燃える夜・2
『シドニア花祭り』が終われば、フランチェスカがこの地でやることはなくなる。すぐに離縁の手続きをしなければならないが、『白い結婚』なのでそれほど難しくないはずだ。おそらくカールあたりが外聞が悪くならないよう根回しするだろう。
そして兄によると皇女はちょうど『シドニア花祭り』が終わってから、嫁いで来られるらしい。
「まるでこちらの事情をすべて理解したような、完璧なスケジュールね……」
女官になるかならないか、王太子妃とお会いして決めようとは思っているが、会ってから断ることは難しいだろう。腹をくくるしかない。
だがおかげで今は、花祭りを成功させることに集中できる。
フランチェスカはむくりと起き上がると、ぱちぱちと自分の頬を叩いて叱咤激励した。
「あと少し、がんばらなくちゃ……」
手紙を大事にしまって、それから広間へと戻る。
テーブルの上にはアンナが用意した軽食とお茶の用意がされていたが、マティアスの姿はなかった。
「マティアス様は?」
アンナに問いかけると、
「公舎から連絡があってそちらに向かわれました。練習に付き合えず申し訳ないとのことでしたよ」
ということだった。
「そう……」
彼からの申し出である『夫婦の時間』を断った後、マティアスとの個人的な会話はぐっと減ってしまっている。
お互い忙しいから――。
そう自分に言い聞かせているが、マティアスが今までのように自分に構わなくなったことにフランチェスカは気づいている。そしてそのことを寂しく思っていることも。
そう望んで、そうなるように振る舞っているのは自分なのに。
(自分勝手で……嫌になるわ)
気を緩めたら涙がこぼれそうで。フランチェスカは大きく深呼吸した後、天井を見上げて唇を引き結んだ。
ルイスに呼び出されたマティアスは、どっかりと椅子に腰を下ろし、長い足を持て余し気味に組んでその上に肘をついた。
「――で、見回りの人員は増やしたのか?」
「はい。大将の指示通りに」
ルイスは手元の書類をめくりながらうなずく。
「人が集まる広場には人員整理のための警備を増員、出店がならぶ商店にも警邏を増員しています。こちらは地元と信頼関係があるメンバーを選んでいるので、万が一のトラブル防止にも役立つかと」
「ああ」
マティアスはうなずきつつ、執務机の上に置かれた手紙を手に取り、深いため息をつく。
「これでなんとか抑止になればいいんだが」
「なんなんですかね、脅迫状って。意味わかんないですよ」
ルイスがチッと舌打ちし、腰に手をあてつつ手紙を上から覗き込んだ。
「『シドニア花祭り』を中止せよ! さもなければ野蛮な野良犬であるシドニア伯には神の裁きが下るだろう……。口に出すだけで腹が立つ文面ですね」
「そうだな」
読み上げを聞いているだけでマティアスの眉間の皺も深くなった。
この脅迫状は、数日前にマティアス宛てに届いたものらしい。子供のように稚拙な文字で、筆跡からはなにもわからない。
マティアス宛ての手紙は副官のルイスが中身を確認し、判断が必要と判断されたものだけマティアスに渡される仕組みになっている。
脅迫状はすぐさまマティアスと共有され、ダニエルやケトー商会のテオと話し合いがもたれた。
悪戯だろうと思うが、そうでなかった場合は大変なことになる。当初予定していた倍の警備網を敷くことになり、その分予算もかかったが安全のためには仕方ないことだった。
「こんな脅迫に負けて、皆で協力して作り上げた祭りを中止するつもりもないが、万が一ということもあるからな」
マティアスは大きく息を吐き、脅迫状を引き出しの中に仕舞いこむ。
「奥方様には話さないんですよね?」
「……本番前に不安にさせたくない」
「芝居、うまくいくといいですね」
「他人事だな。お前も出るだろう」
マティアスがふっと笑うと、
「俺は俺の役なので、全然大丈夫ですっ。女の子もたくさん見に来てくれるんで、がんばりますよ~ヘヘヘッ」
ルイスはいつものように軽薄な顔でウインクをすると、警備の最終打ち合わせをすると言って執務室を出て行った。
ひとりになると、ふと、脳内にさきほどまで一緒に舞台の練習をしていたフランチェスカの姿が浮かんだ。
夜はちゃんと寝ているだろうか。食事は食べているのか。
元気はつらつにお芝居の練習をしていたが、ばったりと倒れた前科があるので、ダニエルに無理をさせないよう伝えている。
彼女が気を張っているのは、遠くから見ているだけでも気が付くものだ。
無理をしていないかと、つい構ってしまう。
そのたびにフランチェスカが少しだけ困った顔をするので、また自己嫌悪に陥る、の繰り返しだ。
(――俺は本当にバカだな)
自分の弱さを認め、ようやく彼女に向き合う決心がついたと思った矢先、フランチェスカはマティアスを見限って王都に戻る決心をしていた。
それもそうだ。覚悟を決めて嫁いできた彼女を受け入れなかった。その後、フランチェスカの人となりを知ってかわいいと思い始めても、相変わらずに彼女の好意をやんわりと拒んでいたのはマティアスだ。
『王太子妃つきの女官』の一件でも彼女の気持ちを拒んで、よく考えた方がいいとまで伝えたのだから、彼女がそうするのは仕方のないことだ。
もし彼女を最初から妻として受け入れていたら?
今頃仲睦まじい夫婦としてこの地で生きていたのではないか。
愚かな妄想は捨て去らなければならないのに、ふとした瞬間に考えてしまう。
だが一番にフランチェスカの幸せを思うなら、己のことなどどうでもいい。
(女官なら、小説を書くことを諦めなくて済むしな)
機転が利く彼女なら王太子妃のお気に入りになるのは目に見えているし、今は無理だとしても、時代が変われば女流作家として表舞台に出られるようになるかもしれない。
そう、彼女は幸せになれる。
「俺がいなくても……」
むしろマティアスは野蛮な『荒野のケダモノ』だ。フランチェスカの足を引っ張るだけでなんのプラスにもならない。
「――」
マティアスは執務机に肘をついたまま、顎先を指で支えつつ自分の唇に触れる。
触れるだけのキスしかしなかった女性に、ここまで心を奪われてしまったのは人生で初めてだった。
そう、マティアスは恋をしてしまった。
妻などいらないと頑なに独身を通してきたのに、気が付けば押しかけて来た若い娘を本気で好きになっていた。
きっとこれが人生で最後の恋になるのだろう。
自分の愚かさのせいで、始まる前に終わってしまったが、フランチェスカが側にいてくれた半年は、夢のように楽しかった。その日々を否定する気にはなれない。
帝国の皇女は『シドニア花祭り』が終わった数日後に嫁いで来るらしい。
別れのタイミングとしては完璧だ。
「絶対に成功させないとな……」
卑怯な脅迫状などでフランチェスカの頑張りの邪魔はさせない。
マティアスは強く決心するのだった――。