妻の決意・6
「――は?」
本当の夫婦という発言に顔をあげると、ダニエルはニヤッと悪そうに微笑んだ。
「隠せていると思っているのは、旦那様と奥様だけです。おふたりの間になにもないことは皆うっすらと気づいていますよ」
マティアスは言葉を失ったが、よくよく考えてみればマティアスは相変わらず仕事ひとすじで屋敷はあけがちだし、フランチェスカは『シドニア花祭り』の準備で忙しくしている。夜だってほぼ朝までふたりで過ごした様子もないので、普段ふたりの世話をしている使用人には、気づかれるのは当然だろう。
それでも何も言わずに黙っていてくれたのは、彼らの気遣いだったのだ。
マティアスは唇を震わせながら、うめくようにつぶやく。
「――彼女のためになると思ったんだ」
そう、恐ろしいことに自分は『正しいこと』をしているつもりだったのである。
「なるほど。フランチェスカ様の『自分を認めていただきたい』という焦りは、要するに旦那様のせいというわけですね」
「グッ……」
ダニエルの言うことは全て正しく、マティアスはなにひとつ言い返せそうになかった。
「マティアス様らしい優しさですが……本当はどうするべきか、お分かりですね」
ダニエルは眼鏡をクイッと押し上げ、表情を引き締める。
「――ああ、そうだな」
マティアスははっきりとうなずいた。
身分が違いすぎるとか、生まれ育った環境が違うだとか、己と一緒になっては彼女がかわいそうだとか、なんだかんだと理由をつけて逃げ回っていたが、もうやめだ。
「彼女に……自分の思いを告げよう」
マティアスの返答を聞いたダニエルは、ふっと満足げに眼鏡の奥の瞳を和らげて、微笑んだのだった。
一方、マティアスが無断で外泊した翌日の午後。
「旦那様は昨日、公舎をいつもより早めに出られて、街の外れにある別宅に向かわれたそうです」
アンナの報告を聞いても、フランチェスカの心はひどく落ち着いていた。
疑いが確信に変わり、ある意味安心したのかもしれない。
ああ、やっぱりそうなんだ、という納得が先に来た。
悲しみは後からじわじわと押し寄せてくるのだろう。今は感覚がマヒしているだけだというのもなんとなくわかった。
「マティアス様の別宅をどうやって調べたの?」
「辻馬車に片っ端から行先を聞いたんですよ。『旦那様の落とし物を探している』とかなんとか言えば、みんな協力してくれました。あとそのあたりで商売をしている人たちに聞き込みをして、マティアス様が五、六年前から集合住宅の最上階を借り上げていて、時折姿を見せるというのも確認しました」
「そう……」
「誰かと住んでいるかどうかまではわかりませんでしたが、管理人から最近、王都からの荷物が届いたことだけはなんとか聞き出しました」
(あの請求書ね)
別宅に裁縫道具とドレス生地を、別宅に運び入れたということになる。
「お嬢様」
アンナが表情を強張らせているフランチェスカを見て、心配そうに口を開いたが、
「ありがとう。今日はもう休むわ」
「……わかりました」
アンナは一瞬なにかいいたげに口を開いたが、結局うなずいて部屋を出て行った。
フランチェスカはアンナを微笑みつつ見送った後、そのままごろんとソファーに横になる。
お行儀が悪いのは百も承知だが、もう指一本動かしたくない。
「これはもう、決定的ね……」
昨晩、マティアスは帰ってこなかった。
無断外泊は結婚して初めてである。早く帰れたらお芝居の練習をしようということになっていたので待っていたが、彼は帰宅しなかった。
『お仕事に熱が入っているのかもしれませんね。今日はおやすみください』
とダニエルに言われてフランチェスカはうなずいたのだが、この時点でフランチェスカは、なんとなく嫌な予感がしていたのだ。
「マティアス様には、やっぱり本当にお心を許せる、大事な方がいらっしゃるんだわ……」
頭がぼうっとして、自分の声が遠くから聞こえた気がした。
(どうしてその方と結婚しないのかも……平民だとなれば、当然だわ)
貴族の男は平民を妻には出来ない。だが妻となるべき人をいったん貴族の養子にするという抜け道ががある。これは商家出身の妻をもつ貴族は、みな当たり前にやっていいることだった。
だがマティアスは元平民で王都の貴族たちからも距離をとっている。愛した女性を貴族の養子にすることが難しかったのではないだろうか。
そんな折、自分が押しかけるようにシドニア領にやってきた。戸惑って当然だ。
そしてふたりの距離が近づくたび、マティアスがどこか困ったように、フランチェスカをすんでのところで突き放してしまうのも、平民の妻子を裏切れないと思うからではないか。
そう思うと、なにもかもがきれいに繋がってくる。
「あ……」
フランチェスカは両手で口元を覆い、悲鳴をのみ込んだ。
始めてシドニア領に向かう馬車の中で、
『マティアス様に愛人がいらっしゃったとしても、領主の妻として受け入れるわ。決していらぬ悋気ななんて起こさないことを神に誓います』
と断言したフランチェスカに、
『そんなこと言って、お嬢様が恋をしたらどうするんですか?』
アンナが呆れたように苦笑したことを、昨日のことのように思い出す。
フランチェスカの大きな青い瞳から、ポロポロと涙がこぼれる。
頬を伝う熱い涙の感触が、なぜか夢の中のようで、現実として受け入れられそうになかった。
「……私、バカね」
誓います――なんて、軽々しく口にした己の浅はかさが、刃のようにグサグサと心の柔らかい場所に刺さる。
「本当に……ばか……」
恋をするはずなんかないと思っていたのに、マティアスに出会って恋をした。
どんどん好きになって、振り向いてもらいたくて、必死になっていた。
頑張ればいつか報われる日が来ると思っていた。
だがそもそもマティアスほどの男がひとりなわけがないのだ。
『荒野のケダモノ』と不本意に貶められた彼の心を癒し、今でも支えている存在がいる。
あの人に愛されて、子供まで産んだ人がいる。
そのことを想像すると、胸が切り裂かれて血が吹き出るような思いがした。
「っ……」
浅い呼吸を繰り返しながら、フランチェスカは跳ねるように起き上がると、書き物机の上に置いたままだったポポルファミリー人形をつかみ、その手を振り上げるが――。
結局、小さな人形を床に叩きつける気になれず、そのまま机の上にそっと戻した。
愛らしい人形に罪はないし、そんなことをしても自分を貶めるだけだ。
フランチェスカは震えながら、つま先を見おろす。
正妻には愛人を領地の外に追い出す権利もあるが、そんなことをしてもマティアスに恨まれるだけである。
(マティアス様を困らせたくない……)
この期に及んで、フランチェスカはまだマティアスに嫌われたくなかった。
だがこうなった以上、自分の気持ちはマティアスにはぶつけられない。
彼に望まぬ結婚を強いたのは、自分なのだから。