旦那様をその気にさせる方法・10
とりあえずフランチェスカは自分のやりたいこと、やれることをあれこれと考えて、資料作りに専念した。十八年間生きて来て初めて気が付いたが、どうやらかなりせっかちなたちらしい。こうしたいと思ったら即やらないと気が済まないのである。
シドニア領の失敗の歴史を探るのはもちろんのこと、シドニアに今根を下ろしている領民たちがなにを望んでいるのか。仮に祭りを開くとすると、そのためにどのくらいの予算が必要なのか、等々。
一週間ほどでそれをレポートにまとめたフランチェスカは、ダニエルを伴ってマティアスに面談を申し込んでいた。
「フランチェスカ、なぜわざわざ公舎に来られたんですか?」
執務室に両肘をつき、顔の前で祈るように指を絡ませたマティアスは、ダニエルとフランチェスカの顔を交互に眺める。
「それはこれが仕事だからです」
「ダニエルを連れてきたのは?」
「彼はこの町で一番の商会を率いていた人だから、現実的な助言をくださると思ったからです」
フランチェスカはニコニコと微笑みつつ、レポートをマティアスに差し出す。
「マティアス様のお仕事の邪魔はいたしません。ただ私にお祭りを開催する権限を下さいませ」
「祭り……?」
マティアスは眉間のあたりに皺を寄せつつ、フランチェスカの作った資料を一枚ずつめくった。
几帳面な文字で書かれている内容を読み上げる。
「シドニア花祭り……シドニア地方のみで咲く花『スピカ』を観光資源とし、祭りを開催する……?」
マティアスの緑の目が大きく見開かれ、書き物机の前に立つダニエルとフランチェスカを交互に見比べる。
「ちょっと待ってくれ。スピカってあの地味な花だよな? これくらいの高さの」
椅子に座ったマティアスが自分の胸のあたりで手のひらをひらひらさせる。
フランチェスカは慌てて首を振った。
「お待ちください、マティアス様。地味だと思っているのはこの土地の人たちだけです。私は王都で十八年間生きていましたが、あんな花を見たのは初めてでした。しかもこれから植えた土地によって色が変わるなんて、面白過ぎるじゃないですか。そんな花が地味なわけありませんっ」
そう――。フランチェスカは嫁入りの際に見た『スピカ』の花を祭りのテーマに据えた。
大貴族の娘であるフランチェスカが見たこともない花なのに、この土地にはうんと自生している。しかも育てるのも難しくなく、数をそろえるのが簡単だ。
スピカをずらりと沿道に並べ、街を飾ったら?
図鑑のように薄いブルーからピンクのグラデーションがこの町を彩ったら、きっと王都の誰も見たことのない景色が広がるだろう。
驚きのあまり、言葉遣いがフランクになっているマティアスに手ごたえを感じつつ、さらに言葉を続ける。
「スピカは色も多種多様。シドニア領は温泉が豊富で、地熱で植物が冬でも枯れにくいのだとか。鉢植えでも地植えでも育てられて、一度色づけば咲いている期間も長い。観光資源として十分成り立ちます。なにより祭りを成功させることは、この土地に住む人たちの自尊心と誇りに繋がりますし、悪いことではないと思うんです」
フランチェスカはあまり食い気味にならないよう、丁寧にマティアスに説明する。
「後援にはケトー商会に入ってもらいますが、足りない分は私の個人資産を投入するつもりです」
ちなみにフランチェスカの個人資産とは、実家が用意した持参金ではなく、これまで小説を書いて得たお金のことである。これまで金貨一枚も使わずそのまま銀行に預けていて、今ではそれなりの金額になっていた。祭りのひとつやふたつ、余裕で開催できるはずだ。
「は?」
マティアスが目を丸くしたところで、今度はダニエルが口を開いた。
「息子夫婦に助言はしましたが、話をとりつけたのはフランチェスカ様ですよ。私も計画書を拝見したうえで言いますが、反対する理由はありません」
マティアスはあっけにとられたままフランチェスカの顔を見上げて、苦虫をかみつぶしたような表情になりそれから声をひねり出した。
「――わかった」
「ありがとうございます、マティアス様!」
了承を得て、思わずその場で飛び跳ねたいくらい胸が弾んだ。
フランチェスカがニコニコしていると、
「だがあなたの個人資産を使わせるわけにはいかない。この町で行われる祭りならシドニア伯で領主の俺の責任で行われるべきです」
「でも」
「フランチェスカ。それが夫である俺の仕事でしょう?」
マティアスはそう言って、唇の端を持ち上げるようにしてニヤリと笑う。
「っ……」
真面目な彼のちょっといたずらっ子のような表情を見て、フランチェスカの心臓がドンッ! と跳ねあがる。
(ちょっと、その表情はズルいのではなくて?)
クールで大人なマティアスのちょっとした変化にドキドキしてしまう。
一方、マティアスはフランチェスカが書いたレポートを閉じて表紙を大きな手のひらで撫でた。
「それにしても、祭りか……考えたことがなかったな」
ニヒルな表情からまるで子供でも撫でるような優しい表情の変化に、またフランチェスカの胸はきゅうっと締め付けられる。
おかしな態度にならないように、表情を引き締めつつゆっくりと息を吐いた。
(なんだかマティアス様を見ていると、心が忙しいわ)
白い結婚を申し出たのは彼の方ではあるが『夫として』と言ってくれたのが妙に嬉しい。
仲間意識とでもいうのだろうか、形ばかりの妻だが、彼がそれでも夫だと言い切ってくれるその気持ちが嬉しい。彼の懐に少しだけ入れてもらえた気がする。
マティアスの慈しみに満ちた表情を見ていると、なんだかいてもたってもいられなくなった。
「あ、あの……マティアス様。お祭りを成功させたら、私を本当の妻として認めてくださいますか?」
気が付けばいきなりそんなことを口走っていた。
「え……?」
マティアスは驚いたように目を見開き、隣にいたダニエルは少し不思議そうな顔をした。
それもそうだろう。ダニエルはマティアスとフランチェスカがすでに夫婦だと思っているので、今更『本当の妻』として認めてほしいというフランチェスカの発言の意図がわからないのだ。
気持ちよりも感情が先に出てしまったフランチェスカは、言い訳じみていると思いながらも、慌てて言葉を続ける。
「その……勿論今の私はマティアス様の妻ですけど、ただそこにいるだけじゃなくて、心から認めてもらえる妻になりたいなって思っていて……」
それを聞いたダニエルは、
「ああ、そういうことなんですね。マティアス様、こんなことを言ってくださる奥方様は大事にしないとバチがあたりますよ」
などと軽い口調で言い放ち「跡継ぎの顔が見られるのは案外早いかもしれませんね」と上機嫌になった。
(まぁ、跡継ぎどころか、唇にキスすらしたことがないんですけど……)
まだまだ先は遠いと思いつつマティアスをちらりと見ると、彼もまたフランチェスカを見ていて。
視線がバチりとぶつかった瞬間、全身に痺れるような淡い電流が流れる。
マティアスはどこか困ったような、少し照れたような、けれどその新緑を映しとったグリーンの瞳を濡れたように輝かせていた。
「フランチェスカ……ありがとう」
「え?」
「あなたに提案されなかったら、俺は領民に娯楽をなんて一生思いつきもしませんでした。感謝します」
彼の瞳に自分が映っている。彼が私を見ている。触れられたわけでもないのに、なぜか全身がソワソワして浮足立ってしまう。動悸で軽い眩暈がした。
(……これってなにかしら?)
季節の変わり目には体調を崩しがちなので、それが出たのだろうか。
「い、いいえ。マティアス様はなにも間違っていません。まずは領民の安定した生活が第一です。この八年間があってこその娯楽だと、私も思っただけですから」
フランチェスカは慌てて首を振ったが、こちらを真摯に見つめるマティアスを見ている間ずっと、収まらないままだった。