燃える夜・5
結局『シドニア花祭り』は二週間の延期となった。
「中止にはしない。こんなことがあったからこそ、希望は必要だろう」
火事から数日後、執務室に関係者を集めたマティアスは、全員の前ではっきりとそう宣言した。
(よかった……)
その言葉を聞いて、フランチェスカは涙をこぼした。いや、その場にいた全員が目に涙を浮かべていたのではないだろうか。
「全焼したのは中央広場に建設途中だった大型テントと、出店予定だった仮設店舗が十五。火災が発生したのが深夜だったこともあって、広場に人はいなかった。不幸中の幸いで死傷者はいない。大丈夫だ。俺たちはやり直せる」
それからマティアスは落ち込んだままの商会のメンバーや役人たちをひとりひとり励まし、二週間後の復旧スケジュールを改めて組むように指示を出した。
燃え尽きた広場を見て落ち込んでいたテオも、やる気を取り戻したようで、
「これだっていう目標があれば、また頑張れる気がします」
と、笑顔を浮かべて公舎をあとにした。
執務室にはルイスとダニエルが残っている。
ダニエルがお茶のお代わりをカップに注ぐ横で、ルイスが神妙な顔をして口を開いた。
「――調べた結果、出火元はテントの裏の資材置き場でした。テント然り、出店は全て木造だったのであっという間に燃え広がったようです。幸い住宅にまで被害が広がらなかったこと、貯水槽として設置していた中央広場の噴水のおかげで、被害が広がらなかったことはよかったんですが……」
言いにくそうに口ごもるルイスの反応を見て、フランチェスカはまさかと思いつつも問いかける。
「資材置き場から火が出たって……。そ、それって、放火ってことですか?」
フランチェスカの疑問を拾い上げるように、マティアスは頬杖をついたまま、顎のあたりを指で覆った。
「十中八九放火だろうな。ルイス、調べられるか」
「はい。口の堅い奴を選んでこっそりやります。放火の可能性なんか聞いたら、街のやつらが怖がっちまいますからね」
ルイスはうなずくと、いつもはヘラヘラしている表情を引き締めて立ち上がり、ダニエルと一緒に執務室を出て行った。
(嘘……放火だなんて信じられない!)
幸いにも死人は出なかったが、それは奇跡的なことだったのだ。それが誰かの悪意で行われたことだと思うと、恐怖で眩暈がする。
(もしかしたら、この悪意はまだ続くかもしれないってこと……?)
フランチェスカは紅茶の表面に映る自分の顔を見おろしながら、唇を引き結ぶ。
「――フランチェスカ」
名前を呼ばれて顔をあげると、やんわりと微笑んでいるマティアスと目が合う。
急に静かになった執務室だが、彼に名前を呼ばれて、廊下や窓の外から子供たちが遊んでいる声が聞こえてくるのに気が付いた。
公舎は現在仮の避難所にもなっていて、子供の声がするのはそのせいだが、思わぬ火災で全員がそれなりにショックを受けている今、子供の元気な姿は、かえって皆の気持ちを明るくするようだった。
「それでいつ、王都に?」
放火の可能性にフランチェスカは凍り付いてしまっていたのに、彼はいたって静かだった。
マティアスが落ち着いているのがわかると、不思議とフランチェスカの不安も少しだけ小さくなる。
(そうよね、怖がっても仕方ない。マティアス様ならきっと解決されるし対策も練るはず。不安を煽るのはよくないわ)
彼のおかげで気持ちが落ち着いた。
「今日の午後……兄が迎えに来てくれるので列車で向かいます」
三日後には皇女を迎えての晩さん会がある。そこでフランチェスカは皇女と顔合わせをすることになっている。シドニア領で火事があったことはおそらく耳に入っているだろうが、だからといって約束を破るわけにはいかない。
(きっとマティアス様は、私がもう戻ってこないって思ってる……)
胸がズキズキと苦しくなったが、これはフランチェスカが自分の意志で選んだことだ。傷つくなど本来勝手な話なのである。
「もしかしたら、私なんか早々に首になるかもしれませんけど」
余り深刻な雰囲気にしたくなくて、フランチェスカはおどけたように肩をすくめた。
だがマティアスはそれを聞いて真面目な顔で首を振った。
「そんなはずはない。あなたならきっと、皇女殿下のお眼鏡にかないます」
不思議とお世辞とは感じなかった。
そう――マティアスは自分の言葉に責任を持ってくれる人だ。
(やっぱり、好きだわ)
諦めなければと自分に言い聞かせても、気持ちが抑えられない。
フランチェスカは顔を挙げてマティアスを見つめた。
「あの……マティアス様。私、王都で皇女様にお会いした後、帰ってきますから。その時にお話がしたいです」
「え?」
ハッキリと口にした瞬間、マティアスがかすかに息をのんだ。
(好きだなんて言えば困らせるのはわかってる。でも感謝の気持ちは伝えたい)
作家でい続けたいばかりに、貴族の妻などいらないと拒否していたマティアスに無理やり押しかけ妻になった。
彼の優しさに触れて好きになって、本当の妻になりたいと、認められたくて奮闘した。
小説を書くことだけが生きる喜びだった自分が、こんなふうに誰かを愛せるようになるなんて、思わなかった。
確かに恋は実らなかったけれど、すべての経験がフランチェスカにとって宝物には違いない。
フランチェスカは思い切ってソファーから立ち上がり、マティアスに向かって微笑む。
「『シドニア花祭り』があるだけじゃなくて……私が、このままさよならなんて、嫌なんです。あなたの時間を、少しだけでいいので貰えませんか」
切ない思いを押し殺しながら告げたその瞬間、マティアスが弾けるように椅子から立ち上がった。
「フランチェスカ! あなたは本当に素晴らしい人です。俺が今まで出会ったどんな女性よりも、あなたは……!」
緑の目が爛々と輝く。
その瞬間のマティアスには、執務机を飛び越えてこちらに駆け寄ってきそうな熱があった。
だが今のフランチェスカには、その熱は『毒』でしかない。
こちらに伸びて来そうだった腕から慌てて目をそらし、
「じゃあ、行ってきますねっ」
マティアスが足を一歩踏み出してくるのと同時に、フランチェスカはスカートの裾をつまんで、頭を下げる。
そして執務室を飛び出していた。
あのまま執務室にいたら、きっと彼の腕の中に飛び込んでいただろう。
(――顔が熱い)
ひんやりした自分の手を頬に当てながら小走りで廊下を走り抜ける。
火事のあと、マティアスの無事な姿を見て、彼の腕の中で子供のように泣いたことを思い出す。
マティアスは泣きじゃくるフランチェスカをしっかりと抱きしめて、何度も『心配をかけてすまなかった』と謝罪の言葉を口にした。
しがみついたマティアスの衣服はあちこち焦げていて、煤の匂いがして。
彼の背中に必死にしがみついて、気が付けばフランチェスカも煤だらけになっていたのだけれど、後悔はなかった。
「……また私、マティアス様のことを好きになってしまったわ」
口に出すとなんだか妙におかしくて、ふっと笑みがこぼれる。
だが同時に清々しい気分にもなった。
いい加減な気持ちで『受ける』と言ったわけではないが、皇女が自分を気に入ってくれるかどうかはわからない。
だがマティアスが大丈夫だと背中を押してくれたのだ。誠心誠意、皇女様と向き合おう。
フランチェスカは顔をあげて、まっすぐに歩き出したのだった。