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妻の決意・1

 シドニア領に戻ったのは、深夜をだいぶ過ぎてからだった。


「お食事はどうなさいますか?」


 迎えに出たダニエルの問いかけに、マティアスが口を開きかけたその瞬間、

「私は疲れたからさきに休みますね。おやすみなさい」


 フランチェスカはそう言って、迎えに出てきたアンナとともに、足早にその場を離れて自室へと向かった。

 背中に目があるわけではないが、マティアスが自分を見ている気がして、今はその視線が煩わしい。アンナに手伝ってもらいつつ旅装から寝衣に着替えたところで、メイドたちが湯を運び入れてきた。

 どうやらマティアスの指示らしい。夫の気遣いが弱った心にグサグサと刺さる。

 それが顔に出ていたのだろう。


「面倒くさがらないでください。疲れている時こそ、きちんとしたケアが必要ですよ」


 アンナはそう言って腕まくりすると、フランチェスカの手足をお湯でかたく絞った布で丁寧に拭き始める。しばらくすると、ひんやりと冷たかった手足が痺れるように熱を帯びフランチェスカの気持ちもゆっくりとほぐれていった。


 アンナの気遣いに感謝しつつ、

「私、ほんと自分が嫌になるわ……」

 と、口を開く。


「どうしたんですか急に。出発前はあんなにはしゃいでおられたじゃないですか」


 アンナがゆったりした口調で問いかけた。


「そうね。私はたった数日でマティアス様のことを、もっと好きになったわ。だけどマティアス様は私に呆れたと思う」


 フランチェスカは椅子に座ったまま、はぁとため息をつく。

 そしてこの数日で起こった話を、つらつらとアンナに説明した。

 話を聞き終えたアンナは「なるほど……自覚はおありだと思いますが、それはやはりお嬢様がよくなかったですねぇ」とズバリと言い切る。


「わかってるわよ……」


 フランチェスカはがっくりと肩を落とした。


「帰りの汽車の中で、マティアス様に謝ったのよ。だけど『怒ってなんかいません』って優しく微笑まれて……私がただひたすら、いたたまれない気分になっただけ……はぁ……」


 あの時の自分の振る舞いやふたりの間に流れていた微妙な空気を思い出すだけで、フランチェスカは『わ~~!!』と叫んでこのまま消えてしまいたくなる。


「自分の気持ちを自覚してからは、そばにいられるだけでいいって思っていたはずなのに、気が付いたらマティアス様にも私を好きになってほしいって思い始めてて……。思っていた反応と違うからって、子供みたいに駄々をこねて……。はぁ~……欲深い自分が心底いやになるわ……」


 頭を抱えてため息をつくフランチェスカを見て、アンナはクスッと笑ってオイルマッサージを始める。


「誰かを好きになって、その相手にも自分を好きになってほしいと思うのは、自然なことじゃないですか?」

「――アンナもそんな気持ちになったことがあるの?」


 アンナはフランチェスカが十歳の時にヴェルベック家に雇われ、それから八年の付き合いだ。だが恋人がいるというような話は聞いたことがない。


「ご存じでしょう。あたしの恋人はこれですよ」


 アンナは親指と人差し指の先を合わせて、指で円をつくる。


「お金?」

「そうですよ。ふふっ……」


 アンナはクスッと笑いながら、にんまりと笑う。


「そりゃあ、お屋敷に出入りしている業者の殿方から、時折お誘いは受けることはありましたよ。周囲に言われて、たまにデートとかしたりしてしました。でも殿方といても楽しくないなーって思うんですよね。その時間働きたいって思っちゃう。あたしは男よりも圧倒的に欲しいものがあるんです」


 アンナはきっぱりとそう言い切った。

 恋愛だけが人生ではない。確かにそれはそうだ。フランチェスカだってそう思っていた。

 マティアスに出会わなければ、夫になった人が彼でなければ、フランチェスカはきっと恋には落ちていなかっただろう。

 そこでアンナはさらに言葉を続ける。


「でも、お嬢様が拗ねたくなる気分はわかりますよ。寂しかったんですよね?」

「……ええ」


 フランチェスカはこくりとうなずいた。


「女官の件は……マティアス様にほんの少しでも『それは困る』って言って欲しかっただけよ」


 はっきりそう断言すると、胸のつかえがとれる気がした。

 そもそも王太子妃つきの女官という女性の誉れのような役職を、断るほうがどうかしているのだ。それはわかる。

 だがフランチェスカは、彼に必要とされたかった。あの人に『側にいてほしい』と言ってほしかった。その期待をあっさり裏切られて、勝手に拗ねてしまったのだ。


「寝る前に、もう一度謝りに行くわ。自己満足なのはわかってるけど……そうしたいの」


 アンナに愚痴を聞いてもらったおかげで、胸のつかえが少し軽くなった。


「そうですね」


 マッサージを終えたアンナは、タオルでフランチェスカのすらりと伸びた足を拭きながらうなずく。

 それから髪を念入りにブラッシングしてもらっているところで、ドアが軽くノックされた。

 アンナが「はい」と言いながら立ち上がり、ドアを開ける。


「ま! 少々お待ちくださいませっ……」


 そして慌ててフランチェスカのもとに戻ってくると、小さな声でささやいた。


「旦那様ですよっ! 当たって砕けない程度に頑張って……!」

「えっ!?」


 フランチェスカは目を丸くした。


(マティアス様がお部屋に来てくださったってこと!?)


 砕けない程度にがんばれというのはどういうことだ。そう簡単に言わないで欲しい。


 戸惑うフランチェスカをよそにアンナは床に置いていた盥やオイルをサッと手にとると、グッと親指を立ててウィンクしてから、

「奥様、おやすみなさいませ」

 と言って、足早に部屋を出て行った。


 マティアスから夜寝る前に部屋に来てくれるなんて、初めてのことだ。


(どうしたのかしら……)


 フランチェスカは慌てて室内履きに足を入れて、ドアへと向かった。

 ドアから少し離れたところに立っていたマティアスはまだ外出着のままで、どこか落ち着かない様子で体の前で腕を組み、手のひらで上着の左胸のあたりを押さえている。


「マティアス様……どうぞ部屋の中に入ってください」


 夫なのだから妻の部屋に入るのに許可はいらないのだが、一応『白い結婚』だから遠慮しているのだろう。彼らしいことだと思いながらマティアスを部屋の中へと招き入れる。


「夜分にすみません」


 マティアスは低い声でそう言って、それから立ち尽くしたままのフランチェスカに手を伸ばした。大きな手がフランチェスカの手をそうっと取り、そのまま握りしめる。


「まっ、マティアス様?」


 いきなり手を握られて、カーッと頬が熱くなる。

 いったいどういうことかと彼を見上げると、

「あれから考えていました」

 マティアスの低音の声は、どこか熱を帯びてかすれていた。


「な……なにをですか?」


 もしかしたら本格的に愛想をつかされたのではないか。フランチェスカはかすかに震え、怯えながら問いかけた。


「帰りの列車の中で『感情にまかせた発言でした。ごめんなさい』とあなたが謝ってくれたことです」

「っ……」


 改めて己の不甲斐なさと未熟さが思い出されて、頬が赤くなる。恥ずかしくなってうつむくと、マティアスはさらに言葉をつづけた。


「俺は『怒っていない』と伝えたけれど、それだけでは足らなかったと思って……それでここに来たんです」

「え……?」


 不安のまま顔をあげると、こちらを優しく見下ろすマティアスと視線がぶつかった。


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