辞表提出間際の宰相直属調査員、運命の恋と巡り合う?
ポテト男爵領と言えば、国で一二を争う良質な小麦の産地である。
しかし、その知名度は低い。
なぜなら、しっかりと手をかけられて育つ小麦は量産が難しく、男爵領とその周辺のいくつかの領地にしか行き渡らないからだ。
そんな男爵領にあるパン屋の中で、今一番評価の高い店、それがジェフのパン屋だ。
王都から馬車を乗り継いで一週間。
長閑な男爵領、その中心街に着いた俺は、店の裏口のドアを叩いた。
「ジェフ先輩、お久しぶりです!」
「おお、トム、よく来たな!」
三年ぶりに会う先輩は、パン屋のオヤジとして日々働いてきた成果なのか、一段と二の腕が太くなった気がする。
「先輩、すごい筋肉ですね」
「おう! 触ってもいいぞ」
「いや、それは遠慮しておきますけど」
筋肉大好き女子なら喜んで触るところだろうが、俺は違う。
「ま、立ち話も何だ。茶にしよう」
「ありがとうございます」
「宰相様はお元気か?」
「ええ、相変わらず、人をこき使いまくってますよ」
暢気に王都から旅をしてきた俺だが、実はこれも宰相様直々に命じられた仕事なのだ。
俺は普段、王城で宰相執務室の侍従として働いている。
十日ほど前のこと、執務室でお茶の用意をしていた時に命令された。
『ポテト男爵家の様子がおかしいらしい。
何かあるようだと、ジェフから報告が入っている』
『ジェフ先輩から、ですか』
『ジェフの知り合いという体で、現地での調査を頼みたい』
『わかりました。
それと……その仕事が片付いたら、大事な話があるので少々お時間をいただけますか?』
『辞表でも出すつもりか?』
『なぜそれを?』
『いやー、この仕事を任せてる奴は、だいたいこれくらいのタイミングで足を洗いたくなるものらしい。
長年宰相をやってると、さすがにわかってくるものなのだ』
『そうですか。それなら話が早くて助かります』
『まあ、とりあえず、今回の任務をしっかり果たしてくれ』
『畏まりました』
裏の仕事と言うか、重要性から言えば本職と言うか。
俺は宰相様直属の覆面調査員なのである。
この仕事で機密保持は厳守だが、そのために辞職できない、などということはない。
何々を調査した、ということがバレてしまえば、危ういのは自分の身である。
すなわち、自身を守るために、機密も守られるという仕組みだ。
自分さえ口を閉ざしていれば、二足の草鞋を履くことは、そこまで危険ではない。
ただただ忙しく、その分、金になる。それだけだった。
ジェフ先輩も、元々は調査員としてここに来た。
しかし、滞在するうちに小麦に惚れ込み、パン作りにはまった。
男爵領を足場として周辺の調査もせねばならず、拠点があると便利だ……などと宰相閣下を丸め込み、とうとうパン屋を始めてしまった。
今では押しも押されもせぬ、領一番のパン屋だ。
というわけで、お茶請けにはパンが食べ放題である。
「やっぱり、先輩のパンは一味違いますね!」
「ありがとよ!
うちのパンでよけりゃ、好きなだけ食っていけ」
「ありがとうございます。それで、ポテト男爵領の動向ですけど」
「それなんだがな……」
その時、裏口を叩く音がした。
先輩が席を立ち、ドアを開けると、若い女性が立っている。
非常に可愛らしい雰囲気の人だ。
「こんにちは。ポテト男爵家のバイオレットです」
「これはバイオレットお嬢様、いつものですか?」
「はい。毎度お世話になって心苦しいですが、よろしくお願いします」
「いえいえ、男爵領あってのジェフのパン屋ですよ。
ご遠慮なさらないでください」
「ありがとうございます」
彼女は、俺に気付くと微笑んで会釈をくれる。
よく見れば彼女は、かなり俺の好み。
凝視したい気持ちを抑えて、俺も軽く頭を下げた。
先輩は大きなバスケットを受け取ると、置いてあったパンを詰め込んだ。
「重いですよ。お気をつけて」
「まあ、こんなに。本当に、いつもありがとうございます」
深々と頭を下げて出ていこうとした彼女だが、少しよたついた。
それを見た先輩は、俺を振り返る。
「トム、街中を見たいんだろ?
ついでに、お嬢様の荷物持ちをしてやったらどうだ?
お嬢様、こいつは俺の知り合いで、休暇を取って旅行中なんですよ。
もしよければ、連れて行っていただけませんか?」
とりあえず自分の目で見てこいとばかり、先輩が目くばせする。
駆け出しの頃も、こんな感じで扱かれたっけな。
空気を読め、そして自分で考えろ、と。
「ああ、そうですね。良ければお持ちしましょう」
「助かります。お言葉に甘えさせていただきます」
バイオレットお嬢様といえば、男爵家の一人娘だ。
俺より三歳下の十八歳で、婚約者無し。
彼女について行けば、男爵家を直接目に出来る。
お嬢様は馬車ではなく、徒歩で店まで来たのだった。
俺は隣りを歩きながら、ぽつりぽつりと領の様子を教えてもらう。
商店がある通りを抜け、しばらく行けば小麦畑が続く。
遠くには、牛や羊の姿が見えた。
農作業をする人が帽子をひょいと上げ、お嬢様に挨拶する。
彼女も軽く会釈したり、手を振ったり。
皆が顔見知りのようだった。
「遠くまでご足労頂きまして、ありがとうございます。
ここが我が家ですわ」
男爵家の屋敷は飾り気がないが頑丈そうで、敷地は広大。
庭の向こうは、そのまま緑の放牧場に続いている。
「放牧場が隣に?」
「ええ、うちで管理しています」
生け垣の間につくられた小さな裏門を潜ると、子供たちが走り寄って来る。
「お嬢様、おかえりなさい!」
「ジェフのパン、もらえた?」
「ええ、たくさんいただいたわ。
今日もジェフさんに感謝して食べましょうね」
「は~い!」
二十人ほどの子供たちは、元気で健康そうだ。
「こちらが厨房です。お入りください」
古ぼけてはいるが、清潔に保たれた厨房。
その中で迎えてくれたのは、料理を任されているという中年の女性だった。
「お帰りなさい、お嬢様。スープが出来てますよ」
「ありがとう。そうだわ、一人分追加できるかしら?」
俺は急遽、バイオレット嬢や子供たちとの昼食に招かれた。
「美味しいスープですね」
「料理人の腕もいいのですけど、子供たちと一緒に育てている野菜が美味しく育つので……」
男爵領には孤児院が無いため、ここで直接面倒を見ているのだ。
もちろん、ジェフのパン屋を始め、領民たちの協力があって成り立っている。
領の状況や予算によって、孤児たちに対して、いろいろな関わり方があるだろう。
どういうやり方が良い、というものではないと思うが、令嬢自ら世話をするというのは大したものだと思う。
感心していると、食堂に小太りの中年男性が入って来た。
口髭が似合う、妙に可愛らしいおじさん。
ポテト男爵その人である。
「儂もスープをもらえるかな?」
「お父様、お疲れ様です。牛の世話は一段落ですか?」
「ああ、後は任せて来た。少し机にも向かわないとな。
ん? こちらはどなたかな?」
「初めまして、俺はパン屋のジェフさんの知り合いでトムと言います。
仕事先から休暇をもらって旅行中なんです」
「それは、ようこそポテト男爵領へ。
ゆっくりしていってくれたまえ」
「ありがとうございます」
とはいうものの、一飯の恩は返す主義だ。
俺はお嬢様に申し出る。
「美味しい食事のお礼に、何か手伝っていきます」
「あら、先にパンを運んでいただきましたわ。
休暇中なら、ごゆっくりなさればいいのに」
バイオレットお嬢様は、小首をかしげて微笑む。
「でもせっかくですから、乳しぼりを手伝っていただけます?
いつも子供たちがしているので、教えてくれますわ」
「了解です」
子供たちは統率がとれていて、ちゃんとリーダーがいる。
乳しぼりが初体験だった俺は、リーダーのボビーによろしくお願いしますと頭を下げた。
「お、トム兄ちゃん、けっこう筋がいい!」
「そうか? きっと先生がいいんだな」
「へへ!」
ボビーは、それなりに生意気だったが真面目に教えてくれる。
下手に出た俺の態度で、敵では無いと認定されたらしく、他の子供たちの態度もやわらいだ。
翌日も男爵家へパンを持って向かうと、一人の若い男が馬でやってきたところだった。
逞しい身体つきのイケメンで、優しくバイオレット嬢に微笑みかける。
「バイオレット、元気かい?」
「まあ、アーサー様、ごきげんよう」
「あれは誰だい?」
ボビーに訊いた。
「あれは、辺境伯家の嫡男アーサー様。
バイオレット姉ちゃんの幼馴染なんだって」
次期辺境伯殿は野獣の群れを討伐したため、肉をおすそ分けに来たという。
孤児院然とした男爵家を、普段から気遣ってくれているそうだ。
少し遅れて荷馬車が到着し、若い騎士たちが、重そうな荷物を厨房へ運び入れていた。
「いつもありがとうございます」
「では、男爵にもよろしくな」
次期辺境伯は用件だけ済ますと、あっさり帰っていく。
一人っ子同士の恋愛で、辺境伯家と男爵家の跡取り問題が勃発しているわけではなさそうだ。
それから一週間、俺はジェフ先輩の家に泊めてもらいながら、毎日、男爵家に通った。
一日の生活は、まず朝は早起きしてパン屋の仕事を手伝う。
そして男爵家へ届けるパンを預かり、領内の様子を歩きながら観察。
昼前には男爵家に配達を終えて、子供たちと一緒に昼食を御馳走になる。
その後は、乳しぼりをし、放牧を手伝い、畑の草取りをし……。
『小さい子の寝かしつけを、お願いできますか?』とバイオレット嬢の必殺上目遣いで頼まれ、二つ返事で引き受けた日には、うっかり一緒に昼寝して、彼女に優しく起こされた。
あれは、俺が物心ついて以来の、なんとも幸福な目覚めだったな。
一体、男爵領の問題って何なんだろう?
結局あれから何かと忙しく、ジェフ先輩と話す機会を逸していたのである。
一週間が経ったところで、俺は改めて先輩に訊ねた。
「で、ポテト男爵領の問題とは、何だったんです?」
「お前、一週間男爵家に通って、どう思った?」
「俺の感想としては、至って穏やかで素晴らしい男爵家でしたね。
男爵様自ら畜産に携わられていることも、お嬢様が孤児の面倒をみてらっしゃることも。
そして、ジェフ先輩はじめ、領民の皆さんが、男爵領全体を思って働いていることも」
「ああ、ここは国一の男爵領だと誇ってもいいくらいだ。
だが、この先はどうする?」
「この先?」
「男爵様はまだまだお若いが、少しずつ歳をとる。
男爵夫人は他界されているし、後添えを迎える気配もない。
そして、跡継ぎのお嬢様にはまだ、相応しい婚約者がいない」
「なるほど、それは心配ですね」
つまり、男爵領の今後を考えると不安がある、ということらしい。
「そこで、宰相様はお前をここへ寄越したわけだ」
ん? 俺?
「バイオレット嬢のこと、どう思う?」
「どうって?」
「お前の好みからは、外れてないと思うぞ。
可愛いし、働き者だし、しっかりしてるし、いい女だろ?」
おいおいおいおい?
「……ジェフ先輩、まさか俺、お見合いで呼ばれたんですか?」
「まあ、そうだ」
「他に見合い相手に相応しいご令息なんて、宰相様ならいくらでも探せるでしょう?」
「もちろんだ。だが、もう一つ重大問題がある。
ポテト男爵領は情報の要だ。
このくらい王都から離れていると油断して、やらかす貴族どももいる。
これまでも周囲では、それなりにいろいろな事件が起きている」
それらを素早く報告し、大事になる前に防いだジェフ先輩の活躍は、俺も報告書で目にしている。
もちろん、調査員だから調べて報告をあげるだけ。
実際の解決は、宰相様が事件ごとに相応しい実動部隊を投入する。
表の騎士団だったり、裏の何某だったり、その辺は状況に応じて判断されるのだ。
「今後もいろいろ起きるだろう。
つまり、ここでの活動は、それなりに忙しい」
「はい、いつもお疲れ様です」
「だが、俺はパン屋の仕事も忙しい」
「領一番のパン屋にのし上がりましたものね」
「そうだ。この小麦の名産地で、パンに対して舌の肥えた領民たちに選ばれるパン屋になった」
「はい、素晴らしいです」
「つまり、俺はパン屋を辞められない」
「……はい?」
「というわけで、宰相様に応援を寄越してもらうようお願いしたわけだ」
「……もしかして、俺がその応援ですか?」
「お前もそろそろ今の侍従の仕事に飽きる頃だから、配置換えのいいタイミングだそうだ」
「確かに、そろそろ仕事を辞めようかと思ってはいましたが……」
「それなりに使えるようになってきたお前を、宰相様が手放すわけが無かろう。
さあ、選べ! バイオレットお嬢様の婿か、パン屋の見習いか。
お前の選択肢は、この二つしかない」
「ちょっと待ってください。
そもそも、俺が婿に名乗り出たとして、お嬢様が受け入れてくれる気がしないんですけど」
俺も出身は子爵家だから、一応貴族だ。
身分的には問題ないが。
「その辺は調整済みだ。
あちらの希望としては、執務も畜産のほうも真面目に働いてくれるなら、見た目や年齢差にはこだわらないそうだ。
後は、子供が嫌いじゃ無ければ、なお良し、とのことだったが、この一週間でそこはクリア出来た」
つまり、この一週間が俺の為人を見極めるためのお試し期間であったということだ。
宰相様に始まってジェフ先輩とバイオレット嬢、そしてポテト男爵は全員がグル。
騙されたとは思わないが、少しも気付かなかった自分に驚く。
俺は調査員としては、まだまだだったなと、少し落ち込む。
「お前がどうしてもパン屋で働きたいというなら、俺は歓迎する。
とことんこき使ってやるからな。
しかし、その場合、お前が結婚できる可能性は限りなく低くなるぞ」
今更、何を優し気に言ってるんですかという気はするが、確かに、調査員の身分をぶっちゃけられる相手は、なかなか見つからない。
ジェフ先輩の奥さんは元調査員だから、その辺の苦労は無いのだ。
たった今、自分の力不足を自覚した俺である。
無事、婿入りとなっても、気が緩んで機密を漏らす可能性は無くもない。
バイオレット嬢は非常に魅力的なので、俺はうっかり、思わぬことを口走るかもしれない。
「ポテト男爵家で俺の本業を疑われたりしたら、どうするんです?」
「ふふふ、そこは心配無用なんだ」
「?」
「ポテト男爵は、宰相様の学生時代の親友。
全てご存じで、俺がパン屋を開く時も協力して下さった」
「なんと……」
男爵領にも、なかなかの機密があった。
「調査員として働く場合、パン屋の見習いなら小回りが利くだろう。
一方、男爵家の婿となれば視野が広くとれるだろうな。
どっちがいいかな?」
選択肢はあって無いようなもの。
俺がパン屋の見習いを選べば、いつか、別の誰かが婿として来るのだ。
そうしたら、俺はパンの配達をしながら、そいつと仲良くするバイオレット嬢を指をくわえて見ることになる。
「一つだけ、訊いておきたいのですが」
「何でしょうか?」
婚約の話は進み、俺はそのままポテト男爵領に居座っている。
うじうじしていてもしょうがないので、小さく心に引っかかっていることをバイオレット嬢に訊ねた。
「次期辺境伯のアーサー様のことは、どう思われているのでしょう?」
「そうですね、見目の良い方ですし、幼い頃に少しは憧れたこともあります。
でも、わたしはこの男爵領が好きですし、子供たちの面倒を見ていきたいので、それを手伝ってくれるお婿さんしか要りません。
貴方は子供たちを一人ずつの人間として接してくださいますし、牛の世話も嫌がりませんし。
それに、お昼寝してらっしゃるところを起こした時のお顔が……とても可愛らしかったですし」
彼女の頬が少しだけ赤く染まる。
つられて俯きそうになった顔を、慌てて上げる。
「不束者ですが、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
二人でもじもじすることしばし。
いい感じに近づけそうな気がしたのだが……
「トム兄ちゃん! 子牛が逃げ出した!」
ボビーが呼びに来た。
「……おお、すぐ行く!」
俺はバイオレット嬢と笑顔を交わし、子供たちの後を追いかけた。
その後、正式に男爵令嬢の婚約者となった俺の現地での初仕事は、次期辺境伯殿の見合い相手探しだった。
国境の辺境伯家に嫁ぐ女性となれば、国防にも関わるからだ。
彼は多忙のために嫁探しの暇が無いようで、調査員の出番となったのである。
一応念のため、バイオレット嬢のことを訊いてみたら、こう返された。
「バイオレットはいい子だが、私の好みはツンデレ美女だ」
安心した俺は『お任せあれ!』とばかり、宰相様の協力を得て条件にピッタリのご令嬢を探し当て、彼の見合いを御膳立てしたのだった。