結婚したくない令嬢・7
だが結局、フランチェスカはシドニア領に到着早々に昏倒してしまい、体調を取り戻したのは三日後のことだった。
「旦那様は今朝から領内の視察に行っておりまして。フランチェスカ様にご挨拶ができないことを代わってお詫びいたします」
午後のお茶の時間、ダニエルと名乗る家令がフランチェスカの部屋にやってきた。その声を聞いてフランチェスカが押しかけて来た時に、部屋を用意してくれた男性だと気が付いた。
年のころは五十代前半くらいか。綺麗に整えた銀色の髪と思慮深い灰色の目をした痩身の男である。眼鏡の奥の瞳はやんわりと微笑んでいるが、どこか底が知れない雰囲気があった。
(タダ者ではなさそうね)
フランチェスカはそんなことを考えながら、にっこりと微笑んだ。
「到着早々、ご迷惑をおかけました。もうすっかり元気になったので、結婚式の準備を進めてください」
「結婚式ですか……」
その瞬間、ダニエルのニコニコ顔が若干引きつる。空気を仕切りなおそうとしているのか、白い手袋をはめた指で眼鏡をクイッと持ち上げた。
「気になることがあれば、どうぞ遠慮なく話してください、ダニエル」
そう水を向けると、彼は思い切ったように息を吐き、それから目を伏せる。
「実は旦那様にはご結婚の意志がなく……フランチェスカ様のことも、静養いただいた後は王都にお戻りいただくようにと」
「帰りません」
フランチェスカはきっぱりと言い切る。
「――」
ダニエルが笑顔のまま凍り付いた。
「私はこの地で一生を終えるつもりで来たのです。それにもう、今更帰れないわ。いさましい軍人でいらっしゃる中将閣下に到着早々返品されるなんて、どんな恐ろしい女なんだって笑いものになってしまうもの。そうでしょう?」
「ふふっ」
フランチェスカの気安い冗談がツボに入ったのか、ダニエルは笑みをこぼし、それから慌てたように表情を引き締める。
「ではフランチェスカ様は、どうしてもあの方と結婚されるおつもりなんですね?」
「ええ」
フランチェスカはにっこりと微笑んだ。
「たとえ旦那様がそれを望んでおられないのがわかっていても?」
「――」
その瞬間フランチェスカの笑みは凍ってしまった。
さらにダニエルは言葉を続ける。
「旦那様には、今まで数えきれないほどの縁談が舞い込みました。この地を治め人々の暮らしを守り続けてきたのは旦那様です。王都でなんと言われようとも、娘や孫を嫁がせたいという有力者は多くいましたからね」
ダニエルは中指で眼鏡を押し上げると、軽く目を細めた。
「だが結局、旦那様は誰ひとり選ばれなかった。お気を悪くしないでいただきたいのですが、そんな旦那様に、あなたが選ばれると思いますか?」
あなたが『選ぶ』のではない。
選ぶのは我が主君だと、ダニエルははっきりと言い切ったのである。
彼の灰色の瞳は冷静にフランチェスカを品定めしている。
フランチェスカが頭に血をのぼらせ、『無礼』だと叫べば、もう二度と自分の話を聞いてはくれないだろう。
(この人やっぱり……すごいわ)
その瞬間、フランチェスカは心を決めた。
(嘘で誤魔化しても、きっとすぐに見抜かれる。だったら本音を打ち明けるしかない)
フランチェスカはすうっと大きく息を吸って、それから力強くうなずいた。
「マティアス様が結婚を望んでおられないのは、これまで散々断られて十分身に染みてわかっています。でも私も、それなりの覚悟を持って押しかけてきたんです。帰るつもりはありません。あの方に認めてもらえるよう、努力します。だからダニエル、あなたには私を信じて味方になってほしい。――お願いいたします」
そしてフランチェスカは、深々と頭を下げた。
その瞬間、彼は少し驚いたように眼鏡の奥の目を見開く。
それもそうだろう。貴族は使用人に頭を下げたりしない。
だがフランチェスカは普通の貴族令嬢ではない。幼いころから世界中の本を読みさまざまな価値観に触れ、それを認める家族と共に過ごし、大事なのは身分ではなく、その人がどう生きたかであると、根っこに染みついている。
身分がどうあれ、お願いする側が誠意を見せないで人の心を動かせるはずがない。
「――そうですか」
フランチェスカの答えを聞いて、ダニエルはほんの少し表情を緩めた。
それから数秒、彼は視線をさまよわせた後、
「畏まりました、フランチェスカ様。お手伝いいたしましょう」
思い切ったように、はっきりと言い放った。
「ダニエル!」
フランチェスカの顔がぱーっと明るくなる。
ダニエルはどういたしまて、と言わんばかりに軽く肩をすくめる。
「本音を言えば、周りから『結婚しろ』と言われても、忙しさを理由に断っていた旦那様なので、今回の結婚は『勿怪の幸い』だと思っていたのです。今後のことはお任せください」
そしてダニエルは胸に手を当てて一礼し、それから部屋を出ていく。
黙って背後に立っていたアンヌが、どこか疑わしい顔でフランチェスカの顔を覗き込んできた。
「あの人、味方になってくれますかね? 結構強烈でしたよね。とても貴族に使える側の人間には見えなかったんですけど」
自分のことを棚に上げて、アンヌが眉を顰める。
「そうなってくれればいいなと思ってるわ。だってすごく優秀でしょう」
「寝込んでおられたのにそんなことがわかるんですか?」
「三日間寝ていても十分把握できたわ」
そしてフランチェスカは椅子からぐるりと、フランチェスカに与えられた部屋を見回す。
シドニア領主の屋敷は、想像よりずっと洗練されていた。
王都では野蛮なケダモノのように言われていたが、屋敷内は非常にシックで落ち着いたたたずまいだ。
若草色の絨毯に、薄いすみれ色の小花柄の壁紙。マスタード色のカーテンはドレープが美しく見えるように寄せられている。部屋の隅に置いてある書き物机やガラスの花瓶にはほこりひとつ浮いていない。窓の外から見える中庭では、庭師がよく手入れをしていて、冬にもかかわらずフランチェスカが見たこともない緑の花が美しく咲き誇っていた。
あれはこの土地に来る途中に見た、不思議な低木だ。
フランチェスカはなんでも王都が一番で、王都にないものはないと思っていた。
だが本当は違う。辺境とも言われていたこの土地にも、ここでしか見られないものがきっとたくさんあるのだろう。
「急に押しかけてきたのに、使っていない部屋がとても清潔に保たれていた。食事だって素朴だったけどとても丁寧な仕事だったわ」
大麦のミルク粥に林檎、野菜が柔らかく煮込まれた温かいスープと絞りたてのフレッシュジュース。体調を気遣って比較的消化のいいものを作ってくれたのだろう。出されたメニューはどれも食べやすいものばかりだった。
「確かに……洗濯物にはいつもぴしっとアイロンがかかってますしね。暖炉も煤ひとつついていませんよ」
アンナがうんうんとうなずく。
家令はその家の資産管理や使用人を束ねる事務方のトップだ。屋敷がうまく運営されているのは、ダニエルが非常に優秀な男という証拠になる。
「家令が十分自分の力を発揮できているのなら、それはマティアス様がいい主人だってことよ。私、あの方と結婚します」
未だに夫になる人に会えていないのだが、フランチェスカの気持ちはもう完全に結婚に向けて傾いていたのだった。