ヴェイマル家の悪女
エルク殿下はスマートなふるまいで私の前に立ち、粗暴な男性と対峙する。
掴んでいた腕も振り払ってくれた。
「場の雰囲気を壊すようであれば、ここから離れていただきたい」
「なんだと!? どうしても参加しろってそっちが言うから来てやったというのに!」
一触即発、といった空気が流れていたものの、眼鏡をかけた紳士が粗暴な男性を羽交い締めにし、その場から離れていった。ギルベルト、不敬だばか! という叫び声も聞こえる。どうやら近くに友人か知人がいたらしい。
ホッとしたのもつかの間のこと。エルク殿下は私を振り返り、にっこりとやわらかく微笑みながら話しかけてきた。
「大丈夫ですか?」
「は、はい」
それだけでなく、人の注目を浴びて気まずいだろうから、と別室へ案内しましょうか? と聞いてくれる。
「いいえ、平気です。助けてくださって、どうもありがとうございました!」
頭を下げたあとハッとなり、慌てて淑女の礼を取って感謝の意を示す。
するとエルク殿下は春の温かな日差しのような微笑みを浮かべ、去っていった。
はあ、と周囲のご令嬢から熱いため息が零れた。その中で唯一、私にしがみついて悔しがる者がいた。友人リナベルである。
「ちょっとルル! どうして別室でお休みしたいって言わなかったのよ!」
「え、どうして? 本当に平気だし」
「エルク殿下とお話しできたかもしれないでしょう?」
「いやいやまさか! ただ部屋を用意してくれただけでしょう」
「それでも、特別な部屋に案内してもらえたかもしれないのに!」
ああ、そういうわけだったのか、と納得する。
助けてもらっただけでも貴重でたいへんな出来事だったので、ただただ感謝の気持ちしかなかったのだが。
「それにしても、ヴェイマル侯爵家のご子息がルルに絡んでくるなんて、気の毒だったわね」
「ヴェイマル侯爵家?」
「知らないの!? 悪逆非道! 出世や儲け話のためながらなんでもやる極悪一族のことを!」
「そうなの。王都から遠く離れた村にいたら、そういう噂話は届かないのよね」
王都から馬車で十日もかかる距離にある故郷、ルネ村。
痩せた土地で小麦も満足に育たないが、皆、助け合って暮らしている土地だ。
領主の娘である私も収穫期となれば小麦刈りを手伝う。働いた分だけ収穫祭が楽しくなるのだ。
なんて話をしていたら、「あなたが住む世界は平和ね」と言われてしまった。
「今回はエルク殿下が助けてくれたからいいけれど、ヴェイマル家の人と関わり合いになったら骨までしゃぶり尽くされてしまうって噂よ」
「ええ……具体的にはどんなことをされるの?」
「あくまでも噂だけれど――」
ヴェイマル家の主な家族は三名。
当主であるグレゴール・フォン・ヴェイマル。
齢五十八ながら五人の妻を娶り、その五人とも他界。
妻の血を儀式に使い、恐ろしい魔物を錬成しているという噂だ。
ヴェイマル家は国内でも五指に入るくらいの裕福な一家だが、それは当主グレゴールが人身売買で儲けた金のおかげだとも囁かれているらしい。
目が合ったら最後、その身はどこかに拐かされ、翌日には行方知れずになってしまうという。
「二人目はさっきルルと揉めたご子息、ギルベルト」
当主グレゴールの唯一の息子で、年の頃は二十五歳。エルク殿下と同じ年である。当主であり父であるグレゴールへの忠誠心が高く、気に食わない相手は殺すこともいとわない。
彼ともめ事を起こした者は誰一人として社交界に二度と姿を現さないという。
真っ赤な瞳は夜な夜な美女の血を啜って染まったものだと噂されているようだ。
「そ、そんな相手と言い合いをしてしまったのね」
「本当に血の気が引いたわ」
最後のヴェイマル家の人間を紹介しようとした瞬間、会場がざわりと騒がしくなる。
「ちょうどいいところにやってきたわ。彼女がヴェイマル家唯一のご令嬢、ツィツェリエル様よ」
リナベルが指差した先にいたのは、深紅のドレスをまとう絶世の美女。
背丈は私と同じくらいだろうか? 金色の長い髪をなびかせ、堂々たる足取りで会場を闊歩していた。
社交界デビューの純白のドレスを着る少女達の中で、異質に見える。
首につけられたルビーのチョーカーが怪しく輝き、真っ白のリネンを血で染めたようなドレスは異質で――。
深紅と同じくらい真っ赤な瞳が一瞬、こちらに向いたような気がしてドキッとした。
目が合ったと思ったがそれは勘違いだった。
ツィツェリエル嬢は傍にいた女性をたたんだ扇で手招きし、近くへ来るように命じているように見えた。
呼ばれた女性は、社交界デビューの少女の付添人。年頃は三十代半ばくらいだろうか。
ツィツェリエル嬢は何やらボソボソと耳元で囁いていたが、しだいに女性の顔色が青ざめていく。
何を思ったのか、ツィツェリエル嬢は女性から少し距離を置くと、ぱん! と頬を叩いた。その瞬間、一人の男性が飛びだしてくる。
「アンナ! ツィツェリエル様にいったい何をしたんだ!?」
「ジャック!? どうしてここに?」
「そんなことはどうでもいいから答えろ! ツィツェリエル様に何かしたんだろうが!」
「別に何も……」
「ツィツェリエル様、申し訳ございません! 妻との関係はすぐさま解消いたしますので!」
会話から察するに、ジャックと呼ばれた男性は女性の夫なのだろう。
ツィツェリエル嬢は何も言葉を返さず、蔑むような目線を男女に向けるばかりだった。
その後、会場を去っていく。
残された男女は何やら言い合いをしていた。
「ん、あれ?」
男性の顔に黒い靄がまとわりついているような気がして目を擦る。
けれども次の瞬間にはなくなっていた。
どうしてあんなふうに見えてしまったのか。今日までバタバタしていて、疲れているのかもしれない。
拝謁式が終わったら、なるべく早く帰るようにしよう。ダンスパーティーがあるけれど、どうせ踊る相手なんていないのだから。
「あの男性、サイゼル伯爵家のご当主だったかしら? なんでもツィツェリエル様の情人だったみたい」
「えっ!?」
「きっと妻に別れるように言っていたのよ。でも、ツィツェリエル様の情人はたくさんいるから、結婚するつもりがないのであれば別れさせる必要なんてないと思うんだけれど」
なんでもツィツェリエル嬢は社交界でも有名な〝別れさせ屋〟らしい。
男女の関係を引き裂き、娯楽としているのだとか。
「手に入れた男には興味がなくなって、ぽいっとゴミのように捨てるのですって。彼女は噂の悪女よ」
見境なくケンカを売る兄ギルベルトに、男を片っ端から奪って楽しむツィツェリエル嬢。
ヴェイマル家の人々はとんでもない苛烈な一族のようだ。