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夫の思いと妻の願い・1

 己の恋を自覚したフランチェスカは悩んでいた。


「どうしよう……私、毎日マティアス様のことを素敵だなって思ってしまうのだけれど」


 アンナがフランチェスカの髪を梳きながら、呆れた顔で首の後ろに濃紺のリボンを結ぶ。


「思っているだけでは伝わりませんよ。好きになってもらおうと思ったら全力でぶつかっていきませんと」

「それはそうね。マティアス様からしたら、私はいずれ王都に返そうと思っているくらいの妻ですもの。私はあなたの妻をやめるつもりはありませんって、主張しないと何も変わらないわよね」


 領主の妻として有能であること、なおかつひとりの女性としてマティアスのことを好ましく思っていて、普通の夫婦のようになりたいとわかってもらうこと。

 それが目下、フランチェスカの目標になっていた。


「さ、できましたよ。お嬢様は男装なさっても美少女ですが、これはこれで妖しい魅力があって最高ですね。ふふっ」


 りぼんの形を整えたアンナは満足げにそう言うと、励ますようにフランチェスカの背中を叩く。


「どんな女でも、好かれて悪い気がする男はいないと言いますからね。そのお嬢様の美貌でもって、マティアス様をコロッと転ばせてしまえばいいんですよ」

「そんな無茶ばかり言って」


 男装姿の自分に夫が自分にコロッとされても困るのだが、アンナの適当な軽口を聞いているとまぁ、気楽にいこうか、と思えてくるのが不思議だ。


「じゃあマティアス様のお部屋に行ってくるわね」


 フランチェスカは化粧台の椅子から立ち上がり、スタスタと廊下の奥のマティアスの書斎へと向かった。


(ズボンって歩きやすいのねぇ……なにより軽いのがいいわ)


 白いシャツにこげ茶色のズボン、そして足元は乗馬ブーツ。長い金髪は後ろで一つにまとめているだけの簡素な格好だが、衣装が出来上がるまではこれで練習をすることになっている。

 フランチェスカはマティアスの部屋の前で背筋を伸ばすと、軽くドアをノックした。


「マティアス様。フランチェスカです。お芝居の稽古に来ました」


 そう言い終えるやいなや、ドアが開く。


「どうぞ」


 ドアを開けたのはダニエルだった。男装姿のフランチェスカを見てパッと笑顔になり、いやはやと感嘆の声をあげた。


「これはこれは……奥方様なら立派にジョエル様を演じられますよ」

「ありがとう。お兄様はもっと気合の入った完璧美人なのだけれど」


 フランチェスカが少し照れつつ書斎の中に入ると、書き物机で仕事をしていたマティアスも立ち上がり、同じように軽く目を見開いた。


「フランチェスカ……」


 こちらを見つめる彼の眼差しになにか熱いものを感じて、フランチェスカは夫の次の言葉を待ったが、

「いや、兄上によく似ておられて……美しいな」

 マティアスはそれだけ言って、じっと食い入るようにフランチェスカを見おろす。

 彼の美しい緑の瞳がまっすぐに自分に注がれると、なんだか妙に落ち着かない。


(好きだと自覚してから、一挙手一投足にドキドキして、心臓が忙しくなってしまったわ)


 そのまま視線を避けるようにソファーに腰を下ろすと、マティアスも隣に座る。


 ダニエルがテーブルにお茶を置くのを眺めながら、

「兄は王国一の美男子と言われていますから」

 と笑う。そう、兄に似ているから美しいのだ。調子にのってはいけない。

 フランチェスカの言葉に、隣のマティアスは驚いたように目を見開いた。


「いや、そうではなくて……」

「え?」


 そうではないというのはどういうことだろうか。ジョエルがアルテリア王国一の美男子とまで言われているのは揺るぎない事実である。


(もしかして、兄に似ているというのもお世辞だから、本気に取るなってことかしら?)


 だが結局、マティアスはなにか言いたそうに口を震わせたが、左胸のあたりを手のひらで押さえて大きく深呼吸すると、

「もうお体は丈夫ですか?」

 と、何事もなかったかのように優しく尋ねてきた。


 どうやらふわっと誤魔化されてしまったようだ。


(気を遣わせてしまったかしら……)


 申し訳ないと思いつつもフランチェスカは小さくうなずいた。


「はい。マティアス様に看病していただいて、すっかり元気になりました」


 そう――。夜の睡眠時間を削り執筆や事務作業にあてていたフランチェスカは、無理がたたって寝込んでしまった。そしてその間、ずっと看病をしてくれたのがマティアスだ。

 仕事を休んでフランチェスカの側にいてくれた。

 フランチェスカは思い切って、マティアスを見上げる。


(マティアス様が、好きだわ)


『執筆の自由』欲しさにシドニア領に来たフランチェスカだが、今はこの若干無口で、でも礼儀正しくて優しいマティアスに恋をしている。まさか結婚して夫に恋をすることになるとは思わなかったが、落ちてしまったものは仕方ない。


(マティアス様に、私の気持ちをお伝えしたいけれど)


 マティアスはよかれと思って『白い結婚』を選択してくれたわけだが、あなたを本当に好きになってしまったので、ちゃんと妻になりたいと伝えたら、どんな顔をするだろうか。

 好きだからここにいたいと告げたら、困らせてしまうだろうか。


(わからない……わからないわ……)


 マティアスにとって自分はどういう存在なのか。

 そもそもずっと独身を通していたくらいだから、そういう主義なのだろうか。

 愛人はいるのか――。

 気になるけれど、尋ねて彼に嫌な思いをさせたくないし、いると言われて傷つきたくもなかった。

 十八年間、現実の男に恋をしたことがなかったから、なにが正解なのかわからないし自分がなにをしたらいいのか、選べない。

 ただこの人のそばにずっといたい――。

 子供のようにそう願っているだけだった。


「あ、あの、マティアス様っ……」


 彼の名を呼び、そうっとマティアスの顔を下から覗き込む。


「ずっと一緒に眠ってくださって……ありがとうございました」


 マティアスは凍えるフランチェスカを腕に抱いて、温めてくれた。

 優しく何度もキスをして(額にではあるが)、幼い子供のように気が小さくなっているフランチェスカを慈しんでくれた。あのぬくもりをきっかけに、フランチェスカは彼への思いに気づいたのだ。

 だがその瞬間、うつむいたマティアスの肩のあたりがビクッと揺れた。

 見れば眉間のあたりに、シドニア渓谷もびっくりの深いしわが刻まれている。ただでさえ強面な顔が非常に恐ろしいことになっている。


(なんだか困っておられるみたい……ああ、やっぱり迷惑だったってこと?)


 マティアスは優しい人だから表立って拒否できなかっただけなのかもしれない。


「あっ……あの、ご迷惑だったとは思うのですが……その、お礼の言葉だけでもお受け取りください」


 マティアスを不愉快な気持ちにさせたくない。とにかく彼が優しくしてくれるからと言って、調子にのらないでおこうと気持ちを引き締めたところで、マティアスが大きな手で顎のあたりを撫でながら、深いため息をつき、それからなにかを吐き出すようにささやいた。


「凍えるあなたを温めるのが、俺でよかったと思っています」

「っ……」


 心臓が止まるかと思った。


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