妻の決意・7
その日の夜、寝る前に身支度を整えているとドアがノックされた。アンナが応対に出ると、なんと仕事帰りのマティアスだった。
「旦那様。どうしたんですか?」
アンナの声にフランチェスカも驚いたように椅子から立ち上がった。
彼に愛する人がいると知ったのは数時間前だ。なんとか平静を保ちつつドアへと向かう。
「フランチェスカ……その……」
ドア付近に立ったマティアスは少し困ったように首の後ろをがしがしとかき回した後、どこか決意したようにフランチェスカの手を取り、その場にひざまずいて手の甲に唇を寄せた。
「昨日は約束を守れなくてすみませんでした」
結局、マティアスは帰ってこなかったのだが、そのことをわざわざ謝罪しに来てくれたらしい。
「い……いえ。早く帰れたらということでしたから、気にしないでください」
フランチェスカは必死に理性をかき集めて、マティアスを見おろす。
声は震えていないだろうか。
彼にこうやってかしずかれると、心の奥がざわめいてしまう。
彼に片思いをしている自分には、この程度の触れ合いすら胸が弾むのだ。
まさかわざわざ謝りに来るとは思っていなかったので驚いたが、もしかしたら『後ろめたい』のかもしれない。
(本当は私が邪魔をしているだけなのだけれど……)
だがマティアスの秘密の妻子については『知っている』とは言わない方がいいだろう。マティアスに余計な気を遣わせてしまう。
フランチェスカはそんなことを思いながら、首を振った。
だがマティアスは相変わらずその場にひざまずいたまま、
「それで、その……今更かもしれませんが、もう少しあなたと過ごす時間を作ろうと思います」
と言い出したものだから、思わず我が耳を疑ってしまった。
「えっ?」
マティアスはそれからどこか覚悟を決めたように、目に光を宿して立ち上がる。
「あなたと夫婦として過ごしたい。夜は同じベッドで眠って、朝をともに迎えたい。そう思っています」
こちらを見上げるマティアスの緑の目は、キラキラと熱っぽく輝いていて――。
「いかがですか、フランチェスカ?」
マティアスの男らしい端整な美貌に、抑えきれない色気が漂っている。まるで求愛されているようなその言葉と眼差しに、胸がきつく締め付けられる思いがした。
同じベッドで眠り、朝をともに迎える。
新婚初夜を失敗したフランチェスカが、どうしても欲しくてたまらなかった時間。
この、あたかもマティアス本人がそうしたいと熱烈に思っているような――。
フランチェスカを妻として本気で愛そうとしているようにも聞こえる言い回しをされて、鼻の奥がつんと痛くなってしまった。
(このまま、何も知らなかった顔をして、マティアス様に愛されてみたい……)
ふたりの時間を増やすということは、マティアスが妻子のもとに行く時間が減るということだ。
本当は、彼のためを思えば喜んではいけないはずなのに、フランチェスカの心は妖しくざわめく。
一分一秒でもマティアスの側にいたい。その気持ちを抑えられない。
だがマティアスのためになるのだろうか。
彼には心を休める場所がほかにあるというのに、後から来た自分が横入りをしていいとはとても思えない。
(きっと、マティアス様は私にほだされてしまわれたのだわ。子犬のように追いかけまわして……妻にしてくれって、甘えていたから……)
だとしたらマティアスはどこまで優しいのだろう。
もう、十分だった。
フランチェスカはハッキリと首を振った。
「いいえ、マティアス様。もうお気遣いは無用です」
「――え?」
その瞬間、マティアスが不意打ちをくらったように目を見開く。
「王都ではつまらない駄々をこねてしまって、ごめんなさい。あれからいろいろ考えて……王太子妃の女官の件、考え直そうと思っているんです。本来、私のような箱入りには縁遠い、夢のような機会でもありますし……。その、こういった選択ができるのも『白い結婚』をご提案くださったマティアス様のおかげです。感謝しています。ありがとうございました」
胸の奥でくすぶっている感情をマティアスに気取られないよう、フランチェスカは精一杯の理性をかき集め、優雅に微笑んだ。
どれほど辛いことがあったとしても、他人に悟られないように本心は心の奥底に隠して、笑みを浮かべる。
社交界とはほぼ無縁に生きてきたフランチェスカだが、この程度はやり遂げられる。
これでマティアスもきっと肩の荷が下りたことだろう。
そんな思いでにこりと微笑みかけたのだが、とうのマティアスは凍り付いたように表情を強張らせたままゆっくりと立ち上がった。
なんだか様子がおかしいが、彼の表情の意味がわからない。
「マティアス様……?」
いったいどうしたのだろうと、半歩足を踏み出して、マティアスを見上げる。
その次の瞬間、
「あっ……!」
急に上半身を抱き寄せられ、バランスを失ったフランチェスカの体はマティアスの腕の中にすっぽりと納まってしまった。