結婚したくない令嬢・4
だがそんなフランチェスカに転機が訪れる。
ある日のこと、兄のジョエルがひどく畏まった様子で数年前の新聞を手に部屋を訪れた。
ジョエルはフランチェスカとは十歳年が離れており、祖母譲りの美貌は国一番とまで言われている美男子である。父と共に領地運営に励みつつ、年の離れた妹のフランチェスカをとてもかわいがっていた。
「フランチェスカ、君の結婚相手だけれど、僕のかつての部下だった中将閣下はどうかな」
「え?」
アンナに髪を梳いてもらいながら本を読んでいたフランチェスカは、本を閉じてジョエルから新聞を受け取った。
新聞の一面には男性の横顔の写真がのっている。写真は映りがあまりよくないが、なんだか気難しそうな男だというのは伝わってきた。
新聞の記事にざっと目を通すと、
『シドニア領の領主である中将は人嫌いで、八年前に叙勲されてから未だに王都に一度も顔を出さない』
『貴族社会において彼の傲慢たる態度はいかがなものか』
『とはいえ彼が改心する日は来なさそうである』
というようなことが、つらつらと書いてあった。
(まぁ、なんて余計なお世話な記事かしら!)
フランチェスカは思わず唇を尖らせる。
確かに名だたる貴族たちは基本的に一年の大半を王都のタウンハウスで暮らし、領地にはたまに戻る程度だが、逆に領主が領地にいてなんの問題があるというのだろう。
領民からしたら、領主が同じ土地で生活をしてくれているほうが、ずっと安心した日々が送れるのではないだろうか。
「マティアス・ド・シドニア中将閣下だ。君も名前くらい覚えているだろう?」
いそいそとフランチェスカの前のテーブルに腰を下ろしたジョエルは、フランチェスカとよく似た青い瞳をキラキラと輝かせる。
幼いころから病弱で、社交界にはまったく縁のないフランチェスカだが、兄の口から出た名前を聞いてハッとした。
「もしかして……八年前の戦争でお兄様を救出した、あのマティアス様?」
八年前、アルテリア王国は帝国からの要請により同盟国の一翼として戦争に参加した。当時士官学校を卒業したばかりのジョエルも、青年士官として従軍していたのである。
「そうっ! そのマティアス殿だ!」
妹がすぐに思い出したことが嬉しかったのか、ジョエルはパッと笑顔になってフランチェスカにぐいっと顔を近づけてきた。
「八年前、前線で指揮を執っていた僕は、情報伝達のミスで敵国に捕らえられてしまった。敗色濃厚な戦況で撤退命令が出て、僕は見捨てられる寸前だった。敵味方入り乱れる前線で死を覚悟したよ」
当時を思い出したのか、ジョエルの顔が悲しげに陰る。
「そこで上官の命令を無視して、ほんの少しの部下と一緒に僕を助けに来てくださったのがマティアス殿なんだ。ボロボロの僕を背中に縛り付け、生きることを諦めそうになる僕を励ましながら、馬を乗り継いで故郷まで連れて帰ってくださった。僕が今こうやって生きていて、妻子とともに健やかに暮らせているのは、あの方のおかげなんだよ」
兄の言葉に、八年前のできごとが鮮やかに蘇ってくる。
「もう死んだと思われていたお兄様が帰って来たものだから、大喜びしたおばあさまがマティアス様に、爵位とシドニア領を与えることになったのよね?」
八年前、大好きな兄が戦死したと聞かされた時は家族全員がひどいショックを受けて、毎日泣いて暮らしていた。だがそれからまもなくして、生きていたという連絡が飛び込んできて、天地がひっくり返るような騒ぎになったことを、フランチェスカは今でもよく覚えている。
フランチェスカの言葉に、テーブルの上で祈るように手を握り締めたジョエルは、それから美しい顔を悲しげに曇らせ「あぁ……そうだ」とうなずいた。
「けれど叙勲の当日、マティアス殿は王城で開かれる儀式に遅れて来たんだ。侯爵家が用意した真っ白な軍服を泥だらけにしてね。それで、彼が叙勲されることをよく思っていなかった貴族たちの笑いものになってしまった。『野良犬』『約束も守れない野蛮なケダモノ』だなんて失礼な言葉をぶつけられて……本当にひどかったよ」
ジョエルの花のような笑顔がみるみるうちに萎んでゆく。
当時のことを思い出したのだろう。目元を指でぎゅっとつまみながらはーっと息を吐く。
「泥だらけのマティアス殿は、その場でも言い訳ひとつなさらなかった。ただ祖母に遅刻を詫び、爵位も領地も自分には不相応だと頭を下げたんだ」
だが祖母はそんなマティアスを責めることもなく、儀式を続行し、マティアスは無事爵位を与えられたのだという。
「その後、マティアス殿はシドニア領に引きこもって、人嫌いの軍人貴族と噂されるようになった。そしていまだに、こんなことを言われている」
ジョエルはテーブルの上の新聞に悲しげに目を落とし、美しい指先で紙面の文章をとんとん、と叩く。愁いを帯びた表情は、我が兄ながらまるで女神像のように美しかった。
そんな兄の言葉に唇をかみしめた後、フランチェスカは重く口を開く。
「確かに八年も領地に引きこもっているって、貴族の常識からしたら、少し変わっているのかもしれないけど。そもそも当時のおばあさまは、マティアス様が叙勲に値する人だと考えたんでしょう?」
そもそも彼が本当に人嫌いなら、ジョエルを命がけで、しかも命令違反をしてまで助けるとは思えない。
「それを外野がごちゃごちゃと……。人様を勝手に評価して野良犬だなんて馬鹿にするなんて。その方がよっぽど恥ずかしい行いだと思うわ」
話しているうちにだんだん腹が立ってきて、フランチェスカはぎゅっと唇を引き結ぶ。
貴族のさまざまな特権は、いざとなれば領民の暮らしを守るために先頭に立つ人間に与えられたものであるはずだ。
だが貴族であることをはなにかけて、人民の盾になるという前提を昨今の貴族たちは忘れているのではないか。
侯爵家に生まれたからこそ、フランチェスカはこの年まで生き残れたとわかっているが、もどかしくもあった。
「フランチェスカは賢い子だから、どこに行ってもそれなりにうまくやっていくとは思っているんだけど……兄としてはたったひとりの妹には、よい伴侶を得てほしい」
そして手を伸ばしてフランチェスカの手を握った。
あたたかい手のぬくもりからは、兄が真摯にフランチェスカを思ってくれていることが伝わってきて――フランチェスカは唐突に、天啓のようなものを感じた。
「そうね……私、マティアス様と結婚しようと思うわ」