素直な心で、ふたり寄り添えたなら・5
「フランチェスカ。迎えに来た」
少し照れくさそうに手を伸ばすマティアスを見て、フランチェスカはここが『鏡の間』だということを忘れ、全速力で走り、夫の腕の中に飛び込んでいた。
「マティアス様!」
会いたくてたまらないのに、帰ったらあとはもう別れ話をするしかないのだと思うと、辛かった。
だが今は違う。
『迎えに来た』という言葉を聞いた瞬間、やはり自分はこの人と離れられないとはっきりとわかった。
どうして皇女様と一緒にいるの?
帰ると伝えていたのに、なぜわざわざ迎えに来てくれたの?
聞きたいことはいっぱいあるのに、言葉が何も出てこない。
おでこをグリグリと押し付けていると、背中に回した腕で強く抱きしめられる。
そしてマティアスが耳元でささやいた。
「先に言わせてくれ。俺には妻子などいない」
「えっ?」
ビックリして顔をあげると同時に、フランチェスカの頬にマティアスの大きな手がのる。
緑の瞳がすぐ目の前にある。このまま吸い込まれてしまいそうだ。
「俺はずっとひとりだった。ひとりでいいと思っていた。だがあなたに出会って……愛してしまった」
「――」
驚きすぎて頭が真っ白になる。
(今、あい……? 愛してしまったって言われたような……いや、そんなまさか……でも……)
きょとんとしたフランチェスカを見てマティアスは苦笑するように微笑むと、頬を撫でる。
「フランチェスカ、君を愛している。君を失いたくない。いや……俺を手放さないでくれ」
マティアスはそう言って、まるで眩しいものを見るように目を細めた。
それはずっと夢見ていたマティアスからの愛の言葉だった。
「~~っ……」
フランチェスカの青い瞳から涙がこぼれ、声にならない想いが、嗚咽になって唇から溢れる。
「ほんとう、ですか!?」
信じてもいいの?
あなたが私を思ってくれていると、信じてもいいの!?
フランチェスカの体が、心が、震え叫んでいる。
「フランチェスカ。俺が臆病なばかりに、あなたに余計な気苦労を与えた。すまなかった」
「――ッ……」
無我夢中でしがみつくと、それ以上の力で抱きしめられた。
このまま死んでもいい――大げさでも何でもなく本気でそう思う。
マティアスは声を押し殺して泣くフランチェスカの背中を優しく撫でると、それから背後を振り返って皇女マリカと王太子レオンハルトに一礼した。
フランチェスカの態度に、白騎士が間違いなく『マティアス・ド・シドニア伯』だと皆がようやく理解したようだ。
「あ、あのっ、皇女様、発言をお許しください……その、なぜシドニア伯を帝国の騎士としてお連れになったのですか?」
この場にいる貴族たちを代表したのだろう、最初に口を開いたのはカールだった。
それもそうだ。王国貴族にとってマティアスは自分達より『下』なのである。
なのに彼は胸に帝国から与えられた勲章をつけ、皇女のエスコート役として姿を現したのだから、王国貴族が混乱するのは当然だった。
それを受けてマリカは小さくうなずき、それからレオンハルトのエスコートで中央の席の前に立ち『鏡の間』を見回した。
「王太子殿下。親愛なるアルテリア王国の皆様に、私の騎士であるマティアス・ド・シドニアを紹介する時間を頂戴できますか?」
マリカは隣に立つレオンハルトに問いかける。
「勿論です、マリカ」
「ありがとうございます」
それからマリカは、立ち尽くすマティアスとフランチェスカにちらりと視線を向けた。
「私が初めてマティアス様にお会いしたのは、今から八年前です」
その言葉を聞いて、フランチェスカは目を丸くする。
(どういうこと……?)
緊張で体を強張らせるフランチェスカをなだめるように、マティアスは無言で肩を抱く。
その手は慈しみに満ちていて、何も言わずとも『大丈夫だ』と言われている気がして、フランチェスカはゆっくりと息を吐き、皇女の次の言葉を待った。
「当時の私は十歳の少女で、土砂降りの雨の中、馬車を走らせていました。行く先は、アルテリア王国の王都の外れでひっそりと暮らしていた、かつての乳母の家です。彼女は私にとって実の母のような存在でした」
「あ……」
皇女の言葉を聞いてフランチェスカは目を見開く。
カールから以前『今は亡き乳母がアルテリア出身だったことで、幼い頃から我が国に親しみの感情を抱いてくださっていたらしい』と聞いたことを――。
「乳母が死の間際にあると聞いていてもたってもいられなくなった私は、側近の者を連れて帝都を抜け出しアルテリア王国に向かったのです。ですが折からの豪雨のせいで馬車の車輪が外れ、立ち往生してしまった。このままでは乳母に会えないかもと絶望していた時、声をかけてこられたのが、マティアス殿でした」
マリカは少し懐かしそうに目線を持ち上げる。
「それまで我々は、多くの貴族や商人に助けを求めましたが、身分を明らかにしない私たちを不審に思い、応じてくれる人はいませんでした。そんな中、彼は当たり前のように馬車を降りてきて、我々が困っていることを知ると、その純白の儀礼服を泥まみれにして馬車をぬかるみから押し出し、助けてくださったのです」
そしてマリカは今度は申し訳なさそうに目を伏せる。
「本来であれば、お助けいただいた時に身分を明らかにするべきでした。ですが当時の私はそこまで頭が回らず……供の者たちも、同盟国とはいえ、他国に帝国の皇女がいることを知られてはいけないと、秘密にしてその場をあとにしました。帝国に戻ってしばらくして、ようやくそのことを思い出した私は、助けてくださったあの方の行方を方々で探させたのですが、ずっとわからないままで……。このまま一生、恩知らずとして生きていくのかと悩んでおりました」
そしてマリカは今度は、フランチェスカにその目線を向けた。
「ですが、奇跡が起きました……。私が必死の思いで手に入れた、大好きな作家が書いた脚本に、その方のことが書かれていたんです……! 八年前、叙勲の儀に泥だらけで姿を現したという――マティアス・ド・シドニア閣下のことが……!」
それまで半ばぼんやりと夢うつつで話を聞いていたフランチェスカは、『大好きな作家が書いた脚本』と聞いて、我が耳を疑った。
(えっ……えっ……?)
今、皇女マリカがものすごいことを言わなかっただろうか。
(大好きな作家って……まさかBBのこと? 皇女殿下が私の読者ってこと!?)
本人に確かめたいが、さすがのフランチェスカも空気を読んだ。必死に言葉をのみ込みつつ、肩を抱かれたままマティアスの背中を抱きしめる。
「アルテリア貴族の皆様、ご理解いただけたでしょうか」
マリカはキラキラとした笑顔になり、驚いて声ひとつあげられない王国貴族を見回した。
「八年前のこの出来事がなければ、私は帝国を離れアルテリア王国に嫁いで来ようとは思わなかったでしょう。レオンハルト様とご縁を結ぶこともなかった。ですから私は王都に入る前にまずシドニア領に向かい、そして彼に勲章を授け一時的に私の……帝国の騎士になっていただきたいと、お願いしたのです」
そして彼女はドレスの裾をつまみ、
「シドニア伯。あなたにはこれからも、アルテリア貴族の見本となって頂きたく存じます」
と、マティアスに向かって優雅に膝を折ったのだった。
皇女マリカの堂々たる告白に、貴族たちは痺れたように言葉を失い、その場に立ち尽くしていた。
八年間、自分達がバカにし続けてきた男が、この国にどれほどの利益を与えたのか。
そしてたった今、マティアスがこの国で最も賞賛に値する人物だということに、ようやく全員が気づいたのだ。