熱に浮かされて・8
脚本に関しては私が責任をもって書き直しています。
お芝居とはいえ、私の夫であるマティアス様をモデルにするんですから手を抜くつもりは一切ありません。
その代わり『シドニア花祭り』への協賛、よろしくお願いいたします。
BB
追伸 王都で宣伝をばんばん打ってくださいね!
アンナにチェックさせますからね!
それと――~……
追伸の途中で手紙の文字はぐにゃぐにゃしたミミズがはったような字で止まっている。どうやらここで力尽きてしまったらしい。
「BB……?」
マティアスは署名を見て何度も目をぱちくりさせる。
『私の夫』『マティアス』
書いてある文字を何度も読みながら、頭の中であれこれ考え、そしてひとつの結論に至った。
「もしかして、フランチェスカがBB……なのか?」
状況はその可能性をはっきりと告げているが、同時にマティアスが知っている世間の常識が、それはおかしい、そんなはずはないと横やりを入れてくる。
作家というのは男の仕事だ。
女性がやるものではないし、なおかつ侯爵令嬢が作家であるなんてありえない。
そう、マティアスの知っている常識が頭の中で叫ぶのだが、同時にフランチェスカのこれまでの行動を考えると、ありうるのではと思ってしまう。
「だがしかし……」
手紙を持ったまま凍り付いていると、「う……」と、背後でフランチェスカがうめき声をあげるのが聞こえた。
「っ……!」
慌てて手紙を戻し、書類をまとめて机の上に置きフランチェスカの枕元に戻る。
「大丈夫ですか?」
顔を覗き込むと、相変わらず両の目は硬く閉じられたままだった。目が覚めたのかとドキドキしたが、そういうわけでもなかったらしい。
しばらくその寝顔を見つめた後、ゆっくりと問いかける。
「君が……BB?」
返事が返ってくるとは思わなかったが、尋ねずにはいられなかった。
普通、貴族令嬢は性別を偽って小説を書いたりしないが、もし彼女がBBだとしたら――?
彼女が身分の釣り合う貴族たちとの縁談を断り、シドニア領まで嫁いできた理由がようやく理解できた気がした。
(そうか……すべては小説を書くためなのか!)
侯爵令嬢という身分にふさわしい男と結婚したら作家は辞める必要があるだろう。正体が露見すれば、自分ひとりの問題ではなくなるからだ。
貴族は仲間内で他人の『落ち度』をスイーツのように楽しむ。マティアスの八年前の失態ですら、彼らはいまだに忘れてはくれない。
だが結婚相手がマティアスならどうだ。
王都には『領地運営のため』と理由をつけて、この八年間で一度も寄り付かなかった。そんなシドニア領主の妻なら、作家を続けられると思ったのではないか。
彼女は貴族という特権階級よりも、作家であることを選んでこの地に来たのだ。
なぜ身分違いの結婚に積極的だったのか、その理由がようやく理解できて、少しだけ肩の荷が下りた気がした。
(それでもまぁ、ずいぶん変わっているとは思うが)
いくら流行作家といえども覆面作家だ。どこぞの名門貴族に嫁いで奥様として過ごしたほうがどれだけ華やかな生活を送れるか、比べるまでもない。
「フランチェスカ……」
なにげなくフランチェスカの手元を見ると、インクで指先が汚れていた。マティアスはそのほっそりとした手を取り、指先を親指でなぞる。
「今さらあなたのことを知りたくなった思うのは、おかしいだろうか」
正直言って、彼女に利用されたことを複雑に感じる気持ちもある。
だがやはりマティアスは、フランチェスカを悪く思えなかった。
初めて彼女と顔を合わせた日のことを思い出す。
雪吹き荒ぶ中で『私は王都で貴族として暮らすことになんの魅力も感じておりません。私もなんだかんだと十八まで生き延びましたし、今は元気です。このシドニア領主の妻として、立派に責任を果たす所存ですっ!』と、けなげに叫んでいたフランチェスカの表情を。
自由にならない貴族の結婚の中で、彼女は最適解と信じてマティアスを夫とすることを決めたのだろう。
そして切っ掛けはどうあれ、今の彼女はシドニア領のためにこの手をインクで汚している。
十歳まで生きられないと宣告されながら、作家であり続けるために王都を離れ、マティアスの妻でい続けるために、薄くてびっくりするような華奢な体で全力を出し、必死になっている。
その事実は誰にも否定できないことだった。
BBに嫉妬していた自分を思い返すと、穴があったら入りたいくらいである。
「旦那様、寝室の用意ができました」
ドアをノックして、ダニエルが姿を現す。
「わかった」
マティアスは小さくうなずき、フランチェスカの膝裏と背中に手を差し入れ、毛布ごと持ち上げる。腕の中の可憐な少女を尊敬の念で見つめるとともに、しっかりと抱いて彼女の部屋を出た。
夫婦の寝室のベッドに寝かせ、彼女の寝顔を見つめた後どうにもたまらなくなり――そのままそうっと頬に触れるだけのキスをした。そうせざるを得なかった。突き動かされてしまったのだ。
「早く元気になってくれ、フランチェスカ……」
今、自分はどんな顔をして彼女を見つめているのだろう。知るのが少し怖かった。