夫の思いと妻の願い・2
マティアスが親切でしてくれたことなのに、その言葉はどこか色気を含んでいて、フランチェスカの心臓はバクバクと跳ね始める。
夫への片思いを自覚してしまった今、その言葉はあまりにも刺激が強かった。
(だめ、フランチェスカ! 平常心、平常心よ!)
こんなことでは練習どころではない。なにかないかとテーブルの上に目をやると、出来上がったばかりの脚本が置かれているのに気が付いた。
慌ててそれを手に取りパラパラとめくる。
「脚本を読んでくださっていたんですか?」
「え? あ、ああ……はい。ついさきほど、一通り目を通しました」
マティアスはうなずいて、思い出したように苦笑する。
「他の配役は、皆で平等にじゃんけんで決めると言ってましたよ。恐ろしいくらいのやる気です。あのくらい仕事も真面目にやってくれたらいいんですが」
「まぁ……」
珍しいマティアスの軽口に、フランチェスカの頬も緩む。
そう、マティアスの部下の中に元役者という異色の人物がいたらしく、彼を中心にしてそのほかの登場人物も、役人を含めた素人が演じることになった。お祭りなのだから皆で楽しもうということになり、なんとシドニア市民劇団が誕生としたというわけだ。
「この本……演技ができない俺のために、いろいろ工夫してくださったんですね。ありがとうございます」
マティアスは脚本のページをなぞりながら柔らかく微笑んだ。彼の感謝の言葉に、フランチェスカの心臓は甘く疼く。
「い、いえ……私は、そうするように作家に頼んだだけですから。私はなにもしておりませんっ」
そう――。BBはフランチェスカだが、マティアスにそれを知られるわけにはいかない。
これはフランチェスカが『頑張った』成果ににしてはいけないのだ。
だがマティアスは、唇を引き結ぶフランチェスカを見おろして、軽く緑の目を細める。
「?」
首をかしげると同時に、彼は手を伸ばしてフランチェスカの頭をぽんぽんと撫でる。
「っ!?」
「それでも、あなたが頑張ってくれていることには変わらないので」
「――はい」
優しいマティアスの声に、心がぽかぽかと温かくなっていく。
「あの……マティアス様はあくまでも領主の仕事が第一ですから。出てもらえるだけで本当に嬉しいです」
フランチェスカは照れつつそう言うと「では読み合わせの練習をしましょうか」と夫を見上げた。
「ええ」
マティアスはにっこりとうなずいて、改めてフランチェスカが膝の上に広げた脚本を覗き込んだ。
これはふたりの共同作業だ。
(とりあえずお芝居を成功させることを励みにがんばろう!)
フランチェスカは緩む頬を必死に引き締めつつ、彫刻のように美しい夫の端整な横顔を見つめたのだった。
そうしてマティアスとフランチェスカの稽古は順調に始まったかのように見えたのだが――。
「フランチェスカ。体は大丈夫ですか?」
「はっ、はいっ」
「ですがお顔が強張っているようだ。列車は揺れますので、どうぞ俺に寄り掛かってください。その……おいやでなければ」
決して無理強いはしない雰囲気の、こちらを気遣っている声に『おいやではないです。むしろぎゅっと抱き着いていたいです』と心の中で叫びながら、フランチェスカはおそるおそるマティアスのたくましい体にもたれるように寄り添った。
「失礼します」
そう言って、フランチェスカの肩を支えるマティアスの手は、今日もあたたかい。
(まさかマティアス様と一緒に王都に行けるなんて……! 嬉しすぎるわ~!!!)
フランチェスカは脳内で歓喜の声をあげた。
事の起こりは『シドニア花祭り』まで一か月強に差し迫った昨日のことだ。
打ち合わせと差し入れを兼ねて公舎を訪れたフランチェスカが、王都に行く必要があるとマティアスに伝えたところ『では自分も一緒に行く』と提案されたのだ。
驚いたが、目的は『舞台衣装の最終確認』と『ついでに実家に顔を出す』くらいだったので、断る理由もなかった。
そしてフランチェスカはマティアスとふたりで、王都へと向かっている。
しかも列車の旅だ。馬車なら三日三晩かかるところ、途中馬車での移動も必要になるが、列車なら半日で行けると言われ、生まれて初めて列車に乗った。残念ながら列車には個室がないのだが、ダニエルに鉄道会社に手を回してもらって、一両貸し切りにしてもらっている。
フランチェスカとしては『貸し切りにしなくても』と言ったのだが、マティアスからは『あまりお行儀のいい乗客ばかりではないので』とさらりと断られてしまった。
市井の人々の様子を感じてみたかったが、マティアスとふたりきりというのも悪くない。
(あまりはしゃがないようにしないと……!)
車窓から外の景色を意識して眺めながら、唇を引き結んだ。
浮ついて仕事ができない女だとは思われたくない。自分の恋心は別にして、マティアスには仕事の面で、領主の妻として認められなければならないのだ。
ふと、出がけにアンナからささやかれた言葉を思い出す。
『もしかしたら旦那様、フランチェスカ様のこと、好きになり始めておられるのでは? そうでなければあれほど近寄らなかった王都に行くはずがないのでは?』
アンナの言葉は、フランチェスカを舞い上がらせるのに十分な威力を秘めていた。
本来ならアンナも付いてくる予定だったのだが『急にお腹が痛くなりました。ということであたしは遠慮しておきますフフフ』と遠慮してくれたので、これからほぼ丸一日、彼とふたりきりということになる。
フランチェスカはマティアスにもたれたまま、ちらりと彼の顔を見上げた。
窓の外を眺めるマティアスの精悍な横顔は、窓から差し込む太陽光に彩られ金色に輝いていた。少し眩しいのか目を細めている、その顔が妙にセクシーに見えて、フランチェスカの胸はもう破裂寸前だ。
(マティアス様が八年ぶりに王都に行くのは……アンナがいうように、私のことを好ましく思い始めてくださっているってこと?)
八年間避け続けてきた王都に足を踏み入れるのは、わりと大きな決断だと思うが、自分がきっかけでその気になったと言われると少し嬉しい。
(調子にのってしまいそうだわ)
もしかしたら本当に、彼は自分を愛するようになってくれるのかもしれない。
そう思うとフランチェスカの胸はどうしようもなく弾むのだった。