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熱に浮かされて・9

 幼い頃から、熱にうなされている時にいつも見る夢があった。

 フランチェスカは小さな鳥で、侯爵邸の美しい屋根から空に向かって飛び立とうとするのだけれど、力強く羽ばたいても天高く舞い上がることができず、ゆっくりと落ちてゆく。

 空に恋焦がれているのに、頑張れば頑張るほど空の青が遠くなる、そんな夢。

 結局自分は、自由になどなれない。自分の思うようには生きられない。


(いやだ……いやだ……)


 苦しみの中で、ただ心の中で、叫ぶことしかできない。

 死にたくない。思い通りにならないこの体でも、やりたいことはたくさんあるのだ。


(あれ……でも私のやりたいことってなんだったかしら……?)


 頭が働かない。うまく息が吸えない。熱い。苦しい。

 いくら頑張ってもこのまま一生苦しむ人生なら、いっそもう終わらせてほしい。

 一思いに楽になりたい――。


「う……」


 身をよじると、

「フランチェスカ」

 すぐ近くで低い声がして、そのまま上半身が抱き起こされた。

 その瞬間、胸がつぶれそうな息苦しさが少しだけやわらぐ。


 すうっと息を吸い込むと、


「熱さましを飲むといい。アンナがいつも飲んでいるものだと言っていた」


 唇に冷たいガラスの感触がして、ゆっくりと甘くて苦い薬を流し込まれた。幼いころから熱を出すたび何度も飲まされていた懐かしい味。


(だれ……)


 看病はいつもアンナの役目だった。だがフランチェスカの体を抱き上げて、おっかなびっくりな手つきで熱さましを飲ませてくれるこの手は、アンナのものではない。


(誰なの……?)


 意識が朦朧して、今自分が置かれている状況が夢か現実かもわからない。

 はぁはぁと肩で息をしていると、慈しむように額の汗が冷たい布で拭われる。


「苦しいな……かわいそうに。早く熱が下がるといいんだが」


 何度か瞬きをすると、こちらを見おろす緑の瞳が目に入った。


(きれい……)


 じいっと見つめていると、その瞳が柔らかく細められる。


「目を閉じなさい」

「……」


 そう言われて少し不安になる。


 目を閉じたらもう二度と戻ってこれなくなる気がして、怖い。


 そんなフランチェスカの不安をくみ取ったのか、

「大丈夫だ。あなたをひとりにはしない。ずっとそばにいる」

「……ほん、とに……?」

「ああ。本当だ。おやすみ、フランチェスカ」

 緑の瞳の主はそう言うと、優しくフランチェスカの額に口づけた。



 次に目が覚めた時、フランチェスカの体はぶるぶると震えていた。

 朝か昼かもわからない。ただひたすら寒くて辛い。

 歯がカチカチとぶつかって頭の中で深いな音が響く。


「どうした、フランチェスカ」


 低い声で尋ねられた。

 兄でもない、父でもない。だが問いかける声は優しい。


「さ、さむい……寒いの……」


 助けを求めるようにつぶやくと、体の上に毛布が重なった。結果、ずしりと重くなったが震えは止まらない。

 暖炉で十分部屋は暖められているはずなのに、根本的に体が冷えているのだ。指先は氷のように冷たくこのままぽきりと折れてしまう気がする。


 がちがちと歯を震わせているフランチェスカだったが、

「……まだ寒い?」

 頭上から、少し困ったような声が響いた。


 ややしてベッドがギシッと沈み、それからフランチェスカの全身が、あたたかい何かに包み込まれる。


「すまない。いやだったら言ってくれ」


 そこでようやく、自分がずっしりとたくましい体に抱きしめられていることに気が付いた。

 全身を抱えるように抱かれているので、まるで赤ちゃんにでもなった気分だが、その人の体は燃えるように熱く、一気に震えが止まった。じわじわと体全体を温められているようだ。


「あったかい……」


 フランチェスカはぼんやりしながらつぶやく。

 うんと小さい頃、ふかふかのぬいぐるみをベッドにたくさん入れていたことを思い出していた。

『ひとりで寝るのは寂しくて怖い』と兄に言ったら、王都中から買い集めたぬいぐるみをプレゼントしてくれたのだ。

 もしかしたら、あのぬいぐるみたちが自分を温めてくれているのだろうか。

 高熱で頭がぼうっとしているが、脳内に大きなぬいぐるみが自分を抱っこしている姿が浮かんで、胸がほっこりとあたたかくなる。


(うれしいな……)


 ぼうっとする頭のまま、すり、と胸のあたりに頬を寄せる。ぬいぐるみはビクッと大きく身震いしたが、結局フランチェスカの肩を抱きよせてくれた。


「震えが止まったな。よかった」


 そして軽いため息とともに、おでこの生え際あたりに吐息がふれる。


 フランチェスカを慈しんでくれる優しい声。あたたかい温もり。

 家族を愛するのとは違う感情がフランチェスカの心を満たしてゆく。


(違う……これはぬいぐるみじゃない……)


 その瞬間――まるで天啓のようにフランチェスカの脳天を、痺れるような稲妻が貫いた。


(マティアス様……?)


 ああ、そうだ。ようやく思い出した。

 自分をかいがいしく世話してくれているこの人は他の誰でもない、フランチェスカの夫だ。


 マティアス・ド・シドニア。

 貴族社会に振り回されながらも責任を放棄せず、目の前の仕事を懸命にやりとげようとする、とてもまじめな人。

 そこでようやく、自分があれこれと根を詰め過ぎた結果、倒れてしまったことをひとつなぎに思い出していた。

 倒れてからいったいどのくらい時間が過ぎたのだろう。


「わたし……また、倒れて……?」


 忙しい夫に負担をかけたのだと思うと、情けないやら申し訳ないやらで涙が出てきた。


(泣きたくないのに……)


 だが体が弱ると、心まで弱ってしまうのだ。

 唇を引き結んだ瞬間、こらえきれずに溢れた頬の涙が指でぬぐわれる。


「謝らないでください。誰もあなたを責めたりはしませんよ」

 そう言うマティアスの声は優しく、逆立ったフランチェスカの心を優しく撫でつけてくれた。


「でも……」

「本当です。一生懸命に頑張った人を、笑う奴はいない」

「――マティアスさまも……?」


 おそるおそる問いかけると、マティアスは小さくうなずいた。


「そうですね。俺もあなたみたいな人にはすこぶる弱くて……好きですよ」


 少し恥ずかしそうに、でもきっぱりとマティアスは言い切った。


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