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夫の思いと妻の願い・8

 カールと入れ違いにやってきたマティアスに抱き寄せられ、彼の腕の中にすっぽりと収まったフランチェスカは、戸惑いながらもそのまま顔をあげる。


「フランチェスカ。大丈夫ですか?」

「はっ……はい。その……大丈夫です」


 現金なものだが、マティアスが自分を心配してくれているとわかると本当に『もう大丈夫』という気になってきた。


(マティアス様は私の守護天使だわ)


 そんなことを考えていると、マティアスは傷がついていないか確かめるように、フランチェスカの頬のあたりを指の背でそうっと撫でる。まるで猫にでもなったような気分だが、嬉しいのでそのままでいた。


「ジョエル、なにがあったの?」


 そこに母――サーラが遅れて応接間に入ってくる。


「そうですね……。このことはマティアス殿にも話しておかないといけません。座りましょう」


 ジョエルのその一言で、改めて母を含めた四人でテーブルを囲む。

 そこからあらかたの話を聞き終えたところで、隣に座っていたマティアスがどこか渋い表情をしていることに気が付いた。


「マティアス様?」


 いやな予感がして呼びかけると、彼は軽く息を吐いてフランチェスカの顔を見つめる。


「――本当にそれでいいのですか?」

「え?」

「さきほどの侯爵の態度はいったん横に置いておいて、王太子妃つきの女官として出仕するのは悪い話ではないでしょう。もう少し考えた方がいいかと」


 彼は至極まじめな顔をしていたが、なんのていらいもなくきっぱりと言い切るマティアスの言葉に、フランチェスカは茫然としてしまった。

 ここまで丁寧に積み上げていた彼への思いが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちるような、そんな気持ちになる。


「どうしてそんなことをおっしゃるんですか……?」


 フランチェスカは震えながら尋ねていた。


「どうしてって……」

「いやですっ!」


 フランチェスカは叫んでいた。それを見たマティアスが驚いたように目を見開いた。

 そんな反応を想定していなかったと言わんばかりの表情だ。


(どうしてそんなお顔をするの……?)


 フランチェスカは唇をぎゅっとかみしめる。

 勝手ではあるが、女官を断ったことを、マティアスは喜んでくれるのではないかと思っていたのだ。

『シドニア花祭り』のために奔走するフランチェスカを、マティアスはいつも褒めてくれていた。


『俺もあなたみたいな人にはすこぶる弱くて……好きですよ』


 そう言ってくれたのはマティアスなのに。フランチェスカはあの言葉だけで、千年も寿命が延びるような気がしたくらい嬉しかったと言うのに。

 どうして『考え直した方がいい』だなんて自分を切り捨てようとするのか、突き放そうとするのか意味が分からない。


(全部、嘘だったってこと……?)


 胸の奥がひんやりと冷たくなって、ぶるっと体が震えた。


「――私が邪魔なんですか!?」


 突然のフランチェスカの冷静さを欠いた発言に、その場にいた全員が驚いたように目を見開いた。

 しまったと思ったが、一度口にした言葉は取り消せない。


「フランチェスカ……?」


 マティアスが驚いたように目を見開いたが、フランチェスカはさらに言葉を続ける。


「だって、そうでしょう!? 女官になったらシドニアで暮らせないのに! マティアス様のお手伝いだってできないのに……! 私なんかいないほうがいいってことじゃないですか!」


 腹の奥からぐうっと込み上げてくる不安、不満、戸惑い。

 そして自分なんか――といういじけた気持ちが、腹の底から汚泥のようにあふれ出してくる。

 マティアスに近づけたと思っていたのに、そうじゃなかった。

 そう思うと辛くて、醜い感情を吐き出すことが止められなっていた。


「だったらはっきり言ってくださいっ! 本当は、侯爵の地位をかさに押しかけてきた私に、ずっと迷惑してるしうんざりしてるって……! 本当は今日、迎えに来るのも嫌だったって! 連れて帰りたくなんかないって! そうしたら私、女官だってやるわっ!」

「フランチェスカ!」


 サーラが遮るように声を挙げて、次の瞬間、パチンと頬が鳴った。

 一瞬なにが起きたかわからなかった。ビックリして目をぱちくりさせると、サーラが右手をぎゅうっと握りしめたまま、ぷるぷると震えている。

 どうやら頬を打たれたらしい。左の頬がぴりぴりと痺れていた。十八年間生きてきて、親にぶたれたのは生まれて初めてだった。

 サーラは震え、戸惑いながらも、白い手でそうっとフランチェスカの手を取る。


「……どうして急にそんなことを言いだしたの? 感情にまかせてそんなことを言ってはだめよ、フランチェスカ。旦那様に謝りなさい」


 母も兄も本当の意味で、フランチェスカがマティアスの妻になっていないことを知らない。

 だからフランチェスカの本当の焦りがわからないのだ。


「だって……だってっ……」


 フランチェスカは唇を震わせながら、マティアスを見つめた。

 マティアスは怒ってなどいない。

 彼の美しい緑の瞳は、相変わらずキラキラと輝いていて、気遣うようにフランチェスカを見つめていた。


(ああ、私はずるいわ……)


 疎ましく思っているのならそう言って――。

 口ではそう言いながら、マティアスは絶対に言わないだろうと頭ではわかっていた。


 マティアスは優しい。

 わかっていて彼を困らせるようなことを口にしたのだ。要するに駄々をこねたのである。

 なぜ自分なこうなのだろうと思うと、恥ずかしくて胸が締め付けられる。


(恥ずかしい)


 みじめで苦しい。

 うつむくと、フランチェスカの青い瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。

 一粒こぼれるともう抑えられなかった。まるで河川が決壊したかのように涙が後から後から、零れ落ちてくる。


「ごめんなさいっ……」


 フランチェスカは消え入りそうな小さな声でそう言うと、いてもたってもおられず、応接間を飛び出したのだった。


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