」
「几帳面な人でな。毎年毎年、大量の年賀状を出してはるんやけど、自分とこに届いた年賀状を全部綺麗にファイルに入れて管理しててな、そのファイルを盗まれたんやと」
「なんでそんなん盗むん?」
「富田の家政婦やったからな、年賀状の相手はほとんど富田家にゆかりのある人やねん。ひょっとしたら、その中から金持ってそうな人を探して、また空き巣に入ろうとしてるんちゃうかって、ごっつ心配しとったわ」
「西松さん!」
突然、嶋が大きな声で言ったので、道具を片付けようとしていた西松はびくっとしながら顔を上げた。
「おう、どないした?亮さんでええで」
「今月、何件かドアの修理をしたって、前に言ってましたよね?」
「おう、せやで。同じように空き巣に入られてな」
「ひょっとして、そこも富田家に勤めてた人ってことはないですか?」
「どやろ」
と、西松は腕を前に組んだ。
「わからんなぁ。わし、全員知っとるわけやないからな。知らん方が多いねん。昔はいっぱいおったからな、家政婦さんだけでも。会社関係で出入りする人もおったしな」
「じゃあ、ドアを修理に行った家を教えてもらえませんか?」
「なんや、どないしたんや?なんか調べとんか?」
「圭ちゃん、ちゃんと名探偵してるやん」
ゆきが、にやにやしながら揶揄うと、嶋は口を尖らせた。
「もし、もしっすよ。空き巣に入られた家が富田家に関係してたら、陣さんと関口の接点がクローバーのキーホルダー以外にもあるってことなんすよ」
「陣さんと関口は知り合いやったかもしれへんってこと?」
ゆきの言葉に、嶋は力強く頷いた。
『東城』と表札のある家の前で、嶋はバイクを降りた。そこは、西松から聞いた、富田家の元家政婦の家だ。インターホンを押し、堀川探偵事務所の名を出すと、姿勢の良い小柄な老女が玄関から出てきた。嶋が名刺を渡すと、老女はにこりと笑った。
「東城初江と申します。俊哉お坊ちゃんは、お元気でいらっしゃいますか?」
お坊ちゃんという言葉に戸惑いつつ、嶋は「はい」と答えた。
「先ほど、西松さんから連絡が来ました。空き巣の件をお調べだということでしたね?」
「そうです」
「週に一度、泊まりがけで娘の家に行って手伝っているのです。赤ん坊が生まれたばかりで、上の子がまだ三歳ですから、少しでも役に立てたらと。主人は五年前に亡くなって一人暮らしなものですから、私が娘の所に行って、誰もいなくなったところを狙われてしまったようです」
「年賀状を盗られたと聞いたのですが」
「ええ。そのせいで、他の方に迷惑がかかるのではないかと心配しております」
「年賀状の住所の一覧のようなものはありませんか?」
「一覧ですか……電話帳なら持っていますよ」
「見せていただけますか?」
初江は一旦家に入ると、すぐに長方形の板のような物を持って出てきた。
「それは何ですか?」
と、嶋が言うと初江はうふふと笑った。
「若い人は知らないわよね。昭和の頃は、どの家庭でも電話の近くの壁なんかに掛けていたんですけどね。ほら、あ行から順にめくっていくの。名前と電話、住所も書いてあるでしょう?アナログっていうのよね、こういうの。でもね、年賀状の宛名を書く時には、やっぱり便利なの。空き巣も盗むなら、こっちを盗んでいれば軽くて良かったのにね。気づかなかったのね」
「中を見せていただいてもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
初江は、電話帳を嶋に渡した。嶋は、あ行から順にめくっていった。どのページも、綺麗な文字でぎっしりと埋められている。
嶋は、西松から聞いている空き巣に入られた他の二件の名前がないか、た行とわ行を探したが、見つからなかった。
嶋は、もう一度あ行から見直すことにした。そして、さ行を開いた時、名前から住所まで二重線が引かれている箇所を見つけた。二重線の下には、『関口雅代』と書かれていた。
「関口雅代……これ、どうして消されているんですか?」
嶋は声が裏返りそうになるのを堪えながら尋ねた。初江は、どれどれ?と電話帳を覗き込み、その箇所を見ると、「ああ、マサちゃんね」と頷いた。
「住所が変わっちゃったみたいでね、出しても返ってきちゃって。何年前だったかしらね、もうずいぶん前よ。それからは出してないわ」
「この人は、どういう人ですか?」
「マサちゃんはね、私と一緒で家政婦よ。お嬢様が五歳くらいの頃だったかしら、新しく入ってきた家政婦三人のうちの一人。みんな私の娘くらいの歳で、かわいかったわ。でも、二年目か三年目かの時、ある日突然辞めてしまったのよ」
「あとの二人の方の連絡先はわかりますか?」
「あとの二人?カズちゃんとタエちゃんね。わかるわよ」
初江は、電話帳のな行を開いた。そこには二重線で苗字が書き換えられた名前が書かれてあった。
「内藤和子ちゃん。結婚して、今は伊達和子ちゃんね。それから…」
と、初江は次にや行をめくった。
「矢部多英ちゃん。結婚して、今は鷲尾多英ちゃん」
矢部という苗字の上に二重線が引かれ、その下に小さく鷲尾と書かれていた。
嶋は息をのんだ。伊達と鷲尾は、空き巣に入られた他の二件の家だった。




