夫の思いと妻の願い・5
翌朝――。久しぶりの実家で羽根を伸ばしたフランチェスカは、マティアスが迎えに来てくれるのを今か今かと待っていた。
「フランチェスカ、朝からずっと窓の外ばかり見ているね。せっかく帰ってきたというのに、もう帰りたい?」
窓の外を見てずっとソワソワしている妹に、兄がからかうように問いかける。
「マティアス殿との生活が楽しそうでなりよりだよ」
「もうっ、お兄さままでそんな意地悪を言わないで」
兄の言葉に赤面しつつ、フランチェスカは照れ隠し半分で、紅茶のカップを口元に運ぶ。
庭に面した応接室の窓を風が叩いている。
王都はすでに春の兆しがある。昔は『早く暖かくなってほしい』と思うばかりだったが、今は王都よりも、寒さ厳しいシドニアが懐かしい。
(私はもう、あの地を私の故郷だと思い始めているのかもしれない……)
冬のシドニアは山を越えて吹きこんでくる冬の風は凍えるほど冷たいが、どこを掘っても温泉が出るほど地熱が高く、寒さの割には積雪量はそうでもないらしい。街中に市民浴場も複数あり、屋敷でも豊富に湧き出る温泉を引いて湯船に貯めたり、料理や洗濯にも利用している。
数百年前は保養地として一世を風靡していたらしいが、その頃の賑わいを取り戻せたらきっとシドニアはまた豊かに蘇るだろう。
(『シドニア花祭り』はそのための大事な一歩……必ず成功させなくちゃ)
決意を新たにしていると、正門から一台の馬車が敷地内に入ってくるのが見えた。
「あっ」
マティアスだろうか。慌てて椅子から立ち窓から外を覗き込んだ。だがその馬車は明らかに上等で間違いなく貴族が乗っている。
(お父さまかお兄様のお客様かしら……)
途端に興味を失って、フランチェスカはすっと椅子に座りなおす。
いっそのことマティアスをタウンハウスまで迎えに行こうかと思ったが、彼は彼で家族に挨拶をするつもりだろうし、行き違いになっては元も子もない。
(マティアス様にも、こちらで休んでいただきたかったな……)
仲良し一家であるヴェルベック家の家族団らんのために、フランチェスカだけ実家に帰らせたと頭ではわかっているが、同じ家族なのに身をひいてしまうマティアスのことを考え、胸が苦しくなる。
楽しい時間を過ごせば過ごすほど、ここに彼がいてくれたらと思ってしまうのだ。
それから間もなくして、メイドが来客を告げに応接間にやってきた。
「ジョエル様、ケッペル侯爵がお越しです」
「カールが?」
ジョエルが紅茶を飲みながら、軽く首をかしげた。
「突然だな」
カール・グラフ・ケッペル侯爵は、アルテリア王国の大貴族の一翼を担う公爵の息子で、ジョエルやフランチェスカとは従弟にあたる次期公爵だ。かつては王子の学友として同盟国で盟主でもある帝国への留学にも付き添っていた。エリート中のエリートである。
「父上からはなにも聞いてなかったが……僕が対応しよう。南の応接室にお通しして」
「それが、ジョエル様と一緒にフランチェスカ様にもご挨拶したいということでした」
「私にも?」
メイドの発言に、兄と妹は顔を見合わせる。
なぜ、どうして?
少し考えたが、そもそも挨拶くらいは最初からするつもりだった。うなずいてジョエルと一緒に応接室へと向かうことにした。
「カール、お久しぶりです」
ドレスの裾をつまんで軽く礼をするフランチェスカに、窓辺に立ち外を眺めていたカールは、少し大げさな笑顔を浮かべ、近づいてきた。
「やぁ、フランチェスカ。元気だったかい。相変わらず美しいね。君が王都に戻ってきたと聞いて、慌てて駆け付けたんだよ」
慌てて駆け付けてもらうほどの関係ではないが、これも美辞麗句のひとつだ。
フランチェスカはにっこりと微笑み、
「お会いできてうれしいです」
と、当たり障りのない返事をする。
「シドニア領はどうかな。田舎暮らしはさぞかし辛いだろうね」
カールは中指で眼鏡を押し上げながら、切れ長の目を細める。
カールはジョエルより年上の三十歳である。艶やかな栗色の髪に眼鏡をかけており、どこか冷たい印象を与える容貌だが、顔立ちはそこそこ整っていた。
(カールったら兄さまのことを昔から目の敵にしていたくせに……いったい何の用かしら)
王女を祖母にもつ従弟同士ということで、カールはジョエルと自分が常に比べられていると思っていたらしい。気にし過ぎだと思うのだが、やれ乗馬の腕前がどうのとか、士官学校での成績がどうのと張り合ってきていた。
おっとりした性格のジョエルはそのたびに『すごいね、カール』と流していたが、それでも気に入らないのか『お前は顔だけの男だからな』と嫌味を言っていたのを、フランチェスカは忘れていない。
(とは言え、兄さまがカールに劣っていることなんか、なにひとつないのだけれど)
そんなことを思いつつ、やんわりと微笑んだ。
「楽しく過ごしております。お気遣いありがとうございます」
辛いだろうと決めつけられると、そんなことはない、こんなふうにすばらしいのだと言い返したくなるが、侯爵はああいえばこう言うの典型的な男なので、わざわざ否定する必要はない。
腹の奥に生まれた反発心をのみ込んでフランチェスカはニッコリと微笑むと、兄を含めた三人でテーブルに腰を下ろした。
お茶を淹れたメイドが部屋を出ていくと、ジョエルが口を開く。
「カール、今日はいったいどういう用件かな? 父は朝一番で領地に行ってしまったので、僕が代わりに聞くことになるけれど」
「ああ、そうだね。僕も忙しいし、暇じゃない。さっそく本題に入ろうか」
カールは紅茶の香りを楽しみながら、眼鏡の奥のまつ毛を伏せ、どこか自慢げに口を開いた。
「これはまだ非公式の話なので他言無用にしてもらいたいんだが。実はロドウィック帝国から、第二皇女を王太子妃として迎えることが決定したんだ」
「「ええっ!?」」
カールの驚きの発言に、ジョエルとフランチェスカの声が見事にハモり、応接室に響き渡った。
ロドウィック帝国は大陸の東に位置し、建国千年を超える、もっとも歴史がある大帝国だ。
豊かな国土と安定した治世のおかげで世界の政治文化の中心であり、アルテリア王国の初代王も出身はロドウィック帝国の皇帝の血を引く縁者、ということになっている。事実かどうかは別にして、帝国の流れをくむということは、ある種の血統の正当性を保証することなのだ。
そしてアルテリアは現在、帝国の同盟国の一翼を担っている。八年前の『シュワッツ砦の戦い』も、帝国の要請を受けて出兵したのだ。
(それにしても、国土が十倍違うのに……)
皇女の持参金は小さな国の国家予算に値するし、彼女が所有する帝国領からの収入も莫大であるはずだ。想像ではあるが今後の付き合い方次第では、王太子妃が産んだ子が帝国で地位を得ることになるかもしれない。
そんな由緒正しき帝国の第二皇女を王太子妃に迎えるというのは、王国側からしたら破格の申し出だ。もはや国家事業である。
そんなこともあるのかとフランチェスカが感心していると、
「信じられない話だが、皇女の今は亡き乳母がアルテリア出身だったことで、幼い頃から我が国に親しみの感情を抱いてくださっていたらしいんだ。まったく、その乳母に勲章を送りたいくらいだよ」
カールは冗談めかしつつも満足げに息を吐き、カップをソーサーと一緒にテーブルの上に置いた。
「そうだったんですね」
ジョエルは感心しつつも、少し用心するように声を抑える。
「それで……フランチェスカをこの場に呼んだのは、どうしてですか?」
その瞬間、カールは声を抑えつつも、どこか興奮した気配をにじませながら、
「約一か月後、皇女は我が国に嫁いで来られる。フランチェスカには、皇女付きの女官として王宮に上がってもらいたいんだ」
と、発言したのだった。
「えっ!」
(帝国の第二皇女様付きの女官……私が!?)
フランチェスカは、衝撃の内容に体をぶるっと震わせ言葉を失った。