ささやかな願い
私は旅館の広い浴場で1人湯船に浸かっている。
広い湯船を独占するのは終わりのようだ。
浴場と脱衣場を分ける引き戸が脱衣所側から開かれ、親子らしい男性と小学校低学年位の男の子が浴場に入って来た。
男の子は広い浴場の半分以上を占める湯船を見て歓喜の声を上げ、かけ湯する事も無く湯船に飛び込んだ。
しぶきが私の顔を直撃する。
注意しようと声をかけようとしたら男性が子供を怒鳴りつけた。
「止めなさい! 他のお客さんの迷惑になるだろう」
「え? だって誰もいないから飛び込んだんだよ」
男性は広い浴場を見渡してから首を傾げた。
「あれ? 脱衣場に先客の服があったんだけどな。
おかしいな? 本当に誰もいないな」
男性の言葉を聞き私が見えないのかと湯船から立ち上がろうとした時、私自身の身体が透明になっていて見えない事に気が付く。
私は親子が驚くのを無視し、歓声を上げながら湯船から飛び出て浴場と脱衣場を分ける引き戸を開け、駆け出した。
脱衣所から廊下に飛び出て家族がいる部屋まで全力で走る。
部屋の中に飛び込み奥側の座敷の襖を開く。
座敷の中には美しい妻と妻にそっくりな可愛いい顔をした2人の娘がいた。
妻と2人の娘は呆気にとられた表情で私の方を凝視している。
凝視してくる家族に声をかけようとした時、火災報知器の警報ベルが鳴り響いた。
ジリリリリー!
警報ベルの音を聞いて私はハッと身体を起こして周りを見渡す。
え? ハァー……夢かぁー……、頭上に腕を伸ばし目覚まし時計のベルを止める。
目覚まし時計のベルを止めたとき隣から妻の眠そうな声が聞こえて来た。
「もう朝なのー? 眠いー」
妻の髪を撫で顔にキスをして声をかける。
「いいよ寝ていて、今日は日曜だから僕が朝食を作るよ」
「ありがとう……」
妻は一言そう言うと夢の世界に戻って行った。
ベッドから降り着替え、妻の眠りを邪魔しないように足音を忍ばせて廊下に出る。
出た途端、私は何かと衝突した。
「キャ! 痛いなぁ。
お父さん! 急に出て来ないでよ」
「その声は香織か? 中学生にもなって素っ裸で家の中をうろついているのじゃ無い!」
私は点々と水滴が浮かんでいるだけの空間に向けて怒鳴りつけた。
「えぇー、でもお姉ちゃんも裸だよ」
そう言われて風呂場がある方に目を向けると、人の頭の高さぐらいの所にタオルが広がり左右に動きながらこちらに近寄って来る。
「し、詩織! 高校生にもなって何をやっているのだ! 」
「いいじゃん、誰かに見られる訳じゃないし」
「そういう問題じゃ無い! 女の子のた……」
続けて娘たちに小言を言おうとしら妻の怒鳴り声で途切れる。
「ウルサーイ! 廊下で大声を上げないでちょうだい、寝られないじゃないのよ 」
声のした方を見ると、胸の部分が形良く盛り上がったTシャツとショーツが宙に浮かんでいた。
「ごめん、ごめん、寝ていていいよ」
「目が冴えちゃたわよ」
「お母さんには言わないの? 」
「お父さんって、お母さんにだけは甘いんだよね」
「分かったから、メイクをして服を着てきなさい」
「「ハーイ」」
「ほら、君も。
皆んな着替えている間に朝食の用意を整えておくから」
「お願いね」
胸の部分が形良く盛り上がったTシャツとショーツが傾き、私の頬に妻の唇が触れる感触があった。
これで皆さんにもお分かりになったと思いますが、私の家族は透明人間なのです。
妻の一族が透明人間で娘たちはその血を受け継ぎ、透明人間として生を授かりました。
透明人間同士はお互いを見る事が出来るのですが、私は妻の顔どころか娘たちの素顔を一度も見た事が無いのです。
夢オチかと皆さんはお笑いになった事でしょうけど、私にとっては笑い事ではありません。
何時か私自身も透明人間になり家族の素顔を見ながら会話を楽しみたい、それが私のささやかな願いなのです。