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 佐野法律事務所では、事務員の葉山と瑠美が掃除をしていた。事務所に掃除機をかけ、机を拭き、玄関やトイレ掃除を分担して行う。それが終わるとポットでお湯をわかし、来客の準備をする。


「今日は、十時に徳永さん来られます」


と言う葉山に、瑠美は「はーい」と明るく答えた。ふとした瞬間に、レオの変わり果てた姿が脳裏に蘇ってしまうので、瑠美はそれを振り切るように仕事をしていた。


「先生、日曜日に畑中先生と法律相談に行ってらしたんですよね?どうでしたか?少しは畑中先生と仲良くなりましたか?」


「葉山さん、私は別に畑中君と喧嘩した覚えはありませんよ」


「そうじゃなくて」


と、葉山はうふふと笑った。


「あんなに嫌ってらしたのに、法律相談のお手伝いに行かれたので、何か心境の変化がおありになったのかなと思って」


「嫌いなのは畑中君のおもしろくないものまねです。畑中君がどうのこうのというわけではありませんよ」


「あ、そういえば、ご存知ですか?河川敷でボーガンの矢が刺さった犬が見つかったって、ニュースになっていましたよ」


「えぇ」


と、瑠美は小さな声で答えた。


「誰がそんな恐ろしいことするんでしょうね、かわいそうなワンちゃん」


「本当に」


「今朝も、パトカーがたくさん河川敷に来ていましたよ」


「そうなんですか?」


「私、いつも川沿いの道を通るので、グラウンドの駐車場が見えるんですけど。あんなにたくさんパトカーが来るものなんですね。紺色の制服って、鑑識の方ですよね?そんな方達もいっぱいいて」


 今日になって、レオの件でそんなに警察が動くかしら……と瑠美は不思議に思ったが、目を瞑って頭を振った。仕事をしなきゃと、瑠美はパソコンの電源を入れた。


 十二時が過ぎ、佐野弁護士が昼食のため二階に上がると、瑠美はコンビニに行こうと席を立った。葉山は弁当を鞄から出している。


「毎日のお弁当、本当に尊敬します」


「ついで、ですよ。主人もお弁当なので、そのついでです」


「もっと尊敬です。ご主人が羨ましいです」


「ただの節約ですよ」


 そんな会話をしていると、突然事務所のドアが開いて、見知らぬ男性が二人、顔を覗かせた。


「すいません、こちらに弁護士の富田先生はいらっしゃいますか?」


「富田は私ですが」


と、瑠美が答えると、男性の一人がポケットから手帳を取り出し、それをかざしながら言った。


陽城(ようじょう)署の高木ですが、少しお話を伺いたいのですが」


「どういったご用件ですか?」


「今朝、河川敷で男の遺体が見つかったのですが、その男と富田先生が揉めていたという情報がありまして、詳しくお話を聞かせていただきたいんです」


「先生」


と、葉山が囁くように言った。


「応接室にお通しした方が……」


「そうですね」


と瑠美は頷いた。

 

「こちらへどうぞ」




「この男なんですが」


と、刑事の高木は写真を出してテーブルの上に置いた。瑠美は息を呑んでその写真を見つめた。それは、苦痛で歪んだ顔のまま絶命している男の顔写真だった。


「周りの人からは陣さんと呼ばれていた男なんですが」


「知っています。日曜日、河川敷のグラウンドで会いました」


「騒ぎを起こしていたと聞いたのですが」


「私は、無料法律相談のブースにいたのですが、この方がやって来て、食べ物はないかと騒がれたのです」


「先生に詰め寄っていた、と聞いたのですが」


「この方は、私の家の運転手だったとおっしゃっていました。解雇されて恨んでいる様子でした」


「なるほど。先生は以前からこの男と面識が?」


「いえ、ありません」


「その後、どうなさいましたか?」


「偶然この方が、私の知人が探している犬の手がかりとなるキーホルダーをお持ちだったので、それをどこで拾ったのか教えていただきました」


「そして、犬の死骸を発見したんですね?」


「はい。もっとも、犬を見つけたのは私の兄ですが」


「探偵の」


「はい、そうです。兄の方にも行かれたのですか?」


「ええ。署の方にご同行いただきました」


「え?兄が何か?」


「いえ。関係者ということで少しお話しを」


「そうですか……あの、これは事件なのですか?」


 高木は頷いて答えた。


「殺人事件です」


「殺人……」


「もうすぐニュースでも報じられると思いますが、ボーガンで撃たれたんです」


「ボーガン?レオと……犬と一緒ということですか?」


「そうなりますね」




 刑事たちが帰ると、瑠美は力が抜けたように椅子に腰を下ろした。


「大丈夫ですか?」


と、葉山が心配そうに尋ねた。


「ひょっとして、この事件ですか?」


 葉山がスマホの画面を瑠美に見せた。河川敷の写真と、ホームレスがボーガンに撃たれて殺されているのが見つかったという事件を報じた記事だった。


「そうです。もうこんな記事になっているんですね」


「お昼のニュースでテレビでも報じられたみたいですよ。殺された人を、先生はご存知なのですか?揉めてたって、どういうことですか?」


「その男の人のことは、詳しくは知らないんです」


 瑠美は、日曜日にあった出来事を葉山に話した。


「先生とお兄さんが犬を見つけられたのですか。それならそうと、さっき言ってくださったらよかったのに」


「ごめんなさい。なるべく、思い出したくなかったんです。あまりにも酷い有様だったので」  


 葉山は納得したように頷いた。


「その男の人、一体誰なんでしょうね。記事には身元不明と書いてありますね」


「身元不明……」


 陣さんと呼ばれていた男は、私の家の運転手だった……きっと、すぐに素性はわかるだろう。記録が残っていればの話だけれど。少なくとも、当時一緒に働いていた人なら、知っているはず……


「ちょっと、出かけてきます」


と、瑠美は鞄を持って立ち上がった。


「でも先生、二時から調停ですよ」 


「わかっています。すぐに戻ります」


 瑠美は事務所を出ると、探偵事務所に向かった。




 ホームレス殺害事件の第一発見者である嶋と、レオの第一発見者であり空き巣犯と疑われた俊哉の事情聴取は、矢野の計らいで夕方には終わった。


「帰れるだけでもありがたいと思え」


と、矢野はふてくされた様子の俊哉に声を掛けた。


「関口って男の捜索は、もう警察にまかせとけ」


「見つからなかったら、また俺たちを犯人扱いするつもりだろ?」


「おいおい」


と、矢野は苦笑いを浮かべた。


「令和の警察が、そんな乱暴なことするわけないやろ」


「充分、乱暴だろ。何時間拘束したと思ってるんだ」


「わかった、わかった。さっさと帰れ。んで、もう事件に首突っ込んでくるんじゃねえぞ」


 じゃあなと、軽く右手を上げて警察署に戻って行く矢野を見ながら、俊哉は軽く舌打ちをした。


「どうするんすか?」


と疲れた表情で嶋が言った。


「警察の言うとおり、手を引くんすか?」


「んなわけないだろ」


「じゃあ、どうするんすか?」


「とりあえず……」


 俊哉は暮れゆく西の空を見上げた。時刻は午後五時になろうとしていた。


「コンビニでも行くか」


と、俊哉は歩き出した。




 俊哉はビニール袋をいくつか片手に持ってコンビニから出た。


「そんなにいっぱい買ってどうするんすか?食べ物に酒、煙草まで。ボス、煙草吸わないじゃないっすか」


「俺んじゃないよ。まあ、ご挨拶ってとこかな」


 二人は俊哉の車で河川敷へと向かった。グラウンド横の駐車場に車を停め、今朝ホームレスの遺体があった場所とは反対側に向かって歩いていく。しばらく歩くと、ブルーシートに囲まれた小屋が見えてきた。そこから先は、百メートルくらいの間隔で、同じような小屋が点在している。


 俊哉は一番手前の小屋の前に立つと、中に向かって声をかけた。 


「すいません、お尋ねしたいことがあるんですが」


 すると、ブルーシートが一部分開き、中から外を覗く顔がみえた。髪も髭も伸び放題の年寄りの男性だった。


「なんや、またか。もう話すことなんかないわ」


「いえ、警察ではありません」


と、俊哉はビニール袋をひとつ差し出した。老人はそれを受け取ると、中身を確認してにやりと笑った。


「なんや兄さんら。何が知りたいねん」


「陣さんって人の家はどこですか?」


「ここから二つ目の小屋や。もう警察が調べてもうとるわ」


「陣さんは、どんな人でしたか?」


「あれは、よう知らん。いけ好かん奴やったでな、関わらんようにしとった」


「本当の名前も知らないですか?」


「知らん。ここにおる連中、顔は知っとるが名前もよう知らん、そんなんばっかりや」


「じゃあ、田中さんって人は?」


「田中ちゃんはええ人や」


と、老人はビニール袋から煙草を取り出すと、震える指で一本口に挟み、ライターで火をつけてうまそうに煙を飲み込んだ。


「ああ、生き返るわ。ええ煙草や」


「田中さんも、この辺りにいるんですか?」


「もっと北の方や。ほれあそこ見えるか、鉄橋があろう?あの下じゃわ」


 老人は目を瞑り、煙草を味わった。


「田中ちゃんはな、ええ人なんじゃ。わしらを助けてくれるんや。食いもん持ってきてくれたり、誰か調子悪いのがおったら、薬買ってきてくれたりな。たまに、わしらみたいなんに石投げてくる輩とか夜に襲ってくる輩もおったりすんねんけどな、そういうひとでなしを追っ払ってくれるんやわ。田中ちゃんがおらんかったら、わしなんかとうに死んどるわ」


 礼を言って俊哉はその小屋から離れ、北の方向へと歩き出した。陣さんの小屋を覗いてみたが、警察が入った後で、手がかりになりそうなものは何もなかった。


 周辺の小屋でも何人かに陣さんと田中さんの話を聞いてみたが、皆、最初の老人と同じような返事が返ってきた。


「田中さんって、あのフードを深々とかぶってた人っすよね?なんで田中さんのこと聞いてるんすか?」


と、嶋が聞いた。

 

「陣さんが瑠美に詰め寄った時に、田中さんが陣さんを止めたって、瑠美が言ってたんだ。田中さんだと気づいた陣さんが急におとなしくなったって。だから二人の関係性が気になっただけだよ。でも、わかったのは、田中さんはここの人達みんなに優しかったってことだな。陣さんにとっては、唯一心許せる相手だったのかもな」


「気になりますね、どんな人なのか」


「だろ?会いに行くか」


 二人は鉄橋の方へと向かった。そこには、四角錐形のブルーシートのテントがぽつりとあった。


「すいません、田中さん、いらっしゃいますか?」


と、テントの外から声をかける。中に人のいる気配はない。俊哉はブルーシートの隙間に人差し指を入れて少し開けて中を覗いた。中にはやはり誰もおらず、テントの隅に少しの服とカセットコンロと鍋が置いてあるくらいで、荷物も少なかった。


「いないみたいっすね」


「そうだな」


と、俊哉は辺りを見渡した。夕日が沈みかけた空は、暗闇に侵食されつつあった。


「問題は、なぜ陣さんが殺されたのかってことなんだ」


と、俊哉は独り言のように呟くと、駐車場に向かってもと来た道を歩き始めた。


「関口が犯人だとして、二人の接点は?」


「クローバーのキーホルダー」


「え?」


「いや、それくらいっしょ、接点」


「クローバーか……レオはなぜ殺されなければならなかったのか」


「関口がただただ、残酷な変質者なんじゃないっすか」


 あ……と、嶋が思いついたように声を上げた。


「陣さんは、関口がレオを殺すところを目撃したんすよ。で、関口を見つけて脅したところを殺されたっていうのはどうっすか?」


「ん〜0点だな」


「0点っすか?どのへんが?」


「全部だよ」


と、俊哉は口元を緩めた。




「おい、何やってんだよ、こんな所で」


 探偵事務所のドアを開けた俊哉は、事務所のソファでくつろいでいる矢野を見て、ぶっきらぼうに言った。


「ボスが帰ってくるまで待たせてもらうって、勝手に座ってもうたんです」


と、ゆきが俊哉に小声でささやいた。


「事件に首を突っ込むなと言ったはずや」


怒っているような口調で矢野が言った。


「飯を食いに行ってただけだよな」


と、俊哉が嶋に言うと、嶋はこくりと頷いた。


「あんまり動かんといてくれや。俺はお前らが犯人やなんて思ってないけど、捜査に私情は禁物やからな。こいつは良い奴だから、犯人じゃありませんなんて、捜査員の前で言えると思うか?」


「俺たちを尾行しても仕方ないぞ」


「バレとった?下手くそやな、うちの捜査員も」


 え?と嶋は驚いた表情で俊哉を見た。嶋は尾行されていたことに、全く気付いていなかった。


「で?ホームレスから、なんか収穫あったんか?」


「ないよ、何も。そっちは?」


 矢野は持っていた封筒から写真を取り出し、テーブルの上に置いた。俊哉はテーブルに近づくと、置かれた写真を見て言った。


「これは関口か」


「高校時代の写真」


「あれから関口は?」


「アパートにも帰ってないし、バイトにも来てないそうだ。関口は母子家庭で、母親が亡くなった後、あのアパートに引っ越してきている。しかし、あんまり良い噂のない親子でな」


「どういう噂?」

 

「児童相談所に記録が残っていた。何回か虐待が疑われて通報されてる。結局、子供を保護するまでには至らなかったみたいやけどな」


「他には?」


「他?アパートの賃貸借契約書から前住所を追って、出身校や児童相談所への通報の件まで調べたんやぞ。他に何を要求すんねん」

 

「アパートの捜索は?」


「あのなあ……関口が怪しいって言うとるのはお前だけで、何の証拠もないからな。現場での目撃証言もない。令状なんかおりるわけないし、これ以上調べようがない」


「あの鏡に突き刺さったボーガンは?」


「だから。令状おりひんねんって。だいたい、不法侵入で覗き見たやつやないか」


 俊哉は舌打ちしながら、奥の自分のデスクに向かった。


「舌打ちすな。めっちゃ協力してやったろ。だから、お前も協力しろや」


「なんだよ。そっちが本題か」


と、俊哉はどかっと椅子に座った。


「陣さんが誰なのか、お前、ほんまは知ってるやろ」


 矢野は俊哉をじろりと睨んだ。俊哉は素知らぬ顔で椅子をくるりと回転させ、矢野の視線から逃れた。


「お前の妹から、陣さんが富田家の運転手やったっていうのを聞いて、富田家に行ったんやけど、陣さんのことを知っている人が今は一人もおらんかった。執事も家政婦も、若い子ばっかりでな。しかし日曜日、陣さんとお前の妹とのトラブルを目撃した人の話によれば、陣さんはお前の妹を見て「後妻さん」て言うたらしいやないか。後妻さんがおる頃に運転手やったってことは、お前は10代の頃に陣さんに会っとるはずや。知らんとは言わせへんぞ」


「知らん」


「お前……しばいたろか」

 

 俊哉は笑いながら振り向いた。


「覚えているのは、陣内っていう名前だってことくらいで、他は特に何も覚えてないんだ」


「やっぱり。知っとったんやな。何で運転手をクビになったんや?」


「知らない」


「お前なぁ……お前の半端ない記憶力からして、それはまかり通らんわ」


「わかったよ。手がかりがないわけじゃないから、調べるよ。わかったら、お前に報告する。それでいいだろ?」




「そう言えば、お昼頃にお嬢がここに来てましたよ」


 矢野が帰ると、ゆきが言った。


「ボスのことを心配して」


「そうか……」


俊哉はスマホを取り出すと、瑠美に電話をかけた。電話はすぐにつながった。


「お兄ちゃん、大丈夫?」


「何が?」


「警察に疑われたりしてない?」


「してないよ」


「良かった。あのさ、あの陣さんっていう人なんだけど」


「何だ?」


「私、思い出したことがあるんだけど……私の誘拐の前と後で、運転手さんが変わったの。誘拐される前の運転手さんが、陣さんだった気がする」


「そうか」


「気付いていたの?」


「……」


「お兄ちゃん、何か知ってるんでしょ?」


「お前は、もうこの事件に関わるな」


「どうして?」


「犯人の目的がわからないからな」 


「まだ犯行が続くかもしれないってこと?」


「そうだ。だから、もう関わるな」


「わかったよ。お兄ちゃんこそ、気をつけてね」


 納得していない返事だった。俊哉は苦笑いを浮かべながら電話を切った。

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