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妻の決意・8

「っ……」


 頭ひとつ分以上背が高いマティアスに抱きしめられると、自然と踵が浮いてしまう。


「あ、あの……?」


 好きな男性に抱きしめられて、ときめかないはずがない。これ以上好きになってしまったら自分が辛いだけだとわかっていても、それでも彼を心が求めてしまう。

 理性は離れるべきだと語りかけてきたが、フランチェスカは指一本動かせなかった。


「――」


 けれどマティアスはなにも言わなかった。フランチェスカが顔をうずめた首筋から、かすかに火薬の匂いがする。領主になった今でも、訓練は欠かさないらしい。王都の貴族たちからは強い香水の匂いしかしないが、今はこの香りを懐かしいとさえ感じる。

 このくらいしても今は許されるだろうかと、フランチェスカは、おそるおそるマティアスのたくましい背中に腕を回した。


「マティアス様……『シドニア花祭り』絶対に成功させましょうね」


 彼がどんな気持ちで自分を抱きしめたのか、想像でしかないが。

 おそらく自ら身を引くと言ったフランチェスカに『感謝』してくれているのだろう。

 だったらよかった。

 子供っぽい女の見栄だと分かっているが、フランチェスカはマティアスにとって少しでも『いい女』でいたい。

 もう泣いたりわめいたりしてマティアスを困らせたくないし、がっかりされたくない。

 立ち去るときもスマートに、せめて美しい思い出として残るように彼の前から消えたかった。


 目にじんわりと涙が浮かんだが、泣いているところを悟られるわけにはいかないので、そうっとマティアスの胸元に顔を押し付け涙をぬぐう。


(あと少し……せめて『シドニア花祭り』まではあなたの妻でいさせてくださいね。お祭りが終わったら、身を引きますから)


 フランチェスカは大きく深呼吸すると、顔をあげて背伸びをし、頬に触れるだけのキスをする。


「おやすみなさい、マティアス様。また明日」

「――」


 フランチェスカのおやすみの挨拶を聞いても、しばらくマティアスは凍り付いたような表情のまま立ち尽くしていたが、

「……あぁ、おやすみ、フランチェスカ……」

 赤い、鳥の羽根のように長いまつ毛を伏せるとくるりと踵を返し、部屋を出ていった。


「――お嬢様」


 完全に夫の姿が見えなくなってから、それまで部屋のすみで黙って見守っていたアンナが、気遣いながらフランチェスカに声をかけてきた。


「本当にいいんですか? 旦那様はお嬢様のことを、妻として迎える気になられていたんじゃないんですか?」

「――そうね」


 フランチェスカは大きく深呼吸して、唇を引き結ぶ。


「でも、私……本当に強欲で嫌になるのだけれど、きっと我慢できなくなると思うの。だから……まだ引き返せるうちに引き返したいの」


 自分は公的に認められた妻なのだから、愛人には目をつぶり、妻として堂々と愛されればいい。

 それが賢いやり方だとわかっているが、フランチェスカは一度思いつめたらとことんやりぬく自分の性格をいやというほどわかっていた。

 なにしろ十八年間、近いうちに死ぬと言われ続けて生きてきた女である。

 夫を愛するがあまり愛人やその子に嫉妬し、人として戻れない修羅の道に落ちてしまう物語のようにならないとも限らない。


(人の頭で想像できることは、現実にだって起こりうるんだから……)


 たとえ青いと言われても、フランチェスカはそんな女に成り下がりたくはなかった。

 愛されなくても、心だけは気高く生きていたい。


「アンナ、新しいポプリを枕元に用意してくれる?」

「――畏まりました」


 話を切り上げてしまったフランチェスカに対して、アンナはなにか言いたげだったが、結局それをのみ込んだ。彼女もまたフランチェスカの頑固さをよく知っている人間でもある。


「よく眠れるように、オイルマッサージも致しましょうね」

「ありがとう」


 礼を告げて、フランチェスカはフラフラと窓辺に向かい、天高く輝く月を見上げた。

 窓の外がしらじらと明けてくるまで、たっぷり時間をかけてフランチェスカは自分の心と話し合い、そして決心した。


 自分の使命はまずは『シドニア花祭り』を成功させることにある。

 シドニアの未来のために働き、そしてそれが落ち着いた頃に彼の望み通り離縁して、王都に戻り王太子妃つきの女官として働くのだ。

 彼への思いを今更なかったことにすることはできず、マティアスの側にいる間はずっと彼への思いで心は揺れて苦しむだろうが、それ以外に生きる道はない。


「うん……大丈夫。私は大丈夫……」


 幼いころから何度も死にかけるたび『大丈夫』だと自分に言い聞かせてきた。

 だからこの失恋だってきっと立ち直れるはずだ。

 いつか彼を諦めないといけない。そう考えるだけでフランチェスカの瞳からは涙が零れ落ちてしまうけれど。

 マティアスを愛した気持ちをなかったことにはできないし、忘れたくはないのだった。




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