燃える夜・1
短い春はあっという間に過ぎ去り『シドニア花祭り』の開催を十日後に控えたフランチェスカたちは前夜祭の準備に追われていた。
前夜祭は完全に領民主導の企画で始まった、花祭り前にシドニアを楽しんでもらおうというイベントである。
町の中心のあちこちでは、すでに植え替えを終えたスピカが色とりどりに咲き誇り、薄いピンクからグリーン、ブルー、朝焼けのような薄紫のグラデーションが帯のように広がっていた。
中央広場にも出店が軒を連ね、フランチェスカたちがお芝居をする予定の大型テントもほぼ組み立ては終わっており、前夜祭に出演する大道芸人が、それぞれ楽しげに練習を重ねていた。
そんな中、フランチェスカとマティアスの芝居の稽古も、今日が最後の練習になった。
といっても、マティアスにはほぼセリフがないので、あくまでも立ち位置の最終確認程度だが。
『――ギルベルト殿』
男装したフランチェスカは、床に寝ころんだまま、情感たっぷりにマティアスに向かって手を伸ばす。
『……なぜあなたは僕を助けてくださったのですか?』
フランチェスカの指先には、マティアスがたくましい大樹のように立っていた。
フランチェスカ演じるフーゴは士官学校を卒業したばかりの青年将校で、身分の高さからいきなり五百人の大隊を任される。だが戦況はあまり芳しくなく、フーゴは味方のミスで敵国に捕らえられてしまう。
窮地を救ってくれたのは部下のひとりであるギルベルト。彼はごく少数の手勢で敵国の砦に乗り込み、フーゴを救出する。
そんなオープニングのこの場面は、敵の捕虜になったフランチェスカ演じるフーゴが、助けにきたギルベルトに問いかける大事なシーンだ。
『あなたは貴族である僕を、憎んでいるのではないのですか……?』
『――』
『なにか言ってください、ギルベルト殿』
マティアスは無言でフランチェスカの前にひざまずき、体を支える。
こちらを見おろす緑の瞳は、黙っていても様になる。
(マティアス様……やっぱりそこにいるだけで雰囲気があるわ)
フランチェスカはそんなことを思いつつ、ニコッと笑った。
「ここでギルベルトはフーゴの疑問に答えることなく、フーゴを担ぎます。フーゴは拷問でズタボロなので、気遣いつつ立たせてください」
「わかりました」
ギルベルトことマティアスは小さくうなずいて、そのままひょいっとフランチェスカを横抱きにした。
「!?」
それはいわゆるお姫様抱っこというアレである。
いきなり抱き上げられたフランチェスカが目を丸くすると、
「旦那様、間違ってますよ」
朝からふたりの稽古を見守っていたダニエルが、眼鏡を中指で押し上げながら首を振った。
「すまん、間違えた。本番では気を付ける」
マティアスはどこか気が抜けたようにふっと笑って、フランチェスカを繊細なガラス細工を扱うような手つきで床に下ろし、胸元から懐中時計を取り出した。
「そろそろお茶の時間ですね。休憩にしましょうか。ダニエル、頼む」
「畏まりました」
ダニエルは胸元に手を置いて、小さく会釈すると、そのまま広間を出て行った。
フランチェスカは大きく深呼吸押しつつ、胸にそうっと手のひらをのせる。
(私がここにいられるのも、あと少しだわ……)
なんだかまだ今いち実感がわかない。
とりあえずマティアスから物理的に距離を取ろうと、くるりと踵を返した次の瞬間、
「待ってください」
いきなり背後から抱き寄せられて、フランチェスカの体はマティアスの腕の中にすっぽりと閉じ込められていた。
「――顔が赤いようですが。具合が悪いのに黙っているということはありませんか?」
マティアスが背後からささやく。
彼の声は甘く低いので、ただそうされるだけでフランチェスカはあからさまに動揺してしまう。
「えっ、そ、そんなことは……ありません、よ?」
顔が赤いとしたら、それは接近したからだ。
マティアスから『夫婦になろう』と言われ、断ってから約一か月強。
マティアスへの思いを心の奥底に封じ込めてから一度もふたりきりにはなっていない。おかげさまで毎日やることはいっぱいで、フランチェスカもマティアスも忙しすぎるのだ。
遠くからマティアスを見つめて切なくなることはあるが、フランチェスカはすべての理性と忍耐力を総動員して、何事もなかったかのように振舞える。
だがお芝居の稽古となると、どうしても接触が多くなる。好きな人に近づけば当然、心臓はバクバクするし手に汗は握るし、顔だって赤くなって当然だ。
「いや、だが……」
マティアスが名前を呼び、ゆっくりと背後から顔を近づけてきて――。
吐息が頬に触れるくらい近づいた次の瞬間、手紙を持ったアンナが部屋の中に入ってきた。
「奥様、ご実家からお手紙です」
「っ!」
その言葉に、フランチェスカは慌ててマティアスから距離をとり、アンナから手紙をひったくるように奪っていた。
「大事な手紙のお返事なので、部屋で読んできますっ」
マティアスをその場に置いて、自分の部屋へともつれる足で駆けていく。我ながらものすごく怪しかったと思うが、マティアスにあれ以上近づかれては心臓がもたない。
(はぁ~……ドキドキした……)
震える手で手紙を開けると、案の定、手紙の主は兄のジョエルだった。
フランチェスカが『「シドニア花祭り」が終わったら、王太子妃つきの女官になることも考える』と送ったことについての返事である。
兄らしい優美な字で、フランチェスカの体のことを心配したり、王都で好んで食べていた果物を送るという文章とともに、
『女官になることを検討するとのこと、驚きました。
その旨カールに伝えてほしいということだったから伝えたけれど、本当によかったのかな。
あれだけマティアス殿のそばにいたいと言っていたのに。
お前が無理をしていないか兄は心配です。
花祭りは家族みんなで見に行くからね』
と書いてあった。
「無理は……しているわ、お兄様……」
フランチェスカはハァとため息をつきつつ、ソファーにすとん、と腰を落とし、そのままぱたりと体を横たえる。
「はっきり女官になると言えたらいいのにな……思い切れない私が悪いのだけど……」
フランチェスカは何度も手紙を読みなおし、そしてぼんやりと天井を見上げた。