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熱に浮かされて・10

 マティアスがフランチェスカを好きになったとか、そういう意味ではないと頭ではわかっているのに、彼の『好き』という言葉に胸が熱くなる。

 その瞬間、フランチェスカの胸に小さな火が灯った。


(そっか……私、この人を好きに……大好きになってしまったんだ……)


 書くこと以上に楽しいことなどあるはずがない。そう思っていたのに。

 今の今までずっと、自分は恋に落ちたりしないと思っていたのに、打算だらけで嫁いだ夫に恋をしてしまった。

 お話を書いている時とはまた違う、謎の高揚感に浮かされながら、フランチェスカは腕を伸ばし大樹のような男の胸にしがみつく。


(元気にならなきゃ……)


 きっと彼は自分を女性として愛したりはしてくれない。ひとりの人間として大事にしてもらえるとしても、形だけの妻としか見てもらえないかもしれない。

 だがフランチェスカは、このぬくもりのためなら何でもできる。そう思った。


「おやすみ、フランチェスカ」


 額におやすみのキスが落とされる。


「おやすみなさい、マティアス、さま……」


 フランチェスカはまた眠りに落ちる。

 マティアスがこうやって側にいてくれれば、きっともう、眠りに落ちるのは怖くない。そのことがはっきりと分かったのだった。





 フランチェスカが倒れて丸二日、アンナや侍女がフランチェスカを着替えさせたり、清めるときは部屋を離れるが、それ以外はマティアスはずっと寝室で仕事をしていた。

 背中にクッションや枕をあてて片手で書類をめくっていると、遠慮がちにドアがノックされて家令が顔を覗かせる。


「旦那様、お食事はどうなさいますか」

「……薬を飲んで寝付いたばかりだ。もう少し後でいい」


 マティアスはそう言って、自分の体にしがみつくようにして眠っているフランチェスカを見おろす。


「畏まりました。では軽食だけでも召し上がってください」


 そう言いつつ寝室に入ってきたダニエルは、ちらちらとベッドの上のふたりを見ながらニヤニヤしていた。


(笑うなよ……)


 心の中でつぶやく。気持ちはわからないでもないが、そこを突けばやぶへびになる気がして、マティアスは動揺を隠しつつ、何でもないことのようにダニエルに尋ねる。


「ところで例の件だが、調べはついたか」

「はい。旦那様が予想されていた通り、やはりBBは奥方様で間違いないかと。アンナの兄がオムニス出版でBBを担当しているということもわかりました。同僚にすら正体を明かしていないようですが、間違いないでしょう」

「……そうか」


 勘違いであってはいけないと、ダニエルを通して調べさせたのだが、マティアスの推測はやはり正しかったようだ。


(アンナがフランチェスカの執筆活動を支えていたんだな)


 侯爵家に仕える侍女にしては、アンナはフランチェスカと親密すぎると思っていたのだ。

 身分は違うが、ふたりの間には姉と妹のような信頼関係があるとマティアスは感じていた。その秘密がフランチェスカの創作活動だとすると、納得である。


「本当に、彼女には驚かされてばかりだな」


 すやすやと眠るフランチェスカの背中を撫でていると、ダニエルが眼鏡を中指で押し上げながら低い声でささやく。


「まさか離縁するなどと言われないでしょうね?」

「は?」

「確かに作家という職業は男性の専売特許かもしれませんが、才能の前にはそんなものはクソでございますよ。BBはいい作家です。性別などどうでもいいことです」


 どうやらフランチェスカと離婚するのではないかと疑われているようだ。

 しかもダニエルは主人であるマティアスより、フランチェスカの肩を持っている。


「そんなことを理由に離縁するわけないだろう。俺は素直に感心してるんだ。ただ……知られていると思うと彼女もやりにくくなるだろうから、これからも知らなかったていでいくつもりだが」


 はっきりとそう答えると、ダニエルはホッとしたように「ようございました」と胸を撫でおろす。


(とはいえ、彼女が離縁したいと言い出したらすぐにそうできるように『白い結婚』を提案しているわけで……)


 作家を続けたいフランチェスカのためには、いっそ『白い結婚』を破棄して本当の夫婦になったほうがいいのだろうかとほんの一瞬考えたが、すぐにその考えは改めた。

 いくら王女から直接勲章を与えられた軍人貴族とはいえ、マティアスは元平民でなんの後ろ盾もなく、本来であればフランチェスカとは口をきけるような立場ではないのである。

 しかも自分の王都での評判は最悪だ。

 結婚生活がうまくいくはずがないし、彼女が作家業を秘密にせざるを得ないように、自分にだって小さくてかわいい人形を収集する趣味を秘密にしている。


(百歩譲って、ジョエルのように美しい青年なら許されるかもしれないが……)


『野蛮な荒野のケダモノ』の趣味がポポルファミリー人形収集だとバレたら、百年先まで笑いものになるだろう。

 やはり彼女とはこのまま『白い結婚』を続けるしかないのだ。いつか来る別れのために。


「――それでその……BBの本は取り寄せてくれたのか」

「数日中には届きますよ。それにしてもあなたが小説を読むなんて珍しいですね」


 ベッドの側のテーブルに軽食とお茶がのったトレイを置き、ダニエルは意味深に目を細め、グレーの瞳を好奇の色に輝かせる。


「そりゃあ……わざわざ『シュワッツ砦の戦い』をモチーフにするんだ。どんな話を書くのか、知りたいのはおかしなことじゃないだろう」

「でも最初は、BBになにか思うことがおありでしたでしょう」


 ダニエルが眼鏡を中指で押し上げながら、ふふんと笑う。彼のいたずらっ子のような瞳にマティアスは心を見抜かれたような気がして、思わず反射的に言い返していた。


「俺がBBとフランチェスカとの仲を嫉妬したって言いたいのか?」


 口にした瞬間、自ら墓穴を掘ったことに気が付いた。


 奥歯を噛みしめると、

「まぁまぁ……ふふっ」

 ダニエルは楽しげに肩を揺らして笑う。


「笑うな」

「失礼しました」


 ダニエルは仰々しく胸元に手を当てて一礼し、最後までニヤニヤしつつ「なにかありましたらお呼びください」と部屋を出て行った。

 一応自分が雇い主ではあるのだが、圧倒的に人生経験に差があるせいか、ダニエルにはからかわれてばかりだ。


「くっそ……」


 耳のあたりがじわじわと熱を持ち、ぴりぴりと粟立つ。

 顔が赤く染まっているのが自分でもわかる。落ち着かせようと手のひらで顎のあたりのラインをなぞっていると、マティアスにしがみついていたフランチェスカが「ん……」と身をよじった。

 起こしてしまったのかと慌てて彼女の肩を撫でると、またすぐに眠りに落ちる。


「よかった……」


 ホッと胸を撫でおろしつつ、フランチェスカを見おろす。寒いと震えていた昨晩よりずっと顔色がいい。心配でたまらなかったが、アンナ曰くこうなると後は回復が早いので、明日には自分で食事をとれるようになるだろう、ということだった。


(そうか。元気になってしまうのか……)


 早く元気になってほしい。辛そうなところなど見たくない。

 だが同時に、もう少し彼女の面倒を見たいと思ってしまう自分がいる。頼られている快感が忘れられそうになっている。


「――まいったな」


 頭の中で『俺もあなたみたいな人にはすこぶる弱くて……好きですよ』と彼女に告げた言葉がずっとリフレインしている。

 一生懸命頑張っている人間に弱いと言ったのは嘘じゃない。

 ただそれ以上の感情をじんわりと持ち始めている自分に、マティアスはもう気づいていた。


(いやいやだめだ……。彼女は作家でいたいだけで、俺の妻になりたいわけじゃない。手段と目的をはき違えると、待っている未来は地獄だぞ!)


 フランチェスカは、マティアスをを愛しているから妻になりたいわけではない。そこを見失って、彼女の健気さにほだされて、本当の妻にしてしまっては、本末転倒だ。


(常に一歩、引いていよう。大人の男――保護者として振る舞おう。フランチェスカに深入りしないように気を付けなければ……)


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