素直な心で、ふたり寄り添えたなら・4
フランチェスカが逃げるように執務室を出て行く後姿が、二日たっても頭から離れない。
「我ながら、未練がましいな……」
マティアスはため息をついて、執務室で天井を見上げていた。
たった二日仕事をさぼると事務処理はたまる一方で、ルイスから『大将、しっかりしてくれよ』と注意を受けたばかりだったがとにかくやる気が出てこない。
『シドニア花祭り』が延期になったことで、フランチェスカはお芝居のために戻ってくることになった。だがその時にはもう王太子妃のつきの女官という立場になっていて、マティアスには手の届かない存在になっているはずだ。
『シドニア花祭り』の延期に関しては、この件に関わる全ての領民のためだと胸を張って言える。
だが芝居を中止にしなかったのは、マティアスの未練だ。
フランチェスカと向き合える最後のチャンスだと思うと、その機会を失うわけにはいかないと思ってしまったのだ。
「はぁぁ~……」
長い足を組み替えて、デスクの上にドン、と乗せる。行儀が悪いのはわかっているが誰も見ていないのでヨシとする。
「――出かけるか」
このまま執務室にこもっていても、気持ちは落ちていくばかりである。
マティアスは勢いよく立ち上がると、街の見回りをすることにした。
復旧作業中の中央広場は活気に満ちていて、かすかに焦げ付いた匂いは残っているが、火事の名残はほぼ消えている。いつまでも落ち込んではいられないと皆が頑張ってくれているおかげだ。
「あっ、領主様だ!」
マティアスの姿を発見した領民たちが、パッと笑顔になって駆け寄ってきた。
「なにか困ったことはないか?」
マティアスの問いかけに、壮年の男が代表して答える。
「ルイスさんがちょくちょく顔を出してくれますんで」
「そうか。なにか不自由があったらいつでも言ってくれ」
「奥様は今、王都に行かれてるんですよね? いつ戻ってこられるんでしょう」
「祭りの前には戻ってくる」
マティアスの返事に、男はホッとしたように胸に手をあてた。
「実はうちのばあさんが、奥様にお助けいただいたらしいんです。あんな優しくてきれいな人はいないって、すっかりファンになっちまって。絶対に直接お礼を言うんだって、張り切ってるんですよ」
あの火事の夜。マティアスはダニエルと一緒に、消火活動と現場の指示にかかりきりになっていた。もちろん屋敷にいるフランチェスカのことは気になったが、使用人たちもいるし部屋にこもっていれば大丈夫だろうと後回しにしていた。
だがその後の使用人たちの報告によると、フランチェスカは火事のことを知るや否や、馬車を出すように指示して、屋敷を避難所として開放したという。そして休むことなく、朝まで治療に駆けずりまわっていたらしい。
消火活動が落ち着いた明け方、屋敷に戻ってフランチェスカの姿を発見した時は、衝撃を受けた。
煤と汚れでボロボロだったが、呼びかけに振り返ったその瞳は一等星のように光り輝いていた。彼女は驚いたように目を見開いた後、フラフラの足どりにもかかわらず、必死に駆け出してこちらに向かってきた。
両腕を伸ばし駆けてくる彼女を、マティアスも抱きしめたくて前のめりになっていた。
『フランチェスカ!』
『マティアス様!』
ずっと気を張っていたのだろう。気丈に振舞っていたフランチェスカが、マティアスの無事を知り泣き出したのを見て、マティアスは彼女を愛しいと思う気持ちを抑えられなくなった。
彼女の陶器のような肌はあちこち煤で汚れていたが、その汚れさえ愛おしく感じた。
(俺はもう、彼女以上に愛せる人には出会えないんだろうな)
それを寂しいと思うのか、幸せと思うのか――。
たぶんマティアスは後者だ。誰も愛せないと思っていた自分が出会えた奇跡が、フランチェスカなのだろう。とはいえ、今更もうどうしようもないのだが。
「マティアス様~! だっこ~!」
手を引っ張られて下を見ると、足元に小さな女の子と男の子の兄妹が立っていた。物おじしない人懐っこさからして、商店の子だろう。
「少しの間だけだぞ」
子供たちをふたりいっぺんに抱き上げると、「きゃーたかい~!」と歓声をあげる。
「お前たちの家はどこだ?」
「あっちのパン屋!」
兄らしい小さな男の子が通りの向こうを指さす。
「わかった」
どうせならそこまで連れて帰ってやろうと歩きだしたところで――。
「旦那様……!」
と背後から呼び止められた。
「ん?」
振り返ると、お使い途中らしいアンナが立っていて、紙袋を抱えたままプルプルと震えている。
なんだか様子がおかしい。マティアスを見る目は怒りを抑えているような、非難がましい光を宿している。
「どうした?」
「っ……旦那様の……お子様、ひとりじゃなくて、ふたりだったんですねっ……」
「――は?」
一瞬なにを言われたかわからず、マティアスは首をかしげる。
「黙ってましたけど、やっぱりひどい、ひどすぎますよっ……! 子持ちなら子持ちって言ってくれないと! もうっ、お嬢様の純情を返してくださーいっ!」
「え、は……はぁぁぁ!?」
血相を変えて叫ぶアンナの声に、マティアスはよその子を抱いたまま、立ち尽くすのだった。
子供たちをパン屋に送った後、マティアスは半ば茫然としながら公舎へと戻った。
「――いや……まさかそんなことになっていたとは」
気分転換で出かけたはずが思ってもみない展開になり、マティアスはまた先ほどと同じように天井を見上げなら、アンナとの会話を思い出していた。
『愛人なんて俺がもつはずがないだろう。子供までいるならなおさら責任を取る』
『貴族は普通にするんですよ……。平民の愛人に子供を産ませるのもよくあることなんです』
アンナの言葉にマティアスは「はぁ……」とため息をついたが、アンナはひとしきり興奮した後、なにかを思い出したかのように急にソワソワし始めた。
『でも、愛人もお子様もいらっしゃらないとなると……』
『なんだ』
『いえ、なんでもっ』
アンナは浮ついた表情で『お嬢様にはもうひと頑張りするチャンスがあるってことですよね……よしっ』とマティアスには聞こえないほど小さな声でつぶやいて、公舎の近くで辻馬車を拾い、元気よく屋敷へと戻っていった。
残されたマティアスは訳が分からず、あっけにとられるばかりである。
(そうか……フランチェスカは俺に妻子がいると思っていたのか……)
そんなばかな、と思うが、そもそも自分たちはお互いのことを本当に何も知らない。
彼女が嫁いできてから『シドニア花祭り』の準備もあり、朝から晩まで仕事で、一緒に食事すらとれない日々がほとんどだった。
しかも『白い結婚』でベッドも別である。彼女にはできる限り誠実に接したつもりだが、己の弱さを隠したまま、本音をぶちまけることもなく、夫婦とは名ばかりの関係だった。
ふと、フランチェスカが旅立つ前に口にした言葉を思い出す。
『「シドニア花祭り」があるだけじゃなくて……私が、このままさよならなんて、嫌なんです。あなたの時間を、少しだけでいいので貰えませんか』
思いつめた表情でフランチェスカはそう言った。
「俺だって、嫌だ……」
そう、嫌だった。このままさよならなんてしたくない。
彼女が好きだ。諦めたくない。
もっとフランチェスカのことを知りたい。
本以外になにが好きなのか。
お気に入りの場所。好きな言葉。花。
フランチェスカの心を豊かにする、ありとあらゆることを知って、彼女のために尽くしたかった。
だがマティアスは『礼儀を知らぬ野良犬』だ。
(せめて俺が、彼女の足を引っ張らないような男だったら……)
一度悪意をもって広まった己の不名誉はどうしようもない。
己の過去の行いに後悔は微塵もないが、そのせいでフランチェスカが一生貶められることになるのなら、身を引くしかない。
そうやってぼんやりしていると、ドアがノックされダニエルが珍しく緊張した様子で姿を現す。
「旦那様、お屋敷にお客様がおいでになりまして。お連れいたしました」
「客……?」
いったいどこの誰だと思いつつ、マティアスは椅子から立ち上がり、異様な雰囲気の客の姿を見てその場に立ち尽くした。
「誰だ……」
思わず声が低くなった。
それもそのはず、部屋の中に入ってきたのは、どこかただ人ではない雰囲気を持つ四人の旅装の男と、彼らに守られるように中心に立つ小柄な女性だった。
咄嗟に身構えるマティアスに向かって、
「――お久しぶりです。ようやくあなたに会えました」
女性は頭からかぶっていたフードを外しながら、にこやかに微笑んだのだった。