妻の決意・4
「久しぶりにここに来たな……」
マティアスは感慨深く、部屋の中を見回す。
シドニア中心街から外れた場所にあるこの集合住宅は、かつてマティアスが激務の中、公舎から屋敷に戻るのが面倒だった時代に借りたものだ。最上階をワンフロア借り切っているので、人目を気にすることもない。窓際には簡素なベッドがあるだけだが、左右の壁には本来であればグラスを飾るためのガラスキャビネットが並べてある。
だがその中に所狭しと飾られているのは、マティアスがこの八年で地道に集めたポポルファミリーシリーズだ。
猫やうさぎ、クマやリスという動物たちが、かわいい服を着せられてずらりと並んでいる。
「――」
結婚してからはずっとご無沙汰だった。久しぶりの景色に胸の奥がぐうっと締め付けられて、全身がぶるっと震えた。
「ああっ、いったいどこに落としたんだ、俺のフランチェスカッ!」
マティアスは抑え込んでいたフラストレーションを開放するかの如くの勢いで、頭を抱え叫んでいた。
そう、マティアスは最近フランチェスカに似ている白猫ちゃん人形をお守りのように胸ポケットに入れていたのだが、どこかで紛失してしまったのだ。亡くしたことに気づいてからの数日、思い当たる場所をこっそり探したのだが、結局見つからないままだった。
「はぁ~……」
新しいものを買えばいいというものではないし、そもそも非常に気に入っている人形だったので、ダメージが大きい。持ち歩けばこういうリスクもあるとわかっていたが、やはり気分は落ち込んでしまう。
マティアスはワインとグラスを手にソファーに腰を下ろすと、雑にワインを注いで一気に煽る。そしてぼーっとする頭で、テーブルの上に置きっぱなしの裁縫道具と布の山を見つめた。
「新しい服を、作ってやりたいと思ったのにな……」
つい先日、八年ぶりに王都に行ったマティアスは、仕立て屋に人形の洋服を作るためのあれこれを注文した。
人形の服を作ることに関しては、まったくの素人だが、針仕事は物心ついた時からずっとやっていた。
戦争孤児で身寄りもなく、食うために十五で軍隊に入った。服だって靴だって、なんでも自分で修理して大事に使っていたので、やれるという自信があったのだ。
ちなみに常々、白猫ちゃん人形にはアクアマリンのような色が似合うのでは? と考えていたマティアスは、ないならいっそ作ろうと思い立った。王都で彼女の目を盗んでこっそりと裁縫道具と生地を注文したのだが、肝心の白猫ちゃん人形がいない今は、そのやる気も駄々下がりである。
どこかでゴミにように扱われていたらどうしよう。
せめて人形を可愛がってくれる人の手元にあればいいが――。
そんなことを考えて、ぐるぐると思考を巡らせていると、どんどん気分が落ち込んでいく。
「――俺はなにをやっているんだ……」
マティアスは茫然とした表情でぽつりとつぶやいた。
白猫ちゃん人形にフランチェスカを重ねているくせに、肝心のフランチェスカへの気持ちからは目を逸らしている。
これでも一応、愚かなことをしているという自覚はある。
(ああ、そうだ。俺は……フランチェスカを愛しいと思い始めている……)
王都に行くのだって、信頼できるルイスあたりを護衛に付ければいいだけの話だった。それでも自ら着いていくと告げた。彼女と一緒にいたいという気持ちを抑えられなかったからだ。
そのくせ、王都でフランチェスカから『王太子妃つきの女官を辞退した』と聞いた時、発作的に『もう少し考えた方がいい』と告げてしまった。
フランチェスカを愛おしいと思う気持ちは日々大きく膨れ上がっていくのに、これ以上愛するのが怖くなった。
なので王太子妃つきの女官になれば、物理的な距離ができるので自分も少しは冷静になれるのではと思ったのだが、その時のフランチェスカの反応は思っていたよりもずっと激烈で、マティアスはショックを受けた。
(フランチェスカは、本気で俺の側にいたいと思ってくれている……)
帰りの汽車の中で、うっすらと涙を浮かべて『ごめんなさい』と謝ってくれたフランチェスカを思うと、胸が締め付けられる。
だが同時に、その顔を見たとき、信じられないくらい嬉しくなってしまった。気持ちが抑えきれず、屋敷に戻った後、彼女の部屋に押しかけ口づけていた。
また、おやすみのキスのようなふりをして――。
震えながらもうっとりとキスを受けるフランチェスカに、マティアスの心は恋を初めて知った少年のように震えた。
(保護者として大事にしたいなんて逃げ道を自分から作っておいて……俺は馬鹿か?)
誤魔化しようがないくらいに、マティアスはフランチェスカを愛しく思っている。
すぐに自分の気持ちを正直に打ち明けるべきだったのに、ティアスはその一線を越えなかった。
我ながらゾッとするほどズルいやり方だ。
フランチェスカはなにも悪くない。本当に悪いのは、心の底から人を信じられない自分なのだから。
ルイス含めた部下たちや、ダニエルたちのことは信用している。だがそれは彼らにマティアス以外にもっと大事なものがあるから、いざとなればあっさり縁が切れることに安心して信用しているのだ。
一方フランチェスカは『白い結婚』とはいえ、結婚証明書にサインをして、家族になった女性だ。
いっそ自分の思うがまま、彼女を愛せたら――そう思うが、誰かを愛することは、己をさらけ出すことで。
常に死と隣り合わせで生きてきたマティアスには、自分の弱点を見せることなど、まさに死に等しい耐えられない所業だった。
マティアスはグラスを口元に運びながら、ぎゅっと眉根を寄せる。
「いっそ……全部捨てるか?」
部屋を埋め尽くすかわいらしい人形たち。
誰にも頼れなかった自分を陰ながら癒してくれたこの子たちを捨てて、なかったことにしたら――。
フランチェスカとの関係も変わるだろうか。
次の瞬間、そんな自分の独善に吐き気が込み上げた。
自分の心を癒してくれた人形たちを捨てるなんてありえない。
「俺はだめな男だな……」
正直言って、こんなことに気づきたくなかった。
目を伏せると、暗闇が世界を覆う。
マティアスの誰に聞かせるでもないつぶやきは、静寂の中に溶けていった。