燃える夜・4
「畏まりました! 門を開けろ!」
「屋敷中の清潔なシーツや毛布を集めましょう!」
一斉に動き始める使用人たちを見て、フランチェスカは今にも叫びたくなる不安をのみ込み、奥歯を噛みしめる。
マティアスのことを考えると不安で胸がつぶれそうになるが、彼は軍人だ。人生の半分以上をベッドで過ごした自分よりもずっと強い。
(あの人が死ぬわけがない! 絶対に死なない!)
フランチェスカは街の中心地へと走り出した馬車を見送り、改めて不安そうに側で立ち尽くしていたアンナの手をつかんで、ぎゅっと握りしめる。
「アンナ、今は人手がいるわ。私たちもやれることをやりましょう」
「……わかりました」
呆けていたアンナの表情も、いつもらしさが戻ってくる。
(マティアス様……私は領主の妻として、役目を果たします……!)
フランチェスカは白い無理を見つめながら、唇を強く引き結んだのだった。
それから次々と運び込まれるけが人の治療や炊き出しの手伝いが完全に終わったのは、夜がしらじらと明けた頃だった。
避難するときに転んでけがをしたお年寄りの手当てを終えたフランチェスカは、ゆっくりと立ち上がってエントランスを見回した。
屋敷内に迎え入れた領民は百人程度だ。病人は屋敷中のベッドに寝かせているが、さすがに足らないのでエントランスにも領民が溢れている。
(マティアス様は、大丈夫なのかしら。お怪我をされていないかしら……)
火事はいったいどうなったのだろう。
町の中央の方に目を凝らすが、もう家事発生時の時のような煙は見えなかった。
とりあえず消火活動が終わったのかもしれない。
避難してきた人たちから話を聞いた限りでは、火事が起こったのは公舎ではなく、その近くの広場が出火元ではないか、ということだった。彼の部下たちが率先して避難誘導や消火活動を行っていて、今のところ逃げ遅れた人はいないらしい。
だが相変わらずマティアスも、ダニエルも戻ってこない。
最悪の結末が頭をよぎるが、すぐにそれは否定した。
マティアスが死んだりするはずがない。あの人は八年前にだって、兄を助け死地を乗り越えたのだから。
(大丈夫……絶対に大丈夫……絶対に大丈夫よ。この屋敷に戻ってくるわ)
必死に自分に言い聞かせていると、
「――お嬢様」
同じくくたびれた様子のアンナが、フランチェスカの手を取り指を解きほどいた。どうやら緊張のあまり握りしめていたらしい。手のひらが爪の形に赤く染まっていた。
「考えないようにしていたの。怖くて」
面白くもないのに笑ってしまう。フランチェスカは深呼吸をしてから周囲を見回した。
「少し落ち着いたかしら」
「ええ、そうですね」
「だったら次は台所を手伝おうかしら。炊き出しが必要よね。とりあえずあたたかいスープでも……」
さすがに少し疲れたが、そんなことは言っていられない。困っている人はたくさんいるのだ。
目をこすりながらアンナと話していると、
「フ……チェ、スカ!」
開け放った屋敷の扉の向こうから、艶のある低音が響いた。
その瞬間、フランチェスカの体を貫くように稲妻が走る。
頭は依然真っ白だったが、フランチェスカはなにも考えず、立ち上がり声がした方へと転びそうになりながら走り出していた。
(うそ、嘘!)
足が震える。
膝が笑う。
(違う、嘘じゃない!)
彼の声を聞き逃すはずがない。
燃えるような赤い髪、そして大地に根付く大樹のような立ち姿が目に飛び込んできて――。
「マティアス様っ!」
喉が裂けんばかりに彼の名を呼びながら、フランチェスカは必死に前に手を伸ばしていた。
「フランチェスカ!」
馬車から降りた彼は、煤だらけの傷だらけだった。だがその緑の目は爛々と命を燃やすように輝いていた。一目見てわかった。彼は何も損なわれていないと。
「あ……ああっ……」
唇から悲鳴にならないわななきが漏れる。
フランチェスカはもつれる足を必死に前に進めながら、腕を伸ばしそのままマティアスにしがみつく。全力で体当たりしたが彼はびくともしなかった。
「あっ、ああっ……ううっ……」
腹の奥から熱いものが込み上げてきて、嗚咽となってこぼれる。目からぶわっと涙が溢れて、あっという間になにも見えなくなった。
「マッ、マティアス様、ごぶじで、よか、よかった……ううっ……あっ……わぁぁ~っ……!」
これまでずっと気を張っていたのに、マティアスの姿を見て緊張の糸がぷつりと切れてしまった。
不安、恐怖、後悔、いろんな感情がごちゃ混ぜになってフランチェスカの中で渦を巻き、一気に噴き出してゆく。
今確かに彼はここにいるのに、これは夢で、目を覚ました瞬間彼はどこかに行ってしまうのではないかと恐ろしくなって、必死にしがみついた。
まるで溺れる者が流木につかむかのような勢いで。
絶対に放してなるものかと、恥も外聞もなく、抱き着いた。
そんなフランチェスカをしばらくの間、黙って見おろしていたマティアスは、
「ようやく消火活動が終わって……戻ってこれたんだ」
煙のせいか、少しかすれた声で、ささやく。
「フランチェスカ……心配させてすまなかった」
そして泣きじゃくるフランチェスカの背中を何度かあやすように叩いた後――。
「あなたが無事でよかった」
強く、強く、折れんばかりに抱きしめたのだった。