熱に浮かされて・4
「あの、マティアス様。やっぱりご自分をモデルにされるのはおいやですか?」
黙り込んだマティアスを見て、フランチェスカはそう思ったのだろう。やっぱり、という顔になった。
「私、余計なことをしてしまったでしょうか……」
「――あなたが謝る必要はありません」
「え?」
フランチェスカが不思議そうに首をかしげる。
「もちろん気恥ずかしい気持ちはありますが、皆が喜んでいるのは間違いないですから」
ルイスや部下たちは『シュワッツ砦の戦い』がお芝居として上演されると聞いて、ものすごく浮足立っている。喜んでいるのだ。
それだけではない。早々に『シドニア花祭り』の噂を聞きつけた領民たちが『なにか手伝えることはないか』と、公舎にぞくぞくと訪れているらしい。この町には劇場なんて気の利いたものはひとつもないから、純粋に楽しみにしているのだろう。
民の笑顔のためなら、少々の恥は飲み込むべきだ。
自分をモデルにした男が主役だなんて、気恥ずかしくてたまらないのだとしても。
「フランチェスカ。領民のためにありがとう」
言葉を選んでそう口にすると、フランチェスカは驚いたように顔をあげた。
「マティアス様……」
正面から見つめてくるフランチェスカの目元には、うっすらとクマが浮かんでいた。
彼女が疲労していることに気が付いて、思わず彼女の頬に手を伸ばして、そうっと瞼の下を指でなぞる。
「ところで、このところあなたがおやすみのキスをねだりに来ないのは、寝てないから? 少し寂しく思っていましたよ」
マティアス的には軽い冗談のつもりだったのだが。
「――っ」
その瞬間、フランチェスカの顔が、ぼぼぼぼぼぼ、と火をつけられたかのように真っ赤に染まった。
(あ、やばい)
自分が慣れ慣れしい態度をとってしまったことに気づいたマティアスが、手を引こうとするよりも早く、フランチェスカは「や、や、それは、そのっ、えっと、ではまた今日からおねだりします……」としどろもどろに口にし、くるりと踵を返して走り出す。
よろよろした危なっかしい足取りのフランチェスカを見送りながら、マティアスもまた緩む口元を隠すように手のひらで顎を覆っていた。
「いや……可愛すぎるだろ……」
そして同時に、激しく気分が落ち込んだ。
素直に受け入れるしかない。
ああそうだ。フランチェスカは愛らしい。とても魅力的だ。
頑張り屋で行動派、とにかくなんでも自分でやってみないと納得しない強情な一面はあるが、他人を慮る配慮もできる、よくできた女性だと思う。
貴族の中でも特に身分が高い家系に生まれているはずなのに、いかにも貴族らしい傲慢な態度がかけらもない。
それは同じく平民のルイスやダニエルからも伝え聞いていた。
部下たちはすっかりフランチェスカにメロメロになっていて『マティアス様は本当にいい奥方様を貰ったよなぁ!』と喜んでいる。
おそらく彼女は十八年間箱入り娘として生きてきて、貴族とはこうあるべきだという振舞いを叩きこまれずに育ってきたのだ。おっとりしつつも純粋で、どこかパワーにあふれた性格は、彼女自身の気質なのかもしれない。
『白い結婚』の申し出を後悔はしていないが、フランチェスカの素朴で優しい振舞いは、確実にマティアスの心を揺さぶっていた。
(――危険だな)
これ以上の好意を持ってしまえば、いずれ訪れるに違いない別れが辛くなる。
マティアスは胸元に手をやり、そうっと手のひらで上着の胸ポケットを抑える。
その中にはおまもりの『ポポルファミリー』が入っていて、ここにいるよ、と確かに伝えてくれるようだった。
マティアスのことを考えるたび、心臓があり得ないくらい胸の中で跳ねる。
(私の旦那様、私をトキメキ死させる気なのかしら!?)
フランチェスカは書き物机に突っ伏してギギギと唇を引き結んだ。
ここ何日か、マティアスに見せるための企画書作成のため、夜更かしが続いていた。なので『おやすみのキス』を貰いに行くのを辞めていたのだが、なんとマティアスから、
『あなたがおやすみのキスをねだりに来ないのは、寝てないから?』
『少し寂しく思っていましたよ』
と言われて、顔から火が出そうなくらい照れてしまった。
あくまでもあれは冗談だろう。わかっている。大人の男というものは本気ではなくとも、そういう振舞いをするものだ。兄嫁のエミリアからも『ジョエル様は天然の人たらしなんです!』と悲鳴混じりに聞いたことがあるのでよくわかっていた。
そしてフランチェスカも一応十八歳の乙女であるからして、素敵な異性から甘い言葉をささやかれれば、当たり前のようにときめいてしまう。
(いや、恥ずかしがってばかりではだめね。これは貴重な体験だわ! せめてこの気持ちを書き留めておかないと!)
フランチェスカは書き物机の引き出しから上質紙を取り出し、今の感覚を忘れないようにとマティアスからもらった言葉をがりがりと書きつけてメモを取る。
そうやって己の感情をすべて吐き出して、熱い紅茶がすっかり冷める頃、ようやくフランチェスカは一息つくことができた。
素敵な旦那様のおかげで、当分ネタ切れはなさそうだ。
「……ふぅ」
大きく息を吐いたところで、ベッドを整えていたアンナが少し心配するように声をかけてくる。
「お嬢様、楽しんでやられているのはわかるんですが、あまり無理はされないようにしてくださいね」
「ええ、わかっているわ。でも大丈夫。今の私はすっごく元気だから」
小説を書いている時、フランチェスカは自分でも信じられないくらいタフになる。
体だけではない、心もだ。全能感とでもいうのだろうか――。自分にできないことはないというような気になって、若干無理をしてしまう時があった。
(今は大事な時だし……もう少し頑張ろう)
まったく自重する気はないのだった。
それからフランチェスカは、マティアスの承認も得たことで、フランチェスカは水を得た魚のように動き回った。
企画書の作成から予算の見積もり等々、舞台に関しては王都でフランチェスカの著作を独占販売しているオムニス出版に特別協賛を正式に依頼した。ブルーノ・バルバナス初の舞台脚本ということで、今後書籍として出版する予定である。
なにもかもが順調に思えたが、すぐに問題が勃発した。
主役を演じる俳優がいないのである。