素直な心で、ふたり寄り添えたなら・3
そうだ、こんなことでいつまでも我慢するなんて、どうかしている。
これまでほぼ人生を諦めていたから、なにが起こっても『まぁ、仕方ないかな』で済ませていた自分だとは思えないくらい、腹が立っている。
ちなみに目の前に座ったジョエルが「はぁ……えらいことになった……」と額に手を当ててうつむいているが、それは見なかったことにした。
「まずは私の夫への侮辱、取り下げていただきたいですね! 謝ってくださいっ!」
フランチェスカは目に力を込めて、公爵夫人をにらみ返す。
「まぁっ、まぁっ……! なんて非常識な娘でしょう!」
「非常識なのはそちらですわ~! どこの世界に姪の夫を侮辱していいという常識があるのかしら~!」
やぶれかぶれともいう反抗的な姪の態度に、公爵夫人は全身をわなわなと震わせて卒倒寸前だ。そこでようやく我に返ったカールが、耳まで真っ赤にしながらフランチェスカを指さし席を立った。
「衛兵! フランチェスカの頭を冷やさせろっ!」
「っ……!」
どうやらフランチェスカはつまみ出されることになったようだ。
だがこれ以上マティアスを侮辱されるのは我慢ならなかった。
(ふんっ、上等よ!)
覚悟のうえで唇を引き結んだ次の瞬間、
「静粛に!」
朗々とした声とともに、ゆっくりとドアが開く。
その凛とした声に、騒然としていた『鏡の間』に静けさが戻った。
そう――先頭を切って部屋に入ってきたのは王太子レオンハルトだった。美しい黒髪と同じ漆黒の瞳をもつ彼は、部屋の中をぐるりと見回す。
「っ……」
その鋭い視線に射貫かれフランチェスカの全身が強張る。
だがそれはカールも同じだったらしい。フランチェスカに向ける眼差しは厳しかったが、唇を引き結んでこらえているようだった。
「ロドヴィック帝国第二皇女、マリカ・マリーナ・ヴァロア・ロドヴィック殿下の御前である」
さすが王太子とでもいうのだろうか。年はカールと同じはずだが、ただならぬ威厳がある。
王太子の重々しい声に、おかしな雰囲気に包まれていた『鏡の間』はあっという間に平静を取り戻す。
貴族たちは王太子を迎え、一斉に椅子から立ち上がった。
男性は頭を下げ女性はカーテシーを。フランチェスカも右に倣って軽く膝を曲げた。
(あの方が……皇女殿下……?)
それから王太子とともに、淡いベージュのドレスに身を包んだ小柄な女性が、目の覚めるような純白の軍服に仮面をつけた長身の騎士に手を取られ、しずしずと部屋の中に入ってきた。
波打つ淡い栗色の髪に理知的な紅茶色の瞳。体はほっそりと小柄だが、その眼差しは凛と強く、気品がある。フランチェスカと同い年と聞いていたがさすが大帝国の姫君だ。
そしてその隣にいる騎士も、まるで大樹のように堂々としていてただならぬ迫力があった。
「ねぇ……。あの隣にいらっしゃる騎士様はどなたかしら」
その姿を発見した貴族の夫人が、少し弾んだ声で問いかける。
「皇女殿下の嫁入りに際して選ばれる騎士ではないか」
「あれが! なんと立派な……」
「さすが堂々としておられる」
貴族たちは思わず感嘆の声を漏らす。
まるで一枚の絵のように美しいふたりに、誰もが目を奪われて呼吸するのを忘れているようだった。
なるほどあれが噂の『帝国一の騎士』らしい。
(確かにちょっと素敵かも……)
緊迫した状況のはずなのに、思わずそんなことを考えて、フランチェスカはハッと我に返った。
(なにを考えているのかしら! 私はマティス様一筋なのにっ!)
慌てて表情を引き締めていると、
「アルテリア王国の皆様、初めまして。マリカ・マリーナ・ヴァロア・ロドヴィックです」
マリカ殿下はニッコリと微笑みながら名乗りをあげ、それから隣に立っている騎士を見上げた。
「そしてこちらが私のもっとも信頼する騎士――マティアス・ド・シドニア閣下です」
その名が皇女の口から出た次の瞬間、『鏡の間』が水を打ったように静かになった。
マティアス・ド・シドニア。
ここにいる王国貴族で彼の名を知らない人間はいないだろう。
かつてアルテリア王女から叙勲の名誉を与えられながら、儀式に泥だらけで出席し、大遅刻してきた男。
『礼儀知らずの野良犬』とさげすまれた男が、なぜか帝国の姫君と一緒にいる。
しかもその胸に帝国の勲章を掲げて――。
なにかの間違いではという空気が流れる中、フランチェスカは茫然と、白衣の騎士を見つめた。
「え……?」
これはいったいどういうことだ。会いたいと思っていたから、都合のいい夢でも見ているのだろうか。
いや、そもそもなぜ『帝国の騎士』になっているのだ。訳がわからない。
言葉を失って茫然と立ち尽くすフランチェスカだが、白騎士は顔を覆っている仮面を片手でつかんでゆっくりと外す。
その途端、後ろになでつけていた赤毛がはらりと額に落ちる。仮面の下から現れたのは、確かにフランチェスカが愛する夏の緑のような瞳で――。
「フランチェスカ。迎えに来た」
どこか少し照れくさそうに彼は笑った後、フランチェスカに向かって手を伸ばしたのだった。