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夫の思いと妻の願い・7

 マティアスがヴェルベック邸に着いたのは、午前中のお茶の時間が終わるころだった。

 来客があるのか、豪華な馬車が停まっている。マティアスは貴族社会から距離を取っているので来客が誰かまではわからない。だがそのいっぺんの隙もない豪奢な馬車の様子から、相当身分の高い人物が訪れている気はする。


(馬車の中で待っていようか)


 エントランスでそんなことを考えたところで、マティアスが到着したことを伝え聞いたのだろう。フランチェスカの母である侯爵夫人のサーラが、ニコニコしながらマティアスを屋敷の中に迎え入れてくれた。


「フランチェスカの元気そうな姿を見せてくれてありがとう。あちらでずいぶん楽しく過ごしているみたいで、ほっとしているわ」


 親しげにそう言われて、マティアスは恐縮するしかない。


「いえ、とんでもないことです」

「次はあなたも一緒に遊びに来てちょうだい。フランチェスカからあなたの話を聞くだけじゃなくて、直接お話を聞きたいの」


 サーラは本気でそう思っているようで、しきりに『夫婦一緒に』と繰り返していた。


「ですが私のような者が……」

「もうっ、謙遜なさらないで」


 サーラは身をひこうとするマティアスの気配を敏感に感じ取って、グイグイと迫ってきた。

 フランチェスカは家族にどんなふうにマティアスのことを話したのだろう。

 妙に落ち着かない気分になった。


「ところでフランチェスカは?」


 話を変えようと問いかけると、

「それが今、ジョエルと一緒にお客様の応対をしているのよ」

「お客様?」

「カール・グラフ・ケッペル侯爵よ。私の一番上の兄の息子で……あぁ、噂をすれば」

 侯爵夫人の目線を追いかけると、長い廊下の向こうから眼鏡をかけた長身の男が近づいてくるのが見えた。


「カール、もうお帰りになるの?」


 おっとりした侯爵夫人の問いかけに、カールと呼ばれたその男は苛立ったように顔を歪め、

「鞭が手元に会ったら、兄妹とも殴りつけたところだ!」

 と、吐き捨てるように言い放った。


「王家の血を引く誉れ高き侯爵家でありながら、兄妹揃ってあの態度……! 貴方たちが甘やかしてばかりだから、あのように生意気に育つのだ!」

「――」


 突然の罵声に驚いたのか、それまでにこやかだった侯爵夫人の顔からすうっと色が抜ける。突然の罵声に、彼女の華奢な体がかすかに震え始めた。

 それも当たり前だろう。男から頭ごなしに暴力的な態度を取られて、怯えない女性などいない。


(侯爵だかなんだか知らないが、碌な男じゃないな)


 次の瞬間、マティアスは夫人の前に一歩足を踏み出して視界から遮るように立ち、男の肩をつかんでいた。


「なっ、なんだお前は、無礼な!」


 いきなり肩をつかまれたカールは戸惑いながらその手を振り払おうとしたが、当然ビクともしない。それどころかマティアスはつかんだ指に力を込めて、低い声で問いかける。


「無礼なのはそっちだ。侯爵夫人に謝罪してください。彼女の子供たちはあなたに非難されるような人物ではないはずです」


 その言葉を聞いて、夫人が瞳を潤ませる。


「マティアス……」

「マティアス……? お前っ……! 『荒野のケダモノ』か!」


 カールは合点がいったと言わんばかりに背の高いマティアスをにらみつけ、もう一方の手でマティアスを指さす。


「フッ、八年前のお前の失態を僕は覚えているぞ! 侯爵令嬢と結婚したからと言って、由緒正しきヴェルベック家の一員にでもなったつもりか! ノコノコ顔を出して夫面か!? 野良犬のお前にこそ鞭をお見舞いしてやろうか!」


 どうやらこのカール・グラフ・ケッペル侯爵という男は、八年前の叙勲式にも顔を出していたらしい。マティアスは当時出席していた貴族の顔など誰ひとり覚えていないのでどうでもいいが。


(ゴミみたいな男だな……)


 一応の礼節を保ったが、この男は先ほどからものすごく失礼な言葉しか吐いてこないので、マティアスは仮面を外すことにした。

 単純に、無礼には無礼で返す、それだけである。


「俺を鞭打つ? お前が?」


 マティアスから零れ落ちた声は、恐ろしく低かった。

 そして肩をつかんでいた手を離し、即座に手首をつかんで上にあげる。いきなり腕を引っ張り上げられたカールは驚愕し、振りほどこうとジタバタと腕を動かしたが、マティアスは絶対に離さなかった。


「いいか!? なにを勘違いしているのか知らないが、野良犬が大人しく鞭打たれると思ったら大間違いだ! 俺は打たれる前にお前の喉を噛み切るし、お前が俺の妻と義兄を鞭打つというのなら、その前に俺がお前をぶん殴ってやる! この拳でな!」


 マティアスの低く張りのある声が、屋敷のエントランスに響き渡る。

 カールがビクッと体を震わせた次の瞬間、マティアスはつかんでいた手を離して、そのまま優雅に自身の胸元に手をのせ深々と頭を下げる。


「失礼。最愛の妻の家族をいきなり罵倒され、頭に血が上りました。なにしろ野良犬ですので、しつけが行き届いておらず申し訳ありません」

「――ッ……」


 慇懃無礼なまでの謝罪を見て、カールは何度か口をパクパクさせたあと、


「こっ、この無礼者めがっ!」

 と吐き捨てるように言い放つと、むしゃくしゃしたのか侯爵家のドアを蹴り上げ、待っていた馬車に乗り込み屋敷を出て行った。


 馬車が敷地を完全に離れて、エントランスの緊張した空気が少しだけ緩む。


「――はぁ」


 マティアスは大きなため息をつくと同時に、腰に両手を当てて目を伏せた。


(やっちまった……)


 この場には侯爵家に仕えるメイドや使用人がいて、マティアスの野蛮なふるまいを茫然とした様子で見ていた。

 せめてフランチェスカの身内の前では紳士的に振る舞いたかったが、後悔先に立たずである。


「侯爵夫人、申し訳――」


 とりあえず謝ろうと、謝罪の言葉を口にしかけた次の瞬間、

「まぁっ、なんて素敵なの!」

 サーラは瞳をキラキラと輝かせながら、声をあげた。


「はっ?」

「みんな、今のご覧になって? まるでお芝居を見ているようだったわ! 私、お姫様にでもなった気分よ~っ!」


 サーラはメイドたちを見回して、はしゃいだように声をあげる。するとメイドたちもわ――っと一斉に集まってきて、マティアスたちを取り囲んだ。


「ですわですわ、スッキリしましたわ!」

「あたし、ケッペル侯爵って、前々から感じ悪いって思ってたんですっ!」

「同じ王女殿下の孫だというのに、ジョエル様のほうが国民に人気があるものだから、ずっと嫉妬してこそこそ意地悪していましたよねっ!」

「マティアス様に腕をつかまれて、お顔を真っ赤にしてプルプルしていたの、正直言って最高にすっきりしました!」

「ほんと、ザマァですわっ!」


 彼女たちは次々にケッペル侯爵がいかに小さい人間かということを並べ立てた後、サーラをかばったマティアスを尊敬の眼差しで見つめ始めた。


「あぁいや……出過ぎた真似をしてしまって……」


 思わぬ態度にじりじりと後ずさるが、メイドたちは「かっこよかったですっ」と瞳を輝かせつつ、その分グイグイと迫ってくる。

 照れくさいが、彼らはマティアスが『荒野の野良犬』と呼ばれていることを知らないのだろうか。

 そこで脳内にふとフランチェスカが浮かんだ。


(どうやら彼女の物おじしない態度は、ヴェルベック家の家風なのかもしれないな……)


 そういえばあの男は、兄妹と話したと言っていた。

 いったいなんの話し合いが行われていたかはわからないが、ああも激高するような内容だったのだ。

 まさか本当に暴力を振るわれていないだろうか。急に不安になった。


「その……失礼。フランチェスカの様子を見に行ってきます」


 ぺこりと頭を下げてメイドの輪を抜けると、カールがきた廊下に向かって走り出していた。


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