妻の決意・5
それからどれほど時間が経ったのか――。
マティアスは激しいノックの音で目を覚ました。どうやら寝入ってしまっていたらしい。カーテンの向こうが暗いのはわかるが、正確な時間はわからない。
「……うるせぇ」
ソファーで寝ていたマティアスは、よろりと起き上がりながらドアへと向かう。
「誰だ……」
かすれた声でドア越しに尋ねると、
「私です。ダニエルです」
と、はきはきした返事が返ってきた。
「ダニエル?」
その瞬間、全身からサーッと血の気が引く。この部屋のことは誰にも知られていなかったはずだ。
「なぜここに?」
「調べましたので」
当たり前の返事で、膝から力が抜けそうになった。
マティアスはドアノブに手をかけたまま立ち尽くしていたが、しぶしぶ薄くドアを開けて外を覗き込む。
ドアの隙間からこちらを覗く、気難しそうな眼鏡顔は間違いなくダニエルのものだった。
「入れてください」
グイグイと押されたが、そもそも力でマティアスが負けるはずがない。
「嫌だ」
それ以上の力で押し返す。
「なんの用だ。そこで言えっ」
「立ち話もなんですから、部屋の中に入れていただきたいです」
「その必要はない!」
そうやってしばらくの間、諦めないダニエルと押し問答していたのだが、ほんの少しドアが押された次の瞬間、隙間にダニエルの鏡のように美しく磨かれた靴が差し込まれる。まるで取り立てだ。
「どうしてそこまでやるんだよ……」
マティアスは半分呆れつつ、ため息をついた。
部屋の中にはポポルファミリーのコレクションが所狭しと飾られている。いくら家令であっても、見せるわけにはいかないのだ。
「旦那様、私を信じてください。たとえあなたがあのかわいらしい奥様を裏切っていたとしても……まぁ正直ものすごく腹は立ちますが、私はあなたの味方でいたいと思っています」
ドアの向こうから聞こえるダニエルの発言に、
「――は?」
さて、どうやって帰宅願おうかと思っていたマティアスは耳を疑った。
「俺が、なんだって?」
「私はあなたの味方だと申し上げたのです」
「その前だ!」
思わず大きな声が出てしまった。
「だから、フランチェスカ様を裏切っていたとしても、です」
顔を見なくてもわかる。ダニエルは真面目くさった顔で、なおかつ本気でそう口にしている。
「ちょっと待て」
マティアスは押さえていたドアを少しだけ引いて、ダニエルに顔を近づけた。
「俺はフランチェスカを裏切ってなどいないが?」
他人ときちんとした関係を築けない男だという自覚はあるが、『白い結婚』でも『結婚』には違いない。フランチェスカを傷つけるようなことはしないと心に決めている。
ダニエルがそばにいたのは六、七年程度だが、誰よりも近くにいたのだからマティアスの女性関係など知っているはずだった。
するとダニエルはあからさまにムッとして、胸元から一枚の紙を取り出しドアの隙間から見せつけるように広げる。
「ではこの請求書はなんですか?」
「ん?」
顔を近づけると、請求書には裁縫道具一式とドレス生地と記載がある。王都で購入した時のものだ。
「あ……いや、それは」
喉がひゅっと音を立てて締まる。
その態度を見てダニエルは確信したらしい。
「この部屋に女性を囲われているんでしょう。だったら家令の私に早い段階で教えていただきたかったです。そうしたらもう少しきちんと根回しいたしましたのに」
深々とため息をつき、それから眼鏡をくいっと中指で押し上げる。
「――開けてください」
そこでようやくマティアスは自分がどう誤解をされているか、すべてを理解した。
「待ってくれ、ダニエル、それは違う。それは俺が使うために購入したものだ」
強く押し返していたドアから体を離した。
「は?」
一生バレずに墓場まで持っていくつもりだったが仕方ない。
「わかった、部屋に入れ。笑ったら殴る」
マティアスは大きく深呼吸して、ドアを開け放った。
それからのダニエルの理解は早かった。部屋の中をぐるりと見回した後、人が住んでいる気配がまるでないことも察知し、即座にここが昔からマティアスの趣味の部屋であることに納得したようだ。
「なるほど……」
「――笑わないのか」
「まぁ驚きはしましたけど、犯罪行為を犯しているわけでなし。ただの趣味ではないですか。長く戦場に出ておられる軍人は心を壊しやすい。人としてバランスをとるために、愛らしい人形を眺めて心を休めるのは、理にかなっていると思いますよ」
ダニエルはさらっとした表情で眼鏡を押し上げつつ、マティアスを見て肩をすくめた。実に彼らしい返事だが、軽蔑されないとわかった時点でかなりほっとした。
「むしろ私がこれを見て笑ったり、馬鹿にしたりする側の人間だと思われていたことの方が、よっぽどショックです」
「うっ……」
そう言われるとマティアスも辛い。
「すまなかった。お前を見くびっていたわけではないんだ」
とっさに胸のあたりを手のひらで押さえると、ダニエルはふふっと笑って、首を振った。
「冗談ですよ。なにもすべてを明らかにすることが信頼の証、というわけではありませんからね。言いたくないことは言わなくてもいいんです。ただ……隠していることで誤解を招くようなこともあるので、その点は気を付けていただきたいとは思いましたが」
ダニエルはそう言って、ガラスのキャビネットの前に立ち中を見おろした。
「そういえば、フランチェスカ様のお部屋に人形を落とされませんでしたか?」
「はっ!?」
まさかの発言にどういうことだと詳しく聞いてみれば、どうやら失くしたと思った白猫ちゃん人形はフランチェスカの部屋に落としていたらしい。
「マジかよ……」
頭を抱えてうなだれるマティアスを見て、ダニエルが
「この機会に正直にお話になってはいかがですか?」
と当たり前のように告げる。
「それは嫌だ。軽蔑されるに決まっている」
「そんな恰好をおつけにならなくてもいいのでは」
「つけるに決まっているだろう!」
思わず本気で言い返していた。
するとダニエルが、やっぱりという顔で
「奥様のこと、お好きになってしまわれたんですね」
と眼鏡の奥の瞳を細める。
「っ……」
好きだと指摘されて、マティアスは唇を引き結んだ。
否定するための言葉を探し、結局諦める。
「……そうだな。彼女に、みっともないところを見せたくないんだ」
「みっともなくはないですし、素直になったほうが楽だとは思いますが、同じ男として旦那様の気持ちはわかります」
ダニエルは軽く肩をすくめ、それからこほんと喉を鳴らして声を潜めた。
「でもまぁとりあえず、その気になってくださったのなら、奥様とは本当の夫婦になっていただかないと」