救国の英雄と崖の城の引きこもり姫
「英雄ジャンヌよ、そなたの献身、まっこと大義であった」
九死に一生を得た、広大なばかりで見所のろくにない王国の、その玉座に鎮座した王は、九死に一生の立役者である英雄を見下ろし、どこか申し訳なさそうな顔をした。
「本来であれば、その働きに報いるだけの褒賞を与えるべきなのであろうが……」
九死に一生を得た。けれど、いちどは死にかけたのだ。国は疲弊し、死んだもの、命こそ助かっても、もうろくに動けぬものも、多くいる。
国として存命したならば、その先の生活を守らねばならない。ゆえに、この国に、功労者に褒美を出すだけの余裕はない。
そんなことわかっていたし、べつに、褒賞や名誉のために動いたわけではない。
生きるために、必死だった。自分や、自分の大切なものを守るために。それで、がむしゃらに戦って、結果として、国が救われただけのこと。
だから、褒賞がないことに不満もなかったのだが、この、国を治めるには少しばかり善良過ぎる男は、それを申し訳なく思っているようだ。
「済まない。この国は、民を守るだけで、やっとなのだ。この国が立て直し、余力が出たならばそのときは必ず、そなたの献身に見合う褒賞を用意しよう。だから、その、約束の証として」
そんなものいらないのに。そう、口にしないだけの分別はあった。
「勲章を。それから、私の娘を、そなたの妻とするが良い。降嫁ではない。そなたが婿として、娘の配偶者となれ」
それのどこが、褒美なのか。
思った言葉を俺が口にしないようにか、斜め後ろに控えていた友人が、さりげなく俺のマントを引く。
わかっている。そのくらいの分別はある。
「身に余る光栄でございます」
式典前に言い含められた言葉を口にすれば、友人は安堵の息を吐いて手を離した。
「宮廷魔術師シャルル。そなたも、よく英雄を支えてくれた。そなたにも褒賞として勲章を。それから、今後は王太子の伴侶として、いずれは王配として、我が子を支えてやってくれ」
「身に余る光栄でございます」
友人が、深々と頭を下げる。
「このようなものしか、いまは渡せずすまない」
王が玉座から立ち上がり、手ずから、俺と友人に勲章を着ける。
「せめて今宵は、宴を用意したが」
「私も英雄も、疲れておりますから、せっかくですが今日は」
「ああ。部屋は用意してあるゆえ、ゆっくり休んでくれ。娘とは明日、顔合わせの場をもうけよう」
「お心遣い、感謝致します。それでは、これにて御前失礼致します。行くよ、ジャンヌ」
余計なことは口にするなと、厳命されている。頷いて、俺は友人に従った。
ё ё ё ё ё ё
国王の気遣いなのだろう。部屋は友人と同室だった。
「私の従者がいるから、きみたちは下がって」
友人は食事だけ受け取り、さっさと王宮の使用人を下がらせてくれたので、ほっとして年代物だが豪奢なソファに身を投げ出す。
「べつに、褒美なんていらなかった」
「いやいや、僕らの身分を思えば、破格の褒美だよ?平民が王女の伴侶なんてまずあり得ないし、陛下は降嫁ではないと明言した、この意味がわかる?」
「わからん」
俺は、平民どころか貧民の出の、剣闘士だ。目の前の男に腕を買われて兵に取り立てて貰ったから、いまはまともに暮らしているし服も立派だが、本来は奴隷同然の立場だった。当然、学などない。
「王女は王族のままってこと。降嫁の場合、手に入るのは結納金だけで、そこからの生活は嫁いだ相手のお金を使うことになるけど、王族のままなら毎年国費から年金が出る。お前が死ぬまで生活に困ることがないようにって、気遣いだよ。まあ、国がこんな状態だから潤沢なお金とは行かないかもしれないし、王女には公務が割り振られるだろうけど、決して悪い話じゃないんだ」
ただ、と友人は唸る。
「王女が王太子になっている通り、陛下にはもう息子はいなくて子は娘ばかりなんだけど、その娘も、ほとんどは政略結婚で嫁いでるはずなんだ。王太子を僕にって話なら、ほかに誰が……」
「そもそも」
顔をしかめて、問い掛ける。
「王女は、納得してるのか?いくら功績があるっつったって、俺は貧民だぞ?」
英雄と持ち上げられて、縁談が来ていないわけではない。でも、それは親が無理矢理命じたものばかりで、娘は貧民出の夫を嫌がっていた。
「それを言うなら、僕だって大丈夫かってなるんだけどね。伯爵家から王配が出たことなんて今までない。大抵は公爵家。あって他国の王族か侯爵家だ」
友人は息を吐き、苦笑を浮かべた。
「気位の高い王女がいることは否定しない。ただ、陛下はお人好しなだけの方ではないから、褒賞だと言うなら褒賞になるような相手を、きみの伴侶に選んだはずだよ。まあ、褒賞、と言うだけではないのだろうけれど」
「どう言うことだ」
「王族の配偶者となれば、他国へ逃げられもしないだろう?有能な若者を、捕まえておこうと言う考えはあると思う。僕についてもね。未来の王配の座を用意されて、他国からの引き抜きは受けにくい。国内のほかの貴族に、余計な力を付けることも防げるし。貴族からどう思われているかはさて置き、平民貧民からの人気はとにかく高いからね、きみ」
近衛騎士でも、魔術騎士団でもない、貧民出の剣闘士がのし上がって国を救った。なるほど平民貧民からすれば、夢のような存在なのだろう。
「守ることにも、なるのだと思うよ」
「守る?」
「王族の配偶者の、血縁や友人となればね。そう簡単には手を出されないし、おそらく、手を出されないために国が動く。もしも病気になったときも、御殿医を手配して貰えると思うよ。その点は、きみにも利点なのではないかな?」
病気がちな母と、そんな母に代わり家を守る姉、片足の無い叔父と、血の繋がらない弟妹、共に泥にまみれて育った幼馴染たちと、時に味方に、時に敵になりながら過ごしたかつての同僚たち。そんなものたちの顔が、頭をよぎった。
そばにいれば、必ず守る。そばにいなくとも、助けを求められれば、どこまでだろうと駆け付ける。けれどそれだけでは、守りきれないと、わかっている。
「守れる、のか」
「少なくとも、誘拐されて身代金を、と言うようなことは避けるように国が動くのではないかな。それに、理解のある奥方なら、城に住まわせたり、なにかまともな職を斡旋したりと言う口聞きも、してくれるかもしれないよ」
「城」
「きみたち夫婦のね。王女を降嫁させないと言うことなら、公爵としてどこか城を貰うことになるのだと思うよ。王宮に部屋を与えられる可能性もあるけれど、陛下としてもそれをきみが望まないことはわかっているだろうし」
貧民が、城に住む?それも、城主の、配偶者として?
「そんな、こと、許されるのか?」
「王が決めたから、表立ってなにか言われることはないのではないかな」
「そう、か」
表立っては言われない、と言うことは、裏ではなにを言われているかわかったものではない、と言うことだ。城に行ったとて、誰も俺を王女の伴侶などと認めないかもしれない。
ほんとうに、褒美なのだろうか、これは。
「こらこら」
友人が、俺の眉間を突く。
「まだ起こってもいないことで、悲観的になるものではない。なんにせよ、明日、顔を合わせてからだ。顔を合わせたら向こうから断って来る、なんてことも、あるかもしれないのだから」
それもそうかと、息を吐いて頷く。
英雄なんてもてはやされているが、俺は結局、貧民上がりの剣闘士だ。お前は見た目も売りだからと、傷だけはこまめに手入れされていたが、日に焼けているし、髪もバサバサだ。礼儀も言葉遣いも付け焼き刃で、鍍金がはがれれば粗暴で粗野。とても、姫君の相手がつとまるとは思えない。
明日、断られて、それで終わりだ。
俺はそう楽観視することにして、今日はもう美味い飯と上等なベッドを堪能することを決めた。
ё ё ё ё ё ё
「英雄殿には、お初にお目に掛かるね。王太子のユリアナだ。もう飽きるほど言われているだろうが、この国と民を守ってくれたこと、心より感謝している。ありがとう」
王太子は女性にしては大柄で、凛とした雰囲気の美しい娘だった。艶のある真っ直ぐな長い茶髪を、高い位置でひとつに結び、騎士のような男装に身を包んでいる。
躊躇いもなく、手を掴まれて握手され、俺の方がたじろいでしまった。
「妹の夫になるなら、今後はあなたが弟になるのか。あなたの功績への報いにはとても足りないだろうが、姉として出来る限りの手助けはする。困ったときは、頼ってくれ。と言っても、まあ、あのこのところに行くなら、そう困ることも……そう言えば、ラヴァルはどうした?わたしと共に顔見せをするはずだろう」
「さきほどやっと王宮に着いたので、身支度のために侍女に捕まっていますよ。まだあと一時間はかかるかと」
「それはまた、可哀想に」
控えていた侍従の答えを聞いた王太子は、憐憫を瞳に乗せて呟くと、俺を振り向いた。
「顔見せ予定の妹が、遅れているようだ。すまないね。しばらく、わたしとお茶でもして時間を潰そう。旦那さまも、それで良いかい?」
「え、ええ、もちろんです」
珍しくも飲まれた態度の友人の答えに、王太子は明るい笑いを漏らした。
「あなたには不服かも知れないが、父が決めた以上、わたしとあなたは夫婦になるんだ。そう、畏まらないでくれ。敬語もいらない」
「それならあなたも、旦那さまなんてかしこまった呼び方はやめてくれるかな」
「おや、呼び方が良くなかったのか。構わないよ、なんと呼べば良い?シャル?シェリー?シャーリー?あなたの望み通りに呼ぶよ」
思った以上に気さくな態度の王太子に、友人すら困惑しているようだ。
「ええと、そうだね、シャルは友人から言われるし、シャーリーは家族から言われるから、シェリー、かな」
「特別な呼び方を許してくれるのか。嬉しいね。それでは、改めてよろしく、シェリー。わたしのことは、呼びたいように呼んでくれれば良いよ」
「なら、アニー、で」
「良いね。可愛い呼び名だ。さあ、英雄殿、シェリー、立ち話もなんだ、こちらへどうぞ」
王太子が俺たちを案内したのは、落ち着いた調度で揃えられた部屋だった。壁紙も大人しい色合いで、煌びやかな廊下の横にこんな部屋があるのかと、少し驚く。
「豪華な部屋もあるけれど、あなたたちはこちらの方が落ち着くだろう?ああ、馬鹿にしているわけではないよ。変な見栄がなくて好ましいと言っている」
机に並べられたのも、普通の紅茶と飾り気のない焼菓子で、なるほど王太子だけあって、相手に合わせたもてなしくらい、お手のものなのだろう。
「ありがとう、下がって」
紅茶を並べ終わった侍女をすぐに下がらせ、その場にいるのは俺と友人に友人の侍従、そして王太子とその侍従の、五人だけになる。これもまた、気遣い、なのだろう。
「さて、侍女の手前、断れないようなことを言ったが」
組んだ手を膝に置き、王太子は言う。
「あなた方がこの婚姻に反対なのであれば、わたしの権限でもって白紙に戻すが、どうだろうか」
「え?」
「わたしとしては、この婚姻に否やはないのだけれどね。なにせ、シェリーに断られたら、次の候補にろくなやつがいない。気位ばかり高く、女性を軽んじ、そのくせ能力は驚くほど低い男が夫なんて、まっぴらだろう?とは言え下手に他国から連れて来ると、いまの我が国の国力では乗っ取られかねないし」
その点、シェリーは良い、と、王太子は笑う。
「老若男女貴賎問わず、能力をよく見て評価している。人員の采配も、教育も巧いし、本人の能力も高い。生まれが良ければ魔術騎士団長にもなれただろうに、この国の血統主義が憎らしいね。この婚姻を蹴るなら、大叔父にでも頼んで養子にして貰おうか。そうすれば、魔術騎士団に捻じ込めるから」
「いやそんな、無理矢理」
「王配が無能なら、せめて側近には有能な者が欲しいだろう?そうとなれば、ラヴァルも呼び戻すか。妹のなかでは、あのこがいちばん優秀だ」
友人へと差し出された王太子の手は、ペンだこと剣だこで歪な形をしていた。とても、この国いちばんの姫君の手とは思えない。
「わたしはね、シェリー。兄が、弟が、そして多くの騎士と兵士が、命を賭して守ったこの、国と民を、なんとしても守らねばならないんだ。兄に代わって王太子の座に着いた。民を犠牲に安全な城で生き延びた。その、わたしの、義務だからだ」
姫とは思えぬ、覚悟と強い意志だった。
「だから、たとえ、救国の立役者でも、利用出来るなら利用させて貰う。決して、他国には、渡さない」
「うん」
頷いた友人が、王太子の手を取る。
「その、志は、僕と同じだ。だから、アニーが僕を必要とするなら、支えるよ。きみの、望む場所で」
「ありがとう、シェリー。助かるよ。それに、嬉しい」
不意に浮かべられた笑みは、打って変わって下町の少女と変わらぬあどけなさで。王太子であっても、平民や貧民の少女と少しも変わらない女の子で、けれど、彼女の地位と背負うものが、ただの少女であることを許さないのだと、痛感させられた。
「英雄殿は、どうかな、と言っても、相手も見ずに決められないか。すまないね。あのこはどうにも、王宮の侍女と折り合いが悪くて。決して、悪い子ではないのだけれど、どうにも揉めやすくてね。トト、少し行って、ラヴァルの様子を見て来て、」
「思い出した!」
侍従に命じようとした王太子の言葉をぶった切って、友人が声を上げる。
「崖の城の!」
大声に目を見開いた王太子は、続く言葉に目を細めた。
「ああ、さすがにシェリーは知っていたか。そう。そのラヴァルだよ。父に呼ばれてはるばる王宮まで来てくれたものの、侍女に足止めを喰らったようでね。だが、わざわざ来てくれている英雄殿をいつまでも待たせるのは、」
バンッ
今度、王太子の言葉を遮ったのは、乱暴に開いた窓の音だった。
「横から失礼致しますわ、お姉さま。お客人方も、お待たせして申し訳ありません」
開け放たれた窓から飛び込んで来た人影の、柔らかそうな亜麻色の巻き毛が、ふわりとたなびいてから、本来の位置へと落ちる。
「ラヴァル、なんてところから来るんだ」
立ち上がった王太子が、人影に歩み寄りながら言う。
「わからず屋を振り切って来ましたの。お客さまをいつまでも待たせられませんもの、仕方ないでしょう?」
「それはそうかもしれないが、ここは三階だよ?どこから来たんだい、一体」
王宮は湖のほとり、切り立った崖沿いに建てられている。開け放たれた窓の外はバルコニーで、その外はなにもない宙空。遥か下に、湖の水面が見える。
「あら、よそ行きの服ですもの、崖は登っておりませんわよ?上からです、上から。屋根からぴょーんと、バルコニー伝いに」
「姫がやることじゃないんだよなあ?落ちたらどうするんだい」
「落ちても下は水ですもの。なんとでもなりますわ」
頭が痛いと言いたげに、王太子が額を押さえた。
「わかった。その件はひとまず置く。それで?その、前後に提げた荷物はどうした。どう考えても、客人に挨拶する格好じゃないだろう」
「まあ、お姉さままでわからず屋の侍女たちみたいなことをおっしゃるの?これは、仕方ないのですわ。孵化したジャヴァウォックと、うっかりいちばんに目を合わせてしまったのですもの。お姉さま、乳呑み児から親を奪えまして?苦肉の策として、こうして抱いておぶっておりますの。お姉さま、時機悪く呼び出すお父さまが悪いのよ。わたくしは、悪くありません」
ジャヴァウォック?
「ジャヴァウォック!?お前、魔獣を王宮に連れ込んだのか!?」
「嫌だわ、お姉さま。そんなに慌てなくても、ジャヴァウォックは賢く真摯で温厚な魔獣ですわ。怒らせなければ」
「小声でも、聞こえているからな」
「まだ生まれたてですもの、親から引き離しさえしなければ、怒ったりしませんわ。わたくしから見れば、大人しくて愛らしい良い子たちです」
慈愛のこもった目で、少女、そう、少女は抱えた頭陀袋の中を見る。頭陀袋から、答えるように、クピー、と小さな鳴き声が聞こえた。
「それは、お前は親と思われているのだからそうだろうが」
「わたくしから引き離さなければ万事問題ない、と言うことですわ」
にこ、と笑う顔は愛らしく、着ている服も上質だ。ただ、前後に抱えた巨大な頭陀袋が、どうにもチグハグで異質だった。
「そもそもなんでジャヴァウォックの孵化に立ち会うことになる。親はどうした」
「殉職しましたの」
「殉職?」
「彼らの両親は我が領の騎士でしたの。それはそれは、屈強で立派な方々でしたが、先日領内で発生した炎呑鳥の大量発生を制圧する際、ひどい火傷を負って、亡くなりました。子供が生まれるのだから危険なところに行く必要はないと、引き留めたのですが、子供が生まれるからこそ、この危機を一刻も早く鎮圧せねばならないと」
少女が両手で、頭陀袋を抱く。
「死の間際、彼らはわたくしに、この子たちを託しました。どうか、自分たちのような、立派な兵に育てて欲しいと。託されたからには、わたくしは、この子たちを立派に育てねばなりません」
「ラヴァル」
王太子が、低い声を出す。
「ひとつの話に、ツッコミどころを複数作るものじゃない」
「あら、嘘はなにも言っていなくてよ?」
「どれかは、いや、全部嘘であって欲しかったよ」
もう立つ気力もないとばかりに、王太子がその場にしゃがみ込む。
「まあ、お姉さま、こんなところに座ってはだめよ。ほら、立って、ソファに座りましょう」
「誰のせいだと……ああいや。すまない、英雄殿。これが、あなたの伴侶候補で、第八王女のラヴァルだ」
疲れた顔で立ち上がった王太子は、少女の背に手を添えようとして、その背中を覆う頭陀袋に手を止めた。
「……」
そっと手を降ろし、笑顔で誤魔化す。
そんな姉の葛藤には気付かないのか、少女はにこりと微笑んで綺麗に淑女の礼をした。
「紹介に預かりました、第八王女のラヴァルと申します。と言っても、お姉さまは王太子になってしまったし、ほかの王女もほとんど嫁いでしまったし、もう八人も王女は残っていないのですけれど」
笑みと所作は、さすが王女かと思う美しいものだった。頭陀袋と言葉が邪魔なだけで。
「崖の城の引きこもり姫と言った方が、通りが良いかしら」
「余計なことは言わなくてよろしい」
「あら」
ころころと笑いながら、少女はソファに腰掛ける。頭陀袋は邪魔にならないよう、左右に位置を調整して。
「キュン」
「大丈夫ですわ、おかあさまはここにいますからね」
ソファに置かれたことで不安げな声を上げた頭陀袋には、優しく声を掛けてなだめていた。
「隠していたっていずれ知られるのですもの、最初から素直に話して置いた方が、潔いと言うものではないかしら。未来の伴侶かもしれない相手ですもの、騙すのは良くないわ。ね、あなたたちの、おとうさまになるかもしれませんもの」
ぽんぽん、と頭陀袋をなでる手は、我が子を寝かし付ける母のような、愛情のこもった手付きだった。
「左の方は、見覚えがある気がするから、お姉さまの旦那さまね。では、あなたがジャンヌさま。改めまして、よろしくお願い致しますわ」
白魚のような手を差し出されて、自分なんかがこの美しい手を掴んで良いものかと、ためらう。
そんな俺を気遣うように、疲れた顔でソファに座った王太子が言った。
「英雄殿、気にしなくて良い。取り繕うのも馬鹿らしいから言うが、その子はその手で平気で魔物の首をへし折る子だ」
「まあ!お姉さまったら」
差し出していた手を引っ込めて口許を覆い、少女がまたころころと笑う。
「素手でへし折ったりしませんわ、危ないですから」
「嘘を吐くんじゃないよ。わたしたちの目の前でバッキリへし折って、妹たちの腰を抜かしたのはどこの誰だい?」
「あれは毒のない食べられる種類でしたもの。鋏は鋭いですけれど、棘も針もなくて、危険のない魔物ですわ。活きの良いうちに、ああして頭をもいで一気に血抜きすると、美味しく食べられますの。いちばん美味しく食べて頂くための、妹の気遣いでしたのよ?」
食べて頂けませんでしたけれど、と、少女は苦笑した。
そして、振り向いた少女の目、熟れたスグリのような赤い瞳が、俺を見る。
「ジャンヌさまは、海老はお好き?」
「え、び?」
唐突過ぎる質問に、目をまたたく。
「ええ。海老、お好きかしら?」
「いや、俺は、えび?は」
食べた記憶がない。と言うか、食えればなんでも良かった時代が長過ぎて、食材の名前なんてろくに知らない。
「昨日の晩餐で頂いた海老は美味しかったですね。ほら、赤い殻ごと出て来て、上にたっぷりチーズが乗った」
友人がさりげなく助け舟を出す。
あれが、えびか。
「ああ、あれは、」
味と食感は確かに良かった。だが、俺としては。
「美味かったが、もっと腹にたまるものの方が好きだな。殻に対して、身が少なかった」
つい、するりと出た言葉。友人が、やりやがった、と言う顔をしたのが横目に映った。
不興を買うだろうか。でも、それで縁談が流れるなら、その方がありがたい。
俺の思いをよそに、少女は嬉しそうに手を合わせた。
「味がお好きなら良かったですわ!我が領自慢の美味しい海老をお腹いっぱいに」
はた、と不意に言葉を止めた少女が、首を傾げる。
「……婚約の顔合わせでするには気が早いお話でしたわね?わたくし、どうしてこんな話をしたのだったかしら?」
「わたしが、お前が魔物の首を素手でへし折った話を出したからだろうね」
「そうでしたわ!お姉さまったら、顔合わせなのですから話題には気を遣ってくださいまし」
王太子が額を押さえて、うめく。
「確かにわたしの話題選択は悪かったが、それを言うなら、顔合わせの場に魔物を連れて来ないで欲しかったね」
「この子たちは、わたくしの養い子ですもの。まだ、庇護なしには生きられない子供を、捨て置けはしませんわ。お姉さま、普通の獣は子育てを他人に託したりしませんのよ。人間と違って」
少女はどこか冷めた目でつぶやくと、俺に向き直った。
「ええと、なにを話さなければいけなかったかしら?そうね、まずは」
言葉を切った少女が、深々と頭を下げる。
「決めたのはわたくしではございませんが、謝罪させて下さいましね。わたくしのような女が伴侶などと、申し訳ございません」
「え、あ、いや」
「王命とあっては、断るわけにも行かなかったことでしょう?救国の英雄ともあろう方に、誠に申し訳ない所業ですわ。いくらお父さまが、わたくしの嫁ぎ先を憂慮していたとは言え、よりにもよってジャンヌさまに押し付けるなんて」
どう考えても、貧民出の英雄なんて貧乏くじを引かされたのは、目の前の少女の方であろうに、本気で申し訳なく思っているらしい口調で、少女は語った。
返答に困る俺に、でも、と顔を上げて語る。
「嘆くことばかりでもございませんのよ。どうか良い面に目を向けて下さいまし。なにせ我が領は、万年人不足です。何人移住希望があっても大歓迎、喜んで全員受け入れますわ!仕事も土地も有り余っておりますから、移住後の食い扶持だって心配ございません」
「あ、いや、その」
確かに昨日、友人とそんな話はしたが。
「そうですわね。確かに危険と言われる土地ですわ。突然移住などと、不安に思われるでしょう。ですが、ここ十年で移住後一年の生存率はなんと十倍以上に上がっておりますの!死の領土などと揶揄されたこともございましたが今は昔。安心して移住して頂ける土地に生まれ変わりましたのよ」
「死の、領土?」
「領主がわたくしに変わる前の、昔の話ですわ!わたくしが領主となってからは、騎士団の人員を増強し、見回りも増やして、一般人の被害はほとんど出さなくなりました!」
少女は力説する。
「もちろん、兵の被害はございます。ですが、そのぶん給金は高く払っておりますし、遺族年金も充実させております。領地としての収益は毎年黒字で、領地経営のための資金には事欠きません。わたくしの年金もございますし、ジャンヌさまにもそのご家族にも、不自由な暮らしは決してさせないと約束しますわ」
にっこりと微笑んで、少女は言った。
「ね、確かにわたくし、外れくじの王女ですけれど、悪いことばかりではございませんでしょう?ああもちろん、代わりにわたくしを愛せなんて世迷言も申しませんわ!立場上、正式に妻として認めることこそ出来ませんが、愛する方を城に住まわせ、共にお過ごし頂いて結構です。跡を継がせることは出来ませんが、御子も不自由なく暮らせるよう、教育と支援は惜しみません。ジャンヌさまはなにも心配なさらず、我が城でご自由にお過ごし下さいませ」
「い、や、特に、恋人も伴侶候補も、いないが」
生きるのに必死の貧民に、そんなものにかまけている余裕などなかった。
「あら、そうですの?でしたら、これからですわ。ジャンヌさまのお陰で、この国は平和になりました。まあ、何年続いてくれるか定かではない平和ではありますが、しばらくはお父さまが頑張って下さることでしょう。平和を謳歌し、恋に花を咲かせる時ですわ。お好きに花をお咲かせ下さいまし」
「……仮にも婚約相手との顔合わせで、堂々と浮気を勧めるものではない」
怒涛の勢いに言葉もなくしていた王太子が、やっと一言搾り出す。
「あらだって、これは仮にも褒美の縁談なのでしょう?」
ころころと、少女は王太子の苦言を笑い飛ばす。
「救国の褒美がわたくしでは、いくら貧民出の英雄さまとは言えあんまりですわ。ジャンヌさまにだって選ぶ権利はあるでしょう。もちろん、わたくしも王女ですから貞淑を良しとし、旦那さま以外にこの身を許すことはしませんし、旦那さまが望むならばいくらでもこの身を差し出す所存ですけれども、わたくしの覚悟と旦那さまの気持ちは別物ですわ。同じ貞淑さを、ジャンヌさまに求めはしません」
「その分別があるなら、初対面相手に会話を飛ばすのはやめなさい。英雄殿は、お前の立場すら知らないんだ」
「あら、そうでしたの?てっきりもう、お姉さまが話したとばかり」
こてり、と首を傾げたあとで、少女は慈悲深そうな笑みを浮かべた。
「では、わたくしから説明しましょうか?それとも、ご友人から聞かれた方が信頼出来るかしら?宮廷魔術師さまでしたら、わたくしのこともご存知でしょう?」
「僕が知るのは表面的な噂だけですよ」
「噂がすべてですわ。嘘も偽りもございません」
少女が肩をすくめる。
「崖の城の引きこもり姫と、それくらいしか、わたくしの噂なんて流れていないでしょう?」
「そうですね。辺境に領地を与えられ、そこからほとんど出て来ない、引きこもりのお姫さまと」
「そう言うことですわ、ジャンヌさま」
なにが、そう言うことで、どう言うことなのか、俺にはさっぱりわからない。
「お姉さま、地図を」
「姉を顎で使うのはどうかと思うな」
ぼやきながらも、王太子は従者に地図を運ばせる。
「ここが王都。ジャンヌさまの活躍で平定された国境線がこちら。此度のことで、少し国境が変わって国土が広くなりました。それから、こちら側は海ですね。海の向こうの群島は小国群ですが、いまのところ友好国ばかりで国交は安定しています。こちら側の国境もとりあえずは同盟国ですね。戦の状況によっては漁夫の利を狙って牙を剥く可能性はありましたが、今はもうその心配もないでしょう。と言うか、我が国が斃れないのであれば、無理に潰して矢面に立とうなどと言う気概はないでしょう」
「なぜ」
「我が国が、荒地の封じ込めを一手に担っているからです」
少女の白魚のような指先が、地図の一角、真っ黒に塗り潰された箇所をなぞる。ほかは地名やら地形やらの書き込みが細かくなされているのに、そこだけ不自然に真っ黒だった。
「こうち?」
「魔族の土地の俗称ですわ。我が国の北側です。人間は、足を踏み入れることの出来ない、未開の土地とされておりますの」
にこ、と微笑んで、少女は指を少しずらす。真っ黒な一角のすぐ横、切り立った山々に囲まれて、唯一黒と接する盆地だ。
「わたくしの領地はここ。城もここにございます。人間の住む土地の中で、唯一荒地と接する場所ですわ。いつ魔族が攻めて来るか知れず、魔物の出現も格段に多い、流刑者が運び込まれる死の領土、と、十年ほど前までは言われておりました」
「そ、こに、俺が、移り住めと?」
「今は死の領土などと呼ばせておりませんわよ?わたくしが生まれ変わらせましたもの。まあ、流刑地扱いは相変わらずですが、先ほども申し上げました通り、移住一年後の生存率は、格段に上がっております」
「そんな」
「いや」
俺の反論を友人が遮る。
「ある程度は、信頼出来る話だよ。実際、ラヴァル殿下は十年間、あの土地で死んでいない」
「それは城で、守られているからだろう」
「そうですわね。対外的にはそう言うことになっておりますわね」
「対外的?」
王太子の眉が跳ね上がる。
「どう言う意味だ、ラヴァル」
「あ」
しまった、と言うように呟き、少女が笑みで焦りを隠す。
「言葉の綾ですわ。わたくしは、安全な場所で指示を出しているだけですもの」
「まさか城の外に出ているのか?」
「そんな、いくらわたくしでもそんな、ええ。荒地に足を踏み入れるなんてするはずがないでしょう?」
「は!?」
王太子が唖然として立ち上がる。
「城から出たどころか、荒地に行ったのか!なにを考えている!!」
自分の失言を悟った少女は、開き直ったようだった。
「人間、食べるものがなければ死にますもの」
しれっとのたまい、肩をすくめる。
「ちょっと狩りに出ただけですわ。お陰で、我が領地の食糧事情がかなり改善されました」
「そんな、危険な」
「無事ですわ。怪我ひとつしていません」
「結果論だろう」
「万全の対策は取って行きましたわ。我が領地の誇る騎士隊を連れて、装備もしっかり固めて」
その、騎士隊と言うのは。
「ジャヴァウォックの群れを引き連れて行ったわけではないな?」
「まさか」
あまりに麗しい笑みの嘘臭さに、気付いたのは俺だけでなかったらしい。
「お前は」
「……人間を引き連れて行くよりマシでは?」
誤魔化せないと悟った少女が呟く。それから叱責を投げようとした王太子を見据えて吐き捨てた。
「安全でお腹が膨れまして?城で待っていれば、誰かが食糧を運び込んでくれるとでも?口を出すのはお金を出してからにして下さいまし。わたくしは領主として、領民を生かすための判断をしただけですわ」
「そ、れは、」
「お姉さま、あなたは一度だって、我が領に支援して下さったことがございまして?ないでしょう。王都は罪人と負傷した退役軍人を送り込むばかり!その糧は湧いて出るとでもお思いかしら!」
少女の目に宿るのは、確かに怒りだった。
「荒地とは人間が勝手に呼んでいるだけのこと。実際は実りの宝庫です。食用植物も肉となる魔物も、荒地に行けばいくらでも手に入る。少し危険を冒すだけで」
「どこの国に、自ら死地に踏み込んで食糧を得る王女がいると言うんだ」
「綺麗事で国は治められません。命を懸けても食い扶持を狩りに行くか、使えない者から殺してその肉を喰うか。わたくしたちにはそれ以外に、生き残る方法がございませんでした。お姉さまは、わたくしに領民を殺して喰らえとおっしゃいますの?」
コンッと、少女が机を叩く。クピーと頭陀袋が鳴いて、ハッとした少女がなだめるように頭陀袋をなでた。
「ごめんなさいね。あなたたちに怒ったのではなくってよ」
「そんなに逼迫していたなら、領主として国に奏上すれば、」
「罪人が飢えるからと奏上して、恒久的に足りない食糧を、援助して下さるとでも?」
そんな余裕のある国でないことは、きっとこの場の全員がわかっていた。
「我が領地ではここ数年餓死者も凍死者も出ておりません。この国の領地の中で唯一。それが答えですわ」
生き延びるだけでやっとだった国に、弱者を救済する余裕はなかった。ゆえに貧民どころか平民にすら、毎年のように餓死者も凍死者も出るのが現状だ。
「領主自ら食糧調達して、領民全員に配り歩いてるってことか?」
「いいえ」
俺の問い掛けに、少女はあっさりと首を振る。
「わたくしも暇ではございませんから、配るのは領民に任せております。戸籍の管理と食料の配給は、公僕のお仕事ですわ」
「公僕」
「わたくし、領民に最低限の衣食住は保証しておりますが、あくまで最低限ですもの。それ以上を望むならば自分で稼ぐ必要がありますわ。ですから働き口は、きちんと用意しておりますの」
「領民を奴隷代わりに使っているのか?」
「単なる区別ですわ」
悪びれもせずに少女は言う。
「領として用意している仕事、公共事業に従事している方々を公僕と呼んで、それ以外の労働者と分けているだけのこと。奴隷や家畜のような管理はしておりませんし、辞めたくなればそれは自由です。お金が動けば経済が回り、領の発展に繋がります。金払いの良い顧客がいると聞けば、呼ばずとも商人が商品を持って来る。ひとが集まれば新たな雇用も生まれ、また経済が回ります。その突端を担う者を創り出しているのですわ」
「犯罪者も、退役軍人も、分け隔てなく?」
「我が領地で新たに罪を犯さない限りは」
「罪を犯したら?」
少女は笑う。ただ、にっこりと。
「我が領地の騎士団は、優秀ですから」
その騎士団には魔獣が正隊員として所属していたはずだ。
「そもそも流刑地ですから、刑に処されている方は自由な出入りが許されていません。罪を犯しても逃げることは出来ず、流刑地でさらに罪を犯した者として、いつ尽きるとも知れぬ刑期を過ごすこととなります。居心地は悪くなりますよ」
「……殺さない、のか?」
少女が首を傾げる。
「必要であれば、殺す判断をする場合もあります。騎士団も大切な民ですから、徒に危険を冒させたくはありません。ですが」
そうですね、と、少女は微笑んだ。
「死刑よりも役刑にする方が多いですね。なにせ我が領は、万年人手不足ですから」
少女はにこにこと、微笑んでいる。
「たいていみなさん、一度で反省して下さいますよ。もちろん手の施しようもない生粋の悪人も、なかにはいらっしゃいましょうが、ほとんどが最初から好きで犯罪に手を染めたわけではありません。環境が犯罪に向かわせ、ひとを歪めるのです。だから歪みを正せば、罪を重ねることもなくなります」
どこで、どんな、役に就かせたと言うのだろうか。
「確かに領民の二割が流刑にされた犯罪者ですが、下手な貧民街よりもよほど安全ですよ。真面目に生きてさえいれば、衣食住は保証されていますから、わざわざ犯罪に手を染める必要がありません」
「二割だけ、なのか」
「ええ。二割が流刑囚、二割が退役軍人、残り三割が彼らの身内や移住者です」
七割にしかならないが。
「ラヴァル、あと三割はなんだ」
「わたくしがスカウトした領民です」
質問した王太子の方は見ずに、少女は答えた。
「それは人間か?」
王太子の詰問は黙殺して、少女は俺を見る。
「なんにせよ、城の敷地は広く、守りも堅いですから。特に城の中には信頼の置ける者しかおりません。安全地帯から出なければ、大きな危険はなく暮らせますわ。ご安心下さい」
「……俺に、危険な土地だから民を守るのを手伝え、とは言わないのか」
「自分の領地ですもの」
少女はこともなげに言う。
「自分で守りますわ。ジャンヌさまのお手を煩わせは致しません」
「俺では役に立たないと?」
「そんなこと」
少女は首を振る。
「万年人手不足ですもの、ジャンヌさまの活躍出来る仕事はいくらでもありますわ。ですが、あなたはもう十分過ぎるほどに、働いて下さいましたもの」
いつだって、俺は搾取される側だった。家族だから、自分の国だから、なんて、綺麗な言葉で隠しても、結局は俺の働きや稼ぎに、寄生しているだけのこと。隣に座る友人すら、俺に英雄になれるような力があったから、便宜を図っただけだ。
だと言うのにこの目の前の、強く握れば折れるような細腕の少女は、俺に与えようと言うのか。俺からなにも奪わず、見返りを求めず、ただ搾取されない生を送れと、そう、言っているのか。
「あんたは、」
ならばこの少女は、誰に与えて貰えると言うのか。満足に、食糧も得られないと言う土地を、治めろと命じられて、役に立たない犯罪者や退役軍人の面倒まで、押し付けられているこの少女は。
「それで良いのか」
「領民が増えるなら大歓迎ですわ」
ただただ微笑んで、少女は答えた。
「なにせ万年人手不足ですもの」
つまり少女は言っているのだ。背負う荷物を差し出すなら、自分が全部まとめて荷馬車に乗せてやると。俺はただ、荷台に座っていれば良いと。
「……こう見えて、知り合いは多い。声を掛ければ、何人に膨れ上がるか知れたことじゃないぞ」
「幸い、今は食糧が豊富ですの。なにせうんざりするほど鳥肉が手に入ったところですから」
それはもしや炎吞鳥の肉だろうかと頭をよぎったが、声を掛けて流刑地について来るような者が、肉の種類を気にするような人間のはずもない。肉は肉。食えればそれで良いのだ。
「そうか」
「ええ。食糧は心配いりません。もし足りなければまた狩って来れば済みますもの。住居も、戸建てにこだわらなければ部屋は有り余っておりますから」
「部屋って、城のか?」
「いいえ。主城ではなく、周辺施設です。元々は、荒地から人間の土地を守るための城塞都市でしたから、砦や兵の駐屯所が多く残っておりますの。見た目は古く武骨ですが、頑丈さだけは折り紙付きですわ。外壁なんてきっと、この城より丈夫だと思います」
ああ心配しないで下さいねと、少女は笑う。
「いつ移住者が来ても良いように、掃除や保守はしっかり行っております。家具や雑貨も、綺麗なものがすぐ用意出来ますわ。すぐにでも快適に住み始められますから」
「そうか。気遣い感謝する」
「いえ。何人でいらっしゃるか決まったら、お教え下さいましね。準備させますから。ああもちろん、ジャンヌさまは主城のお好きな部屋を使って頂いて結構です。主城に住まわせたい方がいらっしゃるなら、それもお好きに、」
「いや」
少女を見据えて、言う。
「貴族と違って貧民は、愛人を囲ったりはしない。……金持ちの愛人や妾にされることや、娼館に入れられることはあるが」
あるいは、無理矢理慰めものにされて、複数の相手と関係を持つこともあるが。
「俺の倫理観的に、妻がいるのにほかの女に手を出したりはしない」
「わたくしは、」
「あんたが気にするかどうかは関係なく、俺の倫理観の話だ。あんたが良くても俺が良くない」
少女が困ったように頬に手を当てるのを見ながら、だから、と続ける。
「あんたが俺の妻になるって言うなら、俺はあんたを愛すし、あんたに俺の子を産んで貰うが、あんたはそれで良いのか。俺は、貧民出の剣闘士だぞ」
少女が、目を見開く。初めてこの少女の心を揺らせたようだ。少し、小気味良い気持ちを覚えた。
「わたくしは、元よりその覚悟ですが」
それでもはっきりと、少女は答える。
「王女ですもの、婚姻政策の駒となる覚悟は、幼少よりしております。第八王女ですから価値も低い。どんな相手に嫁げと言われるか知れたものではないと……」
「そうなのか」
「ええ。可能性として高かったのは同盟国の王で、祖父のような年の骸骨のような老爺か、毛むくじゃらの豚のような中年男か、三十人も妃を娶っている好色か。ああ、敗戦した場合は賠償に差し出される可能性もありましたね。その場合はあの、敗戦国の女をいたぶるのが趣味と言う男ですか」
どうやら平静を失っても、口だけはよく動くらしい。つらつらと語られる内容に、この少女の境遇を垣間見て眉が寄る。
「国内で戦功を上げた方に下賜される可能性もありました、と言うか、今がそうですが、なにしろ評判が悪いので、わたくしが欲しいと言う殿方は……」
くしゃり、と少女が顔をしかめる。
「まあ顔出ししたことが一切ないわけではないので、いないわけではありませんが、そもそも戦功を上げられるような方々ではありませんわね」
「ラヴァルさま、一部の貴族に妖精姫って心酔されてるんだ。本人はお嫌のようだね」
そっと友人が耳打ちして来る。挨拶をされたときの所作を思い出して、さもありなんと納得した。華奢で、顔立ちも愛らしく、所作は美しい。妖精姫と謳われるのもわかる。黙って大人しくしていれば。
「それに比べれば救国の英雄との婚姻なんて、比べるのもおこがましいほどに上等な縁談ですわ。相手がわたくしで申し訳ないくらいで、不満なんて露ほどもございません」
「貧民だぞ」
「同じ人間ではありませんか。いえ、確かに同じ人間でも、受け付けない相手はおりますが、ジャンヌさまは見た目も清潔ですし、お話しした限り言動もまともですわ」
清潔。清潔と言ったか。顔の良し悪しで褒められたことは多いし、なんなら言い寄られた数も知れないが、清潔なんて褒め言葉を貰ったのは初めてだ。
初めてだ、が。そう言えばこの少女は。
「その頭陀袋の中身は、あんたの子だったか」
「ええ。領地の恩人から託された、大事な子達ですわ」
そうだ。この少女はジャヴァウォックを騎士と呼び、その子を我が子と慈しむような女なのだ。
「俺に抱かれてそいつらの兄弟を増やすのは、嫌ではないと」
「ジャンヌさまがお望みでしたら、いくらでも」
「そうか」
息を吐く。
なにが褒美だと辟易していた縁談を、悪くないと思い始めている自分がいる。王女なんてと思っていたが、どうもこの王女は毛色が違う。危険な土地に住んでいることは予想外だったが、そもそも俺は生まれてこの方、危険でない生活だったことの方が少ない。貧民街でも剣闘場でも戦場でも、死人など日常なのだから。
なにより、と少女を見つめる。
亜麻色の豊かな巻き毛。透けるように白い肌。長い睫毛に縁取られた大きな瞳は、熟れたスグリのような鮮やかな赤色。王女ラヴァルは、たいそう愛らしい見た目をしていた。国中の娼館を回っても、この少女以上に愛らしい女は見付からないだろう。
「手を」
片手を差し出せば、躊躇いもなく、蝋細工のような手を預けて来る。握り締めれば砕けそうな手を握っても、少女の顔が不快に歪むことはなかった。
「俺は学もない貧民だ。王女の伴侶には相応しくないだろうが、貧民だから貰ったものは返さない。あんたの婿になろう、ラヴァル王女殿下。よろしく頼む」
「こちらこそ、英雄の報酬には役者不足でしょうが、よろしくお願いしますわ」
にこっと笑った顔が愛らしかったので、俺は掴んだままの真っ白で傷ひとつない手に、そっと口付けを落とした。
つたないお話をお読み頂きありがとうございました!